今回のゴロ合わせは、秀吉の朝鮮出兵と、五奉行、五大老です

では、いきましょう

 

 

天下を統一した秀吉。

秀吉は思います

「ついに国内を統一した。次は海外を征服しよう」

秀吉の目は明に向けられていました

「まずは朝鮮よ。朝鮮を日本に従わせよう」

秀吉は対馬の宗氏を通じて、朝鮮に帰属させようとしていました

しかし、朝鮮は、そのたびに日本への帰属を拒否し続けてきました。

朝鮮の使者に秀吉は言います

 

秀吉:「これから明を征服するから、朝鮮は日本の子分となって、明までの案内をするように」

朝鮮の使者:「とんでもない。朝鮮と明国は友好国です。明国を亡ぼす手伝いなど、とうていできません」

秀吉:「なんじゃと!?では、まずは朝鮮から片づけてやるわ。朝鮮に出兵じゃ」

 

 

秀吉は肥前に名護屋城を築き、朝鮮出兵の本拠地としました。

この名護屋城から朝鮮に兵士を送り出そうというのです。

そして2回にわたる朝鮮出兵が始まります

「加藤清正、小西行長。お前らを大将にする。任せたぞ」

「はっ。お任せください」

小西行長、加藤清正らは、釜山に上陸するや、あっというまに漢城(ソウル)、平壌を占領し、豆満江(朝鮮と中国の国境沿い)まで進軍しました

はじめは連戦連勝の快進撃を続けが秀吉軍でしたが・・・。

朝鮮水軍の将軍、李舜臣の巧みな戦術によって、日本水軍は大打撃を受けました。

李舜臣は「亀甲船」という戦闘用の船を考え出していました。

漕ぎ手の上に屋根をかぶせ、船主に竜首をもうけ、そこから火砲を発射できるようにした船です。

李舜臣によって、日本軍は敗れ、食料や武器の補給路が断たれてしまいました

さらに、明軍の応援、朝鮮民衆による義勇兵の反抗もあり、日本軍は苦戦を強いられます

「この戦はいつまで続くんだ?」

「海も陸も補給がたたれて、食う飯もない。弾丸もない」

秀吉の軍には厭戦気分が広がっていきました

 

「しかたがない。和平交渉をしよう」

ついに秀吉も交渉に動きました。

交渉担当の日本側は小西行長、明側はしんいけいです

1596年?明の使者、しんいけいが国書?外交文書?を持って来日しました

「なんじを日本国王に任命する。講和の条件は、すべての城を手放して、兵をひきあげること」

読み上げられた国書?外交文書?を聞いた秀吉は怒り狂いました。

「このわしに領地を手放せと。ふざけるな!再び、朝鮮に出兵じゃ」

和平交渉は決裂しました

この2度目の朝鮮出兵が慶長の役です

日本の武士は手柄を立てた証に首を取る習慣があったのですが、首ではかさばるので、朝鮮人の耳や鼻を削いで証にしたということです。

朝鮮の民衆は日本人を恐れ憎みました

朝鮮軍の反撃や、民衆の強い反抗により、日本軍は、ついに朝鮮を攻め落とすことができませんでした。

すでに高齢で、体の弱くなっていた秀吉は、この失敗に気落ちしたのか、床に臥せるようになりました

「自分が今、死んでしまえば、残された我が子、秀頼はどうなるのだろう」

秀吉は涙を流し、五大老にくれぐれも秀頼を頼むと遺言を残して亡くなりました

遺言には、こうありました。

「くれぐれも秀頼のことをお頼みします。五人のしゅ(衆)よ、お頼みします、お頼みします。くわしいことは五人の者に申し渡しました」と。

後に遺す秀頼のことがよほど気にかかったのでしょう。

あれだけ傲慢だった秀吉の最期の、なんと哀れなことでしょう

「五人のしゅ」とは五大老のことです。徳川家康を筆頭に、前田利家、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家です

「五人の者」とは、五奉行です。石田三成、前田玄以、浅野長政、増田長盛、長束正家が五奉行になります

秀吉の死によって、ついに朝鮮出兵は終わりました。

 

ちなみに、文禄・慶長の役では、捕虜としてとらえられた朝鮮人が日本へと連れてこられました。陶器をつくる職人も多く連れてこられ、これによって、薩摩焼(鹿児島)、有田焼(佐賀県)、萩焼(山口県)などが始められました

 

 

この後、五大老の徳川家康と、五奉行の石田三成で、天下分け目の戦いと言われる関ケ原の戦いが行われ、勝った家康が江戸幕府を開くことになります

 

 

※ここで語呂合わせ紹介

※文章、もう少し推敲

労働組合、行く仕事(1945 労働組合法)

ひどく汚れた農地を改革(1945 農地改革)

行くよ、GO!GO!五大改革(GHQ。五大改革指令を出す)

ひどく喜ぶ新憲法(1946年 日本国憲法公布)

もちろん行くよな?学校教育。(1947年。学校教育法と、教育基本法公布)

9原則。ひどく弱った経済に(1948年 経済安定九原則)

インフレが、ひどく良くなるドッジライン(1949年 ドッジラインでインフレ収束)

湯川さん。幾夜苦しみノーベル賞(1949年。湯川秀樹さんノーベル賞を受賞)

行く号令で。朝鮮へ(195年。朝鮮戦争)

吉田さん。サンフランシスコでひどく強引(1951年 サンフランシスコ平和条約)

ひどくご都合、行政協定(1952年 日米行政協定)

テレビ行くゴミ人間(1953年。テレビ放送の開始)

イク腰つきの自衛隊(1954年。自衛隊発足)

行く、ここからの55年。(1955年。自由民主党結成。55年体制)

神さまも、行くぜゴーゴー!神武景気(神武景気 1955)

(1956年。経済白書「もはや戦後ではない」)

日ソで共同、いくころだ(1956年。日ソ共同宣言)

日本も国連行く頃だ(1956年。国際連合加盟)

1958年。岩戸景気

新安保。デモに行く群れ(1960年日。米新安保条約調印)

(1961年。農業基本法)

ひと苦労した、おいしいで(1964 OECD加盟)

一苦労した東京五輪(1964 東京オリンピック)

1965年。日韓基本条約(一苦労後の日韓基本条約)

公害対策。一苦労なり(1967 公害対策基本法)

GNP2位。ひと苦労やで(1968年。GNPが資本主義国で2位になる)

大阪万博行くなんて(1970年。大阪万博)

ニクソンショック。酷くない?(1971 ニクソンショック)

得な日中共同声明(1972 日中共同声明)

沖縄が復帰へ行く夏(1972年。沖縄返還)

変動行く波。相場制(1973年。変動相場制へ移行)

第四次中東。行く涙(1973 第四次中東戦争)
いく難こえてサミット出席(1975年。サミット出席)

ロッキード行く、南無阿弥陀仏(1976年。ロッキード事件)

日中でひどく悩んだ友好条約(1978年。日中平和友好条約)
プラザ合意に、行くわ。五カ国(1985年。五カ国でプラザ合意)
いくや、苦難の消費税(1989年。消費税導入)

幾泊もしてマルタで会談(1989年。マルタ会談)

湾岸戦争。ひどく悔いてる。ワンワン泣いた(1991湾岸戦争)

自衛隊。行く、国を出て(1992 PKO協力法成立。自衛隊、カンボジアへ)

細川護熙ひどく臭い(1993 細川内閣成立)

京都で止めよ。ひどく急な温暖化(1997 京都議定書採択)

 

 

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どうぞよろしくお願いいたします

 

 

 

~年代語呂合わせ 古代から~

 

後漢から、こんな金印もらったよ(57年。倭の奴国王、後漢より金印もらう)

 

いい女との性交推奨<107年。倭国王帥升(すいしょう)ら生口(=奴隷)を後漢に送る>

 

いつ文来る?と卑弥呼待つ(239年、卑弥呼。義に遣いを送る)

 

作為ばかりの好太王碑(好太王の碑文より。391年、ヤマト政権が高句麗と戦ったとあり)

 

死なば、ぶっそう。武が宋へ(478年。倭王武が宋へ使いを送る)

 

こいつです!百済に伽耶(かや)をやったのは(512年。大友金村が百済に伽耶を割譲)

 

いつになるやら、磐井の乱(527年。磐井の乱)

 

仏の前にゴミは無し(538年。仏教伝来)

 

太子の摂政、ごく見事(593年。厩戸王・聖徳太子が摂政になる)

 

冠位ほしがる亡者の群れさ(603年。冠位十二階制定)

 

群れ寄る民に17条(604年憲法十七条制定)


群れ成していく遣隋使(607年。遣隋使派遣)

 

無惨。ロミオの遣唐使(630年。遣唐使派遣。犬上御田鍬ら)

 

蘇我蒸し殺せ、大化の改新(645年。大化の改新)

