ハンブルグ | タコさんの庭

タコさんの庭

ビートルズの歌詞和訳に挑戦

 

参考 : 「アストリット・Kの存在 ービートルズが愛した女ー」 小松成美著

     「ポール・マッカートニー/ メニー・イヤーズ・フロム・ナウ」

                      バリー・マイルズ著 翻訳 竹林 雅子

 

ジョンとスチュアート・サトクリフとの出会い

ジョンはクオリ―・バンク高校を卒業して、リヴァプール・カレッジ・オブ・アートに入学しました。イギリスの学校が9月始まりだと考えると、たぶん入学したのは1959年9月です。ジョンが18歳の時です。そこでジョンはスチュ(スチュアート・サトクリフ)に出会いました。ジョンは、ポールが嫉妬するほど、スチュが大好きでした。そしてスチュもジョンが好きでした。

ビートルズがまだ「ジョ二―&ザ・ムーンドックス」と名乗っていた頃、ジョンはスチュをバンドに誘いました。ベース担当です。のちにレコーディングされる"One After 909"(アルバム「 Let It Be 」) は、スチュも歌っていたそうです。

 

 

1回目のハンブルグ インドラ・クラブとカイザーケラー

 ビートルズのマネージャーをしていたアラン・ウィリアムがハンブルグでの仕事をビートルズに持ってきました。

 1960年8月、ジョン・ポール・ジョージ・スチュ・ピート(ピート・ベスト)はバンに乗り、ドイツのハンブルグに巡業に行きました(8/17~10/3インドラ・クラブ、10/4~11/28カイザーケラー)。ビートルズがカイザーケラーで演奏をしている時、ドイツ人のクラウス・フォアマンは自分の恋人アストリット・キルヒヘアをビートルズに紹介しました。彼女は髪の毛が短く黒一色の洋服で、今までの女の子には感じられなかった気品がありました。ビートルズはみんなアストリットに興味津々です。ジョンを除いて他のメンバーはアストリットが理解できるように英語をゆっくり話しました。しかしジョンはにやりと笑うとリヴァプール訛りの早口な英語でアストリットに話しかけ困らせました。ポールとジョージは人なつっこくアストリットに接しましたが、ジョンはちょっと控えめでした。

 写真家である彼女は5人の写真を撮りました。ハイリンゲンガイストフェルト広場でのビートルズの写真は有名です。その写真撮影のあと、アストリットは彼らを自宅に招待し、ピート・ベスト(ドラマー)以外の4人が行きました。イギリスのサンドイッチやハムエッグが懐かしいと言っていた彼らの言葉を彼女は母ニールサに伝えていました。4人は彼女の母ニールサの温かいおもてなしに喜びました。ミルクと砂糖がたっぷり入った紅茶とバーコンやチーズやハムのサンドイッチがふるまわれたのです。ポールやジョージは子供のようにはしゃいだそうです。食べ終わったお皿を最初に台所まで運んだのはジョン、みんなもそれに続き食器を洗いだしたそうです。食後にアストリットは自分の部屋に彼らを誘いました。彼女の部屋は壁も天井も床のカーペットもベッドカバーも黒で統一されアストリットそのものでした。黒一色の部屋に彼らは驚きの声をあげ、彼女の持ち物すべてに好奇心をもったそうです。ジョンは彼女が持っていたサドの本に「I want, I Want この本が読みたい」。そしてアストリットが履いていた革のズボンを指し「I want, I Want, わかるかい、僕も君と同じ革のズボンが履きたいんだ」と言ったそうです。

 スチュとアストリットはお互いに惹かれ合い恋をしました。アストリットは正直な気持ちをクラウスに伝えます。

 スチュとアストリットが恋をし、それを認めたアストリットの母ニールサは、スチュがこの家に住む事をアストリットに提案しました。ドイツの売春法で未婚の男女が同じ部屋で寝る事はできませんでしたが、スチュはアストリットの家の屋根裏部屋から「カイザーケラー」に通いました。そして二人はニールサの許しを得て婚約しました。

 ビートルズは12月までのカイザーケラーでの契約の延長が決まっていましたが、休み時間になるとライバル店のトップテン・クラブに通っていました。そのことを知ったオーナーのブルーノ・コシュミーダの怒りを買い、カイザーケラーでの契約は11月末日までと言い渡されます。

「アストリット・Kの存在 ービートルズが愛した女ー」 小松成美著 150ページ 

 コシュミーダがビートルズを11月いっぱいで解雇するということを知ったエクホルン(トップテン・クラブのオーナーです)は、ビートルズをトップテン・クラブに誘った。ギャラはカイザーケラーより5マルク高い35マルク、宿泊場所はトップテン・クラブの上にある屋根裏部屋だった。 シェリダンも「それがいい。ここで一緒にステージをやろう」と後押しをした。ビートルズにとっては思いがけない幸運だった。
 しかし、ビートルズが契約に違反し、トップテン・クラブのステージに上がっていることを知ったコシュミーダはついに報復に出たのだった。

