「どうする家康」にちなんで

~江戸幕府・歴代将軍の覚え方です~

 

①家康、②秀忠、③家光は、ふつうに覚えられると思うので、それ以降をアルプス一万尺で覚えます

 

(歌)

家ツナよしと→家綱&綱吉(アルプス一万尺)

述べ告ぐ→家宣・家継(こやりの)

吉宗→吉宗(上で)

茂みは→家重(アルペン)

春なり→家治&家斉(踊りを)

よし→家慶(さあ)

貞子→家定(踊り)

餅→家茂(ましょ)

喜んで!→慶喜

 

 

 

 

 

 

イメージです。

「家で食べるツナはうまいなあ」と述べ継ぐ吉宗。

外を見やれば茂みは春。

餅も食いたくなってきた

「よし貞子、餅持ってこい!」

奥から貞子が返答します

「喜んで!」

 

 

 

(家康・秀忠、家光+)

家ツナ良しと(家綱・綱吉)

述べ継ぐ(家宣・家継)

吉宗(吉宗)

茂みは春ナリ(家重、家治、家斉)

よし、貞子、餅(家慶、家定、家茂)

喜んで!(慶喜)

 

 

※ポイント。4代の家綱以降で、頭に「家」がつかないのは綱吉、吉宗、慶喜です。

あとは、頭に「家」をつけて歌ってみる

https://youtu.be/m0qjfobf8EM

今回は桶狭間の戦いから、本能寺の変までに起こった出来事の語呂合わせです。

 

 

<桶狭間の戦い>

徳川家康は幼いころ、人質として織田家ですごしていました。

そんなある日

「竹千代!今日からお前は今川へいけ。人質の交換だ」

こうして、竹千代、後の家康は、今度は今川の人質になりました。

あるとき、今川義元は言いました。

「これより京へ上る。お前も出陣じゃ」

今川軍2万5千、対する織田軍2000。

どう考えても今川が負けるはずがない戦いでした。

しかし、今川義元は、豪雨の中、信長の奇襲によって、あっけなく首をとられてしまいました。桶狭間の戦いです。

まさかの義元の敗北。

家康(当時は松平元康)は思いました。

「いい機会だ。今川と縁を切ろう。織田と和睦して同盟を結ぶんだ」。

 

 

桶狭間の戦いから、本能寺の変までの出来事を語呂合わせてみました。では、いきましょう。

 

 


 

「OKサイトで姉が延爆。長く愛して本能寺」

OK→桶狭間の戦い

サイトで→斎藤龍興ほろぼす(美濃平定)

姉が→姉川の戦い

延→延暦寺焼き討ち

爆→室町「幕」府ほろぶ

長く→長篠の戦い

あ→安土城築く

いして→石山合戦おわる

本能寺→本能寺の変

 

 

 

 

 

ここからは信長に焦点をあてて歴史を見ていきますね。

 

 

<信長、斎藤竜興を滅ぼす>

織田信長の電光石火の鬼才ぶりに家康は目をみはるばかり。

信長は次から次へと手を討ちます。

「武田信玄と手を結ぼう」

「浅井長政に妹のお市を嫁にくれてやろう。浅井とむすぶんじゃ」

「さて、根まわしはすんだし、次は斎藤竜興を滅ぼして美濃を手に入れるぞ。」

信長はあっというまに、斎藤竜興を滅ぼし美濃を手に入れました。

「わしは、武によって天下をおさめるぞ、天下布武じゃ」

戦国大名のほとんどが、自分の領土を広げることだけを考えていた中で、信長は「天下統一」をはじめて宣言し実行に移したのでした。

時は戦国、下剋上の時代。

それにしても、まさかのことが起こりました

室町幕府の将軍、足利義輝が暗殺されたのです。

ある日、その弟の義昭が、信長の元に泣きついてきました。

「それは、さぞお困りでございましょう。この信長におまかせあれ。義昭公を将軍の座につけてさしあげましょう」

京都にのぼる口実がほしかった信長にとっては渡りに船。

「義昭様を将軍にするために京にのぼるぞ」

そんな名分で京都へと上り、現将軍義栄を追いだし、義昭を将軍にすげ変えました。

しかし、将軍にしてもらったといっても、義昭は、ただのお飾り。

自分で政治をすることもできない操り人形です

「将軍になったといっても、私は信長の操り人形ではないか。もう我慢ならない」

義昭は「信長を討て」との書状を各大名に出しました。

 

<姉川の戦いと延暦寺焼き討ち>

これを受けて、武田、北条、延暦寺、石山本願寺、浅井、朝倉が「信長を倒すんだ」と同盟を組んで信長に立ち向かってきました。

信長の大きな誤算は、妹を嫁にくれてやった浅井の裏切りでした。

浅井は信長よりも、古くからの付き合いのある朝倉方を選び、信長を攻撃したのです。

「まさか、あの浅井が裏切るとは」

命からがら逃げだした信長は、態勢を整えると、浅井・朝倉を滅ぼしてしまいました。姉川の戦いです。

それでも信長の怒りはおさまりません。

「浅井を後ろで支援していた延暦寺め。坊主のくせに、戦いに出しゃばるとは許せんわ。すべてを焼き尽くせ。女子供に至るまで皆殺しじゃ」

信長は延暦寺を焼き討ちしました。

僧や子どもなど大勢が裸足で逃げ回りましたが、捕えられ「命だけはお助け下さい」と泣きながら頼みました。

しかし、みな首をおとされ、数千の死体が山一面に散らばったといいます。

 

 

 

<室町幕府滅ぶ。三方ヶ原の戦い>

さらに信長は義昭を追放します。

そんなころ、武田信玄が「京へ向かうぞ」と、大軍を率いて甲斐の山を下りてきました。

遠江の三方ヶ原で迎え撃った家康は散々な負け方をしました。

家康は恐怖のあまり、大を漏らしながら、命からがら城へ逃げ帰る始末。

しかし、家康にとって幸運なことに、信玄は病で死に、武田軍は甲斐の山奥へとひきあげたのでした。

 

<長篠の戦い>

「自分の死を3年隠せ」

信玄の遺言を無視した勝頼が攻めこんできました

「こないだの借りを返してやろう」

信長の3000丁の鉄砲隊の連射に、無敵を誇る武田の騎馬隊もどうする事も出来ず、武田軍はボロボロになりながら敗走しました。

 


<安土城きずく>

信長は高らかに笑いました。

「天下統一はもう目の前じゃ。よし、ここ安土にこの信長の威厳を見せつける雄大な城をつくるんじゃ」

信長は、安土、今の滋賀県に安土城が作りました

 

 

 


<石山本願寺、屈服>

「さて、次は石山本願寺だ。本願寺は寺全体が巨大な要塞となっておる。だから、なかなか落とせない」

そこで信長は考えました。

和平を結んだ上で、本願寺に味方するやつらを滅ぼしてしまえばいいと。

「本願寺に味方する大名を滅ぼしてやろう。本願寺に食料や武器を運ぶ毛利の水軍も滅ぼすんだ」

これ以上戦争を続けることができなくなった本願寺は、ついに信長に降伏しました。

 

 

 

<天目山の戦い>

「お次は武田の征伐じゃ」

長篠の戦いでの敗北以降、武田は落ち目でした。

味方がどんどん裏切っていき、最後までついてきたのは、わずか30名ほど。

その大半が女子供だったといいます。

勝頼らは、信長・家康の軍に追い詰められ、ついに甲斐の天目山で自害しました

 

 

<本能寺の変>

「武田も滅ぼした。上杉謙信も病死した。次は毛利だ」

そのころ、毛利は秀吉が攻めていました。

「サルめが、苦戦しておるようじゃ。わしが行ってこよう」

信長は安土城を出発し出陣しました

その道すがら、京都に入り、本能寺に泊まりました。

しかし、明智光秀の謀叛により、信長は寺に火を放ち自害しました。

この知らせを聞いたとき、秀吉は備中高松城(清水宗治)を攻めていました。

<なに!信長さまが死んだ?信じられん>

秀吉は、大急ぎで毛利氏との戦いを収め、信長のかたき光秀を討つべく軍をまとめて引き返しました。一日に80㎞を超える猛スピーだったといいます。秀吉の大返しです

 

 

今日の語呂合わせ

「OKサイトで姉が延爆。長く愛して本能寺」

OK→桶狭間の戦い

サイトで→斎藤竜興ほろぼす(美濃平定)

姉が→姉川の戦い

延→延暦寺焼き討ち

爆→室町「幕」府ほろぶ

長く→長篠の戦い

あ→安土城築く

いして→石山合戦おわる

本能寺→本能寺の変

 

 

余談です。

長篠の戦いで、敗れた武田勝頼。

その後、天目山の戦いでも敗れ、武田氏は滅亡しました。

負けた勝頼の首は信長のもとへと届けられました。

信長は勝頼を罵倒しました

「極悪人、武田信玄の息子よ。その罰が原因でお前はこのような姿になり果てた。信玄は京に行きたいと言っておったらしいな。父信玄の夢をかなえるため、お前の首を京へ連れて行ってやろう」

そう言って、勝頼の首を鞭で打ちました。

 

一方、家康は

「あなたは経験の無さが原因で負けてしまいました。父信玄公の重みはさぞかし大変だったことでしょう。あなたは若さゆえに負けてしまいました。とても惜しく残念です」

といって、勝頼の首を丁重に扱いました。

武田家、家臣は家康の対応に涙を流し、「以後は家康公のために尽くす」ことを強く心に刻みました。

勝頼の首は、信長が言ったように、息子信勝の首とともに京都の一条大路にさらされました。

後に家康は勝頼を弔うために、菩提寺をたて供養しました

 

 

 

 