 

白村江。無論見事に負けました(663年。白村江の戦い)

 

ロックなんだよ、庚午年籍(670年。庚午年籍)

 

壬申の乱。無難に買った大海人皇子(672年。壬申の乱)

 

牢屋で苦しめ、飛鳥浄御原令(689年。飛鳥浄御原令施行)

 

藤原遷都し、お祝いロックよ(694年。藤原京遷都)

 

ナレイション。「大宝律令できました」(701年。大宝律令)

 

なれば和同開珎を(708年和同開珎)

 

なんと見事な平城京(710年平城京遷都)

 

乞食が古事記をナイフで編纂(712年。古事記の編纂)

 

養老と違いはないわ、大宝律令。(718年。養老律令)

 

神代から何人出てきた?日本書紀(720年。日本書紀)

 

何さ、三世一身の法(723年。三世一身の法)

 

何喰ってんだか、長屋の王(729年。長屋王の変)

 

なあ、死んだのか?藤原広嗣(740年。藤原広嗣の乱)

 

国分寺。なーよいではないか。よいではないか(741年。国分寺建立の詔)

 

制限なしさ、墾田永年私財の法(743年。墾田永年私財の法)

 

おなごに会わせて!大仏さん(752年。東大寺、大仏開眼供養)

 

泣こうな、泣こうな。奈良麻呂さん。(757年。橘奈良麻呂の変)

 

なあ、無視していいよ。押勝なんて(764年、恵美押勝の乱)

 

南無。無上のペニスで道鏡法皇(766年。道鏡、法皇就任)

 

長岡京のナンパ師桓武(784年。桓武天皇が長岡京へ遷都)

 

郡司の子、泣くに泣けない。健児に(792年。桓武天皇は健児採用)

 

泣くよウグイス。平安京。(794年、平安京遷都)

 

せいいっぱい、泣くな、がんばれ!田村麻呂(797年。坂上田村麻呂、征夷大将軍になる)

 

田村麻呂。晴れに築いた胆沢城(802年。坂上田村麻呂、胆沢城設置)

 

パイ大きいね。薬子さん(810年。薬子の変)

 

やっとなれたよ。蔵人頭(くろうどのとう)(810年。藤原冬嗣。蔵人頭に)

 

嵯峨が犯人。弘仁格式(820年。嵯峨天皇の時に弘仁格式できる)

 

綜芸種智院。犯人は空海(820年。空海が綜芸種智院をつくる)

 

箸にもかからぬ承和の変(842年承和の変)

 

良房曰く「摂政なったら、パコパコするぜ」(858年。良房、摂政に)

 

野郎、ムカつく。応天門(866年。応天門の変)

 

「パパなるよ」。関白、基経(887年。藤原基経、関白になる)

 

道真が白紙に戻す遣唐使。(894年。遣唐使廃止)

 

暮れに延喜の荘園整理(902年。延喜の荘園整理令)

 

暮れ後にできた古今和歌集(905年。古今和歌集)

 

暮れなずむ町で、唐滅亡(907年。唐滅亡)

 

武士、組み込んだ平将門(935年。平将門の乱・・・新皇を称した939年を取る説もあり)

 

高明(たかあきら)。黒雲ただよう安和の変(969年。安和の変)

 

クワは横置き、百姓蜂起(988年。尾張国百姓等下文)

 

遠い昔の摂政、道長(1016年。藤原道長、摂政になる)

 

遠い国から刀伊の入寇(1019年。刀伊の入寇)

 

10人は殺れ。平忠常(1028年。平忠常の乱)

 

とうに合意で前戯9年(1051年。前九年の役)

 

記録所で荘園登録(1069年。延久の荘園整理令)

 

雁の群れ。入れ歯見つけた後三年(1083年。後三年の役)

 

いい虹色の金色堂(1124年。中尊寺金色堂完成)

大正から

中華民国。得意になって建国す(1912 孫文、中華民国建国)

行く人に友愛押し付け。友愛会(1912 友愛会)

行く人に、護憲運動押し付けて(1912 第一次護憲運動)

Gメンなるのが一休の意思(1914 ジーメンス事件)

要求の一句一語に中国怒り(1915 21か条の要求)

行く意思固める、第一次大戦(1914 第一次大戦)

得意な顔のランシング(1917 石井ランシング協定)

革命で、酷くいななくロシア皇帝(1917 ロシア革命)

米の値上がり、ひどく嫌(1918 米騒動)

イク、イヤよ。腹立つけれど(1918 原内閣できる)

ベルサイユ。イクイク。ミイの腰つきよ(1919 ベルサイユ条約。三一独立運動、五四運動)

幾人も成立喜ぶ・国際連盟(1920 国際連盟)

イク。20歳の新婦人(1920 新婦人協会)

ひどく辛れーの、戦後恐慌(1920 戦後恐慌)

ワシントン。いくついるんだ?戦艦は(1921ワシントン会議)

いくつ積まれた?共産党(1922 日本共産党結成)

ソビエトで、ひと国になる(1922 ソ連成立)

大震災。すべてを失い行く兄さん(1923 関東大震災)

さあ行く、第二次護憲運動(1924 第二次護憲運動)

行く、25歳で投票へ(1925 普通選挙法制定)

ラジオを聞いてひどくにっこり(1925 ラジオ放送開始)

幾人泣いた?金融恐慌(1927金融恐慌、山東出兵)

サイコパス行く庭の方(三一五事件。1928)

1928不戦条約

ひどく憎いぜ、大恐慌(1929 世界恐慌)

金玉解禁。一休さん(1930金解禁)

ロンドンで戦を止めよ!(1930 ロンドン海軍軍縮条約)

戦、いよいよ満州で(1931 満州事変)

戦につながる五・一五(1932 五・一五事件)

一休さんに饅頭つくる(1932 満州国建国)

連盟でて行く、散々だ(1933 国際連盟脱退)

ひどく見事な機関説(1935 天皇機関説)

226日は酷くさむい(1936 二二六事件)

イク。みんなでイクの。盧溝橋。(1937 盧溝橋事件)

戦長引く、日中戦争(1937 日中戦争)

戦やるなら総動員で(1938国家総動員法)

戦や。東亜新秩序(1938東亜新秩序)

戦苦しいノモンハン(1939 ノモンハン事件

戦苦しい徴用令(1939 国民徴用令

戦苦しい第二次大戦(1939 第二次世界大戦

日独伊の美女。イクヨー、イクヨー(1940 三国同盟)

行くよお!大政翼賛会(1940 大政翼賛会結成)

日ソ中立。いく用意(1941 日ソ中立条約)

行くよ、一飛び太平洋(1941 太平洋戦争)

ミッドウェー行く。死にに行く(1942)

労働組合、行く仕事(1945 労働組合法)

ひどく汚れた農地を改革(1945 農地改革)

幾夜無理して憲法公布(1946 日本国憲法公布)

もちろん行くよな?教育が基本。(1947 教育基本法)

9原則。ひどく弱った経済に(1948 経済安定九原則)

行くよ、救援。納豆たべて(1949 NATO発足)

湯川さん。幾夜苦しみノーベル賞(1949 湯川秀樹ノーベル賞受賞)

インフレがひどく良くなるドッジライン(1949 ドッジラインでインフレ収束)

行く号令で。朝鮮へ(1950 朝鮮戦争)

吉田さん。サンフランシスコでひどく強引(1951 サンフランシスコ平和条約)

ひどくご都合、行政協定(1952 日米行政協定)

テレビ局行く、ゴミ人間。(1953 テレビ放送はじまる)

イク腰づかいの自衛隊(1954 自衛隊発足)

神さまも、行くぜゴーゴー!神武景気(神武景気 1955)

日ソ共同。行く頃だ(1956 日ソ共同宣言)

イク、ゴムつけて。国連へ(1956 国際連合加盟)

新安保。国会前で、ひどく群れてる(1960 新安保条約調印)

ひと苦労した。「これ美味しいで」(1964 OECD加盟)

一苦労した東京五輪(1964 東京オリンピック)

日韓が一苦労後に基本条約(1965 日韓基本条約)

公害対策。一苦労なり(1967 公害対策基本法)

GNPひと苦労やが、2位になる(1968 日本のGNP2位になる)

ニクソンショック。酷くない?(1971 ニクソンショック)

得な日中共同声明(1972 日中共同声明)

第四次中東。行く涙(1973 第四次中東戦争)

ひどく波受け変動制へ(1973 変動為替相場制へ移行)

日中で、ひと苦難やで。平和条約(1978 日中平和友好条約)

湾岸戦争。ひどく悔いてる。ワンワン泣いた(1991湾岸戦争)

自衛隊行く、国を出て(1992 PKO協力法成立。自衛隊、カンボジアへ)

細川護熙ひどく臭い(1993 細川内閣成立)