 トップテン・クラブに通うだけでなく演奏もしていたことを知ったコシュミーダは報復にでます。

 コシュミーダはジョージが18歳未満で労働許可を受けていないことを警察に密告しました。11月20日彼らが住んでいるバンビ・キーノの屋根裏部屋に警官が押しかけ、ジョージを両脇から抱え連行して行きました。その時ジョンはアストリットの家でスチュと会っていました。ポールから「ジョージの逮捕」を知ったジョンとスチュとアストリット。ジョンはコシュミーダに対し怒りをあらわにしました。スチュとアストリットは、興奮したジョンをニールサ(アストリットの母)に預け、トップテン・クラブのオーナーのエクホルンとジョージが留置されている派出所に向かいました。エクホルンが警官に必死にかけあってくれ、ジョージは夜中過ぎに釈放されましたが、24時間以内に国内退去しなければなりませんでした。ジョージはメンバーが5人から4人になっても演奏が続けられるよう自分のギターパートを徹夜でジョンに教えました。11月21日ジョージは、ジョンとスチュはアストリットに見送られハンブルグ中央駅から丸二日をかけてリヴァプールに向かいます。3人は17歳のジョージが乗った列車が見えなくなるまでホームに立っていたそうです。

 リード・ギタリストのジョージを失ったあとも、ビートルズはカイザーケラーで22日から7日間演奏を続けました。そして契約が切れジョンとポールとピートは、トップテン・クラブの屋根裏に引越しました。ビートルズの演奏を楽しみにしているお客はトップテン・クラブに流れました。トップテン・クラブで演奏してから数日後、再び警察がやってきました。今度はポールとピートが放火犯にされてしまいました。

バリー・マイルズ著 「ポール・マッカートニー/ メニー・イヤーズ・フロム・ナウ」翻訳 竹林 雅子 107ページ

既にトップテンの快適な屋根裏部屋に荷物を運び込んでいたジョンとスチュアート(スチュはすでにアストリットの家の屋根裏部屋に引越していたので?です。アストリットの家の屋根裏部屋に運んでいない荷物があったのかな。)に続いて、ポールとピート・ベストは荷物を取りにバンビに戻った。忘れ物がないか確かめていた二人は、コンドームを見つけ、証拠隠滅のために打ちつけのコンクリート壁のにコンドームを引っかけて火をつけた。火は長く燃えはしなかったが、ブルーノはこの事件をすぐさま放火として通報した。
「僕らがあの建物を燃やそうとしたって彼が言うもんだから、警察から、『お願いだから、出て行ってくれ。ドイツの屋敷を燃やしてもらっては困るから』って言われてさ。笑っちゃうよ。だって、あんな石の建物、何ガロンのガソリンを使ったって燃えやしないよ」。ポールとピート・ベストは地元の拘置所に三時間拘束された後に、国外退去処分となった。1960年12月1日、リヴァプール行きの電車の切符がぎりぎり買えるだけの所持金を手に、彼らはロンドンの空港に到着した。
 ザ・ジェッツは後任のジェリー&ザ・ぺースメイカーズがリヴァプールからやって来るまでの二か月間、契約を延長した。ジョンはドイツに残ることも出来たが、仕事がなければ意味がなかった。そこで彼は洋服を売って電車代を作り、ギターを片手に、アンプは盗まれないように背中にくくりつけた情けない姿で帰郷した。

小松成美著「アストリット・Kの存在 ービートルズが愛した女ー」154ページ には、

スチュとジョンとポールとピート4人一緒にリヴァプールに帰ったとあります。

 スチュも、ジョンとポールとピートと一緒にリヴァプールに帰ることにした。 両親にアストリットとの結婚の了解を得るためでもあった。
 12月10日、ジョンとスチュとポールとピートは、アストリットに見送られてハンブルク中央駅から列車に乗り込んだ。ジョンの背中には、買ったばかりの新品のアンプが盗まれないようにしっかりとロープでくくり付けられていた。それは、あまりに滑稽な姿だったが、ジョンの見たこともない深刻な顔に、誰も笑うことができなかった。
 スチュは、アストリットに「一日でも早く一緒に暮らせるように準備をするよ」と言って、再び会える日まで毎日手紙を書くと約束した。
 4人を見送ったアストリットは、ひとりきりになってしまった心もとなさと、経験したこともない寂しさを感じ、途方に暮れるようにいつまでも立ちつくしていた。

このようにして1回目のハンブルグ巡業は終わりました。

 

途中に書きますが、何を伝えたいかと言うと、

"Baby's in Black" の

「she」=アストリット・キルヒヘアが仲良かったのは、

「he」=スチュアート・サトクリフだけではなかったということです。

アストリットは、ビートルズみんながハンブルグ滞在中にお世話になり交流があった女の子(22歳)でした。そしてスチュはジョンが大好きだった大親友で、ビートルズのメンバーでした。

その事と以下を知って"Baby's in Black" を聞いてみてくさい。

 