今回以降の語呂合わせは、また次回発表しますので、どうぞご期待ください。

オリジナルの語呂合わせなので、他ではみられません。

少しでもいいなと思ってもらえたら、チャンネル登録お願いします。

鎌倉殿の13人。ついに終わってしまいましたね。

鎌倉ロスのハテナ君です。

今日は、鎌倉殿にちなんだ語呂合わせをいくつか紹介しますね。

「合戦の語呂合わせ」「初代長官」「源氏の系譜」ほか色々です。

まずは、頼朝の行動から。

<石橋山の戦い以降の語呂合わせ>

パターン①

「細工もヤダし、誠意を見せろ」

さ→侍所設置

い→一の谷の戦い

く→公文所設置

も→問注所設置

ヤ→屋島の戦い

ダ→壇ノ浦の戦い

し→守護・地頭をおく

誠意→頼朝征夷大将軍に

 

梶原景時を演じた中村獅童さん、いい味だしてましたね。

石橋山の戦いで大敗を喫し、平氏の追討に怯えながら洞窟に身を隠すことになった頼朝。

この時は、わずか5,6騎だったといいます。

そんなときに、平家側の武将、梶原景時が洞窟の中にいる頼朝を見つけながらも、わざと逃がしました。

これがきっかけで、その後、梶原景時は、頼朝が信頼を置く部下になりました。

もっとも、「愚管抄」という歴史書によると、このとき、すでに梶原景時は、頼朝の部下になっていたようなので、創作話なのかもしれないですが。

侍所と言えば横田栄司さんの和田義盛。豪快でいかにも鎌倉武士といった感じでしたね。公文所・問注所の初代長官もまた語呂合わせます。

 

 

 

もう少し出来事を入れた語呂合わせがこちら。

パターン②

「寒富士の中、行くのもヤダし守れ、王政」

寒→侍所おく

富士→富士川の戦い

中→義仲、京へ

行→一の谷の戦い

く→公文所設置

も→問注所設置

ヤ→屋島の戦い

ダ→壇ノ浦の戦い

守れ→守護・地頭おく

王→奥州藤原氏&義経を滅ぼす

政→頼朝、征夷大将軍になる

 

 

 

 

富士川を挟んで向かい合った源氏と平氏。

平氏の大将維盛は、猛者として知られる武将に問います。

「坂東武者で、お前ほど弓の強い剛の者はどれほどいるのか」。

家臣は言います。

「私ていどの者でしたら、坂東にはいくらでもおりまする。我ら平氏は戦で身内の者が亡くなれば、通夜をし葬式をし弔いますが、坂東武者は親が死のうが、子が死のうが、その屍を超えて戦うのでございます」

その恐ろしい噂は兵たちの間にも広まっていきました。

「なんと、親兄弟の屍を足蹴にして戦うとは」

「恐ろしいことよ」

ある晩。

一羽の水鳥がさっと富士川の水辺から飛び立ちました。

また一羽。さらに一羽。

そして水鳥は大群となって一斉に水を蹴って夜空に舞い上がりました。

すでに恐怖におののいていた平氏軍には、このときの轟音が源氏の来襲に聞こえました。

「夜襲だ」

水鳥の羽音を源氏の夜襲と勘違いし、平氏は戦わずして敗走しました。

 

その後、平清盛は病にかかり、高熱にうなされました。

平家物語によれば、「水も喉を通らず、体が火をたいたように熱く、清盛の近くにいるとその熱さに耐えられない」「比叡山より千手井(せんじゅい)の水をくみ出して石の湯船に入れ、その中に入れると、水が沸き上がって湯になった」とあります。

「ぐおおお、熱い、熱い」

水をかけられても、焼けた鉄に水をかけるが如くよりつかず、たまに当たった水は炎となって燃え上がり、黒煙が屋敷中に充ちたとあります。

「わしが死んでも葬式はいらぬ。わしの墓に頼朝の首を捧げよ」

清盛はもがき苦しみ、跳ねまわりながら息を引き取りました。64歳でした。

京の人々は「悪業の報いがきた」とささやきあいました。

清盛の死因は、マラリアではないか、と言われています。

もっとも、夏ではないので、マラリアとは別の病気かもしれませんが。

清盛が亡くなると、源義仲が京へと攻め込みました。

平氏は袖を涙で濡らしながら、女官、子供らとともに都を落ちていきます。

その義仲も、頼朝の命令で義経に討たれます。

義経は、屋島の戦い、壇ノ浦の戦いで平氏を追い滅亡させます。

しかし、義経は、頼朝の許可なく後白河法皇から官位をもらってしまったために、頼朝の逆鱗に触れ、追われる身となってしまいました。

「義経を追う名目」として、朝廷に認めさせたのが守護、地頭の設置です

守護は国ごとにおかれ、悪い奴をつかまえたりして国を守りました。

地頭は、荘園や公領で、年貢を取り立てました。

PS 清盛は、じつは結構優しい人物だったようです。召使にも親切にし、人柱の慣習をやめ、情け深い人だったようです。

<頼朝の血筋>

Youtube台本

頼朝の血筋の語呂合わせです

「常に真ん中の信義家。親の為、朝より果実を」

 

「常に」→経基

「真ん中の」→満仲

「信義家」→頼信、頼義、義家

「親の為」→義親、為義

「朝より」→義朝、頼朝

「果実を」→頼家、実朝

頼朝が武士たちに担ぎ上げられたのも、負けてもさらに味方が増えたのも、頼朝個人の力もあったかもしれませんが、いちばんは源氏の嫡流という血筋のおかげなんですね。

頼朝は清和天皇の血をひく清和源氏。

清和源氏には、他にも、足利尊氏や武田信玄といった層々たる人物が出ています。

 

ポイント

はじめの経基・満仲以外は、頭に「頼」がついていたり、頭かお尻に「義」がついてます。

「信義家」の部分の「頼義」「義家」ですが、「よりよしいえ」と覚えると頼義・義家って感じで覚えられるかなと思います

 

https://youtu.be/GazcKgpj9wU

 

 

 

明治時代の語呂合わせです

 

 

 

↑動画よかったら見てくださいね

チャンネル新しく生まれ変わりました。はじめてのリニューアルバージョンです。

よろしくお願いします<(_ _)>

 

 

 

 

 

今日は明治時代ができてからの出来事の語呂合わせだよ。

今日の語呂合わせは

①五か条の御誓文→版籍奉還→廃藩置県→学制→徴兵令→地租改正の時系列の語呂合わせ

②五か条の御誓文をつくった3人の人物

③徴兵令免除の対象

の3つです

では、いきましょう!

<五か条の御誓文・五榜の掲示>

江戸幕府を倒した新政府軍。

「新政府はこういう方向で政治をしていきます」

天皇が神々に誓うという形で新政府の5つの方向性がしめされました。

五か条の御誓文です

余談ですが、この原案を作った由利公正は、坂本龍馬と大の仲良し。

竜馬が福井に来たときは、早朝から晩まで、日本の未来について、語り明かしたといいます。

 

さて五か条の御誓文の翌日、村々の民衆にも5つの禁令が出されました

・キリスト教は禁止ですよ

・外国人へ暴力をふるってはいけません

・人を殺したり、ものを盗んじゃいけません。

など、江戸時代のおふれと、かわりのないものでした。五榜の掲示です。

<版籍奉還>

その後、版籍奉還が行われます。

「大名は土地(版)と人(籍)を朝廷に返しなさい」

政府が言うと

「はい、わかりました」

薩摩・長州・土佐・肥前が了承し、他の藩もこれにならいました。

藩主は知藩事と名前が変わりましたが、これまでどおり、その土地にいることができました。

しかし・・・。

「旧藩主がこれまでどおり、その土地をおさめているのでは、これまでと何も変わらない」

「いっそのこと藩をなくしてしまおう」

そうして行われたのが廃藩置県です。

<廃藩置県>

「知藩事さん。あなたは今度その土地を離れて東京で暮らしてください。代わりにその土地をおさめる者を中央から送りますので」

知藩事(旧藩主)は、華族という身分を与えられて東京で暮らすことになりました。

一方、その土地へは、中央から、府知事・県令という役人が派遣されました。

<学制>

「誰もが教育を受けられるようにしよう」

政府は「学制」を公布しました。

6歳以上の男女は、学校に通うのを義務づけられたのですが・・・。

「学校を建てるのも、先生の給料を払うのも、俺たち庶民の負担だって!?」

「子供を学校にとられたら、田畑の手伝いは誰がするんだ!」

と人々は怒り、学制反対一揆が各地で起こりました

<徴兵令>

「国を強くする(富国強兵)ためには、国民すべてを兵隊にして強い軍隊をつくらねばならない」

そうしてできたのが徴兵令です。

でも、「兵役は血税のようなもの」という政府の文章を、「えっ?血をとられるんだって?」と勘違いして一揆(徴兵令反対一揆)がおきたりもしました。血税一揆です。

その後、地租改正も出されます

<地租改正>

政府は言います

「これまでは、田畑を勝手に売ったり、好きなものを作ってはいけませんでしたが、今後はどうぞ自由にやってください」

「今度からは土地の値段を決めるんで、税は、それに応じたお金で納めてください」

「年貢でなくて、お金で支払うんですか?」

「ええ。土地の値段(地価)の3%を、土地の持ち主がお金ではらってくださいね」

 

<語呂合わせ>

では、語呂合わせ行きます

「ご飯よ」

「はい、学長」

「ごちそうさまです」

ご→五か条の御誓文・五榜の掲示

はんよ→版籍奉還

ハイ→廃藩置県

学→学制

長→徴兵令

ごちそうさま→地租改正

です

 

次は五か条の御誓文を作った3人の語呂合わせです

「百合の服。きっと高いし」

百合の→由利公正

服→福岡たかちか

きっと高いし→木戸孝允

由利公正が起草、つまり原案を書いて、福岡が修正し、木戸孝允が仕上げたんだ

余談ですけど、五か条の御誓文は、竜馬が新政府のありかたについて船の中で考えたといわれる策・「船中八策」と似ている部分も多いとのことです。もっとも原文書なんかも残ってないので、船中八策自体が創作だなんて説もありますけど。

 

徴兵令

男性は20歳になると3年以上兵隊に行かなくてはなりませんでした。

でも免除される条件がありました

語呂合わせ

「20さと、戸主の後に次男いう」

20→20歳で

さ→3年以上の兵役

戸主→戸主(一家の主)

後に→跡取り

次男→270円以上の代人料を払った者

男性は20歳になると3年以上、兵隊さんにならなければなりませんでした。

でも一家の主や、跡取り、お金を270円以上支払った人は免除されました

 

 

 

 

 

 

ショート

鎌倉殿の13人で吹き荒れた粛清や乱。

上総介広常暗殺以降を語路合わせてみました

「火事はひき、畑が平らに。話題のジョーク」

火事は→梶原景時の変

ひき→比企能員の変

畠は→畠山重忠の乱

平らに→平賀朝雅(ひらがともまさ)

話題の→和田合戦

ジョーク→承久の乱

上総介広常暗殺も入れると

「数ある火事ひき、畑は平らに。話題のジョーク」

本編動画も作りますんで、そちらもよろしくお願いします

 

※クイズ形式にすると1分では足りないので、この形にしました。

 

 

 

 

 

 

 

ショート

鎌倉殿の13人で出てきた後鳥羽上皇。彼がつくった武士団はどれ?