京都行く。急な温暖止めるため(1997 京都議定書採択)

保元の乱。いいゴムつけて人々殺せ(1156 保元の乱)

平治の乱。源氏の人びと号泣させろ(1159 平治の乱)

清盛のいい胸毛ならダイジョブだ。(1167 平清盛、太政大臣になる)

壇ノ浦。平氏の人々、歯ごたえねえぜ(1185 壇ノ浦の戦い)

守護と地頭に人々反抗(1185 守護・地頭おく)

いい箱つくろう、鎌倉幕府(1185 鎌倉幕府成立。今は1192ではないようです)

藤原の人々焼くんだ!奥州で!(1189 奥州藤原氏滅ぶ)

晴れた日に、ふいにおこった承久の乱(1221 承久の乱

SM嬢。一日3人、御成敗。(1232 北条泰時。御成敗式目)

元(げん)の人々、悲痛な死(1274 文永の役)

皮肉な結末。徳政令(1297 徳政令)

弘安は、人には言えない負け戦(1281 弘安の役元軍、逃げ帰る)

北条の人散々さ。幕府滅亡(1333 鎌倉幕府滅亡)

いざ見よ、建武の新政を(1334 建武の新政)

室町幕府で、人、散々や(1338 足利尊氏。室町幕府をひらく)

いざこれからが官能擾乱(1350 観応の擾乱)

いざ国まとまる南北朝(1392 南北朝統一)

いざ、急な出費だ。金閣寺(1397 金閣寺)

ダイエット。小腸の意思には勝てぬ(1428 正長の土一揆)

人の世むなし、応仁の乱(1467 応仁の乱)

意志薄弱でも銀閣たてた(1489 銀閣寺)

以後予算でそうよ。鉄砲伝来(1543 鉄砲伝来)

以後よく広まるキリスト教(1549 キリスト教伝来

イチコロ、お陀仏。桶狭間(1560 桶狭間の戦い

信長が京都に来たらイチコロや(1568 信長、京都に入る)

以後涙がお似合い、義昭さん(1573 室町幕府ほろぶ)

流しの中でイッコーと泣こう(1575 長篠合戦)

安土城でイチゴナムルを(1576 安土城築く)

イチゴパンツの本能寺(1582 本能寺の変)

少年もイチゴパンツでローマ入り(1582 天正遣欧使節)

秀吉もイチゴパンツで太閤検地(1582 太閤検地)

以後破産した、柴田勝家(1583 賤ケ岳の戦い)

イチゴっ鼻のバテレン追いだせ(1587 バテレン追放令)

以後は刃物を禁止する(1588 刀狩り)

秀吉さん、天下餅を一個くれ(1590 秀吉全国統一)

秀吉がイチゴの国へ。朝鮮へ(1592 秀吉、朝鮮出兵・・・文禄の役)

以後、苦難苦難の慶長の役(1597 慶長の役)

関ケ原。イチローおおいに活躍し(1600 関ケ原)

イチローさんも幕府を開く(1603 家康。征夷大将軍となり江戸幕府ひらく)

広い御殿で武家諸法度を(1615 武家諸法度)

イチロー、行こう。夏の陣(1615 大阪夏の陣)

いろいろ見事な参勤交代(1635 参勤交代)

疲労みなぎる島原の乱(1637 島原の乱)

ポルトガル船。広く柵して追いかえせ!(1639 ポルトガル船の来航禁止)

田畑売りたい人無視さ(1643 田畑永代売買の禁令)

広くよく聞け、お触書。(1649 慶安の御触書)

イチローはこんなに犬好き(1685 生類憐みの令)

釈さんが、16歳でシックスナイン(1669 シャクシャインの乱)

白石さん。批難多くて、ごめんなさい(1709 新井白石。正徳の治)

批難、ナニそれ?意次さん(1772 田沼意次、老中に)

批難いろいろ享保の改革(1716年 享保の改革)

解体新書に批難無し(1774 解体新書)

批難の花咲く、寛政の改革(1787 松平定信。寛政の改革)

一難、国へ。ラクスマン(1792 ラクスマン、根室へ来航)

「異国船?いや、にっこり笑って打ち払え」(1825 異国船打ち払い令)

イヤ、散々だ、天保飢饉(1833 天保の飢饉)

アヘンをやった人はヨレヨレ(1840 アヘン戦争)

いやよい。あっぱれ。天保の改革(1841 天保の改革)

人は皆、心で応援。大塩の乱(1837 大塩平八郎の乱)

「いや、ゴミ人間め」ペリー言う。(1853 ペリー来航)

一夜越し、頭の痛い和親条約(1854 日米和親条約)
いや、怖い。通商条約(1858 日米修好通商条約)

いや、怖い。井伊さんも(1858 安政の大獄

桜田門。井伊を殺せと人は群れ(1860 桜田門外の変)

いや無惨。人は無惨に薩英戦争(1863 薩英戦争)

艦隊に逆らう人は蒸し殺せ(1864 四国艦隊下関砲撃)

一夜。ろくろく寝ないで薩長連合(1866 薩長連合)

一夜、虚しく大政奉還(1867 大政奉還)

1つやろうや、御誓文(1868 五か条の御誓文)

戊辰戦争。幕府の人は牢屋に入れろ(1868

天皇に人は向くなり版籍奉還(1869 版籍奉還)

廃藩置県。武士で迷わぬ人はない(1871 廃藩置県)

イヤ、何があろうと学生ですから(1872 学制)

人は涙の徴兵令(1873 徴兵令)

イヤな3%。地租改正(1873 地租改正正

嫌な世だから建白書(1874 板垣、民選議院設立建白書だす)

嫌なロックで日朝修好(1876 日朝修好条規)

いや、なんなく勝てぬ、西南戦争(1877 西南戦争)

沖縄の人は泣く泣く琉球処分(沖縄県、設置される)

「イヤ、はい。国会つくりましょう」(1881 国会開設の勅諭)

「イヤ、ハイ。イヤ、ハイ。自由党」(1881 板垣退助、自由党つくる)

いや、歯ごたえのない伊藤内閣(1885 内閣できる)

いち早く憲法作った伊藤博文。(1889 大日本帝国憲法発布)

教育勅語。うざい説教、一夜暮れ(1890 教育勅語)

帝国議会、議論ばかりで一夜暮れ(1890 第一回帝国議会)

不平等。一つ白紙に(1894 領事裁判権の撤廃)

一躍清へ、日清戦争(1894 日清戦争)

一拍後。三国干渉(1895 三国干渉)

義和団一派くくりつけ(1899 義和団の乱)

八幡では、日暮れ1人で高炉を灯す(1901八幡製鉄所創業)

日暮れに結んだ日英同盟(1902 日英同盟)

日暮れ死んじゃう日露戦争(1904 日露戦争)

日暮れ後にポーツマス(1905 ポーツマス条約)

幾十年、韓国悩ます韓国併合(1910 韓国併合)

低い位置。改正しましょう、不平等。(1911 不平等条約改正される)

イク、イイ。イク、イイ。心外だけど(1911 辛亥革命)
中華民国。得意になって建国す(1912 孫文、中華民国建国)

行く意思固める、第一次大戦(1914 第一次大戦)

米の値上がり、ひどく嫌(1918 米騒動)

イク、イヤよ。腹立つけれど(1918 原内閣できる)

イクイクイクの!二十歳(はたち)連盟(1920 国際連盟)

さあ行く、第二次護憲運動(1924 第二次護憲運動)

大震災。すべてを失い行く兄さん(1923 関東大震災)

行く、25歳で投票へ(1925 普通選挙法制定)

ひどく憎いぜ、大恐慌(1929 世界恐慌)

ロンドンで戦を止めよ!(1930 ロンドン海軍軍縮条約)

戦、いよいよ満州で(1931 満州事変)

一休さんに饅頭つくる(1932 満州国建国)

連盟でて行く、散々だ(1933 国際連盟脱退)

226日は酷くさむい(1936 二二六事件)

イク。みんなでイクの。盧溝橋。(1937 盧溝橋事件)

 

youtube。全然伸びていかないから、年号の語呂合わせ作ってみました。

本当は、年号はありきたりだし、すでにいくらでもあるし、作ってもつまらないと思ったけど、とりあえず今度これで投稿してみようと思います。

応仁の乱とか、鉄砲やキリスト教の伝来とか、あまりにも有名なヤツは、そのまま抜粋してありますけどね。

もし反響あったら、今後も作ってみますけど。

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太閤検地

「太閤の閤は合格の合」

合格めざして、がんばりましょうね

 

 

 

明智光秀を倒し、信長の仇をとったことで、まるで天下人のようになった秀吉。

秀吉は新しい検地を考えました。

検地というのは、どの土地では、どれだけの米がとれるか、だれがそこを耕しているのかということを調べることです。

秀吉は検地奉行を派遣して、徹底的な調査を行いました。

 