2回目のハンブルグ トップテン・クラブ

1961年3月27日列車で、ジョン・ポール・ジョージ・ピートは2回目のハンブルグへ行きました。スチュは彼ら3人より2週間前にハンブルグに行きました。

「アストリット・Kの存在 ービートルズが愛した女ー」167ページ 

 その頃、ビートルズは、もう一度ハンブルク巡業に出かけるため労働許可を得ようと必死だった。マネージャーのアラン・ウィリアムスがドイツ領事館と交渉して入国の許可を取り、ハンブルクではスタークラブ(??トップテン・クラブでは?)のエクホルンが彼らに労働許可を下ろすために根回しをしてくれた。
 ようやく労働許可が下りると、エクホルンは、正式な契約を結ぶためわざわざリヴァプールまでやってきた。契約は4月1日からで、「順調にいけば契約延長もありえる」とあった。エクホルンは彼らと肩を組んで高らかに言った。
「もちろん、あのコシュミーダとも話がついている。だから、安心して来ればいいさ」 演奏のスケジュールは、カイザーケラーとほとんど変わらなかったが、ギャラは一日一人当たり40マ ルクで、以前より5マルク上がることになった。エクホルンは、渡航までにインチキな学生ビザではなく正規の労働ビザを手に入れることも約束していた。

1961年2月25日の誕生日で18歳になったジョージ、法的にも堂々と仕事ができ良かったですね。

4/1~7/1、トップテン・クラブで92日間演奏しました。今回の巡業中には、ジョンの恋人シンシアがポールの恋人と一緒にハンブルグに遊びに来ました。シンシアはアストリットの家に宿泊しました。

小松成美著「アストリット・Kの存在 ービートルズが愛した女ー」180ページ  

 ビートルズの出演するトップテン・クラブはいつしかハンブルク美術大学の学生の溜まり場となっていた。ステージに近い大きなテーブルを囲みビートルズは美大生たちと飲みながら語りあった。 

 深夜のステージになると、店の中はなごんだ空気に包まれ、ビートルズも自由気ままでいられた。スチュは、ステージから飛び下り、アストリットの隣にかけてベースを弾いた。そんなことが許されるほど、出演者も客たちもリラックスしていた。また、客がまばらになると、スチュがクラウスにベースを手渡し、演奏を任せることもあった。
 クラウスはスチュのベースを受け取ると、ステージの下でビートルズの演奏に加わった。彼はカイザケラーではじめてロックンロールを聴いて以来、趣味でベースを弾きはじめ、ビートルズの演奏する多くのレパートリーを完璧に弾きこなせるようになっていた。クラウスはアストリットの家に遊びに行くたび、スチュのベースで練習していたのだ。幼い頃からクラシック音楽の教育を受け、楽譜を読むことも書くことも容易にできたクラウスにとって、ロックンロールのメロディはまさに「ABC」程度のものだった。
 クラウスがベースという楽器を選んだのは、初めてビートルズに出会ったカイザーケラーのステージに立つスチュにオウラを感じたせいだった。また、ベースの振動する音には生命が聞こえるような気がしたのだ。ジョンもポールもクラウスの秘められた才能に驚くばかりだった。

 画家としての才能がありながらロックンロールのベースを弾いているスチュの噂は、ハンブルク美術大学中に広まっていました。美大生は、トップテン・クラブに時々来ていた大学の先生・彫刻家エドアルド・パオロッティにスチュを紹介しました。「一度大学に遊びに来ないか。その時、君の描いた絵を何枚か見せてもらえないだろうか。」

 6月に入り、スチュは絵も持ってパオロッティに会いに大学に行きました。その絵を見たパオロッティは奨学金で大学に通わないかとスチュに言いました。大学に入学することが決まったことを聞いたビートルズは心からスチュを祝福しました。スチュはビートルズと美大生とふたつをこなしていましたが数週間後「ジョンやビートルズと別々の道を歩む」と決断をくだし、その日の内に「今日限りでベースを置くよ。大学での勉強と、絵を描くことだけに専念しようと思う」と伝えました。翌日からスチュは、アストリットの隣に座って、ビートルズのステージを見上げることになりました。でも時には飛び入りでジャムセッションすることもあったそうです。

この時から、スチュに代わりポールがベース担当になりました。

7月2日、ジョン・ポール・ジョージ・ピートの4人はリヴァプールに戻ります。

スチュとのお別れです。

 

 

1961年12月

ビートルズの1961年12月

12月15日ビートルズは、父親が経営するNEMSというレコード店を任されていたブライアン・エプスタインとのマネージメント契約にサインしました。

 

ハンブルグに残ったスチュの1961年12月

ハンブルグに残ったスチュは屋根裏で絵を描き大学に通いました。1961年12月クリスマス前からスチュは頭痛に悩まされるようになり、気を失う程の激しい痛みの発作が続くようになりました。だんだんと体力も衰え寝たきりになってしまったスチュをできる限り看病したかったアストリットは、自分のベッドにスチュを移しました。

 

 

