SLN 第2回 『ヴァイタルサイン』後半 | BAA BAA BLACKSHEEPS

BAA BAA BLACKSHEEPS

京都発・新世代エモーショナルロックバンド 【 BAA BAA BLACKSHEEPS 】
オフィシャルブログ

 

【訂正】 2022.03.20 追記

 

先日2月20日に投稿した本記事において、Vo.神部による一部の文章中、読み手の方に対し、神部本人の意図や願いとは異なる心証を与えかねない箇所が見受けられたので、加筆修正の上、記事を再投稿しました。

既に本記事を読まれた方にはお手数ですが、今一度ご一読いただければ幸いです。

 

 

 

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目次

― 【後半】 ―
5.メンバーランキング

6.フリートーク
7.個人的に力説したいこと
8.神部の一人語り

  ▶ 楽曲制作に至った背景と当時の心境 ※追記

  ▶ “OK” or “NO”

  ▶ 生命兆候

  ▶「何者かになる」 という呪い ※追記

  ▶ ふたつの孤独 ※追記

  ▶ 歌詞に忍ばせた意図

9.次回予告

 

 

 

 

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5.メンバーランキング
 

今回から楽曲ごとのメンバーランキングを発表していきます。
『リハビリテイション』 全11曲の内、
 7.ベランダの向こう
 8.夢の出口
を単一曲扱いにして、計10曲を各メンバーがお気に入り度順にトップテン方式でソートしてみました。あなたは誰のランキングといちばん近いでしょうか?
※なお 『イーハトーヴ』 のメンバーランキングについては、該当記事に再度追記しておきました。興味があればそちらも覗いてみてください。
 
 
『ヴァイタルサイン』 ランキング
 
神部: 3位
こにー: 7位
dino: 3位
江口: 8位
 
 
神部:
ぼくとdinoがまったく同位で、くみちゃん (※Dr.江口) とこにーちゃんが低めという結果になったね。dinoはやっぱり 「BAA BAA としての矜持」 的な内容でってところかな?
 
dino:
特にバンドメンバーとして、っていうのを強く意識した結果ってわけでは無いかな、期待に添えない回答で申し訳ないけど……。
なるべく今回ランク付けするに当たって、シンプルに 「楽曲としての自分の趣味趣向」 を最優先した結果こうなったってのが正直なところかな。もちろんその中で歌詞の内容っていうのも大きい割合を占めてるけど、楽曲、歌詞、アレンジのトータルバランスを自分の色眼鏡を通して見たらこんな順位になったよって感じ。だから、割と 「リスナーとしての自分」 のランキングかもね。
プレイヤーとしてはどの楽曲も (個人的な好みに引っ張られる部分はあれど) 同じくらい好きよ。
 
神部:
ごめん、「BAA BAA としての矜持」 はぼくの話だった。
楽曲としての趣味嗜好を優先するとぼくはまたランキング変わっちゃうかもしれないな。事前にみんなにその辺の話あんまりしていなかったけれど、ぼく個人は思い入れ度とか楽曲が自分の中で持つ意味合いって側面が強い並びになってしまったかも。
こにーちゃんくみちゃん (※Dr.江口) もどんな基準で選んだのか気になるところだね。
 
江口:
矜持を排除して趣味嗜好で選んだつもりではいるけど、完成までの道程やその後の演奏を重ねた思い出とか、作った側としての感情は殺せてないと思う。
 
こにー:
僕も江口と同じ感じかな。あとは周りの意見とか、ライブでのお客さんの反応的な部分は少なからず反映されてる気がする。
 
神部:
うん、くみちゃん (※Dr.江口) こにーちゃんもありがとう。
『ヴァイタルサイン』 はライブでの再現難度が高くて楽しさより必死さの方が印象強く残ってるし、単純にライブでの演奏回数が少なかったから必然的にリアクションも限られていたしね。2人の感覚で言えばそういう面でも他の曲が上位に浮かんでくるのはなるほどって感じるな。
 
 
 