秀吉は言います

秀吉「これまでの検地は、この土地では、これだけの米がとれますよと領主に申告させるものだった。しかし、それでは正確な面積や収穫高も分からないし、ごまかされても分からん。だから、わしは、きっちり土地を測ってごまかされない検地をするんじゃ」

「さすが秀吉さま。では、どうされるおつもりですか?」

「わしは検地帳というものを作ろうと思う」

「検地帳ですか?」

「さよう。検地帳には、どの村ではどれだけの米がとれるか、この土地は誰が耕しており、どういう田畑かもすべて記すのじゃ」

「年貢はだれが納めるのですか?」

「その土地を耕している農民だ。わしが農民から直接、年貢をもらう。だから、農民から取り立てをする役人は今後いらなくなる」

「では、地頭や領主も?」

「さよう。今後は土地を耕している農民が直接わしに年貢を納めるのじゃ。地頭?領主?名主?そんなものはもう必要ない。これまでは1つの土地にたくさんの権利が重なり合っておったが、すべて整理するのじゃ。1つの土地(区画)には、1人の作人。それだけじゃ。一地一作人の原則じゃ」

「では、これまで続いてきた荘園制は?」

「もちろん、崩れるであろうな」

「しかし、農民や領主など反対する者も出ましょうに」

「もちろん、いるであろう。だが、わしは断固として検地を実行する。もし反対する者あらば、城主ならば城に押し込め、一人残らずなで斬りにさせる。百姓もことごとくなで斬りにしてくれるわ」

「おそるべき決意でござりまするな」

「しかし、同じ面積でも豊かで米のとれる土地、やせて米のとれない土地もあるでしょう。そこはどうされるおつもりで?」

「うむ。土地をランク付けするつもりじゃ。上、中、下、下々の4ランクだ。もちろん豊かな土地が上田、最下級の田が下々田だ

まずは、役人を直接田畑に送って、田畑の面積をしらべさせよう。だが、その前に、まず長さの単位をしっかり決めねばならん」

「ですなあ。今は1尺の長さも国によってバラバラでござりますからなあ」

「そう。だからこそ、長さの単位を統一するのじゃ。そして6尺3寸で1間とするのじゃ」

秀吉は、今現在の私たちが、どこに行っても100㎝は1mであるように、6尺3寸を1間と定めたのでした

「よし、検地奉行を全国に派遣し、土地を測らせよ。6尺3寸・・・つまり1間の検地竿で土地の広さを測らせるのじゃ。

次は面積じゃ。6尺3寸四方・・・つまり1間四方の面積を1歩としよう」

秀吉は1間×1間の面積を1歩としました。

1歩は、畳2畳ほどの広さです。

 

語呂合わせ。

「1件1件、1歩ずつ」

1件→1間

1件→1間

1歩→1歩

ということで。

1間×1間の面積が1歩です

※ちなみに1間は6尺3寸ですよ

 

 

ちなみに、これが「300歩」・・・テニスコート4面分くらいになると、1段という単位になります。300歩が1段です

後で他のものといっしょに語呂合わせますね

また、秀吉はさらに言います

「枡も全国各地で大きさがちがう。だから京で使っている京桝で統一することにいたそう」そうして、枡も全国で統一しました

 

 

こうした検地によって、秀吉は全国のどこでどれだけの米がとれるのか、はっきり分かるようになりました。

 

 

 

 

 

米の取れ高

「この土地では1段あたりこれだけの米がとれます」というのが、石盛です。

今風に言えば、テニスコート4面分でとれる米が石盛です

そして、1国でこれだけの米が取れます、というのが石高です

加賀100万石、真田10万石なんていいますよね。

これは、加賀の国では100万石のお米が取れますよ、真田家では10万石のお米がとれますよ、っていうことですね

この石高に応じて、各大名は、それに見合った軍役を負うことになり、農民も石高に見合った年貢を納めることになったのです

 

 

 

 

他、補足事項です

面積の単位

面積の単位は、これまでの時代と変わらず「町・段・畝・歩」です。語呂合わせは「長短セーブ(町段畝歩)」。

1町=10段

1段=10畝

1畝=30歩です

語呂合わせ

「1丁の銃弾(1町=10段)

「また一段と重税が(一段=10畝)」

「依然30歩(1畝=30歩)」

1畝=30歩の語呂合わせがイマイチですね。もし良い語呂合わせ考え付いた方おりましたら、コメント欄に書いてくださいね。ハンドル名も紹介のうえ、いつか使わせてもらうかもしれませんけど。

 

 

体積の単位

体積の単位は石・斗・升・合です。

これはリズムがいいので「コクトショーゴー」とリズムで覚えてしまっていいと思います。

1石=10斗、1斗=10升、1升=10合です

もし順番が石・斗・合・升だったら「北斗剛掌波」としたかったんですけど、残念ながら石・斗・升・合なので「コクトショーゴー」で覚えてください

 

他、諸々を入れた語呂合わせです

「今日、県庁がいちいち勧告。いったん300」

今日→京桝

県庁→検地帳

いちいち→一地一作人の原則

勧→貫高制

告→石高制

いったん→1段あたり

300→300歩

太閤検地で、枡を統一した枡が京桝です。検地帳。

太閤検地によってこれまでの貫高制から石高制になりました。一段を300歩としました。

PS 各大名に検地帳の他に提出させたものが、「国絵図」です。国絵図とは、大名に出させた国の絵図です

 

 

~今日の語呂合わせ~

 

「6尺3寸。1件1件一歩ずつ」

ということで。

6尺3寸が1間。

1間×1間の面積が1歩です

 

 

 

 

 

面積の単位

「長短セーブ(町・段・畝・歩)」

「1丁の銃弾(1町=10段)

「また一段と重税が(一段=10畝)」

「依然30歩(1畝=30歩)」

 

 

体積の単位

体積の単位は石・斗・升・合です。

「コクトショーゴー」

 

「今日、県庁がいちいち勧告。いったん300」

今日→京桝

県庁→検地帳

いちいち→一地一作人の原則

勧→貫高制

告→石高制

いったん→1段あたり

300→300歩

 

※太閤検地によって貫高制から石高制に改められました。それで太閤検地を「天正の石直し」といいます

貫高制というのは、土地の面積に対してかけた年貢のことです。お金に換算して税を納めることになっていました。

「この面積の田畑だったら、お金にして、これだけの銭を納めてください」というもの。取れ高とか関係なく、この面積だったら「いくらいくらで」といった感じで。

石高制というのは、「この土地は肥沃だからたくさん米が取れますよね。だからこれだけの

年貢を納めてください。」

「こちらの土地は痩せているから、あまり年貢はとれませんよね。ですから、これだけの年貢を納めてください」

といったものです。つまり土地の生産高に税金をかけたんですね、

太閤検地によって、これまでの貫高制から石高制へと変わっていきました

 

終り

太閤検地

「太閤の閤は合格の合」

太閤とは前関白(さきのかんぱく)、前太政大臣(さきの太政大臣)

 

 

明智光秀を倒し、信長の仇をとったことで、まるで天下人のようになった秀吉。

秀吉は新しい検地を考えました。

検地というのは、どの土地では、どれだけの米がとれるか、だれがそこを耕しているのかということを調べることです。

秀吉は検地奉行を派遣して、徹底的な調査を行いました。

 

秀吉は言います

「これまでの検地は、この土地では、これだけの米がとれますよと領主に申告させるものだった。しかし、それでは正確な面積や収穫高も分からないし、ごまかされても分からん。だから、わしは、きっちりと測ってごまかされない検地をするんじゃ」

さらに秀吉はいいます

「これまで全国でバラバラだったモノを測る単位や道具も統一しよう」

こうしたモノを測る単位や、道具のことを度量衡といいます←この文は後の方がいいかも。

「まずは田畑の広さをきちんと測るために、長さの単位を、しっかり決めねばならん。

今、長さの単位は尺をつかっておるが、1尺の長さが地域によってバラバラだ。だから全国どこで測っても1尺の長さが変わらないようにしなければ。そして6尺3寸で1間とするんだ」

秀吉は、今現在の私たちが、どこに行っても100㎝は1mであるように、6尺3寸を1間と定めたのでした。

秀吉は言います。

「次は面積じゃ。1間四方の面積を1歩としよう」

秀吉は1間×1間の面積を1歩としました。

1歩は、畳2畳ほどの大きさです。

 

語呂合わせ。

「1件1件、1歩ずつ」

1件→1間

1件→1間

1歩→1歩

ということで。

1間×1間の面積が1歩です

 

 

これが「300歩」・・・テニスコート4面分くらいになると、1段という単位になります。300歩が1段です

これは、また後で他のものといっしょに語呂合わせます

 

 

