"Back in the U.S.S.R." ② | タコさんの庭

タコさんの庭

ビートルズの歌詞和訳に挑戦

"Back in the U.S.S.R." ②

 

"Back in the U.S.S.R." ① の続きです。

歌詞の訳は "Back in the U.S.S.R." ①を見てください。

 

 

[Bridge]

Well the Ukraine girls really knock me out
They leave the West behind
And Moscow girls make me sing and shout
That Georgia's always on my mind

    なぁ ウクライナの女の子にまじでノックアウトされたよ

    They leave the West behind

    それから モスクワの女の子は 俺を歌わせシャウトさせるんだ

    「ジョージアはいつも我が心にある」ってね

 

[Bridge]は、

「ザ・ビーチ・ボーイズ」のメンバー「マイク・ラヴ」のアイディアですね!

朝食の席にマッカートニーがアコースティック・ギターを持って、"バック・イン・ザ・USSR" を弾いた。そこで、ロシアウクライナグルジアや、国中の女の子について歌うべきだと僕が口を出した。

 

Well the Ukraine girls really knock me out」は、

「ザ・ビーチ・ボーイズ」の曲 "California Girls" にも同じような歌詞があります。

"California Girls" [Verse 1]

Well, East Coast girls are hip
I really dig those styles they wear
And the Southern girls with the way they talk
They knock me out when I'm down there
The Midwest farmer's daughters
Really make you feel alright
And the Northern girls with the way they kiss
They keep their boyfriends warm at night

    西海岸の女の子たちはいかしている

    彼女たちが着こなすそのスタイルに僕は釘付けさ

    そして南部の女の子たち 彼女たちが話すその話し方は

    僕をノックアウト 僕はその場でダウンさ

    中西部の農場の娘は

    間違いなく 君を元気にしてくれる

    そして北部の女の子たち 彼女たちがキスするそのやり方は

    夜 彼女たちのボーイフレンドを温かく包む

 

ポールは、アイディアをくれた「マイク・ラヴ」に敬意を表して、

同じ「knock out」という歌詞を入れたのでしょうか。

 

Well the Ukraine girls really knock me out」の「knock out」は訳せませんでした。

そしてそれに続く「They leave the West behind」も、どうしても訳せませんでした。

the West」も「leave  ~ behind」も選びきれないし、妄想も生まれないのです。

すみませんアセアセ

 

leave  ~ behind」の意味には色々ありました。

 

①《leave someone behind》(人)を置き去り[置いてきぼり]にする、(人)を連れていかない
    例文 Don't leave me behind. : 置いてかないでよー。

②(人)と離れた場所へ去る、(人)を残して出発する[いなくなる]
    例文 I was sad to leave behind my friends. :

       友人たちと離れるのは寂しかったです。
    例文 He died suddenly, leaving behind his wife and children. 

       妻と子どもたちを残して彼は急逝しました。

③ 場所を〕あとにする、通り去る

④〔痕跡を〕残す、〔功績を〕残す

⑤ ~を追い越す、~を排して進む、~に勝る

⑥〔追っ手などを〕振り切る

 

the West」は

ウクライナという国の西部地方をさしているのか、

アメリカをさしているのか、

冷戦時代の西側諸国をさしているのか。

わかりませんでした。

 

①〔方角の〕西、西側

②〔地域の〕西部

《the West》西方、西洋◆ギリシャ・ローマ文明およびキリスト教文明に根差した③ヨーロッパ諸国およびアメリカを指す。
・Japan opened its doors to the West in Meiji era. : 日本は明治時代に西洋に門戸を開いた。

④《the West》〔冷戦時代の〕西側諸国、自由主義圏◆【略】W ; W. ; w ; w.
・Some liberal media in the West gave communist countries a hand ignoring severe human rights violations. : 西側諸国のリベラルなメディアには、ひどい人権侵害には目をつむって共産諸国を支援するものがあった。