3回目のハンブルグ(その1) スタークラブ 1962年4/13~5/31の7週間

 トップテン・クラブで用心棒を務めていたホルスト・ファッシャ―は、『スタークラブ』に鞍替えし支配人になっていました。スタークラブは、ハンブルグのもう一人(トップテン・クラブのオーナー、エックホルンの他にという意味です)の有名なクラブ・オナー、マンフレッド・ヴァイスレダーが映画館から新しくロックンロールクラブにした新しい店でした。支配人のホルスト・ファッシャ―はカイザーケラーやトップテン時代のビートルズを知っていたので、新しいクラブのオープニングをビートルズで飾りたかった。エックホルンにお金を払ってビートルズを引き抜いたそうです。(参考「ポール・マッカートニー/ メニー・イヤーズ・フロム・ナウ」バリー・マイルズ著115ページ)

 ジョンとポールとピート・ベスト(ドラム担当)は、1962年4月13日から7週間にわたる「スタークラブ」出演のためにハンブルグに到着していました。風邪をひいて後から来るジョージを迎えるために3人は空港にいました。そして、アストリッドもスチュの母ミリーを迎えるために空港に行きました。そこでジョン・ポール・ベストはスチュの死を聞かされました。ジョージも偶然同じ飛行機に乗り合わせたミリーからスチュの死を聞かされました。1962年4月10日、スチュは亡くなりました。21歳でした。

 「アストリット・Kの存在 ービートルズが愛した女ー」 219ページ

 すべてはスチュの葬儀のために動きだしていた。翌日の4月11日、一睡もしないままのクラウスとアストリットは、スチュの母親を出迎えにハンブルクの空港に出かけた。
 到着ロビーに着くと、信じられない光景がアストリットとクラウスの視界に飛び込んできた。そこにはいるはずのない、見慣れた友人たちの顔があった。人影のない到着ロビーの小さなベンチに肩を寄せあうようにしてジョンとポールとビートが座っていたのだ。彼らは、スチュが大好きだったフラメンコシューズを履いていた。
 3人はアストリットとクラウスを見つけると、奇声を上げふざけながら駆け寄ってきた。 ビートルズ は4月13日からレーパーバーンに開店したばかりの「スタークラブ」に出演することになっていたのだ。突然の再会を喜んだジョンはアストリットに抱きつくと、いつものように聞き取りにくいリヴァプール訛りで話しはじめた。
「アストリットもクラウスもよく俺たちがここにいるって分かったね。そうか、スチュだな。あいつへの手紙に『今度は飛行機で行くぞ』って書いたからな。俺たち3人は昨日来ていたんだよ。今日はジョージとブライアンを迎えに来たんだ。それにしても、みんなでここにいたらジョージのヤツ、きっと驚くぜ」
 風邪をひいたジョージだけが1日出発を延ばし、マネージャーのエプスタインと共に今日の飛行機で到着するのだとジョンは言った。ポールが続けた。
「僕たちは昨日の夕方到着したんだ。ジョンが何度もアストリットの家に電話をしたんだよ。でもずっと通じなかったよ」
 ジョンは首を伸ばし、爪先立ちになって周りを見回した。

「アストリット、スチュはどこなんだよ。あいつ、家で待ってるのか? まあいいや、それより今晩は全員で派手にやるからな」
 アストリットに言葉はなかった。彼女は3人に囲まれ、ジョンの顔に目をやった途端、泣きだして床に崩れ落ちた。今までせき止めていた彼女の悲しみが、雑然とした空港のロビーで流れだし、緊張で張りつめた心はついに破れてしまった。
 アストリットの泣き叫ぶ声を聞いていたジョンは、全身をわななかせ、驚きを隠すように神経質な視線を彼女に向けた。
「気でも狂ったのかよ、アストリット。一体何だっていうんだ!」 一瞬、耐えられないほど緊迫した空気が流れた。クラウスはジョンの攻撃的な視線から目をそらせてつぶやいた。
「昨日、スチュアートが死んだんだ」
 その言葉にジョンは激昂した。
「ファック・ユー! 嘘をつくんじゃねえ。ふざけるな。人を馬鹿にするのもいい加減にしろよ!」 ジョンは金切り声を発し、突然けたたましい声で笑いだした。体を揺らし、手を叩き、唾を飛ばして笑いつづける彼の姿は、不吉な運命を触れ歩く狂人のように見えた。 