さらに秀吉はいいます

「米などを計る枡の大きさも地域によってバラバラではないか。これでは正確な年貢米の量を計ることなどできぬわ。全国の枡を京都で使われている京桝で統一しよう」

そうして京桝で統一しました

 

 

秀吉は、並々ならぬ決意をもって検地に臨みました。

「もし反対する者あらば、城主ならば城に押し込め、一人残らずなで斬りにせよ。百姓もことごとくなで斬りにしろ」と。

こうした検地によって、秀吉は全国のどこでどれだけの米がとれるのか、はっきり分かるようになりました。

 

 

 

 

土地の測り方

「この土地では1段あたりこれだけの米がとれます」というのが、石盛です

1段・・・つまりテニスコート4面分でどれだけの米がとれるんだろうというのが石盛ですね。

そして、1国でどれだけの米が取れるんだ、というのが石高です

加賀100万石、真田10万石なんていいますけど、加賀の国では100万石のお米が取れますよ、真田家では10万石のお米がとれますよ、っていうことですね

 

 

秀吉はいいます

「これが検地帳じゃ。これを見れば、どの村ではどれだけの米がとれるか、この土地は誰が耕しているかも分かるんじゃ。年貢はその土地を実際に耕している農民に納めさせる。地頭や領主など間に入っている役人はもういらん。取り払ってしまえ。耕している農民がこのわしに年貢を納めればよい。1つの土地(区画)には、1人の作人。それで十分。一地一作人の原則じゃ」

農民は田畑の所有を認められましたが、石高に応じた年貢を納めなければならなくなりました。

こうして秀吉は全国の大名に領国の検地帳と国絵図の提出を命じたのです。

 

 

 

 

他、補足事項です

面積の単位

面積の単位は、これまでの時代と変わらず「町・段・畝・歩」です。語呂合わせは「長短セーブ(町段畝歩)」。

1町=10段

1段=10畝

1畝=30歩です

語呂合わせ

「1丁の銃弾(1町=10段)

「また一段と重税が(一段=10畝)」

「依然30歩(1畝=30歩)」

 

体積の単位

体積の単位は石・斗・升・合です。

これはリズムがいいので「コクトショーゴー」とリズムで覚えてしまっていいと思います。

1石=10斗、1斗=10升、1升=10合です

 

他、諸々を入れた語呂合わせです

「今日、県庁がいちいち勧告。いったん300」

今日→京桝

県庁→検地帳

いちいち→一地一作人の原則

勧→貫高制

告→石高制

いったん→1段あたり

300→300歩

太閤検地で、枡を統一した枡が京桝です。検地帳。

太閤検地によってこれまでの貫高制から石高制になりました。一段を300歩としました。

 

 

~今日の語呂合わせ~

 

「6尺3寸。1件1件一歩ずつ」

ということで。

6尺3寸が1間。

1間×1間の面積が1歩です

 

 

 

 

 

面積の単位

「長短セーブ(町・段・畝・歩)」

「1丁の銃弾(1町=10段)

「また一段と重税が(一段=10畝)」

「依然30歩(1畝=30歩)」

 

 

体積の単位

体積の単位は石・斗・升・合です。

「コクトショーゴー」

 

「今日、県庁がいちいち勧告。いったん300」

今日→京桝

県庁→検地帳

いちいち→一地一作人の原則

勧→貫高制

告→石高制

いったん→1段あたり

300→300歩

 

終り

 

※村を単位に検地奉行が実際に調査してまとめた

 

いったん整理しますね。

6尺3寸=1間

1間×1間の面積=1歩

300歩=1段

です

 

 

 

 

 

 

 

(重さや面積の基準、年貢米を計量する枡(ます)の容量)

 

 

・検地では、田畑の面積を全国で統一し、6尺3寸(約180㎝)四方を「1分」としました。これは畳2畳分ほどの広さで「1坪(約3.3㎡)」という土地の広さとほぼ同じでした

 

 

秀吉の経済基盤

蔵入地・・・直轄領220万国

天正大判(秀吉が発行した大判金貨)・・・後藤徳乗が鋳造。これはまさに大きな金貨で有名。金を全部手中に収めた。

佐渡相川金山、石見大森銀山、但馬生野銀山

豪商:千利休、小西隆佐、島井宗室・・・姉妹喪失、神谷宗たん

戦国時代の貿易、宣教師は、今日の語呂合わせでバッチリです。

 

 

戦国時代。この頃、ポルトガルやスペイン(イスパニア)は

「新しい貿易先を見つけるんだ」

「キリスト教を広めるんだ」と、世界に飛び出していきました。

大航海時代です。

ポルトガルは、根拠地をインドのゴア、マレー半島のマラッカ、そして中国のマカオといった順番で移していきました

 

ゴロ合わせです

「ポルノ後はマライア、真顔」

ポルノ→ポルトガル

後は→ゴア

マライア→マラッカ

真顔→マカオ

ということで、ポルトガルの拠点は、ゴア→マラッカ→マカオです。

 

一方、スペイン(イスパニア)が拠点にしたのが、フィリピンのマニラです

ということで

「マニア、インスパイア」と覚えましょう

マニア→マニラ

インスパイア→イスパニア

です。

 

通して「ポルノ後は、マライア真顔。マニア、インスパイア」としてもOKです

ポルノ→ポルトガル

後は→ゴア

マライア→マラッカ

真顔→マカオ

マニア→マニラ

インスパイア→イスパニア

 

 

鉄砲の伝来

「そうです、これが鉄砲(火縄銃)です」

鹿児島の種子島に一隻の中国船が流れ着きました。その中には、ポルトガル人も乗っていました。

「見てください。この縄に火をつけて、火薬に点火するんです。すると、ほらこのとおり」

ポルトガル人は狙いを定めて、火縄銃を空に向けました。

ズドン

大きい音とともに、これまで空を飛んでいた鳥が落ちてきました。

「おお、これは」

種子島領主・種子島時堯は、高いお金で2丁の火縄銃を買い取り、家臣に作り方を学ばせました。

火縄銃は和泉の堺、紀伊の根来(ねごろ)、近江の国友で主に作られました

 

★ゴロ合わせです

→「大きい国の泉境いがきっと寝ごろ」

→「近江の国の和泉堺が紀伊っと根来」

→「近江国友。和泉堺、紀伊根来」

ということで生産地は

近江の国友。和泉の堺。紀伊の根来です。

 

 

南蛮貿易

「信長さま。これは地球儀というものです。日本がこれです」

「なんと、日本はこんなに小さいのか」

当時、ポルトガル人やスペイン人を南蛮人と言いました。

南蛮人との貿易が南蛮貿易です

「これは時間を知らせるもので時計というものです。カステラ、金平糖、パン、ビスケット、テンプラ、タバコ。いろいろありますよ」

秀吉にも。

パオーン

これはなんじゃ?

「はい、秀吉さま。こちらは象という異国の動物です」

象以外にも、クジャクやトラなどの珍しい動物も連れてこられました。

他にもスイカ、ぶどう酒など、今私たちがみる物もたくさんきました

主な大名の貿易港がこちらになります

大村氏の長崎

島津氏の鹿児島

大友氏の豊後府内

松浦(まつら)氏の平戸

 

★ゴロ合わせ

「ヒブナがキイっと吟じます」

ヒ→平戸

ブ→豊後府内

ナが→長崎

キイっと→生糸

吟じます→銀

ということで

主な貿易港が、平戸、豊後府内、長崎。

主な輸入品が生糸

主な輸出品が銀です

 

あまりいいゴロ合わせではないですが、領主と合わせた語呂合わせは次のようになります

長崎の大きな村(大村氏=長崎)。

鹿児島津(島津氏=鹿児島)。

お供は文豪(大友氏=豊後府内)

です

 

 

キリスト教

1549年。スペインから宣教師が鹿児島にやってきました。

「あーなーたは神を信じますか?」

フランシスコ・ザビエルは、領主の島津貴久に、布教のお願いを申し出ました。

「よかろう。やってみるがよい」

一度は布教を許した島津貴久でしたが、僧の反対もあって、ついにキリスト教の布教を禁止してしまいました。

「しかたがない、京都にのぼって、天皇から布教のお許しをもらおう」

ザビエルは京へ出向きます。

しかし、すでに天皇の権威は落ちていて話になりませんでした。

「ならば、西にいき、力のある大名を頼ることにしよう」

ザビエルは山口の大内義隆のもとへと向かいました。

「よろしい、ここ山口での布教を許そう」

ザビエルがここで布教をおこなっていると、豊後の国(大分県)から使いがきました。

大友義鎮が「来てほしい」というのです。

ザビエルは山口を後にして、豊後国の府内へと向かいました。

豊後の府内で布教をしている間に、ザビエルは大内義隆が討たれたということをききました。陶晴賢に討たれたというのです

「ああ、大内義隆さまが滅ぼされるとは」

その後、1551年、ザビエルは豊後を去り日本を発ちました

ザビエルが日本にいたのは実は2年たらずでした。

ちなみにザビエルはイエズス会のカトリックです。

 

少し情報が多くなったので、整理してみます

1549年、ザビエル、鹿児島に上陸。島津領主の島津貴久に一度は布教を許されるも禁止を言い渡される→「そうだ、京都にいこう。天皇に布教を許してもらうんだ」と京都に上りましたが、すでに天皇に力はありませんでした→「では西国の大名に頼ろう」ということで、大内氏、大友氏を頼りました→1551年日本を去りました

 

といったところで

ゴロ合わせです

★「ザビエルが、鹿児島にきて、イエス!カトリック!」

ザビエルが→フランシスコ・ザビエル

鹿児島にきて→ザビエルが上陸したのは鹿児島

イエス!→イエズス会

カトリック→ザビエルの宗派はカトリック(旧教)です

 

ちなみに、この後紹介するガスパル・ヴィレラ、ヴァリニャーニ、ルイス・フロイスもイエズス会です

 

Q ザビエルはどうして日本に来ようと思ったの?