 

knock  out:たたき出す、たたいて灰を落とす、ノックアウトする、負かして脱落させる、敗退させる、急いでこしらえる、(ピアノで)たたき出す、びっくりさせる、眠らせる、疲れさせる

Georgia : ジョージア州、グルジア

 

That Georgia's always on my mind」のラインは

レイ・チャールズがカバーした "Georgia on My Mind"(邦題 我が心のジョージア)という曲を、

もじったジョークだそうです。

英語版ウキペディア "Georgia on My Mind"より

"Georgia on My Mind" is a 1930 song written by Hoagy Carmichael and Stuart Gorrell and first recorded that same year by Hoagy Carmichael at the RCA Victor Studios at 155 East 24th Street in New York City.

 

ジョージア・オン・マイ・マインド」ホーギー・カーマイケルスチュアート・ゴレルによって書かれた1930年の曲で、同年、ニューヨーク市東24番街155番地にあるRCAビクター・スタジオでホーギー・カーマイケルによって初めて録音された。

 

It has been asserted that Hoagy Carmichael wrote the song about his sister, Georgia. However, Carmichael wrote in his second autobiography Sometimes I Wonder (1976) that saxophonist Frankie Trumbauer told him he should write a song about the state of Georgia. Trumbauer jokingly volunteered the first two words, "Georgia, Georgia...", which Carmichael ended up using while working on the song with his roommate, Stuart Gorrell. Gorrell, who wrote the lyrics, stated he wrote the lyrics about Carmichael’s sister. Gorrell's name was absent from the copyright, but Carmichael sent him royalty checks anyway.

 

ホーギー・カーマイケルは、この曲を妹のジョージアについて書いたと主張されてきた。しかし、カーマイケルは2冊目の自伝『Sometimes I Wonder』(1976年)の中で、サックス奏者のフランキー・トランバウアーからジョージア州についての曲を書くべきだと言われたと書いている。トランバウアーは冗談で「ジョージア、ジョージア...」と最初の2つの言葉を自発的に(歌い)、カーマイケルはルームメイトのスチュアート・ゴレルと曲作りに取り組みながら、結局この言葉を使うことになった。作詞を担当したゴレルは、カーマイケルの妹について歌詞を書いたと述べている。著作権にゴレルの名前はなかったが、カーマイケルはとにかく彼に印税の小切手を送った。

 

the song has been most often associated with soul singer Ray Charles, who was a native of the U.S. state of Georgia and recorded it for his 1960 album The Genius Hits the Road.

 

この曲は、米国ジョージア州出身で、1960年のアルバム『ザ・ジーニアス・ヒッツ・ザ・ロード』にこの曲を録音したソウルシンガー、レイ・チャールズと最もよく関連付けられています

ホーギー・カーマイケルは、ジョージア州について書いたと言い、

スチュアート・ゴレルは、カーマイケルの妹ジョージアについて書いたと言っているんですね。

 

以下は、スチュアート・ゴレルが彼の故郷の「ティーン・ホップ」という店?の常連客に向けて

ブレーメン・エンクワイアラー紙に載せた記事です。

 

Dear Bremen Teen Hoppers:
"Georgia On My Mind" was composed more than a quarter of a century ago on a cold and stormy evening in 1930 in New York City.
Hoagy Carmichael and I, in a third floor apartment overlooking 52nd Street, with cold feet and warm hearts, looked out the window and, not liking what we saw, turned our thoughts to the pleasant Southland.
Thus was born a hauntingly sweet song.
My Mother, who died in Bremen in 1942. once asked a very penetrating question about the song. I had sent her a copy of the sheet music and, after reading the words over several times, she wondered aloud:

"What is 'Georgia'? A girl-or a State?"
What do you think?
Hoagy and I just love every one of you Bremen Teen Hoppers for honoring our tune by making it your theme song.
                       Sincerely, Stuart Gorrell

 

