※一之宮の御朱印は2018年4月にいただいたのですが、改めてフラフラします。

 

 

 

 

鹿児島中央駅から電車で1時間、隼人駅で下車。電車に乗ったタイミングで曇ってたのですが、駅に着いたときにはポツポツと雨が降っていました。
帰ろうかなと思いながら、トボトボ歩いていきます。

 



■鹿児島神宮(大隅国一之宮)
隼人駅から徒歩20分。鹿児島神宮に到着。

社伝によると創始は神代と伝わり、瓊瓊杵尊と穂穂出見尊の二代の宮殿であった高千穂宮を神社(今の石體神社)としたもので、和銅元年(708年)に現在地に遷座しました。

御祭神は天津日高彦穂穂出見尊とその后の豊玉比売命の2柱の神様になります。

 

 

 

■弥勒寺跡

鹿児島神宮の別当寺の跡で、今は宮内小学校になっています。

 



■二の鳥居
境内に続く道は国道のバイパスになっているようで、車の通行が多めです。

 



■奉納木馬(鈴かけ馬踊り)

毎年、旧暦の初午の日の直後の日曜日に初午祭が行われます。
「鈴かけ馬踊り」と呼ばれる珍しい風習で、花や錦などで飾った鞍を付けた馬を音楽に合わせて足踏みさせ、馬が踊っているように見せるお祭りで毎年20万人が訪れます。

 

 

 

こちらは新田神社(薩摩国一之宮)で行われている「鈴かけ馬踊り」です。ニコニコ
 

 


■本殿

本殿は島津重豪による再建で、鹿児島県内でも最大の木造建築として鹿児島県の有形文化財に指定されています。

 


■拝殿

拝殿には薩摩藩の絵師、木村探元の筆による天井画があり、花や野菜が描かれてます。びっくり

木村探元(1679-1767)は狩野探信の門人で近衛家に招かれて京都に赴き、禁裏にも作品を描いた近世薩摩画壇を代表する絵師です。

 



■勅使殿
鹿児島神宮は南九州で唯一の式内大社です。

天皇から幣帛を託された勅使を迎える場所として使われてきました。




鹿児島神宮から日秀神社へ、、、
一之宮でよくある光景ですが、正面は店や家が立ち並びにぎやかな雰囲気があり、裏には田園風景が広がります。照れ

鹿児島神宮の裏手から外に出ると目の前にいきなり牛小屋がありました。

のんびりとした雰囲気の中、山の上にある日秀神社に向かいます。

 

 

 

日秀上人は高野山で密法の奥旨を受けた真言宗の高僧で、補陀落渡海を試みた僧です。


これは那智勝浦から30日分の食料を積んだ小舟で、観音菩薩の住む補陀落浄土を目指す捨身行で、歴史上二十数人がおこない、一人として生きて戻ってきませんでした。
 

 



和歌山の補陀落山寺には復元された補陀落渡海船が展示されてます。


船の上に小屋が設けられた造りになっており、僧侶はそこに入って港を出ます。

(小屋の扉は外から釘で打ち付けられ、自力で外に出ることはできませんアセアセ

 

熊野を出港した日秀の船は、偶然にも海流に乗り琉球に漂着し、真言宗を伝えます。びっくり



■日秀神社(三光院)

琉球に漂着した日秀ですが、琉球での布教後、坊津経由で薩摩に渡っています。


坊津で一乗院寺を建立したあと、鹿児島神宮の再建に尽力し、近くに三光院を建立しそこで晩年をすごします。

 

 

 

鹿児島は廃仏毀釈が全国的にも激しく、県内の全ての寺が打ち壊されたと伝わります。ガーン

(藩主の菩提寺も神社に変えられてます。)


三光院も破却され、その後日秀神社として再建されています。

 

 


本殿の横にあるのは、日秀が彫ったと伝わる観音菩薩の石像。

 


さらに横には阿弥陀堂があり、日秀上人の遺骨が納められています。


島津義久は大友宗麟との合戦(耳川の戦い)に際し日秀に「降伏法」という調伏を日秀上人に請います。
 



日秀は、身命を捨てて大願をはたそうと、三光院付近の巖に石室を作り、死ぬまで読経を続け戦勝を祈願したと伝わります。日秀上人は75歳で入寂しました。

 