 ジョンは錯乱する頭で「クラウスのくだらない冗談に本気になるなんて馬鹿げている」と思いながら、細い肩を震わせて泣きつづけるアストリットの涙の意味に気づくことを必死で拒絶していた。
 ピートは、クラウスに支えられてようやく立ち上がったアストリットの泣き顔を見つめていたが、やがて革ジャンの袖で涙を拭いながらその場を駆けだした。笑いつづけるジョンを凝然と立ちつくして見ていたポールは、クラウスに飛びかかるようにして言った。
「スチュに何が起きたんだ。アストリット、答えてくれよ、スチュは本当に死んだのか? なぜ僕たちに何も知らせてくれなかったんだ!」
 ジョンの引きつった笑いはいつまでも止まらなかった。通行人たちは、不良たちが馬鹿騒ぎを始めたのだと思い、遠巻きにして睨みつけていた。
 ロンドンからの飛行機は定時に到着した。まもなく到着口のドアが開き、しゃくりあげるジョージとテーラードのスーツに身を包んだ男に抱きかかえられるようにして歩くミリー(スチュの母親です)の姿が見えた。初めて会うエプスタインは、アストリットとクラウスに目で合図を送ると、うなだれて歩くこともままならないミリーをふたりのところまで運んだ。
 ジョージとエプスタインは、偶然同じ飛行機に乗りあわせることになったミリーからすでにスチュの死を告げられていた。機内でも泣きじゃくっていたジョージの目は赤く腫れ上がり、体の奥から絞りだされる泣き声はいつまでもやまなかった。
 すすり泣くミリーの姿を見てやっと笑うことをやめたジョンは、急に感情のすべてを体に押し込めた。そして、言葉にできない悲しみが喉元に突き上げるのを体を小さく震わせて耐えていた。
 ジョンとポールとジョージは、ベンチにうずくまって泣いているピートを囲むようにして立ちつくしていた。ピートとジョージに続いてポールも泣きだしたが、最後までジョンだけは泣かなかった。お互いを支えあうように誰かにしがみついていた4人は、ミリーにお悔やみの言葉をかけることも、アストリットを慰めることもできなかった。
 アストリットとクラウスが車に乗せて空港を後にしようとした時、エプスタインに促された彼らは、背中を丸め、迎えの車に向かってのろのろと歩き出したのであった。

ビートルズは1962年4/13日~5/31日7週間、スタークラブで公演しました。

そしてアストリットはリヴァプールでスチュの葬儀を終えクラウスと一緒にハンブルグに戻りました。アストリットは病人のようにカーテンで光を閉ざした部屋に閉じこもり、スチュとの思い出に浸っていました。

「アストリット・Kの存在 ービートルズが愛した女ー」 229ページ  

 クラウスは彼らのいる控室に入った途端、言葉を失ってしまった。目の前に現れた4人は、別人のようにげっそり頬がこけ、目の下には濃い隈を作っていた。クラウスが4人の顔を見回しても、彼らは無言だった。ふとジョンの顔を見ると、誰かに殴られた跡なのか、痛々しい黒いが残っていた。
 クラウスは、目を伏せてじっとしている4人を前に、スチュの葬儀が滞りなく行われたことや、リヴァプールから戻った後もショックで生気を失っているアストリットの様子を話しはじめた。途中、堪えきれなくなったジョージは、クラウスに背中を向け、頬にこぼれた涙の雫を何度も指で拭った。深いため息をついたジョンは、「これからもアストリットの様子を知らせてくれよ」と言って、部屋を出てい った。

「アストリット・Kの存在 ービートルズが愛した女ー」 229ページ 

クラウスは、彼らがステージへ上がっている間に、顔なじみのウエイターから彼らの異常な行動の一部始終を聞かされていたスタークラブ出演初日の4月13日、彼らは信じられないほど酒を飲んでふらふらになりながらステージに上がったのだという。ジョンとポールとジョージは、奇妙な大声を上げ、うるさいほど陽気に振る舞い、アンプやマイクスタンドを蹴り倒して手のつけられない有り様だった。へらへらと笑いつづけるジョンは、頭からビールを浴び、シャツを脱ぎ捨てて裸になってしまった。そして、からかう客には誰かれとなく殴りかかった。最初は攻勢だったジョンも終いには殴り倒され、口や鼻から血を流す始末だった。
ビートルズの狂気の沙汰は3、4日続き、ようやく落ちついたのだとウエイターは言った。ビートルズの異常な行動がスチュの死によるものだということを知っていたのは、バンド仲間とカイザーケラー時代からの数人の友人だけだった。アストリットと同じように傷つき、苦しんでいる彼らに、クラウスはかける言葉がないまま、スタークラブを後にした。

 

スチュの死から10日が過ぎた頃、お店の中には入れないけれど一度だけスタークラブに行くとアストリットは約束しました。ビートルズが店の外にある螺旋階段で待っているとクラウスに肩をしっかり抱かれたアストリットがやってきました。

「アストリット・Kの存在 ービートルズが愛した女ー」 2319ページ 

アストリットを見るなり、ジョージが走り寄って抱きついた。クラウスが彼女を静かに階段に座らせると、寄り添うように彼女の右側にジョンが座り、左側にジョージが腰を下ろした。 すぐ後ろに座ったポールは、アストリットの頭を優しく撫で続けた。ピートは少し離れた所から彼女にいたわるような温かい眼差しを向けていた。
 長い沈黙に耐えられなくなったジョンは、立ち上がると腕を組んだまま踊り場を行ったり来たり歩き回った。アストリットは涙をこらえるため、唇を噛んでうつむいたままだった。ジョージもポールもピートも、アストリットをスタークラブへ呼ぼうと提案したジョンでさえも、途方に暮れ、彼女に言葉をかけることができなかった。
 ジョンはアストリットを、両手を回してきつく抱きしめながら言った。 「俺たちのステージを見に来てほしい。毎日、毎回、君のためだけに演奏するよ」

 ポールが続けた。
「この間、ハンブルクにいた時よりずっとレパートリーも増えたからね」
 ジョージはギターを弾く仕種をして見せた。
「アストリットが驚くほど上手になったんだ。だから、どうしても僕のギターを聴いてほしいんだよ」 