親愛なるブレーメンのティーン・ホッパーのお客様へ
"ジョージア・オン・マイ・マインド" は、四半世紀以上前、1930年のニューヨーク市の寒い嵐の夜に作曲された。
ホーギー・カーマイケルと僕は、52番街を見下ろすアパートの3階で、足は冷たくとも温かい心で、窓の外を眺めていた。でも目にした物が気に入らず楽しい南国に思いを馳せた。
こうして、心に残る甘い曲が生まれた。
1942年にブレーメンで亡くなった私の母が、かつてこの曲についてとても鋭い質問をしたことがある。私は彼女に楽譜のコピーを送ったのだが、数回歌詞を読み返した後、彼女は声に出して疑問に思った:

「ジョージアって何?女の子?それとも州?」

あなたたちはどう思う?

ホーギーと僕は、この曲をテーマソングにして僕たちの曲に敬意を表してくれたブレーメン・ティーン・ホッパーズの皆さんを本当に愛しています。

                     真心を込めて スチュアート・ゴレル

 

この新聞記事をウキペディアに載せてくれた方は、インディアナ州立図書館のオンライン新聞アーカイブから見つけたようです。とても、興味深い記事ですね。

 

"Georgia on My Mind" 

Lyrics :  Stuart Gorrell, 1930

Music : Hoagy Carmichael, 1930

Artist :  Hoagy Carmichael and his Orchestra

Recorded : 1930/09/15

Released : 1930 singleA    B-side "One Night in Havana"

 

covered 

Artist : Ray Charles

Recorded : 1960/05

Released : 1960/09  singleA B-side "Carry Me Back to Old Virginny"

      レイ・チャールズ30歳の時

 

 

[Verse 1]

Georgia Georgia

The whole day through

Just an old, sweet song

Keeps Georgia on my mind

    ジョージア ジョージア

    一日を通して

    あの懐かしいスウィートな歌だけは

    僕の心にジョージアを思い出させる

    

[Verse 2]

I said a-Georgia Georgia

A song of you

Comes as sweet and clear

As moonlight through the pines

    ジョージア ジョージアと僕が口に出すとき

    あなたのその歌が

    松林に差し込む月の光と同じように

    甘くて透き通って やってくる

 

[Refrain]

Other arms a-reach out to me

Other eyes smile tenderly

Still, in the peaceful dreams, I see

The road leads back to you

    他のだれかの腕が僕に手を伸ばしても

    他のだれかの目が優しく微笑んでも

    いまだに 安らぐ夢の中で 僕が見るのは

    あなたのもとへと続く道

    

[Verse 3]

I said, Georgia, oh, Georgia

No peace I find

Just an old, sweet song

Keeps Georgia on my mind

    ジョージア ジョージアと僕が口に出すとき

    安らぎを見つけられなくても

    あの懐かしいスウィートな歌だけは

    僕の心にジョージアを思い出させる

 

[Reapet Refrain]

Other arms a-reach out to me

Other eyes smile tenderly

Still, in peaceful dreams, I see

The road leads back to you

    他のだれかの腕が僕に手を伸ばしても

    他のだれかの目が優しく微笑んでも

    いまだに 安らぐ夢の中で 僕が見るのは

    あなたのもとへと続く道

 

[Verse 4]

Oh, oh Georgia Georgia

No peace, no peace I find

Just an old, sweet song

Keeps Georgia on my mind

    あぁ あぁ ジョージア ジョージア

    安らぎを 安らぎを見つけられなくても

    あの懐かしいスウィートな歌だけは

    僕の心にジョージアを思い出させる

 

[Outro]

I said, just an old, sweet song

Keeps Georgia on my mind

    僕が口に出すとき あの懐かしいスウィートな歌だけは

    僕の心にジョージアを思い出させる

 

レイ・チャールズ」バージョンの "Georgia on My Mind" は、

レイ・チャールズがジョージア州出身なので、ジョージア州に残してきた女の子のことを歌っているように聞こえました。

スチュアート・ゴレルも、同じかも。

ポールは「Georgia」について、どう思ったのでしょうね。

とにかく、ポールは  "Georgia on My Mind" の曲の「Georgia」と、

ソビエト連邦の構成国だった「Georgia」をかけて

And Moscow girls make me sing and shout/ That Georgia's always on my mind」という歌詞を作ったのですね。

 

国の方の「Georgia」について。

英語名ではGeorgia(ジョージア)、ロシア語名ではГрузия(グルジア)と呼ばれていたそうです。日本では、2015年4月までは「グルジア」を使っていましたが、今は「ジョージア」を使っているそうです。

 

いっぱい道草をしてしまいましたが、

ポールが17歳の時に聞いただろう「チャック・ベリー」の "Back in the U.S.A."