 
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6.フリートーク

 
 
神部:
そういえばタワーレコード京都河原町OPA店のインストアライブの時に、店内で大音量の 『ヴァイタルサイン』 が流れたのはうれしかったなって思い出した。せっかくだからあの時に撮った動画も貼っておこう。
 

 
この時のdinoくんがぼくとおそろいで買ったジップアップブルゾン着ていたことに気が付いてさらにうれしくなった。
 
 
インストアライブ中の写真がこちら。全員がいい顔していてとってもお気に入りの1枚。
 
dino:
この写真いいよね、俺も好きやわ。
 
神部:
自分たちの演奏してる姿って、言うまでもなく自分たちでは見られないからさ、撮ってくれた人に感謝だよね。
 
dino:
そうね、今思えば自主イベントの時とか大きいイベントの時とかはカメラマンさんに声かけたりしても良かったなあと今更思うわ (笑)。
 
神部:
いつでもカメラマンさんがいてくれたらどんなによかったか……。でも当時のぼくらにはギャラを支払う余裕どころか、力量と機材を備えた人を探し当ててコンタクトを取る余裕さえなかったからね。レポーター付きのイベントとかで、他バンドのついでに撮ってもらった写真なんかを見つけては保存させてもらうのが関の山だったなあ。
 
dino:
そしてこの時まあまあな音量でライブして下の階に怒られへんかったっけ……(笑)。
 
神部:
えっ、そんなことあったっけ?
 
dino:
なんか音うるさいって怒られんかったっけ? なんか微妙にそんな記憶が……。
 
神部:
ぼくはインストアライブに関してはね、機材とか音量の限界があったのに、音響担当してくれた竹内良太さん (LLama Tp.) を困らせるような無茶な要求ばっかりしてしまった申し訳無さと後悔が激しくて、そっちの記憶が強いんだよね……。
 
dino:
確かに竹内さんには色々無茶いうた気がするな……しかしまあ、むしろ色んな無茶振りに対応してくれたんは申し訳ないと思いつつも感謝してるわ……。
 
神部:
そうだね。振り返ってみると、後から後から感謝を伝えたい人と出来事ばかりだなって思うよ。
あのインストアライブで出会えた大切な聴き手の人もいて、まさしく
「▶で始まる時間の中で」
「めぐり合え」
たから、インストアライブはただただありがたい日だったね。
 
 
 
 
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7.個人的に力説したいこと




dino:
とにかく普段の慈雲からは想像出来ない、曲の一番最後のシャウトがかっこよくてかなり好きなので、これだけでも個人的には聴く価値あると思う。



江口:
曲終盤のカンベシャウトと、サビで鳴ってるコニーちゃんのギターリフの2回し目の2点かな。
カンベシャウトの方はディノさんも述べている通りという感じやけど、ギターリフ……文章で説明するのが難しすぎる……。
「曲始まりと同じ内容かと思いきやアレンジされたものがサビで鳴る」
という手法に俺が弱くて、かつ、いつものコニーちゃんよりちょっとロジカルな動き方してそう (多分) な感じが良い。



こにー:
間奏の手前に一回だけ7拍のところが出てくるんだけど (1分31秒) 、7拍が変に聞こえないようになってるのは割と好きなポイントで、気付いてない人もいる気がする。
あとシャウトもやけど、その後のスネア連打から一気に加速してく部分がバンド的には一番テンション上がってると思ってる。



神部:
ぼく自身もラストサビのシャウトは気に入っているし、自分史上最高音を出せたという思い入れも強いから、みんなもそう言ってくれてうれしい(笑)。
こにーちゃんの言う通り、アウトロのスネア連打からの展開はぼくも大好きなんだよね。自画自賛になってしまうけれど、アウトロの締めくくりはぼくが考えたバッキングの中でも群を抜いて冴えていると思っているので、最後まで気を抜かずに聴いて欲しいです。