1,西面の武士

2,北面の武士

3,のぶしこぶし

4,滝口の武士

正解は1番の西面の武士。

語呂合わせです

「滝打たれ来た、シロ最後」

滝→滝口の武士

打たれ→宇多天皇

来た→北面の武士

シロ→白河上皇

最→西面の武士

後→後鳥羽上皇

ということで

滝口の武士は宇多天皇

北面の武士は白河上皇

西面の武士は後鳥羽上皇

がつくりました

つまり。

後鳥羽上皇が作ったのは、西面の武士です。「院」を守るために置かれました

ちなみに承久の乱の後、西面の武士はなくなりました。つまり本当に「最後」になっちゃったんです。

本編動画もよろしくお願いします

 

(注)白い犬(ワンちゃん)と、滝に打たれた人をセットにしたイメージ画像でお願いします。たとえば、イラスト屋などの画像などで滝に打たれてる人の画像と、白い犬の画像を組み合わせて作っていただければと思います。

 

 

 

 

ショート

「鎌倉殿」終わってしまいましたね。源氏の頼朝の系譜の語呂合わせです

※ここに系譜図入れてください

「常に真ん中の信義家。親の為、朝より果実を」

「常に」→経基

「真ん中の」→満仲

「信義家」→頼信、頼義、義家

「親の為」→義親、為義

「朝より」→義朝、頼朝

「果実を」→頼家、実朝

頼朝は清和天皇からつながる清和源氏です。清和源氏は、足利尊氏や武田信玄なんかも出ています

ポイント

はじめの経基・満仲以外は、頭に「頼」がついていたり、頭かお尻に「義」がついてます。

「頼義」「義家」は「義」が被っているので、「よりよしいえ」と覚えるといいかもです。

本編動画も作りますんで、よろしくお願いします

 

※クイズ形式ですと1分では足りないので、この形にしました。

 

 

ショート

問題

壇ノ浦の戦い、屋島の戦い、一の谷の戦い

順番に並び替えると、どうなる?

正解は

一の谷→屋島→壇ノ浦の戦いの順番。「イヤだ」の順です。

語呂合わせ

「細工もヤダし、誠意を見せろ」

さ→侍所設置

い→一の谷の戦い

く→公文所設置

も→問注所設置

ヤ→屋島の戦い

ダ→壇ノ浦の戦い

し→守護・地頭をおく

誠意→頼朝征夷大将軍に

※もっと色々と詰め込んだ語呂合わせもあります。

本編動画も作りますので、そちらで紹介しますね

 

 


 

ショート

問題

壇ノ浦の戦いの舞台はどこ?

1,讃岐

2,長門

3,摂津

正解は

2番の長門。今の山口県下関市。

語呂合わせ

「切磋な一夜だ」

「せっ」(摂津) → 「一」(一の谷)

「さ」(讃岐)  → 「夜」→(屋島)

「な」(長門)  → 「だ」(壇ノ浦)

「切磋な」と「一夜だ」が対応してます

※日本語で「切磋な」なんて言い方はしませんけどね(笑)。

順番は、一の谷→屋島→壇ノ浦で「イヤだ」と覚えるといいかもですね。

本編動画も、よろしくお願いします

 

 

 

 

 

ショート

問題

侍所の初代長官は誰?

1,三善康信

2,和田義盛

3,小泉進次郎

正解は2番の和田義盛。

語呂合わせ。

パターン①

「見よ、門を!怖れ多くも和田侍だ」

見よ、門を!→三善康信は問注所の初代長官

怖れ多くも→大江広元は、公文所の初代長官

和田侍だ→和田義盛は、侍所の初代長官です。

パターン②

「わさびの多くは三文」

わさびの→和田・侍所

多くは→大江・公文所

三文→三善・問注所

ちなみに侍所と公文所の長官は「別当」といいますが、問注所の長官は執事。

ややこしいですね。

こんがらがったら、

「羊の門番」→「執事の門番」→「執事は問注所」と覚えましょう。

本編動画もよろしくお願いします

 

※俳優さんの横田英二さん、栗原英雄さん、小林 隆さんなどの写真を使ってくださいませ

 

 

ショート

鎌倉殿の13人にも出てきた慈円。彼の書いた歴史書はどれ?

1,吾妻鏡

2,大鏡

3,愚管抄

答えは3番の愚管抄です。

語呂合わせ

「ジ・エンド。天才の求道」

ジ・エンド→慈円

天才→天台宗の

求→愚管抄

道→道理

慈円は天台宗の僧。愚管抄を書きました。これは「道理」をもって書かれたはじめての歴史書です。

武家社会の慣習を「道理」といいます。

ちなみに、吾妻鏡は幕府の正史です

本編動画もよろしくお願いします

1分以内で収まる

 

ショート

後鳥羽上皇の命令でできた歌集はどれでしょう?

1,古今和歌集

2,新古今和歌集

3,金槐和歌集

答えは2番の新古今和歌集

語呂合わせ

「おしんこの定価、言えたか。仕事番」

おしんこ→新古今和歌集

定価→藤原定家

言えたか→藤原家隆

仕事番→後鳥羽上皇

新古今和歌集は、後鳥羽上皇の命によって、藤原定家・藤原家隆らが歌を選んでできた歌集です

「おしんこの定価、言えたか、後鳥羽院」と覚えてもOKです。

ちなみに定家の「家」。家隆の「家」と、「家」でしりとりになっているから、「定家隆(さだいえたか)」と覚えてもいいかもしれませんね

ちなみに金槐和歌集は、実朝の和歌集です

本編動画もよろしくお願いします。

 

 

 

ショート

後鳥羽上皇が、承久の乱後に流されたのはどこ?

1,隠岐の島

2,佐渡

3,鬼が島

答えは1番の隠岐の島。ちなみに

土御門上皇は土佐へ、順徳天皇は佐渡へ流されました。

「鳥」が「羽」で「沖の島」へ飛んでった、みたいなイメージで、後鳥羽上皇は沖ノ島と覚えましょう。

土御門上皇は土佐へ。土御門の「土」、土佐の「土」で覚えやすいかも。

順徳天皇は佐渡へ。

佐渡と言えば金山が有名なので、「佐渡の純金・佐渡の順徳」と覚えるといいかもですね。

本編動画もつくりますんで、よろしくお願いします

 

 

 

 

 

 

本編動画

鎌倉殿の13人。ついに終わってしまいましたね。

鎌倉ロスのハテナ君です。

今日は、鎌倉殿にちなんだ語呂合わせをいくつか紹介しますね。

「合戦の語呂合わせ」「初代長官」「源氏の系譜」ほか色々です。

まずは、頼朝の行動から。

<石橋山の戦い以降の語呂合わせ>

パターン①

「細工もヤダし、誠意を見せろ」

さ→侍所設置

い→一の谷の戦い

く→公文所設置

も→問注所設置

ヤ→屋島の戦い

ダ→壇ノ浦の戦い

し→守護・地頭をおく

誠意→頼朝征夷大将軍に

 

梶原景時を演じた中村獅童さん、いい味だしてましたね。

石橋山の戦いで大敗を喫し、平氏の追討に怯えながら洞窟に身を隠すことになった頼朝。

この時は、わずか5,6騎だったといいます。

そんなときに、平家側の武将、梶原景時が洞窟の中にいる頼朝を見つけながらも、わざと逃がしました。

これがきっかけで、その後、梶原景時は、頼朝が信頼を置く部下になりました。

もっとも、「愚管抄」という歴史書によると、このとき、すでに梶原景時は、頼朝の部下になっていたようなので、創作話なのかもしれないですが。

侍所と言えば横田栄司さんの和田義盛。豪快でいかにも鎌倉武士といった感じでしたね。公文所・問注所の初代長官もまた語呂合わせます。

 

 

 

もう少し出来事を入れた語呂合わせがこちら。

パターン②

「寒富士の中、行くのもヤダし守れ、王政」

寒→侍所おく

富士→富士川の戦い

中→義仲、京へ

行→一の谷の戦い

く→公文所設置

も→問注所設置

ヤ→屋島の戦い

ダ→壇ノ浦の戦い

守れ→守護・地頭おく

王→奥州藤原氏&義経を滅ぼす

政→頼朝、征夷大将軍になる

 

 

 

富士川を挟んで向かい合った源氏と平氏。

平氏の大将維盛は、猛者として知られる武将に問います。

「坂東武者で、お前ほど弓の強い剛の者はどれほどいるのか」。

家臣は言います。

「私ていどの者でしたら、坂東にはいくらでもおりまする。我ら平氏は戦で身内の者が亡くなれば、通夜をし葬式をし弔いますが、坂東武者は親が死のうが、子が死のうが、その屍を超えて戦うのでございます」