日秀神社の本殿から見た錦江湾の景色です。

本殿の軒先に座ってみると山の上から錦江湾が見渡せます。照れ

 

生きて戻れない航海の末、琉球と薩摩に足跡を残した日秀はここで最期を迎えます。

 




日秀神社から下山、、、
日秀神社から来た方向に逆に延びる道があったので、そっちを通って下山。

急な坂道をゆっくり歩いていくと、かなりの近道になりました、、、ガーン

 

いったん鹿児島神宮に戻って、もうしばらく近辺をフラフラします。




■隼人歴史民俗資料館鹿児島神宮の近くにある施設です。

気になって入ってみると、日秀上人に関する展示がありました。びっくり

 



日秀は調伏を行うにあたり、島津義久から笄を与えられており、実物が展示されてます。

他にも、上人が使用した硯や眼鏡も展示されていました。

(写真撮影OKとのことでした)

 



こちらは三光院の須彌壇です。本尊の阿弥陀如来は廃仏毀釈の中で失われています。



■卑弥呼・卑弥弓呼神社

鹿児島神宮から山沿いに進む道には神社が点在しています。

 

魏志倭人伝によると、卑弥弓呼は卑弥呼と敵対していた勢力の王です。

社伝によると卑弥弓呼と鹿児島神宮の御祭神の穂穂出見尊とは密かにつながりがあり、のちのヤマト朝廷に繋がったとされています。

(社伝によるとこの地に邪馬台国があったそうです。びっくり




■石體神社
鹿児島神宮の元宮で、高千穂宮の跡地に建てられたと伝わります。

御祭神は、鹿児島神宮と同じく穂穂出見尊と豊玉比売命です。

 

 

 

小さな狛犬が本殿を守ります。ニコニコ

 

 

 

御祭神の息子である鸕鶿草葺不合尊(ウガヤ フキアワセズ ノ ミコト)は産屋の床に敷く鵜の羽が敷き終わらないうちに産まれたと伝わるほど安産だったそうです。


この故事にちなみ、本殿の小石を持ち帰ると安産になるといわれています。これが岩田帯の起源と伝わっています。

 



■蛭子神社(大隅国二之宮)


蛭子(ヒルコ)はイザナギとイザナミの長男です。
体の形が定まらず、3歳まで立つこともできなかったため、楠で作った舟(天磐楠船)に乗せて流したと記紀に伝わる神様です。


 



ヒルコはエビスとも呼ばれ、戎神社の御祭神として商売の神様として崇拝されています。

本殿横には書置きの御朱印がありました。

 



■なげきの杜


蛭子神社の近くにあり、ヒルコが流れ着いたとされる場所です。


天磐楠船は根や枝が生えて大きな楠になり、周囲は楠の杜になったと伝わります。
楠は枯れてしまいましたが、切り株が神代の楠として残っています。

 

 

 

■神代の楠

神話か実話かはともかく、縄文時代はこの辺りまで海岸線が来ていたそうなので、モデルの話があれば相当古い話かもしれません。キョロキョロ


なげきの杜は日本最南端の歌枕として、いくつもの歌に詠まれています。

「時鳥 嘆きの杜に 逢わずして

    君が待夜や 過にけるかな」 後鳥羽上皇


「山風を なげきの杜の 落葉かな」 細川幽斎

 

 

 

日当山温泉に到着、、、

山沿いの道をフラフラ歩くと、JR日当山駅に着きます。電車の本数が少ないので、電車待ちがてら、近くの日当山温泉まで足を延ばします。

 

この辺りは温泉地としても有名で、坂本龍馬もお龍と一緒に立ち寄ったと伝わります。

 

 

 

■日当山温泉センター

旅の締めくくりは温泉というのがパターンになってきました。

 

タオルは貸出有りですが、シャンプーは持ち込みになるので、近所のコンビニで購入しておきましょう。

 

 

 

 

二回目の鹿児島神宮でしたが、今回は日秀神社を目的地として歩いてきました。

 

日秀が建立した寺院や再興した神社は今も沖縄で信仰されてます。薩摩でも廃仏毀釈で多くが失われたものの、足跡は今でも残っています。

 