この曲はAメロのdinoのベースラインや、くみちゃんのタム回しとか全体的なフィル、こにーちゃんがサビのバックで一緒に歌うリフとか、一言には書ききれないぐらい楽器隊がいい仕事をしているから、聴き手にもメンバーみんなのこの気迫を、何かに臨む時の勇気に変えてもらえたりしたらうれしいです。
自分たちの存在証明を懸けて叫ぶ、『ヴァイタルサイン』 という弱々しくも猛々しい羊たちの啼声を、五感を澄ませて全身で受け止めてください。




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8.神部の一人語り
 
 
▶ 楽曲制作に至った背景と当時の心境 ◀ ※追記
 
2012年11月。たくさんの方から 「バーバーとしての音源はいつ出すの?」 と聞かれたことでアルバム制作が現実的な目標に変わっていき、そのための楽曲制作やアンサンブル強化を目的としていったん活動休止を決めた頃。
ぼくたちは活動休止直前のライブで、それでも世界が続くなら と サモナイタチ とのスリーマンに出演しました。
その日、ぼくらのライブを観ていたシンガーソングライター ゆーきゃんさんと、それでも世界が続くなら のVo.しの (篠塚将行) さんと3人、打ち上げの席で 「曲作りとどう向き合っていくか」 について論議していました。

会話の途中、ゆーきゃんさんがぼくに対して、

「僕は、慈雲が今よりももっと、音楽の向こう側にいる相手のことを考えて創った歌が聴いてみたい」
と告げてきた、その一言によって、ぼくは胸の奥でくすぶり続けていた何かに急に火がついたような感覚を抱きました。
ぼくはそれまでも当然、自分の音楽の聴き手を思い浮かべながら曲を書いてきたつもりでいました。けれどもしかしたら、心の内奥にある情動を言葉に変えて “歌” に昇華するプロセスにばかり固執して、肝心の聴き手の存在を置き去りにしていた自分がいたのではないか……と思い直したのです。
『ヴァイタルサイン』 の場合は、それが契機となって書かれた背景があります。今となっては、ゆーきゃんさんの一言を受けたとは言え少し愚直過ぎる紡ぎ方だったような気もしていますが、時を同じくして 『おまじない』 も書いたことを思えば、ぼくのソングライティングは過去のものよりも聴き手に向かって開かれるようになったと感じています。
 
ぼくはこの歌を、ものづくりに携わる人すべてが共感してくれるはずだと信じて書きました。自分の生み出したものがどう思われるのか、必要としてくれる人はいるのか、一体どこで誰にいつどうやって手渡せば望んだ通りの充足感が得られるのか……一度でも真剣に何かを創った人なら、きっと理解できる苦悩でしょう。
もっとも、世間において名を成し、常に多くの注目を集めるような位置にいるクリエイターには、 「誰も見向きもしないステージ」 にいるのとはまた違った苦悩と重圧がのし掛かっているのでしょうが、ぼくにとっては声なき声、姿無き姿、暗がりにいる人々が何かを発信し始める時の思いを代弁できる歌でありたいと願って創った楽曲です。
 
普通、リスナーはミュージシャンが用意した音響と詩世界に能動的に耳を傾けていって、それぞれの共感や感動を見出していくものだと思います。 『ヴァイタルサイン』 はそういうリスナーひとりひとりの鼓膜に対し、
「きみはどこにいるの」
と、むしろ “音楽側” から語り掛け、
「BAA BAA BLACHSHEEPS 対 あなた」
の図式を直ちにその場で構築します。
この、直接ヘッドホンの向こうから聴き手の存在そのものをミュージシャンが問い掛けてくるというメタ的な構造によって、
「あなたと同じ生身の人間が音を出し、歌を歌い、 “あなた” に届けようとしているのだ」
というメッセージを強く伝えようと試みたのでした。
 