ポールが20歳の時に聞いただろう「レイ・チャールズ」の "Georgia on My Mind"

ポールが23歳の時に聞いただろう「ザ・ビーチ・ボーイズ」の "California Girls"

 

を知っていると"Back in the U.S.S.R." をより深く味わえますね音符キラキラ

 

 

さてさて、やっと[Verse 3] です。

1968年5月終わりに録音したイーシャー・デモには、[Verse 3] はありませんでした。

[Verse 3]

Oh show me round your snow-peaked mountains way down south
Take me to your daddy's farm
Let me hear your balalaikas ringing out
Come and keep your comrade warm

    あぁ ずっと南に下って 君のとがった雪山を僕に案内してくれ

    君のパパの農園に僕を連れて行ってくれ

    君のバラライカが響き渡るのを 僕に聞かせくれ

    さあ 君の同志を温もりで包んでくれ

 

show round : 案内して回る

peak : (とがった)山頂、峰、(山頂のとがった)山、孤峰、(屋根・塔などの)とがった先、尖端(せんたん)、(ひげなどの)先、先端、絶頂、最高点

way down south : もっと[ずっと・さらに]南[南部・南方]へ[に]

comrade : (苦労を共にしてくれるような親しい)僚友、仲間、同志、組合員、共産党員

 

バラライカは楽器です。

 

Come and keep your comrade warm」は、

「ザ・ビーチ・ボーイズ」の曲 "California Girls" にも同じような歌詞がありました。

Well, East Coast girls are hip
I really dig those styles they wear
And the Southern girls with the way they talk
They knock me out when I'm down there
The Midwest farmer's daughters
Really make you feel alright
And the Northern girls with the way they kiss
They keep their boyfriends warm at night   

    西海岸の女の子たちはいかしている

    彼女たちが着こなすそのスタイルに僕は釘付けさ

    そして南部の女の子たち 彼女たちが話すその話し方は

    僕をノックアウト 僕はその場でダウンさ

    中西部の農場の娘は

    間違いなく 君を元気にしてくれる

    そして北部の女の子たち 彼女たちがキスするそのやり方は

    夜 彼女たちのボーイフレンドを温かく包む

 

 

さて、

私がこのブログを始めたのは2022年7月でした。

2022年2月24日に、ロシアによるウクライナへの攻撃が開始され戦争が始まりました。

そんな時に、ブログを始めて良いものか…

せめて終戦を願って、"Back in the U.S.S.R." の記事から始めようと思い書き始めました。

ところがあろうことか、私は[Verse 3]に、「ボーイズラブ」を妄想してしまいましたアセアセうずまき

"Back in the U.S.S.R." の記事から始めるのは諦め、下書きとしてずっと保存していました。

 

今回記事を書くにあたり、私と同じように思った方のブログ(noto) をみつけ、

妄想を伝える勇気が持てました。「あぁ私だけではないんだ」と。うずまき

 

「You don't know how lucky you are, boy」の「boy」も、

「ザ・ビーチ・ボーイズ」の"California Girls" の歌詞に比べると、

女の子を絶賛するには[Bridge]の歌詞が地味なのも、そういう理由なのかもしれない…。

ほんと、変なおばぁちゃんですみません。妄想の話です。アセアセアセアセ

    

 

情報提供元(著作権者)Weblio英辞郎goo辞書

 