ひょっとしたら自分は二度と死なないと自信を持っていた人なのかもしれません。本当に変わったお坊さんがいたもんです。。。

 

 

 

 

日本全国の一之宮をフラフラ巡っています。ほかの神社の旅はこちらでニコニコ

 

 

A.隼人駅

鹿児島中央駅からJR日豊本線で40分

片道660円

 

B.鹿児島神宮(大隅国一之宮)

所在地:鹿児島県霧島市隼人町内2496

隼人駅から徒歩30分

 

C.日秀神社(三光院)

所在地:鹿児島県霧島市隼人町朝日21

鹿児島神宮から徒歩40分

 

D.隼人歴史民俗資料館

所在地:鹿児島県霧島市隼人町内249

開館時間 午前9時~午後5時

入館料 大人130円

 

E.卑弥呼・卑弥弓呼神社

所在地:鹿児島県霧島市隼人町内

鹿児島神宮から徒歩10分

 

F.石體神社

所在地:鹿児島県霧島市隼人町内

鹿児島神宮から徒歩10分

 

G.蛭子神社(大隅国二之宮)

所在地:鹿児島県霧島市隼人町内2563

石體神社から徒歩30分

境内に書置きの御朱印あり(初穂料300円)

 

H.日当山温泉センター

所在地: 鹿児島県霧島市隼人町内1458

入湯料 250円

 

I.日当山駅

 

 

 

 

 

 

 



そもそも琉球八社とは、、、
琉球王朝時代に王府から寺禄を与えられたお寺が八寺ありました。
神仏習合の時代なので、お寺には神社が併置されており、それらを琉球八社といいます。

ちなみに、琉球八社の御祭神は安里八幡宮を除いて熊野三神、別当寺は真言宗です。


これは補陀落渡海の末に琉球に漂着し、真言宗を伝えた日秀上人の影響によるものです。
琉球に仏教は臨済宗の真言宗の二宗派しか伝来してません。



■波上宮(琉球八社)
波上宮の周辺は一之宮のときにフラフラしたので、こちらでご確認ください。
▶【一之宮】波上宮(琉球国) 神道が外国の宗教だった島


琉球八社の御朱印帳は専用のものがないので、波上宮で購入しました、紅型っぽい黄色の表紙で沖縄感が漂う御朱印帳です。ニコニコ




■奥野山公園

県庁前からモノレール(ゆいレール)で10分。奥武山公園駅で下車。
奥武山公園にはプロ野球のオープン戦が行われる沖縄セルラースタジアムがあります。


スポーツ施設が集中する公園なので、これまでとは違うにぎやかな雰囲気があります。キョロキョロ

公園内には沖宮への案内板が設置されており、迷うことなく進めます。

 


■沖宮(琉球八社)

御祭神は天受久女龍宮王御神、天龍大御神、天久臣乙女王御神と熊野三神です。


天受久女龍宮王御神と言われても内地では聞きなじみない神様ですが、沖縄での天照大御神のお名前です。

 

天照大御神が本土に向かう前に琉球に立ち寄ったという伝承が沖縄にはあります。びっくり

 


末社の辨財天宮には神世三代と木龍宇具志久乙姫王という神様が祀られているのですが。
木龍宇具志久乙姫王は「ノロ」の神様とされています。

「ノロ」は琉球王から任命され、現代まで世襲で続く女性の神職です。地域の祭祀を取りしきったり、御嶽を管理していました。(琉球王国では女性しか神職になれませんでした。)

 



■天燈山御嶽

本殿の横に続く階段を上がると御嶽(天燈山御嶽)があります。御嶽と神社が一緒にあるところはやはり沖縄です。キョロキョロ



御嶽に向かう階段にはどことなく中国の雰囲気がする提灯がつるされていました。沖縄をフラフラしていると色んな文化がまじりあっていることを実感します。キョロキョロ



■世持神社
子どもが大勢遊ぶ公園の丘に世持神社があります。

1937年の創建。琉球に繁栄をもたらした恩人として3柱の神様を祀っています。

蔡温(琉球王国の内政改革を実施)

野国総管(サツマイモの栽培を開始)

儀間真常(木綿栽培や製糖技術の導入)