創り、歌い、響かせ、届けるぼくら側からすれば、そうした思いを歌っているのが “ぼくらにとっての 『ヴァイタルサイン』 の本質” だということになります。
しかし、ぼくは単純に上記のような作り手目線での思いを綴っただけの歌というつもりはありませんでした。
もしかしたら、誰も見向きもしないような場所で
「ここにいるよ 見つけ出してよ」
「きみはどこにいるの 巡り合えるの」
と叫んでいるかもしれない、聴き手本人の思いをすくい取りたいという願いをも込めて、ぼくはこの歌を書いたつもりです。
 
BAA BAA BLACKSHEEPS というよく分からないインディーズバンドを主語にして聴くのか、それとも自分自身の心の奥底にある声を主語にして聴くのか。この歌は、聴き手の心模様によって、どうとでも捉えることができます。
それこそが、ゆーきゃんさんに願われた
「音楽の向こう側にいる相手のことを考えて創った歌」

に対する自分なりの応答なのではないかと考えています。

 

 

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▶ “OK” or “NO” ◀
 
『ヴァイタルサイン』 の1番目Aメロは
「(嗚呼) オーケー」
というたった一言の歌詞から始まります。
この 「オーケー」 の何がオーケーなのか、そしてなぜカタカナ表記なのか、考えたことのある方はいるでしょうか?
 
その後の歌詞は
「生き延びてきただけの日々 何も誇れるものなどないまま早幾年」
と続きますから、その通りに 「何も誇れるものなどないまま早幾年生き延びてきただけの日々」 について 「オーケー」 と歌っているのは当然誰しも理解できると思います。ですが、それならどちらかと言うと 「オーケー」 より 「ノー」 と言いたくなるのが普通ではないでしょうか。
 
ここで一度、前の曲に戻ってみましょう。
「疲れた」 から始まった 『イーハトーヴ』 でしたが、締めくくりは
「僕でも明日を迎えたいよ 誰かと笑い合える場所で」
という言葉で終わっていました。
「僕でも誰かと笑い合える場所で明日を迎えたい」 と歌うのが 『イーハトーヴ』 という曲の結論だったのだとして、では一体どうやってそんな 「明日を迎え」 るのか。
そのための方法論として 「創る」 という手段を選んだ人間が 『ヴァイタルサイン』 の主人公です。しかしながら彼 (彼女) は、それまで自らの辿ってきた道程が
「何も誇れるものなどないまま生き延びてきただけの日々」
でしかなかったと気付いてしまいます。何か他人より秀でた才能や特別さを持たず、何者でもなく 「誰も見向きもしない」 存在。それが自分という人間なのだと。
そして、一度気付いてしまったその事実を 「ノー」 と拒絶したかったとしても、事実を受け入れられないのであれば、「そうではない自分」 になるしか道はありません。では、急ごしらえで才能を開花させ、特別な者になれる人間が、この世にどれだけいるのでしょう? いるにはいるとしても、果たして自分こそがそうなれるかどうかとなれば、まったく非現実的な話に思えないでしょうか。
 
『ヴァイタルサイン』 の主人公は、とても冷静に客観的に自分の平凡さと無力さを知っています。「ノー」 と言ったところでどうにもならない現実を分かっています。
その上で、彼 (彼女) は遂に結論を出すのです。
「(嗚呼) 分かったよ、オーケー」
と。
持たざる者である自分。それ自体は決して変えようのない事実であることを認め、諦め、半ば投げやりになりかけながらも、しかしそのままの自分で創作という戦いに挑んでいく決意を、外界に向かって声に出しているのです。だからこそ、ここは漫画のセリフや現実の語調に感じられるよう、カタカナ表記で 「オーケー」 と綴っています。
 
この 「オーケー」 はとどのつまり、 BAA BAA BLACKSHEEPS にとっての 
「“BAA BAA” (メーメー)」
と同じ意味を持つ言葉なのです。
 
 
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▶ 生命兆候 ◀
 
タイトルに選んだ 「ヴァイタルサイン」 という言葉は、本来医療関係者の間で頻繁に用いられる医療用語です。体温・脈拍・呼吸・血圧、これらの4数値をもとに、医療従事者はクランケの状態を確認します。
看護師として勤務していたぼくの古い友人は、この曲のタイトルを聞いた時に 「なんでバイタルを歌にしたの」 と笑っていましたが、むしろこの単語なくしてこの曲を創ることはできませんでした。