A マラッカ(インド)で、ザビエルは黄色い顔の変な外国人と出会ったんだ。それが日本人のアンジロー。ザビエルは思った。アンジローは学ぶことが好きでまじめな人間だ。日本人というのが、みんなこうなら、きっと布教もうまいくに違いないと。

 

ついでにもう一つ語呂合わせを紹介します

★ゴロ合わせ

「大きな家(うち)も末は毛利が」

これは下剋上のゴロ合わせです

大きな家(うち)→大内義隆

末→陶晴賢

毛利→毛利元就

ということで

大内氏を滅ぼした陶晴賢。その陶晴賢を滅ぼしたのが毛利元就です。

 

 

その後もいろんな宣教師がやってきました。

彼らは言います。

「これは教会です。南蛮寺といいます。日本の皆さん来てください」

「神学校を作りました。もっと勉強をして宣教師になりたい人には大学もつくりましたので、ぜひ来てください」

この神学校をセミナリオ、宣教師を育てる大学をコレジオといいます。

セミナリオとコレジオのゴロ合わせ区別法です。

①「進学校のセミナー→神学校のセミナー→神学校のセミナリオ

ということで「神学校はセミナリオ」です

②コレジオは「宣教師養成の学校」。「大学」みたいなもんです。

コレジオはポルトガル語で「大学(colégio)」って意味です。

そういえば英語のカレッジ「大学」と発音が似てますね。ということで「コレジオ→カレッジ→大学」と覚えましょう。

続きです。

「ヴァリニャーニ。そなたにセミナリオをつくることを許そう」

信長の許可を得たヴァリニャーニは安土と肥前の有馬にセミナリオをつくりました。

また、オルガンティーノも安土にセミナリオを作り、豊後府内では、大友義鎮がコレジオを設立します。

ここでいったん、ゴロ合わせます

 

★ゴロ合わせ「安土でのオルガンセミナー」

安土での→安土で

オルガン→オルガンティーノが

セミナー→セミナリオをつくる

ということで、安土でオルガンティーノがセミナリオをつくりました

 

★ゴロ合わせ「お供の文豪。カレッジへ」

お供の→大友義鎮

文豪→豊後府内で

カレッジへ→コレジオをつくる

 

★ヴァリニャーニは、あとでまとめてゴロ合わせマス

 

 

大名の中には、キリスト教に心酔する者もあらわれます。

たとえば

有馬晴信、大村純忠、大友義鎮がいます。

★この3大名のゴロ合わせです

この語呂合わせは、視聴者の方がコメント欄に書いてくれた語呂合わせになります

 

「有馬で大損、お友達」

有馬で→有馬晴信

大損→大村純忠

お友達→大友義鎮

有馬記念でお友達が大損したということですね。

この3人にヴァリニャーニがいいました。

「少年をローマ教皇のもとにあいさつに行かせてはどうでしょう?」

「それはいい」

そうして選ばれたのが以下の少年です。

伊東マンショ、千々和ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアン。

これを覚えるなら、こうなります

 

★ゴロ合わせ

「伊東知事の腹の中」

伊東→伊東マンショ

知事の→千々和ミゲル

腹の→原マルチノ

中→中浦ジュリアン

 

 

★ゴロ合わせ

ちなみにヴァリニャーニは活字印刷術も伝えました。こうして出版されたのがキリシタン版です。それも踏まえてのゴロ合わせがこちら。

「有馬で大損、お友達。わりにテンション、インサート」

有馬で→有馬晴信

大損→大村純忠

お友達→大友義鎮

わりに→ヴァリニャーニ

テンション→天正遣欧使節

インサート→活字印刷術

有馬晴信、大村純忠、大友義鎮が、ヴァリニャーニの意見をきいて、天正遣欧使節で少年を派遣したということですね。

 

 

 

追加のゴロ合わせ

★「ああ、ありますよ。セミコレクション」

ああ→安土

あります→有馬

セミ→セミナリオ

コレクション→コレジオ

ということで、ヴァリニャーニは、安土と有馬でセミナリオ、コレジオをたてました。

 

 

 

 

また、堺の町を紹介した宣教師もいます。ガスパル・ヴィレラです。

当時の堺はお金持ちの商人が中心となって、町人自らが町を治めていました。

「俺たちは、自分で自分の町を守るんだ」

堺の人々は、町の周りを掘で囲み、出入り口には門をかまえ、信長にも従おうとはしませんでした。やがては信長に支配されるんですけどね。

ポルトガル人のガスパル・ヴィレラは、これを見て「おお、堺の町は、まるでイタリアのベニスのようだ」と感銘し、耶蘇会士日本通信でヨーロッパに紹介しました。耶蘇会とはイエズス会のことです。

ちなみに、ガスパル・ヴィレラは、イエズス会の宣教師です。将軍義輝のころ来日しました。

ということでゴロ合わせです

 

★ゴロ合わせ

「やあ、そうかい?ガスってるさかい」

やあ、そうかい?→耶蘇会士通信

ガス→ガスパル・ヴィレラ

てる→将軍義輝のころ来日

さかい→堺の町を耶蘇会士通信で紹介

ちなみに種子島(鹿児島県)から鉄砲の製法が伝わると、堺は日本一の鉄砲生産地になりました。

 

また、ルイス・フロイスは信長や秀吉と謁見し、「日本史」という本を書きました

★語呂合わせ「フロ椅子の日本史」

スケベ椅子を思い出してもらえれば、しっくりくるかと思います

 

 

 

PS バテレン追放令やサンフェリペ号事件は、他の動画「戦国の流れをとらえる時系列語呂合わせ」でまとめてあります。

その部分だけ抜粋します。

「シダックス、バカ取り締まれ」

シ→(秀吉)四国平定

ダッ→太政大臣になる

クス→九州平定

バ→バテレン追放令

カ→刀狩り

取り締まれ→海賊取り締まり令

 

 

 

「法皇未払い、分散傾聴」

法→(秀吉)北条氏滅ぼす

皇→奥州の伊達氏も屈服

未→身分統制令

払い→人払い令

分→文禄の役

散→サンフェリペ号事件

傾聴→慶長の役

ということで、秀吉の朝鮮出兵(文禄の役・慶長の役)の間にサンフェリペ号事件が入っています。バテレン追放令、サンフェリペ号事件とも、詳しい説明は、そちらの動画にアップしましたので、見ていただければと思います。

 

 

 

 

~今日の語呂合わせ~

ポルトガルとイスパニアのアジアでの拠点

「ポルノ後は、マライア真顔。マニア、インスパイア」

ポルノ→ポルトガル

後は→ゴア

マライア→マラッカ

真顔→マカオ

マニア→マニラ

インスパイア→イスパニア

ということで、ポルトガルのアジアの拠点はゴア→マラッカ→マカオです。イスパニアの拠点はマニラです

 

★鉄砲の伝来

→「大きい国の泉境いがきっと寝ごろ」

→「近江の国の和泉堺が紀伊っと根来」

→「近江国友。和泉堺、紀伊根来」

ということで

鉄砲は和泉の堺、紀伊の根来(ねごろ)、近江の国友で主に作られました

 

 

★主な貿易港

「ヒブナがキイっと吟じます」

ヒ→平戸

ブ→豊後府内

ナが→長崎

キイっと→生糸

吟じます→銀

主な貿易港が、平戸、豊後府内、長崎。

主な輸入品が生糸

主な輸出品が銀です

 

★貿易港と領主の覚え方

「長崎の大きな村(大村氏=長崎)

鹿児島津(島津氏=鹿児島)。

お供は文豪(大友氏==豊後府内)

 

 

★「ザビエルが、鹿児島にきて、イエス!カトリック!」

ザビエルが→フランシスコ・ザビエル

鹿児島にきて→ザビエルが上陸したのは鹿児島

イエス!→イエズス会

カトリック→ザビエルの宗派はカトリック(旧教)