その恐ろしい噂は兵たちの間にも広まっていきました。

「なんと、親兄弟の屍を足蹴にして戦うとは」

「恐ろしいことよ」

ある晩。

一羽の水鳥がさっと富士川の水辺から飛び立ちました。

また一羽。さらに一羽。

そして水鳥は大群となって一斉に水を蹴って夜空に舞い上がりました。

すでに恐怖におののいていた平氏軍には、このときの轟音が源氏の来襲に聞こえました。

「夜襲だ」

水鳥の羽音を源氏の夜襲と勘違いし、平氏は戦わずして敗走しました。

 

その後、平清盛は病にかかり、高熱にうなされました。

平家物語によれば、「水も喉を通らず、体が火をたいたように熱く、清盛の近くにいるとその熱さに耐えられない」「比叡山より千手井(せんじゅい)の水をくみ出して石の湯船に入れ、その中に入れると、水が沸き上がって湯になった」とあります。

「ぐおおお、熱い、熱い」

水をかけられても、焼けた鉄に水をかけるが如くよりつかず、たまに当たった水は炎となって燃え上がり、黒煙が屋敷中に充ちたとあります。

「わしが死んでも葬式はいらぬ。わしの墓に頼朝の首を捧げよ」

清盛はもがき苦しみ、跳ねまわりながら息を引き取りました。64歳でした。

京の人々は「悪業の報いがきた」とささやきあいました。

清盛の死因は、マラリアではないか、と言われています。

もっとも、夏ではないので、マラリアとは別の病気かもしれませんが。

清盛が亡くなると、源義仲が京へと攻め込みました。

平氏は袖を涙で濡らしながら、女官、子供らとともに都を落ちていきます。

その義仲も、頼朝の命令で義経に討たれます。

義経は、屋島の戦い、壇ノ浦の戦いで平氏を追い滅亡させます。

しかし、義経は、頼朝の許可なく後白河法皇から官位をもらってしまったために、頼朝の逆鱗に触れ、追われる身となってしまいました。

「義経を追う名目」として、朝廷に認めさせたのが守護、地頭の設置です

守護は国ごとにおかれ、悪い奴をつかまえたりして国を守りました。

地頭は、荘園や公領で、年貢を取り立てました。

PS 清盛は、じつは結構優しい人物だったようです。召使にも親切にし、人柱の慣習をやめ、情け深い人だったようです。

 

<戦の語呂合わせ>

次は、一の谷の戦い、屋島の戦い、壇ノ浦の戦いの語呂合わせです。

順番は「イヤだ」で一の谷→屋島→壇ノ浦です

じゃあ、それぞれ戦った舞台はどこでしょう?

語呂合わせです

「切磋な一夜だ」

「切磋な」の「摂津、讃岐、長門」と「一夜だ」の「一の谷、屋島、壇ノ浦」が対応してます

「せっ」(摂津) → 「一」(一の谷)

「さ」(讃岐)  → 「夜」→屋島(屋島)

「な」(長門)  → 「だ」(壇ノ浦)

ということで、

一の谷が摂津。今の兵庫県

屋島が讃岐。今の香川県。高松市

壇ノ浦が長門。今の山口県下関市

です

日本語で「切磋な」なんて言い方はしませんけどね。

壇ノ浦の戦いで、幼い安徳天皇が海の底に沈んでいくシーンに胸が痛くなりました。

「海の底にも都はございます」と安徳天皇を抱え入水した祖母・二位の尼

安徳天皇は、そのときまだ6歳でした

 

 

<頼朝の血筋>

※系譜図入れる

頼朝の血筋の語呂合わせです

「常に真ん中の信義家。親の為、朝より果実を」

 

「常に」→経基

「真ん中の」→満仲

「信義家」→頼信、頼義、義家

「親の為」→義親、為義

「朝より」→義朝、頼朝

「果実を」→頼家、実朝

頼朝が武士たちに担ぎ上げられたのも、負けてもさらに味方が増えたのも、頼朝個人の力もあったかもしれませんが、いちばんは源氏の嫡流という血筋のおかげなんですね。

頼朝は清和天皇の血をひく清和源氏。

清和源氏には、他にも、足利尊氏や武田信玄といった層々たる人物が出ています。

 

ポイント

はじめの経基・満仲以外は、頭に「頼」がついていたり、頭かお尻に「義」がついてます。

「信義家」の部分の「頼義」「義家」ですが、「よりよしいえ」と覚えると頼義・義家って感じで覚えられるかなと思います

 

 

 

 

<初代長官の語呂合わせ>

次は、鎌倉幕府の初代長官の覚え方です

侍所は、武士を統括する役職

公文所はお金を扱ったり、事務的な文書を書くところ

問注所は裁判なんかをしたところ

その初代長官の語呂合わせです

2パターンつくりました

パターン①

「見よ、門を!怖れ多くも和田侍だ」

見よ、門を!→三善康信は問注所の初代長官

怖れ多くも→大江広元は、公文所の初代長官

和田侍だ→和田義盛は、侍所の初代長官です。

パターン②

「わさびの多くは三文」

わさびの→和田・侍所

多くは→大江・公文所

三文→三善・問注所

ちなみに侍所と公文所の長官は「別当」といいますが、問注所の長官は執事。

ややこしいですね。

こんがらがったら、こう唱えましょう。

「羊の門番」→「執事の門番」→「執事は問注所」

ということで「見よ、門を!怖れ多くも和田侍だ」か「わさびの多くは三文」。お好きな方でどうぞ

 

 

<粛清や乱の時系列語呂合わせ>

「火事はひき、畑は平らに。話題のジョーク」

火事→梶原景時の変

ひき→比企能員の変

畑が→畠山重忠の乱

平らに→平賀朝雅(ひらがともまさ)

話題の→和田合戦

ジョーク→承久の乱

平氏を倒した後には、粛清の嵐がおこります。

上総介広常暗殺が暗殺され、梶原景時も、比企能員も討たれました。

そして、畠山重忠や、和田義盛も討たれ、平賀朝雅(ひらがともまさ)も敗死しました。

ドラマだと平賀朝雅は暗殺されてますけど、史実では合戦をして負けて死んでしまったんですね。

その後、承久の乱がおこります。

このチャンネルの語呂合わせは高校レベルでつくってますんで、上総介広常暗殺は入れなかったんですけど、もし上総介広常も入れると

「数ある火事ひき、畑は平らに。話題のジョーク」

って、感じになります。

 

<慈円の語呂合わせ>

ドラマではいつも後鳥羽上皇の傍にした僧侶の慈円。

山寺 宏一さんが演じてましたね。

慈円の語呂合わせです

「ジ・エンド。天才の求道」

ジ・エンド→慈円

天才→天台宗の

求→愚管抄

道→道理

慈円は天台宗の偉い僧侶。

慈円が書いた歴史書が「愚管抄」です。

これは、「道理」をもって書かれたはじめての歴史書です

武家社会の慣習を「道理」といいます。

ちなみに、幕府の正史は吾妻鑑です

 

 

<摂家将軍の語呂合わせ>

3代将軍実朝が亡くなりました。

さて、次の将軍はどうしたらいい?

そうして摂関家から招かれたのが幼き三寅様です。

摂家将軍の語呂合わせです

「苦情常に償います」

苦情→九条

常に→頼経(4代将軍)

償います→頼嗣(5代将軍)

ということで、九条頼経→頼嗣です。

摂関家から来た幼き三寅様は後に4代将軍となります。

元服後の名前は、九条頼経。藤原頼経でもOKです。

しかし、大人になり、物事が分ってきて邪魔になってきた九条頼経を、幕府は追い出してしまいます。

次に迎えたのが、また摂関家からきた九条頼嗣です

 

 

<皇族将軍の語呂合わせ>

「こうもぞくぞく。胸の高まり。これ久しぶり」

こうもぞくぞく→皇族将軍

胸の高まり→宗尊親王

これ→維康親王

久しぶり→久明親王

 

摂家将軍、頼経・頼嗣の後は、皇族から呼ばれた皇族将軍が立ちます。

宗尊親王→維康親王→久明親王とつづきます。

 

では、九条頼経・頼嗣→宗尊親王・維康親王、・久明親王を通してみます

「苦情常に償います。胸のたかまり、これ久しぶり」

苦情常に→九条頼経

償います→頼嗣

胸の高まり→宗尊親王

これ→維康親王

久しぶり→久明親王

 

 

 

どうもありがとうございます。

これからも、こうした解説や語呂合わせ、どんどん作っていきますんで、チャンネル登録してお見逃しないようお勧めします。

2弾目もつくりますんで、ぜひまたよろしくお願いします

 

 

 

 

 

 

 

 

2つめのyoutube(来週用)

 

鎌倉殿で覚える語呂合わせ2段目です

今日も、鎌倉殿にちなんだ語呂合わせをいくつか紹介しますね。

幕府のしくみ、承久の乱、歴代執権などいろいろ。

まずは、主な執権の語呂合わせです。

<主な歴代執権>

問題

次の執権を順番に並び替えられるかな?