歴史は繰り返される  1968年と2022年

"Back in the U.S.S.R."が レコーディングされる2日前。

 

1968年8月20日から21日にかけての深夜。

ソ連を主体にブルガリア、東ドイツ(当時)、ハンガリー、ポーランドのワルシャワ条約機構5か国軍が、

チェコスロバキアのプラハに侵攻しました(チェコ事件)。

 

同年4月、チェコスロバキアでは

「国民にある種の自由を提供しよう」という政策「プラハの春」がとられていました。

しかし、それを良く思っていないソ連がチェコスロバキアに侵攻したのです。

 

その日から1週間、戦車が街を埋め尽くし、家や車は炎に包まれ、抵抗した多数の市民137人が犠牲になり、

4月にチェコスロバキアで巻き起こった民主化運動「プラハの春」は終わりました。

 

1968年8月22日に、"Back in the U.S.S.R."のレコーディングを始めたザ・ビートルズは、

きっとニュースや新聞でこのことを知っていたと思います。

 

だから、どうしてもリンゴがいなくなっても、ポールとジョンとジョージは、

平和を願って"Back in the U.S.S.R."をレコーディングを続けたかったのだと思います。

パロディをいっぱい盛り込んで。妄想の話です)

 

5月21日追記

私の妄想は置いといて

ザ・ビートルズが"Back in the U.S.S.R."をレコーディングする2日前に、

チェコ事件が起こったのです。

 

そして

2022年2月24日ロシアは今度は、ウクライナに侵攻しました。

 

2024年5月20日現在、戦争は終わっていません。

一日も早く戦争が終わる事を心より願います。

 

 

ウクライナについて。

ウクライナは1991年8月24日ウクライナはソ連からの独立を宣言し,

同年12月のソ連崩壊によって、ウクライナ独立が達成されました。

2004年のオレンジ革命、2013年のユーロマイダン革命を経て、

現在ウクライナは独立した民主主義国家です。

(歴史きらいなので、やっとこさっとこ調べました)

 

 

リンゴがザ・ビートルズを抜ける

バリー・マイルズ著 「ポール・マッカートニー/ メニー・イヤーズ・フロム・ナウ」翻訳 竹林 雅子 663ページ

 

 八月二十一日にジョージがギリシャから戻ると、翌日から"バック・イン・ザ・USSR" のバッキング・トラックの録音が始まった。ドラム・パートについてリンゴとポールは議論をしていた。リンゴがタム・タムをとちったために、ポールはそのことをなじってしまった。リンゴはスタジオ内の空気に嫌気が差し、ヨーコの存在もポールの批評も気に入らなかった。そして、とうとう耐えられなくなったリンゴは、バンドを脱退すると宣言して出て行った。彼はピーター・セラーズのヨットに乗って地中海で二週間を過ごし、将来について考えていた。
 リンゴがいない間、残りの三人のメンバーは急いで "バック・イン・ザ・USSR"の録音に取りかかった。この曲と、一週間後に録音されたジョンの "ディア・ブルーデンス"ではポールがドラムを演奏している。九月三日に戻って来たリンゴは、また喧嘩が始まることを恐れていたが、予想を外れて彼のドラム・キットには「お帰りなさい」と書かれた花輪が飾られていた。その翌日、ビートルズはトゥイッケナム・フィルム・スタジオでマイケル・リンゼイ=ホッグ監督の下、"ヘイ・ジュード" のプロモーション・クリップを撮影した。みんな上機嫌で、グループ内の敵意は殆ど消えてなくなったかのようだった。

 

『 The BEATLES アンソロジー』311ページ  2000年10月5日 初版発行

監修翻訳/ザ・ビートルズ・クラブ, 監修/斎藤早苗, 翻訳/島田陽子・野沢玲子・マッケンジー・スミス, 翻訳リサーチ/押葉真吾・デイビット・トンプソン・裕子サンダース, 編集/古森優・大山哲司

 