体温・脈拍・呼吸・血圧が正常かどうかを確かめるということは、単純に言えば 「身体が (正常に) 生きているかどうか」 を確かめるということ。そして、この歌においてはそうした身体的な生命活動だけを指すのではなく、

「心が (正常に) 生きているかどうか」

を何よりも問うているのです。この視座は 『夢の出口』 の歌詞にも通じる話ですが、

「ただ身体的な生命活動が正常なだけで、本当に “生きている” と言えるのか?」

という問いを、ぼくは自分自身に対して、ただひたすらに抱き続けてきました。

 

この問いを解く手掛かりとして、

「明日を待つための理由」 と

「昨日を捨てるための理由」 をもたらしてくれる人、つまり

「僕の生命兆候を 君が定義してくれ」 る出遇い

が必要なのだと、『ヴァイタルサイン』 では歌っています。

 

 

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▶ 「何者かになる」 という呪い ◀ ※追記

1番目Aメロの先ほどの歌詞、
「何も誇れるものなどないまま早幾年」
について、この 「早幾年」 というフレーズは一時代前の卒業式でよく歌われていた 『仰げば尊し』 からの出典です。
『仰げば尊し』 では、学生視点で、学び舎で過ごした日々の早さに感嘆するニュアンスで 「教えの庭にも早幾年」 と歌われています。気付けばもうこんなにも年月が経っていたのだな、という感慨深さを思わせるフレーズです。
『ヴァイタルサイン』 ではまったく違うニュアンスでこの言葉を用いています。 「何も誇れるものなどない」 のに、気付けばもうこんなにも年月が経ってしまっていただなんて、という絶望や焦り、自己嫌悪と憤り。それがこの歌詞の大意です。

成人し、精神疾患を抱えてからというもの、あらゆる事物にひねくれたものの見方しかできなくなっていたぼくにとって、学校で過ごした日々など、何の役にも立たない負の歴史としか思えなくなっていました。だからこそ、教員の理想のようなお行儀のいい生徒が感慨深げに学生生活への名残惜しさや教員への謝意を歌ったこの曲を、ぼくは到底受け入れらなかったし、それと同時に、その割には学生生活を終えた後の自分の惨めな体たらくに嫌気が差していたので、どこかでこの二つの苛立ちを皮肉混じりに歌う必要があったのでしょう。
 
しかし、ぼくはこの 「何も誇れるものなどない」 ことが悪であり罪だとでも言いたげな歌詞を、他者に対しても当てはめるべき尺度として書いたつもりはありません。 「何も誇れるものなどない」 という言葉は、言い換えれば
「人間は何か誇れるものが無ければ無価値である」
という前提意識があって出てくるものです。そしてぼく自身は、決してそうは思いません

「誇れるもの」 があるような 「何者かにならねばならない」 という意識は、呪いです。
これまで多くの人が罹ってしまった呪いです。当時のぼくも、ご多分に漏れずこの呪いに陥っていました。
この呪いの恐ろしさは、自分がただ “自分” としてそこにいることが許せなくなるところにあります。自分の立場、自分の能力、自分の持ち物、自分の成せること、一つ一つに見栄えのいい 「理想」 が浮かんでは消え、それに呼応するように 「理想とは違う自分」 が何度となく浮き彫りにされていきます。
何かを獲得し所有しなければ、賞賛されなければ、自分の存在を認めることができない。それはとても悲しい在り方です。そして、いつまでも満ち足りることのない貧しい心です。
それなのに、ぼくたちは気が付けばいつの間にか 「何者かになろう」 としてしまいます。有名でなければいけないとか、賢く有能でなければいけないとか、裕福でなければいけないとか、若く美しくなければいけないとか、結婚しなければいけないとか、家族や友人がいなければいけないとか、働いてなければいけないとか、……一体この強迫観念はどこから、誰からもたらされているものなのでしょうか。そんなに何者かにならなければ、ぼくらは幸せになれないのでしょうか。自分が自分として生きていることを、心からよろこべないのでしょうか。
 