時政、時宗、泰時、高時、時頼、義時、貞時

はい。覚え方です

「正義は安さより胸の抵抗」

正→時政(初代)

義→義時(2代)

安さ→泰時(3代)

より→時頼(5代)

胸の→時宗(8代)

抵→貞時(9代)←貞時の貞は「てい」とも読んでください

抗→高時(14代)

 

 


 

<承久の乱>

次は後鳥羽上皇のおこした承久の乱の語呂合わせです。

後鳥羽上皇は、多芸多才で武芸にも優れていました。

和歌に優れてて、笛や琵琶の演奏、蹴鞠や、囲碁などのゲーム、はては盗賊を自ら捕まえてしまうほどの豪の人で、相撲や水泳、弓馬にも優れていました。

でも、なんでもできちゃう多才な人だったからこそ、朝廷を差し置いて鎌倉が力をつけていくことに我慢できなかったんでしょうね。

承久の乱をおこして敗れてしまいます。

負けた時のいいわけが、また酷いんです

一生懸命に尽くしてくれた武将が戦の情勢を報告しに行ったのですが、すでに負けそうだったため、門を閉じたまま彼らを入れようとしなかったんです。ドラマでは対面したシーンになっていましたけどね。

彼らは、門を叩いて罵りました。

「こんな臆病者の言うことを聞いたせいで、身をあやまったわ」

後鳥羽上皇は、さらに鎌倉に

「此度のことは、私の家来どもが勝手にやったことで、私の本意ではない」

といった手紙をおくり、自分のために戦った家来を討てとの院宣を出したのです。

後に北畠親房や、新井白石も、歴史書で後鳥羽上皇を、徹底して酷評してます

 

 

 

 

<西面の武士>

この後鳥羽上皇、院の警備をするとの名目で「西面の武士」をおきました。

もっとも、この頃から、鎌倉幕府を倒そうという気持ちがあったのでしょうね。

「西面の武士」に似ているもので「北面の武士」「滝口の武士(滝口の武者)」というものもあります。

北面の武士は白河上皇、滝口の武士は宇多天皇がおきました。

語呂合わせです

「滝打たれ来た、シロ最後」

滝→滝口の武士

打たれ→宇多天皇

来た→北面の武士

シロ→白河上皇

最→西面の武士

後→後鳥羽上皇

ということで

滝口の武士は宇多天皇

北面の武士は白河上皇

西面の武士は後鳥羽上皇

ちなみに承久の乱の後、西面の武士はなくなりました。つまり本当に「最後」になっちゃったんです。

 

 

<新古今和歌集>

後鳥羽上皇は、ドラマでも和歌を通して、実朝と交流がありましたよね。

後鳥羽上皇は歌の実力もピカ一。

藤原定家・家隆親子に命じて「新古今和歌集」を作らせます。

語呂合わせ

「おしんこの定価、言えたか。仕事番」

おしんこ→新古今和歌集

定価→藤原定家

言えたか→藤原家隆

仕事番→後鳥羽上皇

「おしんこの定価、言えたか、後鳥羽院」としてもいいかもです。

後鳥羽上皇が命じて、藤原定家・家隆親子が歌を選んだんです。

ちなみに定家の「家」。家隆の「家」と、「家」でしりとりになっているから「さだいえたか」とすると、ちょっとおぼえやすくなるかもしれないですね。

ちなみに実朝の和歌集は、金槐和歌集です。

 

 

 

 


 

 

後鳥羽上皇は、承久の乱後に隠岐の島に流されます。

土御門上皇は土佐へ、順徳天皇は佐渡へ流されました。

語呂合わせ

「鳥」が「羽」で「沖の島」へ飛んでった、みたいなイメージで、後鳥羽上皇は沖ノ島と覚えましょう。

土御門上皇は土佐へ。土御門の「土」、土佐の「土」が同じですね。

順徳天皇は佐渡へ。佐渡といえば金で有名なので、「佐渡の純金・佐渡の順徳」。順徳天皇は佐渡に流されました。

 

 

 

 

 

<六波羅探題>

承久の乱の後、京都に六波羅探題がおかれました。

六波羅探題は、京都で朝廷を監視する役目です。

これまでの「京都守護から六波羅探題」と名前が変わったんですね。

承久の乱を平定しに京へと向かう泰時と時房。

彼らは、承久の乱を平定し、そのまま六波羅探題として京都に残ったんです。

京都の北側と南側を見るということで、2人が任命されたわけなんです。

ちなみに、泰時は義時の息子。

時房は義時の弟。

だから、泰時と時房は、おじさん・甥の関係になりますね。

語呂合わせ

「承久後、泰時房が京都でロック」

承久後→承久の乱後

泰時房が→泰時と時房

京都で→京都守護

ロック→六波羅探題

「京都でロック」で「京都守護から六波羅探題」と名前が変わり、「泰時房」の泰時と時房が、その六波羅探題に任じられた

というわけです

 

 

 

<連署・評定衆>

その後、義時が死んだという話を聞き、泰時は急ぎ鎌倉へと戻りました。

義時の葬式には間に合いませんでしたが、泰時は、義時のあとを継ぎ3代執権となりました。

泰時は思いました。

「執権が独裁するような政治ではいけない」と。

そして言いました。

「執権を助ける役職<連署>をつくりました。時房おじさん、連署になって私を助けてください」

こうして時房が連署になりました。

さらに泰時は言います。

「これからは、大事なことは、執権と連署と、有力御家人で話し合って決めることにします。この有力御家人を評定衆と呼びます」

こうして、泰時が置いたのが評定衆です。

評定衆は11人の有力な御家人が任命されました

この話し合いの機関を「評定」といいます。

評定は、「執権」、「連署」と、11人の重臣御家人「評定衆」の13人で行われたんですけど、頼朝が亡くなったあとの13人の合議制を参考にしたのでしょうね

これを現代の内閣に例えてみると、こうなります。

内閣が「評定」

内閣総理大臣が「執権」

副総理大臣が「連署」

大臣のみなさん方が「評定衆」

ちなみに、総理と副総理・・・・もとい「執権」と「連署」は、北条氏しかなれませんでした。

「執権」「連署」「評定衆」をまとめて、「失恋表」とゴロ合わせてみました。

この「失恋表」で、いろいろなことを話し合って決めたんですね。

 

 

 

 

 

 

 

御成敗式目(貞永式目)

ところで、そのころは、武士同士で土地をめぐる争いが絶えませんでした。

「このままではいけない」

泰時は御成敗式目という武士の法律を作りました。

「悪口は言うな」

「人殺しをしてはいけません」

といったことが書かれた、武士のはじめての法典です

三代執権の泰時は、清廉潔白な名君と言われました。大飢饉のときには、飢えに苦しむ人々を救うために米を分け与え、人々から尊敬されたとのことです。

ドラマで、次期将軍として迎えられた幼き三寅さまは、泰時が執権になった時に4代将軍となります

語呂合わせ

「安っ。SEX練習の表情」

安っ→泰時

SEX→摂家将軍(摂関家より来た九条頼経、将軍になる)

練習の→連署おく

表情→評定衆おく

 

 

 

 

 

 

<図>参照 下の図(ネットより拝借)のようなものを添付

 

 

 

<鎌倉幕府のしくみ>

鎌倉幕府は、最終的にこういう形の組織になりました。はじめから、こういう形だったんじゃなくって、徐々にいろんな役職が増えて、最終的にこうなったって感じです

合議制・・・今の内閣みたいに、いろいろと話し合って物事を決めるのが「失恋表」でしたね。執権、連署、評定衆です。

ほかの役職も説明していきますね。

まずは中央。

「オレが御家人をまとめていくぜ。警察事は俺にまかせろ。悪いことするヤツはオレが捕まえてやる。いざ戦になったら、オレ様が御家人を仕切っていくぜ」が侍所

「幕府の財布を扱ったり、事務的な文書を書くのは、私にまかせて」公文所です。のちに政所となります。

「何?いざこざ?裁判だったら、私の出番」問注所です。

「最近は土地のもめ事が多いでござる。土地を専門にした裁判は、この引付衆がいたそう」引付衆です。引付衆は北条時頼が執権の時にできました。

次は地方です。

「九州の御家人は、わしが束ねましょう」→鎮西奉行

「奥州の御家人は、拙者に任せよ」→奥州総奉行。

「京都市内の平和はオレが守る。朝廷と幕府の連絡もするぞ」が京都守護。しかし承久の乱後は、朝廷の監視もしなければならなくなって、六波羅探題と名前が変わりました。

守護は国ごとにおかれ、悪い奴をつかまえたりして国を守りました。

地頭は、荘園や公領で、年貢を取り立てました。

語呂合わせ

「失恋表。寒くも引き付け。今日、陳王習字」

「評定」・・・大事なことの話し合いは、「失恋表」つまり執権と連署、そして11名の評定衆で行われました。こちらも「鎌倉殿の13人」と同じく合計13人になっていますね

ハイ、全部まとめた語呂合わせです。

「失恋表。寒くも引き付け。今日、陳王習字」

お偉いさんで話し合って決める評定が、「失恋表」です

失→執権

恋→連署

表→評定衆

「中央の役職が、寒くも引き付け」

寒→侍所

く→公文所(のち政所に)

も→問注所

引き付け→引付衆

「地方の役職が、今日陳王習字」

今日→京都守護(のち六波羅探題に)

陳→鎮西奉行(のち鎮西探題に)

王→奥州総奉行

習→守護

字→地頭

 


 

はい、どうもありがとうございます。

次の大河は、徳川家康ですね

楽しみですね

じゃあ、またね。

バイバーイ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

youtubeに載せる前の下書原稿です/

 

 

 

 

ショート動画①

明治時代につくられた五か条の御誓文を作った3人。あてはまらないのは誰?

1,坂本龍馬

2,由利公正

3,大久保利通

4,福岡孝弟

5,木戸孝允

答えは1と3

五か条の御誓文は、由利公正が原案を書いて、福岡孝弟が手を加えて、木戸孝允が仕上げたよ。

語呂合わせ

「百合の服。きっと高いし」

百合の→由利公正

服→福岡孝弟

きっと高いし→木戸孝允

本編動画も作りましたので、よろしくお願いします

 

 

ショート動画②

明治時代の徴兵令。

兵隊にとられたのは、何歳から?

1、20歳

2,25歳

3,18歳

4,22歳

5,97歳

答えは20歳。

男性は20歳になると3年以上兵隊に行かなくてはなりませんでした。ただし、免除の条件もありました。

語呂合わせ

「20さと、戸主の後に次男いう」

20→20歳で

さ→3年以上の兵役

戸主→戸主(一家の主)

後に→跡取り

次男→270円以上の代人料を払った者

男性は20歳になると3年以上、兵役につかなければなりませんでした。

でも一家の主や、跡取り、代人料を270円以上支払った人は免除されました

本編動画も作りましたので、よろしくお願いします

 

 

 

 

 

ショート動画③

明治時代。次の5つのできごとを、順番に並び替えられるかな?