 

 

★下剋上のゴロ合わせ

「大きな家(うち)も末は毛利が」

大きな家(うち)→大内義隆

末→陶晴賢

毛利→毛利元就

ということで

大内氏を滅ぼした陶晴賢。その陶晴賢を滅ぼしたのが毛利元就です

 

 

★ゴロ合わせ

「安土でのオルガンセミナー」

安土での→安土で

オルガン→オルガンティーノが

セミナー→セミナリオをつくる

ということで、安土でオルガンティーノがセミナリオをつくりました

 

 

★ゴロ合わせ「お供の文豪。カレッジへ」

おともだち→大友義鎮

豊後府内→豊後府内で

カレッジへ→コレジオをつくる

 

 

★主なキリシタン大名のゴロ合わせです

「有馬で大損、お友達」

有馬で→有馬晴信

大損→大村純忠

お友達→大友義鎮

 

 

★天正遣欧使節で派遣された少年

「伊東知事の腹の中」

伊東→伊東マンショ

知事の→千々和ミゲル

腹の→原マルチノ

中→中浦ジュリアン

 

★ヴァリニャーニのゴロ合わせ①

「有馬で大損・お友達。わりにテンション、インサート」

有馬で→有馬晴信

大損→大村純忠

お友達→大友義鎮

わりに→ヴァリニャーニ

テンション→天正遣欧使節

インサート→活字印刷術

有馬晴信、大村純忠、大友義鎮が、ヴァリニャーニの意見をきいて、天正遣欧使節で少年を派遣しました。ヴァリニャーニは活字印刷術も日本にもたらしました。

 

 

 

★ヴァリニャーニのゴロ合わせ②

「ああ、ありますよ。セミコレクション」

ああ→安土

あります→有馬

セミ→セミナリオ

コレクション→コレジオ

ヴァリニャーニは、安土と有馬でセミナリオ、コレジオをたてました。

 

 

★ガスパル・ヴィレラの語呂合わせ

「やあ、そうかい?ガスってるさかい」

やあ、そうかい?→耶蘇会士通信

ガス→ガスパル・ヴィレラ

てる→将軍義輝のころ来日

さかい→堺の町を耶蘇会士通信で紹介

 

 

★ルイス・フロイスの語呂合わせ

「フロ椅子の日本史」

 

以上です。

次は太閤検地のいろいろと覚えづらい部分の語呂合わせ動画を作ろうと思います。

オリジナルの語呂合わせなので、ここでしか見ることができません。

少しでもイイナと思ったら、チャンネル登録よろしくお願いします

よろしくお願いします

 

 

※youtube

日本史語呂合わせ塾【大学受験 教科書レベル】

で配信しています。

オリジナルの語呂合わせです

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桶狭間の戦いから、秀吉の朝鮮出兵までを時系でゴロ合わせました。

この歌で、大学受験の並び替え問題は完璧です。

 

↓「もしもしカメよ、カメさんよ。世界のうちでお前ほど、歩みののろい者はない。どうしてそんなにのろいのか」

※「どうしてそんなにのろいのか」を2回繰り返します

 

OKサイトで姉延爆(桶狭間の戦い、斎藤氏滅ぼす、姉川の戦い、延暦寺焼き討ち、幕府滅びる)

長く愛して本能寺(長篠の戦い、安土城築く、石山本願寺、天目山の戦い、本能寺の変)

焼け塩を股間部に(山崎の戦い、検地→太閤検地、賤ケ岳の戦い、大坂城、小牧長久手の戦い、関白に、惣無事令)

シダックス、バカ取り締まれ(四国平定、太政大臣に、九州平定、バテレン追放令、刀狩り、海賊取り締まり令)

法皇未払い。分散傾聴(北条氏滅ぼす、奥州の伊達氏も、身分統制令、人払い令、文禄の役、サンフェリペ号事件、慶長の役)

 

 

 

イメージ化してとらえられるように、ストーリー風に解説しますね。

 

桶狭間の戦いで今川義元を滅ぼした信長は、斎藤道三の孫・斎藤 龍興を滅ぼし美濃を平定しました。

そんなころ、まさかの出来事がおこりました。

幕府の将軍足利義輝が暗殺されたのです。

足利義輝の弟、義昭が信長を頼り泣きついてきました

信長は言いました。

「義昭様、この信長にお任せください。必ずや義昭様を将軍の座につけてさしあげましょう」

義昭を助けるという大義名分を得た信長は京へと上り、ときの将軍を追い出し、義昭を将軍にすげ替えました。

しかし、義昭は何の力も持たない信長の操り人形にすぎませんでした。

我慢できなかった義昭は、多くの大名や寺に、「信長を倒してくれ」との手紙を送りました。

こうして敵対した浅井・朝倉の連合軍。

信長は姉川の戦いでこれを破りました。

さらに信長は言いました。

「浅井・朝倉を支援していた比叡山延暦寺も許せんわ。女子供にいたるまで焼き討ちしてくれるわ」

こうして行われたのが、延暦寺の焼き討ちです。

その後、信長は利用価値のなくなった義昭を京都から追い出し、室町幕府は滅びました。

その2年後、信長は、武田勝頼と長篠で戦いました。

無敵を誇った武田の騎馬隊も、3000丁の鉄砲の前には、なすすべもなく、多くの名のある武将が何もできないまま死にゆき、勝頼は敗退しました。

「ついに武田に勝ったわ」

上機嫌の信長は、滋賀に安土城を築きました。

10年以上にも及んだ石山本願寺との戦いも、顕如が和睦を受け入れ石山本願寺を出て行くことで決着しました

武田勝頼も、信長によって天目山で滅ぼされます。もうこの頃には勝頼についてくる者は30名ほどしかおらず、そのほとんどが女性や子供だったといいます。

そのころ、秀吉は中国で毛利攻めをしていました。

<サルめが苦戦しておるようじゃ。どれ、わしも行こう>

支援に向かった信長は、宿にしていた本能寺で家臣の明智光秀に、寝込みを襲われ自害しました。

本能寺の変です。

ここまでのゴロ合わせ

「OKサイトで姉、延爆。長く愛して本能寺」

OK→桶狭間の戦い(1560)

サイトで→斎藤龍興ほろぼす→美濃平定(1567)

姉→姉川の戦い(1570)

延→延暦寺焼き討ち(1571)

爆→室町「幕」府ほろぶ(1573)

長く→長篠の戦い(1575)

あ→安土城築城はじめる(1576)

いし→石山合戦おわる(1580)

て→天目山の戦い(1582)

本能寺→本能寺の変(同)

 

 

さて、毛利と戦っていた秀吉は、即座に毛利方と講和し、急ぎ京へと引き返しました。

<天下が転がり込んでくる>

秀吉の鼓動は高まります。

秀吉は、山崎の戦いで明智光秀を破りました。光秀は自分の城へと逃げ帰る途中、農民の繰り出した竹やりにつかれ殺されました。本能寺の変から10日あまりのことでした

信長の仇をうったことで、あたかも天下人のようになった秀吉は、太閤検地をおこないました。

「サルのくせに天下人にでもなったつもりか」

織田家の筆頭家老・柴田勝家は、面白くありません

ついに賤ケ岳で秀吉と柴田勝家は戦うことになりました。

戦いに勝ち、柴田勝家を倒した秀吉は、大坂城を築きました。

「誰が天下人か世に知らしめるためにも豪勢な城をつくってやろう」と。

もちろん柴田勝家以外にもおもしろくない人間がいます。

信長の息子、織田信雄です

「本来は、わたしこそが父信長のあとを継ぐべきであろうに」

これまで信長と同盟を組んで、辛苦をともにしてきた家康も面白くありません。

そうして信雄・家康の連合軍と秀吉が小牧長久手で戦うことになりました。

最終的に、秀吉の政治力により織田信雄は丸め込まれ、戦う理由もなくなった家康も秀吉に臣従します。

このあと、秀吉は関白に任命されます。

そして秀吉は「この関白、秀吉の許可なく私闘をしてはならん」という惣無事令を出します(1585年、九州に対して惣無事令)

 

 

 

ここまでのゴロ合わせ

「焼け塩股間部」

や→山崎の戦い

け→検地→太閤検地

し→賤ケ岳の戦い

お→大坂城つくりはじめる

こ→小牧長久手

かん→関白になる

ぶ→惣無事令

 

 