 彼らにとって、アストリットを慰める術(すべ)は音楽しかなかった。悲しい対面は、わずか10分ほどで終わった。
 翌日から、アストリットは再び自分の部屋に閉じこもってしまった。スチュの死を認めることが恐ろしかった彼女は、スチュが死んでから彼の部屋にもアトリエにも足を踏み入れていなかった。ビートルズとの再会も、ニールサやテオの慰めも、ラインハルトからの哀悼の言葉も、彼女を立ち直らせることはできなかった。

 

 

黒を愛したアストリットとスチュ

アストリットは、スチュが亡くなったから、黒い服を着ているのではなく、その以前から黒に魅せられていました。それはアストリットが10歳の時からでした。

「アストリット・Kの存在 ービートルズが愛した女ー」 79ページ

 1948年、10歳になったアストリットに大きな変化が起こった。彼女は、なぜか黒以外の服を着ることをかたくなに拒むようになった。以前からズボンしか履かなかったアストリットは、自分でも訳が分からないまま黒に魅せられてしまった。 初めて、黒いセーターと黒いコーデュロイのプルオーバー・パンツという「黒ずくめ」の恰好で登校したアストリットに担任の女性教師や同級生たちが、「どなたかが亡くなったの?」と優しい声で問いかけた。周囲が彼女の恰好を「喪服」と思ったのも致し方ないことだった。確かに少女が全身黒ずくめでいることは異様なことだった。

そして、黒は洋服だけにとどまらず、彼女の部屋の装飾においても変化していきました。

1957年8月、アストリットの父エミールが心臓発作で亡くなった後のことです。

アストリット18歳です。

「アストリット・Kの存在 ービートルズが愛した女ー」 104ページ

 エミール(アストリットの父親です)の死から1カ月が過ぎた頃、アストリットはようやく授業に戻り、ラインハルトのスタジオにも顔を出した。 しかし、周囲が驚くほど、 彼女はそれまでとは歴然と違っていた。その表情や瞳から放たれる光には「神秘」が宿っていたのだ。 父の死に遭遇した彼女は、スクリーンの中だけだと信じていた怪しき世界を現実として受け入れていたのだった。それを証明したのは、模様替えされた彼女の部屋だった。白い壁と白い家具が置かれた明るい部屋は、一夜にして黒一色に塗りつぶされてしまったのである。
 まず、黒いサテンの生地を大量に買い込んだアストリットは、何時間もミシンに向かってカーテンとベッドカバーを縫い上げた。白が黒に変わり、そこにはまったく別の、しかし、彼女が思い描いた通りの世界が広がった。 ニールサ(母親です)がアストリットのために注文して作らせた高価な黒いカーペットは、彼女の部屋を深い海のようにしていた。天井には黒いビロードがドレープさせて張られた。
 神秘への憧れは募るばかりで、電灯を外し、ベッドの両脇にはクリスタルの付いた銀の燭台を置いて蝋燭を立てた。蚤の市へ出かけては、大きな胸像や、中世時代の教会の十字架や薔薇の飾りの付いた大きなアンティークの鏡を手に入れた。彼女は、妖しいほどの「暗黒」の世界を求めていた。そして黒く塗った大きな木の枝を天井から吊るし、赤い蝋燭の揺れる炎を眺めながらコクトーの光と影の世界に身を投じるのだった。

 

黒を愛するアストリットにスチュも影響され、スチュも黒を愛用しました。

「アストリット・Kの存在 ービートルズが愛した女ー」 175ページ

髪型だけでなく、スチュはアストリットのスタイルに興味を持ち、彼女の洋服を身に着けはじめた。 体格がほとんど同じだったふたりは自由にお互いの洋服を着ることができた。アストリットのアドバイスで、黒い革のジャンパーやスボン以外にも、黒いビロードのジャケットや小さい襟の白いシャツ、シンプルなラインのベストなど、繊細な顔だちと長い髪を持ったスチュは彼女のエレガントな服を次々に着こなしていった。アストリットとスチュはお互いに影響受けつつ、まるで鏡を合わせたかのように、姿を似せていったのだった。 

 

 

3回目のハンブルグ(その2) スタークラブ 1962年4/13~5/31の7週間

ジョンは、スチュが亡くなりずっと自分の部屋に閉じこもっているアストリットに会いに行きました。

「アストリット・Kの存在 ービートルズが愛した女ー」 233、234ページにあるジョンの言葉だけを抜粋

 

「君はここでずっと座り込んでいるつもりなの?」

「こうしていたって何も変わらない。そんなこと、自身が一番分かっているだろ?」
「いいか、スチュはもう死んでこの世にはいないんだっ。 君は決めなくちゃいけない。スチュを追いかけて死ぬのか、ここで立ち上がって生きていくのか。アストリットが中途半端な態度を取っているせいて、ムッティ(お母さん)やクラウスがどんなに悲しんでいるのか知っているのか。わざとみんなを悲しませるような態度を取っているんじゃないのかっ。どうなんだ! 冗談じゃない、そんな迷惑だ。死ぬなら死ぬ、生きるなら生きる、どっちでもいいから、とにかくさっさと決めるんだ」