学制

五か条の御誓文

版籍奉還

地租改正

徴兵令

廃藩置県

答えは?

では、語呂合わせで説明します

「ごはんよ」

「ハイ、学長!」

「ごちそうさまです」

 

ご→五か条の御誓文

はんよ→廃藩置県

ハイ→廃藩置県

学→学制

長→徴兵令

ごちそうさま→地租改正

本編動画も作りましたので、よろしくお願いします

 

 

 

 

 

 

今日は明治時代ができてからの出来事の語呂合わせだよ。

今日の語呂合わせは

①五か条の御誓文→版籍奉還→廃藩置県→学制→徴兵令→地租改正の時系列の語呂合わせ

②五か条の御誓文をつくった3人の人物

③徴兵令免除の対象

の3つです

では、いきましょう!

<五か条の御誓文・五榜の掲示>

江戸幕府を倒した新政府軍。

「新政府はこういう方向で政治をしていきます」

天皇が神々に誓うという形で新政府の5つの方向性がしめされました。

五か条の御誓文です

余談ですが、この原案を作った由利公正は、坂本龍馬と大の仲良し。

竜馬が福井に来たときは、早朝から晩まで、日本の未来について、語り明かしたといいます。

 

さて五か条の御誓文の翌日、村々の民衆にも5つの禁令が出されました

・キリスト教は禁止ですよ

・外国人へ暴力をふるってはいけません

・人を殺したり、ものを盗んじゃいけません。

など、江戸時代のおふれと、かわりのないものでした。五榜の掲示です。

<版籍奉還>

その後、版籍奉還が行われます。

「大名は土地(版)と人(籍)を朝廷に返しなさい」

政府が言うと

「はい、わかりました」

薩摩・長州・土佐・肥前が了承し、他の藩もこれにならいました。

藩主は知藩事と名前が変わりましたが、これまでどおり、その土地にいることができました。

しかし・・・。

「旧藩主がこれまでどおり、その土地をおさめているのでは、これまでと何も変わらない」

「いっそのこと藩をなくしてしまおう」

そうして行われたのが廃藩置県です。

<廃藩置県>

「知藩事さん。あなたは今度その土地を離れて東京で暮らしてください。代わりにその土地をおさめる者を中央から送りますので」

知藩事(旧藩主)は、華族という身分を与えられて東京で暮らすことになりました。

一方、その土地へは、中央から、府知事・県令という役人が派遣されました。

<学制>

「誰もが教育を受けられるようにしよう」

政府は「学制」を公布しました。

6歳以上の男女は、学校に通うのを義務づけられたのですが・・・。

「学校を建てるのも、先生の給料を払うのも、俺たち庶民の負担だって!?」

「子供を学校にとられたら、田畑の手伝いは誰がするんだ!」

と人々は怒り、学制反対一揆が各地で起こりました

<徴兵令>

「国を強くする(富国強兵)ためには、国民すべてを兵隊にして強い軍隊をつくらねばならない」

そうしてできたのが徴兵令です。

でも、「兵役は血税のようなもの」という政府の文章を、「えっ?血をとられるんだって?」と勘違いして一揆(徴兵令反対一揆)がおきたりもしました。血税一揆です。

その後、地租改正も出されます

<地租改正>

政府は言います

「これまでは、田畑を勝手に売ったり、好きなものを作ってはいけませんでしたが、今後はどうぞ自由にやってください」

「今度からは土地の値段を決めるんで、税は、それに応じたお金で納めてください」

「年貢でなくて、お金で支払うんですか?」

「ええ。土地の値段(地価)の3%を、土地の持ち主がお金ではらってくださいね」

 

<語呂合わせ>

では、語呂合わせ行きます

「ご飯よ」

「はい、学長」

「ごちそうさまです」

ご→五か条の御誓文・五榜の掲示

はんよ→版籍奉還

ハイ→廃藩置県

学→学制

長→徴兵令

ごちそうさま→地租改正

です

 

次は五か条の御誓文を作った3人の語呂合わせです

「百合の服。きっと高いし」

百合の→由利公正

服→福岡たかちか

きっと高いし→木戸孝允

由利公正が起草、つまり原案を書いて、福岡が修正し、木戸孝允が仕上げたんだ

余談ですけど、五か条の御誓文は、竜馬が新政府のありかたについて船の中で考えたといわれる策・「船中八策」と似ている部分も多いとのことです。もっとも原文書なんかも残ってないので、船中八策自体が創作だなんて説もありますけど。

 

徴兵令

男性は20歳になると3年以上兵隊に行かなくてはなりませんでした。

でも免除される条件がありました

語呂合わせ

「20さと、戸主の後に次男いう」

20→20歳で

さ→3年以上の兵役

戸主→戸主(一家の主)

後に→跡取り

次男→270円以上の代人料を払った者

男性は20歳になると3年以上、兵隊さんにならなければなりませんでした。

でも一家の主や、跡取り、お金を270円以上支払った人は免除されました

 

 

 

 

 

 

 

 

<金融>

新政府は、戊辰戦争で幕府と戦っているさなか、困っていました。

「お金がない、どうしたらいい?」

「戦争する金もないよ」

「とりあえず・・・お金刷っちゃう?」

政府は紙きれに10両などと印刷した紙幣をバンバン刷りました。太政官札、民部省札です。

しかし、これは金や銀と交換できないお札でした。(金や銀と交換できないお札を不換紙幣といいます。「不換」で「変えられない」紙幣ですね。)

こんなインチキくさいお金をバンバン刷ったので、お金の価値が落ちて、物の値段が上がってしまいました。

 

伊藤博文はいいました。

「これは、まずい。今まで政府が発行していたお札(太政官札・民部省札)は、発行禁止にしよう」

さらに言いました

「これからは、お金の単位も統一しよう。今、世間ではいろんなお金が出回っとる。江戸時代から使っているお金に、各藩が発行する藩札。それから政府が刷ったお札(太政官札・民部省札)」

「これだけいろんなお金が出回っていると、ぐちゃぐちゃで、何が何だかよく分からん。だから通貨を統一しよう」

そうしてできたのが新貨条例です。

「新」らしい「貨」幣の「条例」で「新貨条例」です

「通貨を円、銭、厘に統一しよう。まず、これまでの1両を1円と定めよう。そして1円は100銭、1銭は10厘というように10進法にしよう」

さらに伊藤は言います。

「もっと信用できるお金を作りたい。この紙切れがちゃんと金と替わるという保証があれば、信用されるはずだ。きちんと金と交換できる紙幣をつくろう(金本位制)」

しかし、江戸時代に金がどんどん外国へ出て行ってしまったので、日本には、それだけの金がありませんでした。

「では、金と銀、両方で交換できる紙幣をつくろう(金銀複本位制)」

ということになりました。

 

その後、渋沢栄一の提案によって国立銀行条例が出ました。

「国立銀行って、政府が作った銀行なの?」

「いや、民間が作った銀行なんだ。三井や小野といった大金持ちによってつくられたんだ」

「民間なのに国立銀行?」

「お手本にしたアメリカのナショナルバンクを、渋沢栄一が、そのまま国立銀行と訳したんだけど、じつは民間の銀行なんだよ」

当時の政府は、貧乏でお金がありませんでした。

政府は思いました。

「ちゃんと金と交換できる信用されるお札を発行したい。でも、そのためには、お札と交換できるだけの金(きん)を持っていなくちゃならない。とはいえ、今の貧乏政府に、そんな金はないし、どうしたもんだろう」

そんなとき、渋沢栄一が言いました。

「アメリカでは民間の銀行がお札を刷っていますよ。日本もそうしてみたらいかがでしょう?」

「それはいい。では、国が認めた銀行に、金と交換できるお札を発行してもらおう」

とはいえ、民間にもそれだけの金を持っている人はあまりいませんでした。

だから、けっきょく銀行は4行しかできませんでした。

そこで政府は条例を改正しました。

「もう仕方ない。金と交換できない紙幣でもOKです」

そうしたところ、153もの銀行が乱立しました。

ちなみに、金と交換できる紙幣を「兌換紙幣」

金と交換できない紙幣を「不換紙幣」といいます

「不換・・・変えられない」「紙幣」で、不換紙幣です

語呂合わせ

「国立だしと、人ゴミ俯瞰」

国立→国立銀行条例

だ→兌換紙幣(金と交換できる紙幣)

し→4行

人ゴミ→153

俯瞰→不換紙幣(金と交換できない紙幣)

・・・ということで、兌換紙幣の発行が義務付けられたときは4行。「不換紙幣の発行でもOKですよ」と条例が改正された時は153行の国立銀行ができました。

 

 

補足です

より正確にいうと、兌換紙幣は、政府が発行した金貨や銀貨などの正貨と交換できる紙幣、ってことです。

金貨には、もちろん金が含まれています。

これと交換できる紙幣だったら、安心ですし、信用できます。

ただの紙きれではありません。なんせ金と交換できる紙幣なんですからね

でも、これと交換できない紙幣「不換紙幣」だと、「大丈夫かな」「本当に信用していいのかな」と心配になります。

安心できない紙幣を、どんどん乱発すると、お金の価値が落ちてしまいます。

「金」といっても、金の延べ棒や金塊とかでなく、政府の発行する正貨「金貨」のことなんですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ショート動画

明治時代の国立銀行は、国がつくった銀行である。イエスかノーか?

