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2018年12月16日

最近の頂き物

テーマ:老朋友

お歳暮シーズン。

 

19歳の時に予備校で知り合った老朋友から。

 

 

大学もサークルも一緒だった。

 

 

こちらが世話になっているのに、毎年中元とお歳暮を

欠かさなかった律儀な老朋友。

 

 

このお歳暮が届く10日前、彼は息を引き取っていた。

 

おーい!いつもありがとな!!

 

また別な世で飲もうな!!

 

 

横浜に住む叔母ちゃんから。

 

 

俺は4歳から叔母ちゃんと一緒に暮らしていたので、

 

 

ねえちゃんと呼んでいる。

 

 

ご主人は、元帝国ホテルのシェフ。

 

 

シェフ定年後は、この通販食品の社長をされていた。

 

 

叔母ちゃん夫妻には若い頃からお世話になってばかり。

 

 

いつになったら恩返し出来るのだろう。

 

 

実家からの届け物みたい(笑)。

 

 

感謝に堪えません。

 

 

日本酒「澤乃井」の小澤社長ご夫妻より。

 

 

こちらも盆暮れ必ず頂いています。

 

 

皆様、いつもいつも本当に有難うございます!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2018年12月15日

レゲエがUNESCOの無形文化遺産に登録される その7

テーマ:CINEMA
昨日に引き続きJimmy Cliffです。


最初にこの映画を観たのは1978年20歳の時。
確か渋谷の空き地に仮設テントを張っての上映だったと記憶する。

PANTAを始め、時代の先端を伺う尖がった
ROCKERSが集った。

上映後、永ちゃんなんかは映画の中のJimmyと同じ★マークの
T-シャツを着てLIVEしてたな。

硬派のROCKERSのハートを鷲掴みにした映画だった。


革新的な映画「The Harder They Come」が公開された1972年…


ソース: jamaicaobserver.com
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1972年のジャマイカは、新しい政府とジャマイカ国内の黒人たちに 

良いことが起こると約束した首相と社会変革の真っ只中だった。 


その年の11月カリブ・シアター(Carib Theatre)で封切りされた映画 

「The Harder They Come」の中で多くの変化が見られた。 


この映画はディレクターのペリー・ヘンゼル(Perry Henzell)により撮影 

されトレヴァー・ローン(Trevor Rhone)によってシナリオが書かれた。 


ヘンゼルの家族はその夜、主役のアイヴァン(Ivan)を演じたシンガー 

のジミー・クリフ(Jimmy Cliff)らのキャスト共に映画館へ向かった。 


またそのキャストの中にはカール・ブラッドショー(Carl Bradshaw)と映画 

の重要な役割を担ったジャネット・バークレイ(Janet Barclay)、ヴォリアー・ 

ジョンソン(Volier Johnson)、脇役で出演したシンガーのプリンス・バスター 

(Prince Buster)とビヴァリー・アンダーソン(Beverly Anderson)がいた。 


ホセ(Jose)という役を演じたブラッドショーはその夜のことを良く覚えている。 

「なにしろ最初の時間に上映された映画だったものだから、人々は1時くらいから 

集まりだしたんだ」と語り「1つ教えてあげよう、クリフォード・キャンベル(Clifford 

Campbell)総督が映画館に着いたとき彼の席は取られていたんだ」とブラッドショー 

は思い出した。


ダグラス・グラハム(Douglas Graham)はパラス・アミューズメント(Palace 

Amusement)のCEOでありカリブ・シアターのオーナーだ。 

彼もまたその夜のことを思い出した。

 


映画館には当時1800席があったが、映画を一目観ようとする人々は 

5000にも膨れ上がった。 


群集はとても多くある1人の招待客は持ち上げられ会場に入ったのだ。 

「それは当時新たに選ばれた首相マイケル・マンレー(Michael Manley)の 

母親エドナ・マンレー(Edna Manley)だった」とグラハムはオブザーヴァー紙に語った。 


撮影に3年間を要した「The Harder They Come」はカリブ・シアターで12週連続上映された。 


この映画はヨーロッパと北アメリカのミニ・シアターで上映された1972年、 

ジャマイカで上映されたときと同じようなインパクトを与えた。 


ヴェトナム戦争の退役軍人であるロジャー・ステファンズ(Roger Steffens)は 

ロサンジェルスこの映画を初めて観た。 


「1973年6月、ローリング・ストーン(Rolling Stone)紙がアメリカで初めて 

レゲエ・ミュージックの記事を発行した。

   

私は当時住んでいたバークリーの自宅から走ってウェイラーズ(Wailers)の 

アルバム“Catch A Fire”を買いに行った」とステファンズは語り「次の夜、 

私は小さな映画館に“The Harder They Come”を観に行ったのだ。 

40人が小さなスペースがいっぱいになり、チャリスに火をつけるシーンに 

なると映画館の中全てでライターに火が着き、煙でスクリーンが見えなく 

なってしまうくらいだった」と続けた。


*この記事は、ワールド レゲエ ニュースより転載しております。

*画像は、Google画像検索より無断拝借しております。 

  悪しからず。

2018年12月14日

レゲエがUNESCOの無形文化遺産に登録される その6

テーマ:マイ フェイヴァリット MUZI~K
レゲエを世界に広めた代表的なミュージシャンは、
Bob MarleyとJimmy Cliffだ。

俺は残念ながらBobのLIVEに行けなかったが、
JimmyのLIVEには、1983年にロンドンで、6年前は
日本でと2回行っている。

 
そのJimmyが、まだアパルトヘイトの残っていた
南アフリカでLIVEを行った時のニュース
記事をお届けしよう。



ジミー・クリフ(Jimmy Cliff)と1980年の南アフリカ状勢 


ソース: jamaicaobserver.com
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ジミー・クリフ(Jimmy Cliff)が南アフリカを訪れた1980年5月、
 