四国の長曾我部を平定し、太政大臣の位を与えられた秀吉は、さらに、九州の島津を平定しました。

そんなある日、秀吉は、こんな噂を耳にします。

「大村純忠が教会に長崎を寄進したそうだ」

「南蛮人が日本人を奴隷として売っているらしい」

これに激怒した秀吉は、バテレン追放令を出し命令しました。

「バテレン(宣教師)は20日以内に帰国せよ」と。

その後、秀吉は刀狩りをおこないます

「百姓は、刀や武器を差し出すのじゃ。武士は武士、農民は農民。よいな」

刀狩りと同じ日に海賊を取り締まる命令も出しました。海賊取り締まり令です

ここまでのゴロ合わせです

「シダックス、バカ取り締まれ」

シ→四国平定

ダッ→太政大臣になる

クス→九州平定

バ→バテレン追放令

カ→刀狩り令

取り締まれ→海賊取り締まり令

 

 

さて、まだまだ秀吉に屈服しない大名もいました。

秀吉は、北条氏を滅ぼそうと、20万の大群で小田原城を囲み攻めました

そのさなか、秀吉にくだることを決意した奥州の伊達政宗が遅参し、秀吉と謁見することで、伊達も秀吉に臣従しました。

 

その後1591年、秀吉は身分統制令を出しました。

「武士が農民になることや、農民が武士になることを禁ずる。農民は農民のままでいなさい」

というものです

翌1592年には、甥の秀次によって人払い令が出されました。

「これから朝鮮に出兵するにあたって兵と年貢を確保したい。武士や農民、商人、町人がどれだけいるか知りたいので戸口調査をしよう」といったものでした。

晩年の秀吉は耄碌したのか、朝鮮出兵という無茶な野望を抱きます

第一回目の出兵が文禄の役

第二回目の出兵が慶長の役です

その間にサンフェリペ号事件がはさまっています。

スペインのサンフェリペ号が、土佐に漂流しました。

そのときに乗組員が、こんな失言をしてしまいました。

「スペイン人の宣教師はスペイン領土侵略の手先さ。スペインは異国にキリスト教を広めてから攻め込むんだ。そうすれば信者は宣教師、つまりスペインの味方になってくれるからな」と。

これを聞いた秀吉は宣教師やキリスト教徒を長崎に連れて行き、見せしめに磔にし、処刑しました。26聖人殉教です

ゴロ合わせです

「法皇未払い、分散傾聴」

法→北条氏滅ぼす

皇→奥州平定

未→身分統制令

払い→人払い令

分→文禄の役

散→サンフェリペ号事件

傾聴→慶長の役

 

 

 

 

 

 今後、五奉行、五大老、太閤検地のゴロ合わせなども紹介していこうと思います。

 

~まとめ~

「OKサイトで姉、延爆。長く愛して本能寺」

桶狭間の戦い(1560)

斎藤龍興ほろぼす→美濃平定(1567)

姉川の戦い(1570)

延暦寺焼き討ち(1571)

室町「幕」府ほろぶ(1573)

長篠の戦い(1575)

安土城築きはじめる(1576)

石山合戦おわる(1580)

天目山の戦い(1582)

本能寺→本能寺の変(同)

 

「焼け塩、股間部」

山崎の戦い(1582)

太閤検地はじまる(同年)

賤ケ岳の戦い(1583)

大坂城つくりはじめる(同年)

小牧長久手の戦い(1584)

関白になる(1585)

九州に惣無事令出す(同年)

 

「シダックス。バカ取り締まれ」

四国平定(同年)

太政大臣になる(1586)

九州平定(1587)

バテレン追放令(同年)

刀狩り令(1588)

海賊取り締まり令(1588)

 

「法皇未払い。分散傾聴」

北条氏滅ぼす(1590)

奥州の伊達氏平定(同年)

身分統制令(1591)

人払い令(1592)

文禄の役(1592)

サンフェリペ号事件(1596)

慶長の役(1597)

 

 

今後もこうした語呂合わせをどんどん紹介していきます。

オリジナルなゴロ合わせなので、他ではみられません。

ゴロ合わせは大学受験生を対象につくっています

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戦国時代。山崎の戦いから慶長の役まで。

今日はこの時代の出来事と語呂合わせを紹介します

 

<山崎の戦い>

本能寺の変がおこったとき、秀吉は毛利方の備中高松城(岡山市)を攻めていました。

「なに、光秀が謀叛をおこし、信長さまが自害されたと?」

「すぐに毛利(清水宗治)と講和をして、光秀を討ちにいくんじゃ」

秀吉は講和をまとめあげるや、光秀を討ちに引き返しました。秀吉の大返しです。

<信長さまの仇をとれば、天下が転がり込んでくる。信長様の後をつぐのはわしだ。>

秀吉の胸は高まりました。

「何、猿のやつがもう引き返しておると?」

「しかたがない、ここ山崎で迎え撃とう」

光秀は山崎(京都)で秀吉を迎えます。

「あの天王山を制すれば、この戦に勝てるだろう」

光秀は、天王山を占領しようとしましたが、逆に秀吉に取られてしまい、山頂から射撃され、あっけなく敗れました。

光秀は領地の坂本(滋賀県)に向かってのがれる途中、百姓のくりだした竹やりによって殺されました。それは本能寺の変があってから、わずか10日目のことでした。

 

では、時系列の語呂合わせいきましょう。

や→山崎の戦い

け→検地

し→賤ケ岳の戦い

お→大阪城つくりはじめる

こ→小牧長久手

かん→関白になる

ぶ→そうぶじれい

 

くわしく見ていきますね。

 

<検地>

秀吉は、きっちりと収入を得るため、これまで各大名なども行ってきた検地のやりかたを改めました。

これまでの検地は、土地の持ち主が「うちの田んぼはこれくらいの広さで、これくらいの米がとれます」と申し出る指出検地でした。

しかし秀吉は思います。

「指出検地だと、自分らに都合のいいように嘘をつかれていても分からない。わしはもっと徹底してやるぞ。ちゃんと田畑の面積をはかって、どれだけの米がとれるのか調べるんだ。だれが耕作者かも、はっきりさせよう」

このどれだけの米がとれるかという米の取れ高を「石高」といいます

「不正ができないように米をはかる桝も全国で統一しよう。農民には田を耕す権利をみとめてやるから、きっちりと米をおさめるように。また勝手に土地を離れる者に対しては許さんからな。もし従わぬ者があらば、城主、農民こととどくなで斬りにしてくれよう」。

秀吉は断固たる決意で、検地に臨みました

太閤検地です。

 

 

<賤ケ岳の戦い>

山崎の戦いで、主君の敵をとった秀吉は発言力も増し、あたかも秀吉が天下をとったような形になりました。

おもしろくないのが、柴田勝家

「サルのくせに生意気な」

そうしてついに両者が賤ケ岳(滋賀県)ぶつかりました。

賤ケ岳の戦いです

負けた勝家は、妻お市の方をはじめ、一族の子女を殺し、自らも切腹して果てました

 

 

 

<大阪城>

実力者・柴田勝家も倒し、勢いにのった秀吉は、石山本願寺の跡地に大阪城を築き始めます。

「わしは、信長さまのあとを継いで、天下人となった。壮大な城を作って、だれが天下人か世に知らしめるのじゃ。大名共が背く気にもならんほどのな」

3万、多い時には6万もの人が、城を築いたり、木材や石を運んだり、指図したりして、ごったがえしていました

 

 

<小牧長久手の戦い>

勝家の他にもおもしろくない者がまだまだいました。

信長の次男。信雄です

「わしは信長の息子ぞ。自分こそが次の天下人のはず。秀吉め、自分が天下人にでもなったつもりか」

「そうですとも。信雄さま。今こそ織田家のために、秀吉と戦いましょう」

これまで、信長と同盟を結び、ともに戦ってきた家康にとっても、秀吉が天下人になることは面白くありません

<あんな成り上がりのサルに天下をとられてなるものか>

そして、濃尾平野の小牧長久手で、秀吉軍と、織田・徳川軍がぶつかりました。

戦いは秀吉方が不利でした。名のある武将たちも討ち取られていきます

「これ以上、家康に勝たれると家康の人気があがってしまう」

そう考えた秀吉は、信雄を丸め込んで講和にもちこみました。

家康は驚きました

「なんと、信雄さまが勝手に秀吉と講和を結んでしまったと?これでは、わしが秀吉と戦う名分もなくなってしまったではないか」

しかたなく家康も講和に応じ、ついに秀吉に服従しました。

 

 

<関白>

さらに秀吉は正親町天皇から関白に任命されました

 

 

<惣無事令>

「天皇の命令で、秀吉が全国を統一して、争いがなくなった。今後、関白であるこのわしの命令無しでかってに戦ってはいけない。もし破る者があれば、成敗する」

秀吉は、「私闘を禁止する」という惣無事令を出しました。

そして、これに従わないという名目で北条氏を滅ぼし、九州の島津氏も滅ぼしました

後に奥州の覇者・伊達政宗も秀吉に服属することなるのです

※「1585年、秀吉が九州に向かって発令した戦争の禁止令を何というか?→惣無事令」