リンゴ :  "ホワイト・アルバム"のレコーディングを終えた時、僕らはもう一度バンドらしさを取り戻していた。僕はずっとパンドというものを愛し続けている。バンドが大好きなんだ。もちろん、悩んだ時期もあったよ。現に僕はその年の夏しばらくグループを離れたんだからね。
 僕がバンドを離れたのにはふたつの理由があった。ひとつは自分が優秀なプレイヤ一ではないと感じていたから。もうひとつは他の3人がほんとに楽しそうで、自分が部外者みたいな気がしたから。僕はジョンに会いに行った。彼はケンウッドを出てからモンタギュー・スクエアの僕のアパートメントにヨーコと一緒に住んでいた。"僕はグループをやめる。僕はドラムがうまくないし、君たちに好かれてなくて孤立してるみたいに感じるから。君たち3人はほんとに仲がいい"と僕が言うと、ジョンは"仲がいいのは君ら3人 の方だ!"と言った。
 それからポールの家に行って、ドアをノックした。僕は同じことを言った。"僕はグループをやめる。君たち3人はほんとに仲がよくて、僕は孤立してるみたいに感じる"するとボールも言ったんだ。"それは君たち3人だと思っていたよ!”
 そのあとジョージの家に行き、"僕は休暇をとる"と告げ、子どもたちを連れてサルジニアに行った。
 

ジョージ : どうしてリンゴが出ていったのか、正確には思い出せない。ある日突然誰かが "ああ、リンゴは休暇をとって出かけてしまった"と言ったんだ。あとで彼が、僕ら3人がすごくうまくいっているのに自分はそうじゃないと思っているということがわかった。それは仕方のないことだった。みんな同じことを感じていたんだ。誰もが、もうたくさんだと思っていた。僕は"ここにいることに何の意味がある? 彼らはとても楽しそうでノリもいい。 僕は場違いだ"と感じていた。そして、僕は次のアルバムでグループを離れたんだ。

ポール : リンゴは一度もドラム・ソロをしなかったことで、自分は優秀なドラマーじゃないと悩んでいたんだと思う。彼は、バンドが舞台から消えてお茶でも飲んでいる間に、際限なくバンバン叩き続けるようなドラマーが大嫌いだった。「アビイ・ロード」をやるまでは、ビートルズの演奏にドラム・ソロを入れたことは一度もなかった。その結果、他のドラマーが、リンゴのスタイルは好きだけど、技術的にはあまり優秀なドラマーじゃないと言うようになってしまった。ちょっと見下されたような感じだった。だけど、僕らはあまり気にもしていなかった。
 リンゴのフィーリングと情熱、それにきわめて正確なテンポは素晴らしいと思う。僕はいつもドラマーに背を向けて任せておけるということが良いドラマーに恵まれた証拠だって言っているんだ。リンゴに曲の構成について確認しておきさえすれば ―― いつでも僕らのうしろから、安定したテンポのすばらしいドラム・サウンドが聴こえてきた。ロックン・ロールはフィーリングとサウンドが命なんだ。だからリンゴがバンドを離れた時、僕らは "君をすごいドラマーだと思っている" とちゃんと言葉にして彼に伝えるべきだったと思った。

 人生ってそんなもんだよ。人生の途中で改めて "僕は君をすごいと思ってい るんだなんて、普通は言わないよ。好きなドラマーに対して、自分は君が好きだなんて必ずしも伝えたりしないもんだろ。リンゴは不安を感じてバンドを抜けた。だから僕らは "いいかい、僕らにとっては君が世界一のドラマ一なんだよ" と伝えた(僕は今でもそう思っている)。彼は"ありがとう"と言った。僕らの言葉が嬉しかったんだと思うよ。僕らは花を何百万本も注文して、リンゴがスタジオに戻ってきたことを盛大に祝って歓迎したんだ。