そんな訳ありません。
 
たとえ何かが欠け落ちているのだとしても、どこかの誰かのようにはなれなくても、生きている、ただそれだけのことが、本当はとても愛おしく尊いことのはずです。
そして、ぼくらはそううなずけるようにと、この毎日を生きているはずです。
 
誇れるものがない、なんてこと自体が本当はない。人間ひとりの存在の重さというのは、虚栄心や自尊心を満たすような肩書きだとか属性とは、まったく違うところにこそ宿っているのだと思います。
たとえば体温だとか、呼吸だとか、そんな些細なようで、とても重大なところに。
 
後はそれをうなずけたら、今度こそぼくらはなれるんじゃないでしょうか。呪いから解き放たれ、歩むべき道を見つけた、 「何者か」 に。
 
 
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▶ ふたつの孤独 ◀ ※追記
 
今回はサブスク側の自動生成動画ではなく、ぼくらが過去にアップロードした動画を貼り付けています。動画中の背景に用いた画像を見て欲しかったからです。この背景に選んだ写真は、ボーカルなら誰でも目にしているだろう光景です。
 
ステージの上、一本のマイクの向こうには多くの人たちがいて、自分たちがこれから鳴らす音を試すような、期待と不安 (あるいは諦めや侮蔑) の眼差しで待ち受けている。ひとたび演奏を始めれば、声を出せば、それがどんな出来栄えだったにせよ、その場にいる一人一人に好き勝手に評価を下されてしまう。
日本橋ヨヲコ先生風に言うなら、 「孤独過ぎて寒くてたまらん」。それがステージの上です。
 
ぼくは人前で歌を披露し始めた頃から、自分が歌声を出すと 「場の空気が変わる瞬間」 を肌身で体感するようになりました。ある意味 「場を掌握する力」 と言ってもいいかもしれません。それがいいものなのか悪いものなのかはさておき、ぼくの歌声がその場にいる人たちの心に何かしらの影響を与えることだけはなんとなく理解していました。
それでもやはり、ぼくにとってステージの上は孤独な空間でした。自分の声と音でどれだけ観客の目と耳を惹き付けたことが体感できようと、ステージに立つことは常に言葉では言い表せない不快感をぼくの心身にもたらしました。それを 「緊張」 と呼ぶ人もいるのかもしれませんが、あがることはまずなかったので、自分自身ではもっと違う感触だったと思います。
 
いずれにせよ、そんなぼくが息を吸い、マイクに向かって声を吐き出し、言葉とメロディを響かせる行為に順ずることができたのは、それを至上の目的として共に音を掻き鳴らす仲間がいたということ、そして、マイクの向こう側で、ぼくの目を真剣に見つめながら耳を傾け、ある時は涙を流しながらスポットライトの光に照らし出されていた、あの聴き手の存在があったからこそでしょう。
 
『ヴァイタルサイン』 ではそうした演者としての孤独を
「誰も見向きもしないステージの上」
「誰も気付きもしないぼくの遠吠え」
という言葉で表しているかのように見えますが、「▶ 楽曲制作に至った背景と当時の心境 ◀」 でも述べたように、これもぼくらがぼくら自身の苦悩を直接的に書いた箇所ではありません。
 
家庭、学校、職場、どんな場所にいても、孤独を感じている人にとってはそこが 「誰も見向きもしないステージ」 になるのでしょうし、その孤独を紛らわしたりごまかそうともがく行為は、どれも気付いてくれと言わんばかりの 「遠吠え」 のようなものではないでしょうか。
 
ぼくらの孤独と、 “あなた” の孤独。ふたつの孤独は、普段は決して交わることはありません。だからこそぼくらはここから歌ったのです。あなたの孤独と響き合えるように。

