八重の桜を見て私が一番強烈な印象があった回はというと実は

第24回「二本松少年隊の悲劇」でした。この話タイトルが示す通り、「二本松少年隊」が主役の話で、この話どちらかというとサイドストーリーに近い話なんですが、じゃあ別に要らんストーリーかというと

けっしてそんなことはなかった。

と断言できるくらいメッセージ性溢れる完成度でした。

出陣を聞いて無邪気にはしゃぎまわる少年達、それを見ながら苦悩して葛藤する大人達、そして戦場の過酷な現実を知って初めて愕然とし、大切な人や仲間達の死に直面する少年達。一方で自分達が銃を向けていた相手が年端もいかない子供達であることを知り愕然とする新政府軍の将兵、その中で人間が本来持つ善意故に落命したある長州の人物、交流ある子供達が無情にも命を落としていくことに涙する八重ちゃん・・・・。全編にわたり、私も涙が止まらなかったです。

私、結構斜に構えた性格でドラマや映画で普通の人なら感動したり涙を流すような場面でも無粋なツッコミや皮相的に見たりしているんですが、涙腺決壊したのは日本の映像作品では『銀河英雄伝説』の「マル・アデッタ星域会戦」とこの『八重の桜』「二本松少年隊の悲劇」とあと一つだけ(この作品についてはいずれ記事にしてみたいと思います)です。今回はそんなドラマを視聴した後で是が非でもこの舞台になった二本松については絶対訪問せねばと思ってました。二本松については残念ながら映像作品で取り上げられることは殆どありません。そんな中でこれを取り上げただけでも『八重の桜』が決して凡百の駄目な大河ドラマが足元にも及ばない価値がある作品です。それでは旅行の顛末を述べていきたいと思います。

 

 白河小峰城を遠巻きに拝観したあと、再びJR線に乗車。郡山を乗り継ぎ、普通列車で1時間20分ほど。二本松駅に到着しました。

駅構内にある観光案内所(9:00~17:30 年末年始のみ休業)で情報を収集して、今回は二本松城だけではなく、二本松少年隊の足跡を辿ろうと思いましたので案内所の方からの助言でコースと時間を決めました。

 

観光案内所で見かけた本。昨年発売されたばかりだそうで、700円という手ごろな値段で結構な情報量がありました。今回の旅のメイン目的にうってつけで大いに参考になりました。幸いなことにレンタサイクルの自転車がありましたので今回も活用して回ります。、

(自転車は3時間以内300円、以降一日500円)

二本松の一番長い一日・慶応4年(1868)7月29日・二本松少年隊の足跡をドラマの展開を踏まえながら、辿ってまいります。

 

○前夜

5月に白河を失陥して以降、列藩同盟軍は白河の奪還を目指し、七度に及ぶ奪還戦を仕掛けましたが、統制無き寄せ集めの連合軍の悲しさで全て失敗に終わりました。おまけに新政府軍は多方面から続々と周辺諸藩に攻勢をかけている状況にも関わらず、救援要請に応えず白河に固執する同盟を主導する仙台・会津に対する不信が高まっていました。その結果、新政府軍に対して三春・守山藩が恭順、南方の本宮を制圧されたことにより、二本松城は郡山方面に展開していた主力軍と遮断されるという最悪の状況に陥ります。城下に残るのは少年や老人、農民からの徴兵等を入れても数百。ここで二本松少年隊について説明すると二本松藩では通常成人の扱いを受けるのは数え年20からであるが、18歳になった時点成人の旨を届け出ると成人扱いになる独自の制度がありました。この窮迫する戦況により遂に下限が数え15歳、実質13歳まで下げられる結果となりました。この時、藩主・丹羽長国と姻戚にある大垣藩から恭順(降伏)勧奨の使者が送られます。城内では重臣達が抗戦か降伏かで激論が交わされていました。既に盟主の仙台藩にしてから救援どころかほとんどの兵が撤収する状況であり、大垣藩からの取り成しの説得もあり、大勢は恭順に傾きます。しかし白石から帰還した主戦派の家老・丹羽一学の一言で急転します。

「たとえ今ここで新政府軍に降っても、奥羽諸藩に攻められ、一方で抗戦しても新政府軍に攻められる。降伏するも滅亡、抗戦するも滅亡。どちらにしても滅亡するならせめて後世に裏切りの誹りを受けることだけは避けようではないか」(縦令西軍に降り、一時社稷を存せんも東北諸藩皆我に敵たらば何を以てか能く孤城を保たん。夫れ降るも亡び、降らざるも亦亡ぶ、亡は一のみ、寧ろ死を出して信を守るに若かず)『二本松藩史』より)こうして悲壮な決意のもとに議論は決しました。そして木村銃太郎の指揮下で二本松少年隊は出陣します。

 