ジョン : 僕は彼のドラミングが大好きだ。リンゴは今でも世界一のロック・ドラマー のひとりだよ。1972年

ジョージ・マーティン : どのメンバーも多少の悩みを抱えていたと思う。人と人との間にひびが入ると―― ケンカ中の夫婦がパーティに行った時など ―― 緊張した空気が流れるものだ。そんな時は、この場の雰囲気が悪くなったのは自分のせいだろうかと考えてしまう。私たちがリンゴの中に見いだしたのも、こういう種類の状況だったと思う。おそらく彼は、ジョンとヨーコとポールの精神的なよそよそしさと、誰も昔のような仲間意識を持たなくなった状態に、少し落ち着きをなくしてしまっていたんだろう。彼は"原因は僕だろうか"と自問していたのかもしれない。

リンゴ : 僕はサルジニアで「オクトパス・ガーデン」を書いた。その日はビーター・セラーズ から借りたヨットで1日海に出ていた。僕らはキャプテンに、ランチはフィッシュ&チップスがいいと伝えた(リバプール時代からそればかり食べてきたからね)。なのにランチ・ タイムが来て僕らはフレンチ・フライド・ポテトを食べていた。するとそこに見慣れないも のが皿に盛られてやって来たんだ。彼は言った。"フィッシュ&チップスです" ―― "ねえ、これは何?" ―― "イカです" ―― “僕らはイカは食べないよ。タラはないの?”。とにかく、僕らは生まれて初めてイカを食べた。けっこうイケたよ。ちょっとゴムっぽかったけど。味は鶏肉に似ていた。
 僕はキャプテンと一緒にデッキに出て、タコの話をした。彼の話によると、タコは巣穴に住んでいて、光る石やプリキ缶や瓶を探して海底を動き回り、それをまるで自分の家の庭を飾るように巣穴の前に置いていくんだそうだ。それは素敵だと思った。僕も海に潜りたいと思った。そしてマリファナで一服し、ギターを弾いた ―― こうして「オクトパ ス・ガーデン」ができたんだ!
 すばらしい休暇だった。僕は、誰の心にも傷があることを知った。僕だけじゃなく、全体の雰囲気が下降していたんだ。僕は確かに出ていった。もう耐えられなかったんだ。魔法が消えて、人間関係が悪くなっていた。妄想だったかもしれないけど、僕はすごく気分が悪かった ―― よそ者みたいな気がしたんだ。だけど、その後みんなも同じ気持ちでいることを知った。僕がみんなの家のドアをノックして回ったことで、それがはっきりしたんだ。
 "君は世界一のロックン・ロール・ドラマーだ。帰っておいでよ。僕らは君を愛している" という電報が届いた。そして僕は戻った。僕には気分転換が必要だったんだ。スタジオに戻った僕は、ジョージが飾ってくれた花に迎えられた ―― スタジオ中、花でいっぱいだった。僕らはこの小さな危機を通り抜けた。すばらしいことだった。それは多くのグループが進む道だった。そして、"ホワイト・アルバム"もようやくここを抜け出した ―― そして僕らは全員スタジオを出た。
 6月に、ジョージがラビ・シャンカールの映画の撮影のためにカリフォルニアへ行くのに、モーリーンと僕もついていった。ビートルズはいつも誰かが出かける時は他のメンバーの誰かと一緒だった。ビートルズはふたりずつで行動することが多かった。ある時、僕はポールと一緒にヴァージン諸島に行ったし、ジョンと一緒にトリニダ ードにも行った。休暇で旅行に行く時は、必ず他のメンバーの 誰かひとりと一緒だった。僕らの関係は、それほど密接だったんだ。
 僕らはペブル・ビーチにしばらく滞在した。美しい場所だった。エサレン(肉体的接触によってコミュニケーション障害を取り除く精神治療法を実践している施設)を訪ね、どんなことをやっているのか見てきた。その内容は、自由恋愛と寓話のような思想だった。そこには、アラン・ワッツや彼と同類の人たちがたむろしていた。そのあとジョージはサンフランシスコに向かった。彼は、僕らのところに泊まりにくるようにという誘いの言葉をヘルズ・エンジェルスにさえ贈った ―― あふれる愛のなせる技だった。