「毎日、毎日、暗い部屋に閉じこもって、思い出だけに浸って、いつまで悲しみに暮れる未亡人ごっこをしているんだ。ここでこうしていたってスチュは帰ってきやしない。 アストリット、誰も君を助けることはできないんだよ。もう、自分の力で立ち上がるしかないんだよ」

「スチュのアトリエを見せてくれるかい?」

「スチュのアトリエを見せてくれるかい?」と言うジョンの言葉に、アストリットは一度も入れなかった屋根裏部屋に入る事ができたそうです。そして、キャンパスを見ているジョンの後ろ姿を見て、悲しみに打ちひしがれているのは自分だけでない事に気がついたそうです。

ジョンの訪問を受けて、睡眠と食事をとれるようになったアストリットは、5月に入るとわずかだけど元気を取り戻していったそうです。

優しさではなく、厳しくアストリットに接したジョン、大好きなジョージ叔父さんや、母ジュリアを亡くしたジョンだから言えるのだと思いました。

 

 

1962年6月6日

EMI(アビイ・ロード)スタジオで初のスタジオ・セッション

メンバー : ジョン。ポール。ジョージ。ピート・ベスト。

 

ジョンの結婚

ジョンがその時に付き合っていたシンシアが妊娠をし、二人は結婚します。

1962年8月23日結婚。

(1963年4月8日に長男ジュリアン・レノンが誕生しています。)

 

 

4回目のハンブルグ スタークラブ  1962年11/1~14 14日間

マネージャー ブライアン・エプスタインの尽力があり、やっと1962年6月ロンドンのEMIの傘下であるパーロフォンレーベルと契約を交わすことができたビートルズ。

1962年10月5日に、イギリスで初めてのシングルレコード "Love Me Do" "P.S. I Love You" をリリースしました。

パーロフォンレーベルと契約を交わしレコードデビューを果たしたあとのビートルズなので、 4回目のハンブルグは、今までとはまるっきり違ったハンブルグ凱旋公演ですね。

残念ですがピートは行くことはできませんでした。リンゴが新しくメンバーになりました。

ジョンはスチュにこの時のビートルズを見てもらいたかったでしょうねタラー

「アストリット・Kの存在 ービートルズが愛した女ー」 251ページ

 ビートルズのメンバーは、自分たちがステージに立つ間、アストリットのために飲み物や食べ物を注文し「気分はどう? 欲しいものは揃っているの?」と、始終気遣いをみせた。

 中でもジョンはステージに上がる直前、必ずアストリットにこう言った。
「アストリット、きっとここで待っていてくれよ。休憩になったら別の場所に行ってゆっくりと話をしよう」
 誰もジョンの言葉に驚く者はいなかった。むしろ、ジョージやポールは、亡きスチュの恋人の人生に責任を感じ、いたわるようにアストリットを心配しつづけたジョンが、アストリットとふたりきりで会いたいと望むのは当然だ、と思っていた。

 

「アストリット・Kの存在 ービートルズが愛した女ー」 253ページ

「僕は君を初めて見た時ぶっ飛んだ。 あんな場所で憧れのブリジット・バルドーにそっくりな、いや BBよりずっと清楚で知的な君に出会った。今まで出会ったどの女より、素敵で美しいと思ったよ。だけど、信じられなかった。どうして、こんなに綺麗な女が男みたいな恰好をして、ザンクト・パウリなんかにいるんだって」
 ジョンは、両手で頭を抱え笑いながら 「あの頃の僕は、きれいに髪をセットしてハイヒールを履き、男に寄り添って歩く女こそ最高だと思っていた。リヴァプールで僕の周りにいた女はみんなそうだったからね。だから、目の前に、生まれたばかりの赤ん坊みたいに短い髪をして、革のズボンとブーツを履いた君が現れた時は、本当に不気味だったんだ。それに、どうしても理解できなかった。アストリットのように美しければ、男が放っておくはずがないだろう。おとなしく男にかしずいていればすぐに結婚して子供を生んで、幸せな奥さんになれるはずだよ。なのに君は、男に頼って生きる気配なんか微塵も感じさせなかった。真っ黒な服を着てオープンカーを運転していたんだからね」

 

「アストリット・Kの存在 ービートルズが愛した女ー」 256ページ
「母親は僕を育てることができなかった。でも、僕にとっては、世界で一番大切な人だった。それなのに、僕が17歳の夏、ミミの家から少し離れたバス停でバスを待っていた時に非番の警官にひき殺された。それから毎日、心の中で『畜生!』とだけ叫んでいた。そして、あらゆる人や物に当たり散らしたんだ。ポールとシンシア、それにスチュが僕を慰めてくれた。僕の本当の心を理解してくれたんだよ。彼らがそばにいて僕を自暴自棄から救ってくれたんだ」
 悲しい話から一転、ジョンは、スチュと暮らしていたフラットでの、貧しくも楽しかった生活を語りだした。そして、スチュと自分についての「ある噂話」を思い出して、突然吹きだした。
「スチュと僕は成績も、教授からの評価も正反対なのに信じられないほど気が合った。お互いに信頼していたし、一日中一緒にいることも珍しくなかったんだ。よく、ふたりでナンパもしたよ。でも、確か同じフラットに住みはじめた頃だったか、誰かが『あいつらはできてる。絶対にホモだ』って言いだしたんだ」
 アストリットもその話はスチュから聞かされたことがあった。スチュは「僕とジョンが一緒にいると『お似あいだぜ』てよくからかわれた。噂はあっという間に広まって学生の中には、本気で僕たちがホモだって思っている奴がいたんだよ」と笑っていた。

