跳ねるJR九州に戦慄いた、鹿児島輪行旅 DAY2 木崎原の戦いと強風で鹿児島市内に帰れない?! | 毎日輪行日記

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リカンベントトライクGekko fxでの輪行の旅の記録

 二日目は春分の日です。鹿児島中央駅から乗り込み、隼人駅で乗り換えた際、ビュウと強く吹いた風が電車内に吹き込んで、桜島の灰のようなものが舞い上がったのを見たのを覚えています。西の桶狭間と呼ばれる戦いが薩摩島津氏と日向伊東氏との戦いが、真幸院、現在のえびの市でありました。木崎原の戦いです。

 島津家宗家十五代当主貴久が死去し、大隅の肝付氏が蠢動したことから日向を支配する伊東義祐の弟加賀守祐安は三ツ山城から島津義久の次弟義弘(当時は忠平)が守備する飯田城を素通りして、加久藤城へと攻め寄せます。その数三千。対する加久藤城を守る島津勢はわずかに五十人。

 城の北側、後背の急峻で攻め難い場所へと、一説には男女の揉め事を起こして逃げてきた女の甘言に伊東勢は誘いこまれます。

 ここ、という場所が特定できたわけではないですが、北側に回って探索したところ、どこからも城に攻め寄せそうな場所もなく、またよじ登ることすらも困難であることがわかりました。

 城の見取り図にも記された一番の難所鑰掛口に誘い出された伊東軍は多勢にもかかわらず加久藤城を攻めあぐね、撤退します。

 撤退を余儀なくされた伊東勢は鳥越城跡にて休息しますが、当時はとても蒸し暑かったらしく、兵士たちは甲冑を脱いで水浴びをしていたところ数に劣る島津義弘率いる部隊に急襲されて壊滅します。

 三角田と呼ばれるこの場所で伊東勢の大将伊東祐信は義弘に討ち取られます。伊東勢は戦場からの離脱を図るも失敗し義弘率いる島津勢に補足されて壊滅します。大将格、部将格の武将が討ち取られて後に伊東崩れと謳われる原因となります。

 祖父の日新斎忠良以来の敵味方の区別なく弔う六地蔵塔が木崎原にあります。

 すこし離れた場所に伊東の兵たちを葬ったとされる首塚、

 戦いの後島津勢が刀を洗ったとされる大刀洗塚があります。

 木崎原の戦いの時、義弘は飯野城で北の相良と東の伊東に警戒していました。

 加久藤城とは連絡道で接続されており、敵襲に義弘は即応しかき集めたそれでも寡勢な三百ほどで救援に駆けつけます。

 案内板でもしっかりと加久藤城への道が示されています。

 いまは草木が鬱蒼としていますが、この道が文字通り戦いの生命線となりました。

 飯野城からの眺めです。伊東勢が飯野城を狙わずに素通りして加久藤城を狙いを定めたのは飯野城が加久藤城とは比べものにならないほどの規模で堅城であったからでしょう。

 伊東塚です。ここには木崎原の戦いで戦死した伊東祐安らの墓所があります。

 さらに小林城へと向かいました。ここがかつて三ツ山城と呼ばれていた城です。三方を河川にさらに絶壁に囲まれている堅城です。木崎原の戦いが起こるよりも前に島津義弘をはじめとする島津軍がこの城に攻め寄せたそうですが、その堅城ぶりに島津軍はあえなく撤退したそうです。

 城の説明板を読んでいるとどうやら上に上がれるようですが、いったいどこから、と視線を左に動かすと、

 とくになにも書いていないようですが、どうやらここからあがれるようです。意外に整備されている道から開鑿された本丸に上がれました。

 かなり広い場所でうろうろしているうちに実は一瞬迷ってしまいました。城を堪能してから鹿児島市内へと戻ります。このまま都城まで自走してそこから特急で戻るか、𠮷都線で輪行するか、です。とりあえず時刻表でも確認するか、とスマホを見ると嫌な案内が出ています。強風で竹が折れて線路に寄りかかり不通になっていると。まだ日は高いができるだけ鹿児島方面に戻れるように小林駅から隼人駅を目指します。隼人駅まで戻れればあとは自転車があるので、との判断でしたが結局電車の再開が間に合い、ほぼ予定通りに鹿児島市内に戻ることができました。知らない場所での電車の不通ははじめて経験しました。鹿児島市内に戻れないのなら別の場所で宿を確保することも考えましたし、そういえば加久藤城を探索しているとき木々が強風で打ち付け合っていたのを思い出しました。

 降車した鹿児島駅はとても寂れていてスケボー少年たちの練習場になっていたのがとても特徴的でした。