社殿はこちらにありますが、ご神体は波上宮に祀られています。

 


こちらは波上宮にあるお社の写真です。向かって左側が世持神社の社です。

 

 

■狛犬

1月下旬ですがカンヒザクラが咲き始めていました。
沖縄は夏が暑くソメイヨシノが植生できないため、桜といえばカンヒザクラになります。


お花見のシーズンは2月で、日本で一番早い桜祭りとして「名護の桜まつり」が有名です。ニコニコ


■本殿


写真では見えにくいですが、本殿横には「線香やうちかびはご遠慮ください」という内容の張り紙が貼ってありました。

 

神社で線香と思ってしまいますが、御嶽に参拝するときは線香を焚くので、沖縄では神社でもその作法で参拝する人がいるようです。


うちかびは沖縄の「ウークイ」という旧盆の行事(沖縄ではお盆の行事は旧盆に行われます)に焼かれる紙のお金のことです。


本殿横は仏殿になっています。神社の創建は1937年で神仏分離令後になるのですが、沖縄では神仏習合が続いていたのかもしれません。キョロキョロ

 

沖縄に仏教を伝えたのは熊野僧なので、神道と仏教を別の宗教ととらえず、神仏が習合した状態を一つの宗教として受け入れたのかもしれません。

 



■島田 叡 氏顕彰碑


島田 叡は沖縄戦当時の沖縄県知事です。
沖縄戦の中、軍との折衝や沖縄県民の保護に最後まで当たった最後の官選知事です。


当時の県知事は政府から任命されたのですが、島田が県知事を任命されたのは米軍の沖縄上陸は不可避とされた1945年1月でした。


すでに那覇は空襲により焼け野原となっており、島田は自決用の日本刀と青酸カリを懐中に忍ばせ、死を覚悟して沖縄に赴任します。



島田知事の出身である兵庫県と沖縄県の有志がこの顕彰碑を建立し、向かいの野球場を「友愛グラウンド」と名付けました。


■沖縄県護国神社
祭神は護国神社の中で最多の17万8689柱。
沖縄県関係の戦死者のほか、沖縄戦で殉じた本土出身者や犠牲になった一般市民を祀っています。

 

 

沖縄戦で大きな被害を受け、戦後は本殿を残すのみだったそうですが、昭和34年に県内を中心に募金活動が行われ社殿が復興されました。

境内にはそのときの復興資金の芳名録が残されているのですが、占領下の沖縄ではドルが流通していたため「金○○○弗」(弗はドルと読みます)と記載されています。びっくり

(沖縄返還は昭和47年で神社再建の後のことのでした。)


沖宮から安里八幡宮へ、、、
奥武山公園の中を1時間くらいフラフラしただけなのですが、3つの神社(後で調べるともっとありました、、、)がありました。

 

公園の入り口の案内には、ここが昔は海で奥武山をはじめ、いくつかの小島があったと書いてありました。小島には拝所やお寺があり、昔から信仰を集めていた場所だったそうです。

 

時間に余裕があるので、安里八幡宮に足を延ばそうと、ゆいレール壷川駅に向かいます。



 

 



琉球王国の巡礼地、琉球八社をフラフラ巡ってます。ほかの神社の旅はこちらでニコニコ
【琉球八社】まとめページ 日本最南端の巡礼地
 

 

日本全国の一之宮もフラフラ巡っています。こちらも見てくださいニコニコ

▶【一之宮】まとめページ 日本全国の神社を巡る旅

 




A.奥武山公園駅

ゆいレール県庁前駅から10分

片道230円

 

B.沖宮

所在地:沖縄県那覇市奥武山町44

 

C.世持神社

 

D.島田 叡 氏顕彰碑

 

E.沖縄県護国神社

 

E.壷川駅

 

関東地方

 

■鹿島神宮・香取神宮(茨城県)

▶【一之宮】鹿島神宮(常陸国)・香取神宮(下総国)
 

 

 

■寒川神社(神奈川県)

▶【一之宮】寒川神社(相模国)

 

 

 

 

 

近畿地方

 

■元伊勢籠神社・出雲大神宮(京都府)

▶【一之宮】元伊勢籠神社(丹後国)・出雲大神宮(丹波国) 元伊勢v.s.元出雲
 

 