答えはノー。

政府はいいます

「金と交換できる信用されるお札を刷りたい!」

「それには、お札と同じだけの金を持ってなければならん。とてもそんな金はない」

「では民間の銀行にお願いしよう。金と交換できる兌換紙幣を刷ってもらうんだ」

そうして任された民間の銀行が国立銀行です

でも、民間だって金はないです。

出来た銀行は4行だけでした。

そこで、「金と交換できないお札<不換紙幣>を刷ってもOKですよ」と言ったところ、153もの銀行が乱立しました

語呂合わせ

「国立だし、人ゴミ俯瞰」

国立→国立銀経条例

だ→兌換紙幣

し→4行

人ゴミ→153

俯瞰→不換紙幣

 

国立銀行条例は

兌換紙幣が義務付けられたときは4行が

不換紙幣の発行でもよくなった時には153行ができました

57秒


 

 

 

岩倉使節団

今日の語呂合わせは、岩倉遣欧使節団のメンバーと、明治6年の政変で下野した人達。

 

 

江戸時代、幕府が外国と結んだ条約は、日本に不利な条約でした

「外国人が日本で犯罪をおかしても、日本が裁くこともできない」

「関税も自由に決められない」

「いつまでもこのままじゃいけない。外国と交渉して、条約を改正してもらおう」

こうして右大臣・岩倉具視を全権とする、岩倉使節団が予備交渉として欧米にむかいます。

他のメンバーに、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文といった主要メンバー、あと津田梅子のような女学生らもいました。

彼らは、まずアメリカに向かいます。

かなり歓迎もされたのですが、条約の件では、まったく相手にされませんでした。

「弱小国なのでまるっきり相手にされませんな」

「このぶんだと、どこにいっても同じかもしれん」

「では、西洋の国家制度や産業をよく学んで、今後の国づくりに生かしていきましょう」

岩倉らはイギリスやフランス、ドイツなどを回りました。

一面大理石の床にビックリしたり、水道の蛇口から水が出るのにも、驚きました。

プロイセンではビスマルクに諭されました。

「今の日本が外国に相手にされないのは当たり前だ。まずは国の力を付けることだ。富国強兵をしないで条約を改正しようとしても、ヨーロッパ人は相手にはしないだろう」

大久保らは、富国強兵、軍事力の必要を身に染みて感じました。

そんなころ、留守にしていた日本では、とんでもないことがおこっていました。

征韓論です。

新政府になってから、日本と朝鮮の国交は途絶えていました。

「また、国交を結び直しましょう」

という日本に対して、朝鮮の返事はノーというものでした。

板垣退助はいいます。

「朝鮮がそう出るなら武力をもって、開国させよう」

西郷隆盛も

「まず、おいどんが朝鮮に行き説得してくるでごわす。それでもダメなら出兵しましょう」といいました。

岩倉らはそれを聞いて、驚きました。

「とんでもないことだ。今はそんなことをしている場合じゃない。内政と国力の増強の方が大事だというのに」

海外に行き、日本と外国の力の差を痛感していた彼らは思います。

そして、征韓論をつぶしてしまいました。

西郷は「おいどんは、薩摩に帰るでごわす」

と言って、政府を去りました。

同じく、板垣退助、江藤新平、副島種臣、後藤象二郎らのメンバーも政府を去っていきました。

明治6年の政変です

では、語呂合わせいきます

1,岩倉遣欧使節団のメンバー

「岩木戸に、いと多き梅」

岩→岩倉具視

木戸に→木戸孝允

いと→伊藤博文

多き→大久保利通

梅→津田梅子

(ほかにも、たくさんいますけどね)

 

 

2,明治六年の政変で下野(政府を去った)人達

「明治6年。最後に添えて」

明治6年→明治6年の政変

さ→西郷隆盛

い→板垣退助

ご→後藤象二郎

添→副島種臣

え→江藤新平

※ちなみに、西郷は「最後に」の「最後」、副島種臣は「添えて」の「添え」で二重にかかっているので、覚えやすいかなと思います

今日も見てくれてありがとう。よかったらチャンネル登録してね

 

PS.余談:岩倉らは2年近くで世界一周をした。このときの予算は国の1.1パーセントにもなったといいます。でも、十分元はとりましたよね

 

 

 

 

 

 

 

<原敬内閣>

米騒動(寺内正毅内閣のとき)の後、元老たちは話し合っていました。

「次の首相をどうするか」

「もう軍や閣僚中心の超然内閣では、世論が許してくれません」

「うむ」

「では、衆議院で多数をしめた立憲政友会の総裁・原敬くんになってもらいましょう」

元老・西園寺公望の推薦で、次の首相には原敬が任命されました。

人びとは噂しあいます。

「きいたか、今度、首相になった原敬は爵位(侯爵や伯爵など)をもっていないんだ。華族じゃない。俺たちと同じ平民なんだ」

「平民宰相かあ、そいつは、すばらしい」

「しかも、陸軍大臣と海軍大臣と外務大臣以外はすべて党員・・・・立憲政友会のメンバーなんだ」

「そりゃ、本格的な政党内閣だな」

「そう、平民出身の原首相なら、きっと俺たち平民の願いを聞いてくれる。いい政治をしてくれるぞ」

原敬は、爵位を持たないので、平民首相とよばれ、人気がありました。

 

<4つの大きな目標>

原敬は、4つの大きな方針を決めました。四大政綱です

1,教育施設の充実

2,道路や鉄道網を

3,産業と貿易の推進

3,国防の充実

です。

「大学と言えば、これまでは帝国大学しかなかったけど、今後は、公立の大学や私立の大学を認めていこう。(大学令)」

「鉄道院を省に昇格させよう、道路や電話への予算も増やそう(道路や通信網)。「電話も、もっと普及させよう」

「国防も充実させよう。戦艦8隻、巡洋艦8隻を中心とした八八艦隊を建設しよう。それについての予算を組もう(国防→7年後に完成予定)」

 

<パリ講和会議とベルサイユ条約>

原内閣は、第一次大戦が終わった後の内閣でした。

「大戦が終わった。さあ、これからどうするか。」

世界は、これからのことについて話し合うことにしました。

そして、パリ郊外のベルサイユ宮殿で、パリ講和会議が開かれ、日本も勝ち組として参加しました。

日本の全権は西園寺公望。

そして、大久保利通の次男、牧野のぶあき(吉田茂の義父でもある)らも参加しました。

そこで結ばれたのがベルサイユ条約です。

 

<ベルサイユ条約>

日本の全権は西園寺です。

各国は皆、好き勝手に自分の言いたいことを主張します。

「日本は、これまでドイツが支配していた地域をそのままいただきたい。ドイツが持っていた中国の利権と、ドイツが持っていた太平洋の島をいただきたい」

「我がイギリスは、ここと、あそこが欲しい」

「わたし、フランスはここが欲しい」と。

けっきょく、日本はドイツが占領していた領地をもらい受けることになりました。

①「中国山東省でドイツが持っていた権益」。

②「ドイツが持っていた南の島々(赤道以北ドイツ領南洋諸島)の委任統治」

を認めてもらいました。

大役を果たせて、西園寺の顔には満面の笑みが浮かんでいました。

他にも、日本は、「人種差別を撤廃しよう」という発言をしたのですが、これはアメリカやイギリスに反対されてしまいました。アメリカやイギリスは、未だ根強い人種差別意識があり、とうてい受け入れられなかったようです。

 

 

 

<国際連盟>

「各国は自分の言いたい放題だ。でも、せめてこれからは、二度と戦争が起こらないように、世界全体で話し合う機関がほしい」。

アメリカのウィルソン大統領はこう考えました。

そうしてできたのが、国際連盟です。

でも、言い出しっぺのアメリカは議会の反対にあい、国際連盟に参加しませんでした。アメリカ議会(上院)は、アメリカが世界のことに、これ以上首をつっこむのには反対だったのです。(注:モンロー主義。アメリカは中立を守り、ヨーロッパのことには口出しをしない)

また、ソ連、ドイツは加盟を認められませんでした。

国際連盟の中心になった常任理事国は、イギリス、フランス、イタリア、日本の4国でした。

国際連盟には、「軍を持たない」、「武力制裁はしちゃダメ」、「全会一致で決める」というお約束がありました。一見素晴らしいことのようですが、しかし、このことが後にドイツが暴走した時に止められない足枷ともなってしまいました。

国際連盟は敗戦国のドイツに厳しく当たりました。

領土も取り上げ、13億マルクという莫大な賠償金の支払いを命じました。このことが後にドイツの暴走を生み、第二次大戦を引き起こすことになるとは当時、だれも考えていなかったことでしょう。

アメリカのウィルソン大統領は言います。

「ある民族が他の民族に干渉すべきではない。民族は独立していこう(民族自決)」

「国際社会が協力して、これから平和をつくっていこう(国際平和)」と。

これによって、ヨーロッパの多くの国が独立していきました。

しかし、これは、あくまで、ヨーロッパなどの国に対してでした。

アジアやアフリカといった、欧米列強の植民地にとっては、救いの手は差し伸べられませんでした

<三一独立運動>

しかし、ウィルソンの「民族自決(=ある民族がある民族を支配しようとするから、いつまでたっても戦争がおこる)」に影響を受け、朝鮮人が日本に対し立ち上がりました。

朝鮮の人々が漢城(ソウル)で独立を求めて立ち上がりました。

「日本の横暴を許すな」

「日本から独立をしよう」

「そうだ!独立万歳!」

と叫びながら町を練り歩きました。しかし、これは日本軍によって鎮圧されてしまいます。3月1日におきたので、三一独立運動と言います。(1919年3月1日)

→でもこの後、植民地支配を武断政治から文化政治へ改めた

・朝鮮総督の資格を軍人から文官へ

・憲兵警察を普通警察に

 

<五四運動>

怒ったのは朝鮮ばかりではありません。

パリ講和会議を見守っていた中国人も憤慨しました。

彼らは、世界が中国を助けてくれる・・・・・21か条の要求(日本が中国に叩きつけた理不尽な要求)を取り消し、山東省を返してくれるものだとばかり思っていたからです。

そして、彼らは運動をおこしました。

パリ講和会議中の5月4日、北京の学生、労働者が反日デモを起こしました。

「山東省を返せ」

「21か条の要求を取り消せ!」

「日本の品物を買うな!」

「そうだ、ボイコットしろ」。

民衆は、日本が輸出した商品を広場に集めて焼き払いました。これが、中国中へと広まっていきました。5月4日に起こったので五四運動といいます。

 

 