「実は内心、心配になることもあったんだ。僕はホモじゃないよ。だけど、あいつのことが好きで好きでたまらなかった。そばにいたくてしょうがなかったんだ。誰かに取られちまうことが怖かった。 自分が異常なんじゃないか、頭がおかしいんじゃないかと思ったこともあったよ」 

 アストリットは、ジョンの頬に指先で触れていた。
「ジョン、何もおかしいことはないわ。あなたとスチュは深く愛しあっていたのよ、人間としてね」

  瑞々(みずみず)しい愛情を秘めながら、器用に感情をコントロールできない素朴なジョンが、アストリットには愛しかった。ジョンは遠い目をして言った。
「僕はお母さんが死んだ時、人間の心がどうやって痛みを癒すのか、学んだのかもしれない。愛する人が死んでも生きていかなければならないということを。人は過去には戻れないんだ。今を生きるしかないんだよ。僕はスチュが死んだ時、そのことだけを心の中で繰り返していた」
 アストリットは憂愁の色が浮かんだジョンの瞳を見つめた。そしてふたりは、確かに夜を一緒に過ごしていることを幸せに思っていた。

 アストリットとジョンの会話は、次から次へと弾んだ。愛について、セックスについて、ホモセクシァリティについて、ふたりは、男女の間ではタブーになっている話題でも素直に語りあった。

 ジョンは明るく彼女に言った。 

「また、ビールを飲みながら話ができるかな?」 

 アストリットも、彼の申し出を断る理由がなかった。 

「ええ、もちろんよ。また明日スタークラブへ行くわ」

 ふたりはまるで恋人のようにキスをして、明け方の街を後にした。

 

恥ずかしがり屋のジョンが、プレルディンの力を借りて、堰を切ったようにアストリットに自分の胸の内を話しています。

ジョンはシンシアと結婚したばかりですが、親友スチュの恋人アストリットのことを心配する気持ちが好きに変わっていったのではないでしょうか。

 

5回目のハンブルグ

「スタークラブ」 1962年12/18~31 14日間

 

1963年1月に2枚目のシングルを発売"Please Please Me" "Ask Me Why"

1963年3月にはファーストアルバム「Please Please Me」をリリースします。

ハンブルグでの800時間以上のライブを経て、ビートルズの大躍進が始まります

 

6回目のハンブルグは日本での公演の直前、ドイツ公演のひとつでした。

「エルンスト・メルク・ハレ」 1966年6/26

ミュンヘン、エッセン、ハンブルグで2公演ずつ行われたそうです。

 

ウキペディア英語版(www.DeepL.com/Translator(無料版)で翻訳しました)

エルンスト・メルク・ハレはドイツのハンブルクにあった5,600人収容の屋内アリーナで、1950年にオープンし、1986年に取り壊された。ドイツの実業家で政治家のエルンスト・メルクにちなんで命名された。

 

1964年、アストリットはドイツのカメラマンのマックスという人に頼まれてビートルズを紹介し、その助手として映画「A Hard Day's Night 」(邦題 ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!)の撮影に帯同しました。

ジョージは「こっちに来たら僕たちのフラットに泊まって欲しい。でも、カメラマンは駄目だからね。」と言うほど、ビートルズみんながアストリットとの絆がありました。

 

「アストリット・Kの存在 ービートルズが愛した女ー」 小松成美著

「アストリット・Kの存在 ービートルズが愛した女ー」は、アストリットの生涯を、ビートルズの軌跡を交えながら書かれているものです。英語の本を訳したものではなく、日本人の小松成美さんが書いたので文章がとてもきれいです。アストリットの個展を見た小松成美さんが、アストリットに魅せられ彼女に手紙を書きました。インタビューの申し込みでもあったその手紙に、アストリットは断わりの返事をしました。しかし小松成美さんは連絡を取り続けたそうです。そして、150時間にも渡るインタビューが実現し、しかも、アストリットとの通訳をしてくれた古川万里氏に、できあがった原稿をドイツ語に翻訳してもらい、アストリット自身にも読んでもらっているのです。そのインタビューと膨大な資料から、小松成美さんが、「アストリット・Kの存在 ービートルズが愛した女ー」を私たちに残してくれました。

残念ながら、今は絶版ですが、良い値段の中古がありましたら買って読んでみてください。絶版の書物が定価以上に売られていますが、電子書籍になって、本来の値段で私達が読めるようになると良いですね。