 

 

■枚岡神社(大阪府)

▶【一之宮】(河内国) でんぼの神様にも感謝

 

 

 


【中国地方】

■吉備津神社・吉備津彦神社(岡山県)

▶【一之宮】吉備津神社(備中国)・吉備津彦神社(備前国) 桃太郎のふるさと



■厳島神社(広島県)


▶【一之宮】厳島神社(安芸国) 神と仏のテーマパーク




【九州・沖縄地方】

 

■阿蘇神社(熊本県)

▶【一之宮】阿蘇神社(肥後国) 親孝行な神様が建てた神社
 

 

 

 

■都農神社(宮崎県)

▶【一之宮】都農神社(日向国)

 

 

 

■鹿児島神宮(鹿児島県)

▶【一之宮】鹿児島神宮(大隅国) 不死身の僧侶の最期の地

 

 

 

■新田神社(鹿児島県)

▶【一之宮】新田神社(薩摩国) 日本初の陵墓

 

 

 

 

■波上宮(沖縄県)

▶【一之宮】波上宮(琉球国) 神道が外国の宗教だった島

 

 

【琉球八社】

沖縄には琉球王朝時代に王府から寺禄を与えられたお寺が八寺ありました。
神仏習合の時代なので、お寺には神社が併置されており、それらを琉球八社といいます。
琉球八社の御祭神は安里八幡宮を除いて熊野三神、別当寺は真言宗です。


 

■波上宮

▶【一之宮】波上宮(琉球国) 神道が外国の宗教だった島

※一之宮の記事で紹介しています。

 

 

 

■沖宮

▶【琉球八社】沖宮 3つの神社がある運動公園

 

 

 

 

■安里八幡宮

▶【琉球八社】安里八幡宮 沖縄戦の激戦地にある神社

※一之宮の御朱印は2018年5月にいただいたのですが、改めてフラフラしてみます。

 


 

 

那覇空港からモノレール(ゆいレール)で20分、県庁前駅に到着です。気温は19度。沖縄にしては寒い日ですがコートはいりません。

 

 

 

■国道58号線
沖縄の大動脈です。
元々は米軍占領下の沖縄で基地同士をつなぐ軍用道路として整備されたもので、国道沿いには在日米軍基地が点在しています。
ちなみに、この国道58号線の終点は鹿児島市になっていて、海の上を通る変わった国道でもあります。キョロキョロ



■天尊廟
波上宮のそばにあるのが天尊廟です。
先ほどの国道58号線は琉球王国時代は遠浅の海で波上宮がある久米一帯は島でした。
琉球王国は久米を明との貿易港として整備し、そこに明国人の居留地を作りました。
(長崎の出島のように地元の人間と隔離し、軋轢を生まないようにしていました。)




波上宮は中国人観光客のツアーにも組み込まれているようで、興味をもって中に入る中国人がちらほら。

 


久米に住んだ36人の明国人を祖先とする一族を久米三十六姓といい、初代から続く家系図をそれぞれの一族(門中といいます)は大切に保管しています。

お墓も門中墓という一族の共同墓があり、最大規模の幸地腹門中墓は被葬者数3,436人を擁してます。びっくり



■護国寺
波上宮の別当寺です。頼重法印が建立し琉球王の祈願所となりました。琉球王国では護国寺など王府から寺禄を与えられた真言宗の寺院が八寺ありました。

 

寺院には神社が併設されており、その神社を総称して琉球八社と呼んでいます。



■本堂
本堂の中に入ると、思ったよりも多くの人がお参りをされてました。

特徴的なのは、お供え物(果物とかなりの数のお餅をお盆の上に乗せたもの)を持参し、それを机の上に置いて長時間お祈りする人が多いことです。

 

この方法は御嶽のお祈りの作法で、お寺でも同じ方法で参拝をするようです。
 
 
 

■波上宮(琉球国一之宮)
御祭神は熊野三神の伊弉冊尊、速玉男尊、事解男尊。相神殿に、産土大神、少彦名神、そして火神(ヒヌカン)という竈神が祀られています。

最後のヒヌカンですが、日本(神道)の神様ではなく沖縄で古くから信仰されている神様です。

 

 