普通選挙には否定的

「平民宰相」と慕われながら就任した原敬ですが、普通選挙法の実施には否定的でした。

「すべての男子に選挙権を与える?それは、まだ早すぎる。ただ、このままでは国民も納得はしないだろう。だから、選挙権の資格を引き下げることにしよう」

「と言いますと?」

「これまでは選挙権の資格は、直接国税を10円納めた人だった。これを3円に引き下げることにする。あと小選挙区制を実施しよう」

小選挙区制とは、1選挙区で1人を選ぶ制度で、立憲政友会のような大きな政党ほど有利でした。

原は思います

「我が立憲政友会を支えてくれるのは、地主や資本家といったお金持ちの人だ。もし、普通選挙法を実施して、誰でも選挙で投票できるようになってしまったら、うちの党には不利になってしまう。貧乏人にも選挙権が与えられるからな」

選挙権の資格が10円から3円に引き下げられたことで、選挙権を持つ人は、全人口の△%から△%にまで増えました。

でも、直接国税3円を納められるのは、依然としてお金持ちばかりでした。

「ああ、平民宰相と期待してたのに、がっかりだよ」

「10円が3円に引き下げられたところで、俺たち庶民には、どうせ払えないし、選挙権なんてもらえやしねえ」

「まったくだ。3円ものお金を納められるのは、けっきょく金持ちだけだ。小選挙区制を取り入れたのだって、けっきょく自分たち立憲政友会に有利なようにしただけさ」

「けっ、何が平民宰相だよ」

「そうそう。それに、戦後不況で、農民や労働者が困ってようが、助けてもくれない」

「それでいて既得権益を持つ財閥は保護してやがる」

「自分たち立憲政友会は汚職事件を起こしてるくせにな」

第一次世界大戦から2年後におきた戦後恐慌で、人々の暮らしも苦しくなり、不満も渦巻いていました。

そんなある日。

「国賊め」

東京駅で原敬が刺されるという事件が起こりました。

刺したのは山手線の大塚駅職員だったといいます

このあと、日本を多くの恐慌が襲い、日本は戦争へと向かっていくことになります。

 

 

 

 

(注)「第一次大隈内閣は、初の政党内閣」「原は、初の本格的政党内閣」

大隈重信は元老に推薦されて首相になったんで、衆議院議員選挙で選ばれた議員さんじゃなかったんだ

一方、原敬は衆議院選挙で勝ち抜いて議席を獲得したんだ。衆議院の大多数党の総裁として初の首相となったから、まさに「本格的」な政党内閣ってわけ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

<寺内正毅内閣。シベリア出兵と米騒動>

大隈は立憲同志会の総裁加藤高明を次の総理にしたかったのですが・・・。

「ナニ?」

政党嫌いの山県有朋は顔をしかめました。

「それでは、政党内閣が確立されてしまうではないか!次は陸軍大将で、朝鮮総督の寺内君を首相に推薦しよう」

元老会議で山県は、この案を押し切ります。

そうして生まれたのが、寺内正毅内閣です。

「今度の寺内は山県の子分(山県人脈)らしいぜ」

「ああ、政党からの入閣者なんていやしない。山県の息のかかった官僚や、朝鮮総督時代から寺内と関係のある者ばかりさ」

「また超然内閣か」

「ああ。ビリケン内閣だな」

「ビリケン?」

「非立憲内閣のことさ。ビリケン人形って知ってるかい?アメリカの人形さ。あの禿の寺内がビリケン人形に似てるからな」

「非立憲とビリケンをもじったってわけか」

寺内は、ビリケン人形という当時アメリカで流行っていた人形に似ていたので、「ビリケン内閣」と呼ばれました。

 

 

 

西原借款

当時の中国は、どうなっていたのでしょう。

袁世凱が亡くなり、その後釜として段祺瑞が権力を握っていました。

段祺瑞は、中国政府ではなく、北京の軍閥政府です。

寺内は「中国をコントロールしよう」と思い、秘説秘書西原亀三を通じ1億4500万円という多額のお金を段祺瑞に無担保で貸し付けました。

でもけっきょく、このお金は軍事資金として使われちゃって、作戦は失敗に終わってしまいました

 

 

 

<石井ランシング協定>

「日本はアメリカが中国大陸に権力を拡大することを認めましょう。そのかわり、アメリカさんも中国における日本の特殊権益を認めてね(=日本が第一次世界大戦で手に入れた領土は日本のものと認めてね)」

 

 

<ロシア革命>

第一次世界大戦中、ロシアで革命が起こりました。

レーニンの「労働者のための国をつくろう」と呼びかけに、ロシアの労働者や兵士たちが蜂起してロシアの王朝(ロマノフ王朝)を倒したのです。こうして、世界初の社会主義国、ソビエト社会主義共和国連邦ができました。

各国は思いました

「自分の国に革命が入ってきては大変だ」

「この革命が自分の国に飛び火して、自国で民衆が蜂起し、国を乗っ取られては困る」

そして、「ロシアに抑留されたチェコ・スロバキア軍の捕虜を救出するぞ」という名目のもと、イギリス、フランス、日本、アメリカがシベリアに出兵しました。

しかし、それは敵だけでなく、寒さとの戦いでもありました。

莫大な金をかけ、何も得ることなく、各国は兵をひきました。

日本をのぞき、1920年に撤兵し、日本も加藤友三郎内閣になり、ようやく撤兵しました。

 

 

<米騒動>

「シベリア出兵となれば、兵の食料調達で米不足になるだろう。よし、買い占めて値が上がるのを待って売ろう」

そうして米を買い占める商人も出ました

お米の値段があがり、各地では日々の米にも困るようになりました。

「これではやっていけない」

「こんなに米の値段があがったら、日々の暮らしもままならない」

富山県の主婦が立ち上がりました。

この出来事が新聞に掲載されると、全国でも同じような騒動が広まっていきました。

ひと月たっても収まらないのをみた寺内内閣は、ついには軍隊まで使って鎮圧する羽目となりました。

「軍隊を使うとは何事だ」

こうして寺内は失脚しました

<第二次大隈内閣。与党:立憲同志会>

山県ら元老は次の首相は誰にしようかと考えています。

さすがに、これ以上民衆の反発を招くことはできません。

とはいえ、山県は大の政党嫌い。

どうあっても政党に政治を任せたくはありません。

「こうなったら、民衆に人気のある大隈さんにお願いしよう」

大隈重信はこの時もう△歳。すでに政治の世界から足を洗い、早稲田大学の学長をしていました。

こうして第二次大隈内閣が発足しました。


~第一次世界大戦勃発~

大隈内閣が出来てすぐに、ヨーロッパで事件が起こりました。

サラエボ(ボスニア・ヘルツェゴビナの首都)を訪問していたオーストリアの皇太子夫妻が、射殺されたのです。

狙撃したのは、反オーストリアに燃えるセルビアの青年でした。

「隣国サラエボが、オーストリアに併合された。絶対にオーストリアを許してなるものか」

彼(セルビアの青年)は、オープンカーに乗っているオーストリア皇太子夫妻を狙撃したのでした。

この頃、オーストリアのバックにはドイツが、セルビアのバックにはロシアが付いていました。それに他の国々も巻き込まれ、瞬く間にヨーロッパ全土を巻き込んだ第一次世界大戦がはじまってしまいました。

ドイツは言います。

「我がドイツはイタリアと共にオーストリア・ハンガリーに味方しましょう」

この3国を三国同盟といいます。

一方ロシアも言います。

「我がロシアは、フランス、イギリスと三国協商を結んでいる。このロシアも参戦するぞ」と。こちらの3国は三国協商といいます。

 


~日英同盟を理由に日本、参戦~

「これは天祐(天の助け)だ」

井上薫は言いました。

「この戦争をきっかけに、日本は躍進できる」と。

そんなとき、イギリスが言ってきました。

「日本も兵を出して、中国にいるドイツ艦隊を打ち破ってください」

以前、日本はイギリスと日英同盟を結んでいたのです。

「もちろんです。では、ドイツ艦隊を打ち破り、中国からドイツを追い払ってあげましょう」。

日本は、これを機に中国の領土を奪い取ろうと虎視眈々と狙っています。

それを見たイギリスは言いました。

「いや、日本さん。やっぱり出兵していただかなくても大丈夫ですよ」。

日本の参戦要求を撤回したのですが、当然ながら日本は聞く耳を持ちません。

<このチャンスを逃してなるものか>

と思っていたからです。

こうして日本は第一次世界大戦に参加しました。

 


~ドイツの領土に突撃だ~

「イギリスの敵は日本の敵。だから、イギリスの敵ドイツは、日本の敵」

「よし、ドイツが侵略した領土に攻め込もう」

そう言って、日本はドイツに宣戦布告し、ドイツの領土に兵を送ります

「中国に出兵だ。ドイツが持っている山東省の青島へ兵を出せ」

「南の島(赤道以北のドイツ領南洋諸島)に出兵だ」

 

 

 


~日本。中国へ無茶な要求をする~

この頃の中国の様子はどうだったのでしょう?

中国では、孫文が革命(辛亥革命)をおこし、清王朝を倒し中華民国をつくりました。

でも、新しい政府に従おうとしない軍事集団「軍閥」が、あちこちにありました。そこで中華民国のトップは、清王朝でも力を持っていた袁世凱が引きつぐことになりました。

大隈の外相加藤高明は、中国大総統の袁世凱に、ずいぶんと無理な要求を突きつけます。21か条の要求です(1915)

1号 ドイツが山東省に持っていた権益は日本がもらいますよ(山東省のドイツ権益の譲渡)

2号 旅順・大連をあと99年借りとくけど、ヨロシク(旅順・大連の租借期限の99年延長)

3号 中国最大の民間製鉄所(かんやひょうこんす)の日中合弁

5号

ほか

「こんな内容はとても飲めたものではない。日本は中国を奴隷にするつもりか」

袁世凱は首を振ります。

しかし、最終的には、中国政府は、これらをほぼ受諾しました。

この受諾した5月9日を中国人は国恥記念日とし、中国各地で反乱がおこりました。