福知山市動物園
最近、いなかの動物園が軒並み経営不振に見舞われている中、健闘しているのが福知山動物園です。
京都府北部の福知山市にあります。
「うり坊&みわ」がもたらす経済効果が5.7億円と試算されるなど(うり坊&みわ 参照)、話題が絶えませんね。
さっきも、NHKで特集してました。
園長の話によると、ここの特色は動物とふれあえること。
他の動物園は、全く動物にふれることが出来なかったり、餌付けが出来なかったりと、“見るだけ”の動物園が多いですが、ここは出来る範囲で策を取り除いたり、餌付けを出来るようにしたりと、工夫しているそうです。
驚いたのが、エサをカゴに入れ、カゴをクレーンに乗せてハンドルを回すことで柵の向こうにいる動物に届ける仕組み。
地元の業者さんが設置してくれたそうです。
また、うり坊&みわもそうですが、捨てられた動物などを預かる役割を担っている動物園でもあり、「うり坊&みわ」グッズを地元業者が開発するなど、地域経済にも貢献しています。
ただし、この動物園では、エサの持ち込みは禁止だったりとルールがいくつかあるので、それがしっかり守られてこそ、続けられるんだということは忘れないでおきたいですね。
それにしても、地域おこしのきっかけは本当にいたるところにあるんだと思わせる事例です。
いなかと都会で同じ動物園をやっていては、都会の方に人が集まるのは当然ですから、少し工夫をしてみる。
これが話題を呼んで、まちに人が集まったら好循環ですね。
明るい話題の乏しい北近畿で、この動物園が地域を明るくする起爆剤になればと思いますね。
【福知山市動物園】
9:00~17:00
(ただし入園時間は16:30まで)
■休園日
毎週水曜日
(祝日と重なる場合は翌日)
12月28日~1月1日
おとな:210円
4歳~中学生:100円
■団体割引
30人以上1割引
朝鮮と日本 追憶
朝鮮戦争における学徒兵を描いた映画「戦火の中へ」。
この映画を見てから、同一民族ながら一本の線で分断された朝鮮半島についていろいろと考えています。
そして、新潟県出身だからこそ、“近くて遠い国”北朝鮮のことを思わずにいられません。
拉致問題が、とても身近なところにありました。
私が生まれた新潟県燕市は新潟市と柏崎市のほぼ中間にあり、海岸線から約10kmほど内陸部に入った小さな街です。
新潟市と柏崎市は、北朝鮮による拉致事件が発生した海岸のある街です。
そして、海岸からは同じく拉致事件の発生地である佐渡島がゆったりと横たわっているのが見えます。
柏崎市の被害者の自宅と拉致された海岸、新潟市の被害者が拉致された海岸を、私は知っているのですが、それくらい事件が発生した場所は、私にとって身近な場所なのです。
そして、北朝鮮にとって新潟は、日本国内で最も近い海岸だったわけですね。
●:平壌
●:新潟
新潟から見たら、鹿児島や沖縄くらいの距離に平壌があり、地図を見ていて分かるように、新潟市こそ熱心に議論されている環日本海構想の中心点にあたるわけです。
朝鮮半島から近いということは、裏を返せば戦前・戦中には朝鮮への侵略拠点になっていたのも新潟でした。
2002年、福井の小浜と柏崎と佐渡島の拉致被害者計5人が帰国しました。
飛行機のタラップから彼らが降りてきたシーンは、とても印象的でした。
新潟県内に住んでいると、柏崎と佐渡で拉致の被害に遭われた方が、今どうされているのかといったことがニュース報道や噂話でよく聞こえてきます。
みなさん、改めて新潟で就職され、活躍されているようです。
しかし、いまだに拉致の疑いがあるなか、ずっと北朝鮮からの返事を待っておられる方が日本海側の地域を中心にたくさんおられるのです。
日本政府も、政局で大騒ぎしている場合じゃありません。
そして、半島の事態は全く他人事ではあありません。
彼らの一挙手一投足が北朝鮮をはじめとする諸国にどう影響し、拉致被害者の人生にどう影響するのかを、もっと真剣に、慎重に考えてもらいたいものです。
拉致被害者を救う会の集会に行ったことのある私の母親の話ですが、集会の最後には、出席者全員で童謡の「故郷」を合唱するそうです。
ふるさと日本を思う、拉致被害者の切ない想いを、正面からびしっと受け止めていきたいものです。
ヨンピョン島の事件や、映画「戦火の中へ」を通して、そんなことを思い出していました。
九九の木簡
平城宮跡で、九九を記した木簡が見つかったそうです。
奈良時代に役所があったとされる平城宮跡(奈良市)の東方官衙(かんが)地区で08年に出土した大量の木簡の中から、「二九十八」や「四八卅二」など両面に「九九」を記したものが見つかった。奈良文化財研究所が3日刊行した概報で報告した。同研究所は役人が勉強に使っていたとみている。
木簡は長さ16.3センチ、幅1.5センチ。片面に「■九廿(にじゅう)七 二九十八 一九如九」、もう一方に「五八※(しじゅう) 四八卅(さんじゅう)二 三八廿■」(■部分は欠落)と記されていた。木簡はごみ捨てに使った直径約6メートルの穴から大量に出土。「宝亀」(770~781年)という年号が書かれたものがあり、奈良時代末期に捨てられたとみられる。
「九九」は中国の春秋時代(紀元前770年~同403年)に生まれ、平安時代中期の970年に書かれた貴族の子弟用の教科書「口遊(くちずさみ)」に登場する。木簡は、兵庫県豊岡市の祢布ケ森遺跡で出土した9世紀初頭のものなど、全国で約30例見つかっているという。
奈文研の渡辺晃宏・史料研究室長は「あまり上手な字ではなく、下級の役人が一生懸命、掛け算の勉強をしていたのだろう。周辺では、高位高官の名をきれいな楷書で記した木簡と、下手な字が並んだ木簡が混在して出ており、とても興味深い」と話している。【山成孝治】
(毎日JP:http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20101203-00000136-mai-soci
)
大陸から凄まじい勢いで、あらゆる文化や技術が流入してきた時代、何も知らない古代の日本人がそれについて行こうとして一生懸命になっている姿が想像できますね。


