【四国犬の古典鑑賞】
現在の日本犬中型 四国犬に影響を与えた犬
33:陸奥号(記憶編3)
陸奥は当家に来た時には、とても大人しかったです。初めて山本氏のところで見た、あの神経質で荒々しい様子とは随分違うと感じました。このように性格が変化したのは、多くの人に手掛けられたためでしょう。
伊予三島町に来てから、高津氏が良い管理をしていたので毛の傷みも少なく、状態は良くなっていました。すぐにリードも付けさせてくれて、散歩にも問題なく連れて行くことができました。
私は、日々陸奥と接していくことで、この犬の良さが分かってきました。
陸奥は当時としてはかなり大きな犬でした。全てが大振り、目も鼻も耳も大きく四肢も伸びやか。特に印象に残っているのは、近くで見ると目が大きくつぶらに感じるのに、少し離れると、目頭、目尻が鋭く引けて目に力があることです。私は、陸奥がキラキラしたその目で静かにこちらを見る様子を、宝塚歌劇の男役が立っているようだと思いました。子供ながらにその佇まいに惹かれ、こんな「凄い犬」を預かることができているんだと嬉しくなって、私は父に代わって一生懸命世話をしたのです。
ただし、陸奥は犬同士の喧嘩となるとめっぽう強かったのも特筆すべき点です。普段のもの静かな様子は、彼が処世術として感情を内に秘めるようにしていたからではないでしょうか。
昭和26年の初夏、陸奥は当家からまた高津氏の元に移されました。その後は、高津氏が管理していましたが、約束の1年が経っても、山本氏はお金を返しに来ませんでした。そこで、父がこの犬の本来の持ち主である古城先生に、
「陸奥はこのままだと伊予三島町のグループのものになりますが、この犬の扱いをどうすればよいでしょうか。」
というお尋ねの手紙を、内容証明を付けて送りました。
後に日本犬愛好家の綾田清次郎氏に伺ったところによると、古城先生はその手紙を見て、綾田氏に相談しに来られたとのことでした。綾田氏は香川にお住まいで、以前から陸奥をよく知っており、陸奥が今どのような境遇にあるかということもご存じでしたので、この犬の価値を鑑みて、是非引き取るべきだと進言しました。そこで、古城先生は借金の肩代わりをして陸奥を引き取ったということです。
素晴らしい血筋を持った名犬ゆえに、人間の様々な思惑に翻弄された陸奥号。彼は晩年になってようやく作出者の古城先生の元に帰り、生涯先生と穏やかに暮らしました。
長春系四国犬の有名犬「定太号」(中8299 参考記事1 参考記事2)は、古城先生が昭和28年に陸奥号と長美女号(中3598)を交配し、作出された犬です。
陸奥号の資質を引き継ぎ、後世に伝えた定太号。二代目写す。
この時の尾は、毛を噛んでいたため傷んでいる。
記憶編は以上です。次回から表現についてお話いたします。(be-so)
沢山閲覧していただいてありがとうございます。
月末にかけて、記事を書くペースが少し落ちると思います。ごめんなさい。
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