マイクとスピーカー、音と鼓膜、スポットライトの光とフロアの影、その境界線でふたつの孤独が重なり合う瞬間、とどのつまりは

「▶で始まる時間の中で」、

ぼくらはもう独りぼっちじゃなくなります。
 
あなたがぼくらの、ぼくらがあなたの生命兆候を、お互いに定義し合えるのなら。
 
 
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▶ 歌詞に忍ばせた意図 ◀
 
これは今までメンバーにも、誰にも明かしたことのなかった話です。
2番目Bメロの歌詞、
「何度だって崩して組み立てる」
「組み立」 = 「くみた」 は、実はドラマー江口匠 (※くみちゃん) の名前、 「たくみ」 をアナグラム的に忍ばせたものです。江口の名前を入れつつ、そして該当箇所の歌詞を
 「何度だって崩して組み立てる」
と書いたことに、自分なりに深い意味を持たせました。
 

よく聞くと1番サビでも 「ここにいるよ」 の箇所で 「こにー」 と歌っているのがお分かりだと思います。もちろんそれが誰から見聞きしても分かるものになっては元も子もないので、あくまで譜割上の聞こえ方に感じられるように意識して歌っています。

ただ作詞の都合上、どうしても 「ディノ」 と発語しているように聞こえる単語だけは歌詞中に書けませんでした。dinoくんごめん、と思いながら、そこはお互い普段の生活で深め合ってきた信頼感に免じて、最終的には 「この歌を創ることこそが彼に対する謝意そのものになるだろう」 と割り切りました (dinoくんごめんね)。
 
過去のブログ記事、「第二の家族」 (※文字クリックでジャンプ) で語ったこともありました。

BAA BAA BLACKSHEEPS にまだこにーちゃんも加入していなかった3ピース時代、ぼくの幼稚な態度でdinoやくみちゃんを振り回し、困らせてばかりいた時、くみちゃんの放った一言で、ぼくは自分の心を入れ替えたいと願いました。こにーちゃんが加入してからも結局はメンバーの気持ちを害してばかりのぼくでしたが、あの出来事を経て 『ヴァイタルサイン』 を作り始めた時、

「ぼくは一体、誰のおかげで今ここで歌えているのか」

という自戒めいた問いを、何かしらの形にして残したかったのです。

 

ぼくがバンドを続ける希望と熱意を与えてくれて、いつも誰よりもぼくに寄り添い続けてくれた dino 、バンドにもしかしたら永遠に欠けたままかもしれないと思っていたドラマーを正式加入で担当してくれて、ここぞという時には大事な一言で目を覚まさせてくれたくみちゃん (※Dr.江口) 、そして他バンドからの加入を経て、バンドがより上を目指すため、楽曲をよりよい形にするための力を態度でも音でも分け与えてくれたこにーちゃん。彼ら3人がいなければ、ぼくは自分自身の能力の欠如と他者とのくだらない諍いの中で、ただ無力に何もできないまま気が狂いそうな日常に埋没していただろうと思います。

何度も間違えてしまったし、今でもそうなのかもしれないけれど、一度崩れてしまったものも、また何度でも組み立てて、みんなと一緒にこの先を見に行きたい。そういう思いをこめて、あの歌詞は生まれました。

 

そうした意味では、この 『ヴァイタルサイン』 の中にさえ、既に 「リハビリテイション」 へと向かおうとしている心が表れていたのではないかと、自分では考えています。

 

 

 

 

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9.次回予告
 
 
『ヴァイタルサイン』 回はブログの文字数限界の関係で前後編でのお届けとなりましたが、どちらも読んでくださった方、ありがとうございました。
 
次回の更新は3月19日頃を予定していましたが、諸般の事情で4月19日となってしまいました。待っていてくださった方にはごめんなさい。
次回も曲順通り、 『トゥルーエンド』 についてメンバーと語ります。
 
また、そろそろYou Tubeのチャンネル上に未公開デモ音源動画もアップロードする予定でいますので、そちらもどうぞご期待ください。
 
 
 
それでは、また次回お会いしましょう。