 

本殿の裏にまわると御嶽の鳥居が見えます。

神社の創建は1368年ごろといわれていますが、元々この場所には御嶽があり、沖縄独自のニライカナイ信仰の祈りの聖地となっていました。

 

社伝によると、荒廃していた波上宮を熊野から琉球に渡ってきた日秀上人という僧が再興したと伝わっています。

 

琉球にとって外来宗教だった神道は、なかなか定着しなかったのかもしれません。キョロキョロ

 

 

 

■拝殿
波上宮を復興した日秀上人は、室町時代に補陀落渡海を行った熊野の僧で、今の沖縄県金武町に漂着し琉球で仏教を布教しています。

 

 

■狛犬

狛犬もシーサーになっています、沖縄らしいですね。ニコニコ

 

 


神社の隣には波の上ビーチがあります。
そこで寒稽古をしていた少林寺空手の道場の子供たちが参拝にきました。

 

 

 

■台湾遭害者之墓
護国寺の境内にある碑です。
明治の初め台湾に漂着した宮古島の島民が現地の台湾人に殺害されるという事件がありました。
明治政府はこれを口実に台湾へ出兵を行い、清国は日本に対して撫恤金(見舞金)を支払うことになります(台湾出兵)。


このことは、沖縄の領有権が日本にあることを清国に認めさせたことになり、清との冊封関係が廃止されるきっかけになります。

 


■小桜之塔

護国寺の裏は公園となっており、慰霊碑や顕彰碑が立ち並んでます。


小桜之塔は沖縄戦の前年、アメリカ軍に撃沈された学童疎開船対馬丸に乗船していた人たちの慰霊碑です。


■海鳴りの像

こちらはアメリカ軍に撃沈された対馬丸以外の疎開船に乗船していた人の慰霊碑です。
民間船への攻撃は戦時国際法に違反してました。疎開船が攻撃の対象になったため、沖縄県民の県外疎開が進まず、沖縄戦では住民を巻き込む戦闘が行われました。

 

 


■波の上ビーチ
境内を抜けるとビーチがあります。
さすがに2月なので泳ぐことはできませんが夏場は海水浴客でにぎわいます。ちなみに沖縄の人は日差しが強く火傷の恐れがあるので、あまり海で泳ぎません。

その代わりに沖縄の人は海でビーチパーティーをします。響きにセレブ感がありますが、要はBBQのことです。
 


■龍柱
那覇クルーズターミナルの前に立つ巨大な龍柱です、税金のムダ使いといった批判もでたそうですが、外国人観光客を迎え入れるモニュメントとして存在感があります。
 

 

■那覇クルーズターミナル

撮影日に船は停泊していませんでしたが、
シーズンになるとビル一棟くらいはある巨大なフェリーが中国からやってきます。



■久米至聖廟(孔子廟)
波上宮のそばにあった天尊廟から孔子廟を移したものになります。
 

 

 

 

日本地図を沖縄を中心にしてみると、沖縄県が日本本土と中国大陸のちょうど真ん中に位置する場所にあることがわかります。

波上宮の周りをフラフラしただけなのに、日本とは違う文化の存在を感じます。

独立国であった琉球にとっては、中国の孔子廟も日本の神社も、同じ外国の宗教施設に映ったのかもしれません。


日本と同じ神社やお寺なのに、どこかに沖縄らしさが出てきてしまうキャラの強いこの島は本当に興味がつきません。

 

 

 

 

日本全国の一之宮をフラフラ巡っています。ほかの神社の旅はこちらでニコニコ

 

【琉球八社】まとめページ 日本最南端の巡礼地

 

 

 

A.県庁前駅

那覇空港駅からゆいレールで20分

運賃270円

 

B.天尊廟

所在地:沖縄県那覇市若狭1-25-1

参拝時間 9:00~17:00 年中無休(参観無料)

 

C.護国寺

所在地:沖縄県那覇市若狭1-25-5

参拝時間 6:00~18:30

 

D.波上宮

所在地:沖縄県那覇市若狭1-25-11

 

E.波の上ビーチ

F.龍柱

 

G.久米至聖廟

沖縄県那覇市久米2-30-1

参拝時間 9:00~17:00 年中無休(参観無料)