○開戦

木村銃太郎以下25名の隊士達は28日に奥州街道にある二本松城の南の玄関口である大壇口に着陣します。

ここまで駅から自転車で20分ほど。まさにここを突破されれば後の無い最後の閂であったと言えます。尚、「二本松少年隊」というのは後世便宜上付けられたもので当時正式につけられたわけではありません。

ドラマでは尺の都合の為、あっさり崩れた描写でしたが、実際にはかなり健闘しており、新政府軍の隊長・野津七次(道貫)が「戊辰戦争第一の激戦」と称賛しています。しかし他方面から突破されたことにより、隊は孤立下に置かれます。そして

 

戦死者が続出し、遂に「若先生」こと木村銃太郎も被弾します。ドラマでは大地泰仁さん演ずる木村が子供たちを庇って果てましたが、史実では腰に被弾して動けなくなった木村が副隊長の二階堂衛守介錯で首を刎ねられました。実際には銃弾の飛び交う中では上手く首を刎ねることが出来ず、3度も太刀で斬られるという地獄。しかも少年隊の一人・岡山篤次郎が木村の首を持とうとするも重すぎて二階堂と二人がかりで髪をつかんで退却する悲惨なものでした。…これに関しては流石に史実に忠実にはとてもできない。

ドラマでは順番が前後していますが、少年達と遭遇した薩摩勢が愕然となり、隊長(ドラマでは反町氏演ずる大山弥助ですが、史実では不明)から説諭される形で、城下に退却します。

 

○散華

しかし大隣寺に至ったところで、銃撃を浴びせられ、副隊長の二階堂と篤次郎も銃弾に斃れたのでした。

副隊長の二階堂衛守もこの時、妻とは恋愛結婚でしかも妊娠中で「もうすぐ父親になる」という創作話での死亡フラグの見本のような境遇というもう涙しか出ないものです。一方の岡山篤次郎の方も・・・

ドラマでは会津まで搬送されて八重ちゃんに看取られるという描写でしたが、史実では新政府軍の野戦病院に収容されていました。尚、少年たちの中には実際に会津・米沢まで落ち延びたそうなのでドラマ内の描写も決して荒唐無稽ということはでありません。

この時、篤次郎は瀕死でのうわごとでも戦いへの執念を見せ、土佐藩の隊長(広田弘道と言われています)は心を打たれて、「助けられたらこの子を養子に」と言われるほど看病されたそうです。しかし虚しく遂に落命します。この時広田は反感状(かえりかんじょう・敵にたいしてその功績を褒め称える書状)を作成して遺族に送り届けたと言われています。いかん、涙が・・・。

 

そして統率すべき大人がいなくなってしまった少年たちはここで四散してしまいます。結果的にここで戦火の城下で少年たちは更に多くの命を失う結果となったのです。

 

少年隊の一人・成田才次郎は松坂門付近で長州の一隊と遭遇。子供であると分かった隊長の白井小四郎はフラフラの状態だった才二郎を憐み、道を明けてやるように部下に命令します。そして・・・

「わしの不覚じゃ・・・子供じゃ、殺すな!」

ここはもう白井を演じた多田広輝さんの熱演にもう心を打たれるばかりでした。二本松少年隊のエピソードは悲劇であることには違いないのですが、これまで書籍などでは少年達が侵略者である(それは事実なのですが)新政府軍に果敢に戦った「美談」のように語られていました。実際創作話を作る時、それは非常に描きやすいものだったでしょう。しかし『八重の桜』スタッフは違いました。「戦争に絶対的な正義や悪の軍隊があるわけではない」「子供まで戦場に送り込むのは間違っている」「それは殺す側(新政府軍)の兵士にも深い傷を残す」私が本作を高く評価する決定打となった瞬間でした。そしてこの白井小四郎という人、殆ど無名に近い人を取り上げた本作と熱演された多田さんの功績は非常に大きなものです。

「成田才二郎最期の地」すなわち白井と白井を刺した才二郎最期の地。花が真新しく備えられていました。

白井の墓がある真行寺へ向かいました。今回の一番の目的地なんですが、実は二本松の観光パンフレット地図にはこの寺は載せられておりません。実際に二本松を訪問された多田さんのブログが無ければ、完全に見落としていたことでしょう。真行寺は駅から城跡の奥へ更に進んだ所にあり、自転車でも30分くらいかかりました。ここで白井の墓に黙祷を捧げ、写真を撮影させていただきました。

木村砲術道場跡。ここではしゃいでいた少年達がやがて戦火の犠牲になったと思うと・・・。

最後に再び先の大隣寺に戻り、二本松少年隊の墓を詣でました。

木村銃太郎以下亡くなった関係者の名前が一つ一つ石に刻まれています。

こちらは二本松での戦死した会津藩・仙台藩士の供養塔です。

 

他にも少年隊士達のエピソードは一杯でそれぞれ涙を誘うものですが、さすがに全てを取り上げられないのが残念です。ここで一旦、中断します。続きは後編で。