ネルソン・マンデラ(Nelson Mandella)はロベン島に投獄されて 

から18年目を迎えていた。 


南アフリカのアパルトヘイト制度に対する国際的な反対は 

激しかったものの、クリフはブラックリストに載るという汚名 

を無視し、このジャマイカ人レゲエ・アーティストとして背教 

の国で始めてパフォーマンスを行った。 


彼はソウェト、ダーバン、ケープ・タウンの3ヶ所で、特に 

反アパルトヘイト闘争の引火点となった貧困の非白人 

居住地域ソウェトの熱心なオーディエンスのために公演 

を行った。 


クリフの2週間に及んだこのツアーのマネージャーを務めた 

コープランド・フォーブス(Copeland Forbes)は黒人の南アフリカ人 

プロモーターたちに、彼らの国でパフォーマンスを行ってほしいと 

アプローチを受けた時に、このシンガーの陣営内にあった懸念に 

ついて当時を思い起こした。 


「あれはアフリカに行ったことのなかった私たちほとんどに 

とってエキサイティングな出来事だった。しかし我々はアパル 

トヘイトのことも知ってはいたし、アフリカに行ったことのある 

ミュージシャンやスポーツ選手などを含む人々は禁止され 

ていた」とフォーブスは語った。


映画「The Harder They Come」への出演を通し、クリフは 

1970年代早期からスーパースターとなっていた。 


彼はすでにアフリカ大陸へは数回訪れ、ナイジェリアで 

パフォーマンスをしていた。 


クリフは南アフリカで大変人気があったとフォーブスは語る。 


彼がカヴァーしたボブ・マーリー(Bob Marley)の‘No Woman No Cry’は、 

南アフリカではアンセムで、彼のアルバム「I Am The Living」も人気があった。 


ソウェトでの最初のショーはその中で最も大きなものだったと 

フォーブスは思い出す。 

全ての人種の100,000人ものファンたちを集め、彼らはクリフを 

熱狂的に歓迎した。

   

「あの人間の数は、うねるような海の様だった…黒人、白人、 

インド人の。みんな“ジミー!ジミー!”と叫んでいた」とフォーブスは 

語り「またそこには犬を連れたセキュリティーが大勢いた」と続けた。 


彼らは彼らにふさわしい宿泊施設に滞在していたが、クリフと 

彼のワンネス・バンドは南アフリカの厳しい人種の壁を経験した。 


「私たちは公園や店に行ったが、そこには“白人限定”、“黒人、 

有色人種”と書かれた標識を目撃した」とフォーブスは語った。 


ショーの休日には、クリフと彼のバンドはロベン島を一望でき 

るケープ・タウンのテーブル・マウンテンに出かけた。 


彼らはアパルトヘイト反対を訴え1962年に投獄された、

アフリカ民族会議(African National Congress)の発足メンバーで 

あるマンデラに賛辞を送るためそこで一日中ボンゴ・ドラム 

を演奏した。 


クリフは南アフリカでのツアーで、一時的にブラックリストに 

載ってしまったとフォーブスは語る。 


闘争的な黒人による彼の南アフリカ訪問反対があったが、 

地元国民による一般的な反応はポジティブなものだったと 

フォーブスは信じている。

   

「ズールー族の兵士は、ジミーの音楽が困難な時期に 

いる彼の気持ちを緩和させたと私に語ってくれた。多くの 

黒人たちにとって私たちは救世主のようだったのだ」と 

彼は語った。 


ネルソン・マンデラは27年の投獄後の1990年に刑務所から開放された。 


ジミー・クリフは33年前の歴史的な滞在の後から南アフリカで 

パフォーマンスを行っていない。 


*この記事は、ワールド レゲエ ニュースからの転載記事です。

*画像は、Google画像検索より無断拝借しております。

  悪しからず。

2018年12月13日

レゲエがUNESCOの無形文化遺産に登録される その5

テーマ:マイ フェイヴァリット MUZI~K
現在のシリーズ記事は、去る11月29日にReggaeがユネスコの無形文化遺産に
登録されたことを記念して皆様にお届けしております。


実は、今から36年前にフランス・パリに滞在していた俺はユネスコに行った事が
あります。

ユネスコで世界の詩人大会があって、ある方から招待状を頂いたのです。

その大会で、今日の記事のMICHAEL SMITHがジャメイカ代表として
DUB POETを披露したのでした。

初めて聞くMICHAELのDUB POETは淡々として底冷えのする
ような響きだった。



しかし、それから一年後にMICHAELは亡くなった。

日本では殆ど知られていないMICHAEL。

俺にとっては、忘れられない詩人だ。

以下、5年前の記事より。


ダブ・ポエトリーのパイオニア、マイキー・スミス(Mikey Smith)の死から30年…


ソース: jamaicaobserver.com
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Poetry of Jamaicaは火曜、セント・アンドリューのEdna Manley College Amphitheatreに 

おいて月例の親睦会で影響力のあった詩人、マイキー・スミス(Mikey Smith)に敬意を表した。

   

このイベントはスミスの死後30周年を記念したものだ。

 

彼は1983年8月17日、ストーニー・ヒルで石打ちにより死去した。 

*この日彼は政治的なラリーに参加していて、対立派の投石 

  が命中して落命したのだ。 


オク・オヌオラ(Oku Onuora)、ジーン‘ビンタ’ブリーズ(Jean ‘Binta’ Breeze)、ムタバルーカ 

(Mutabaruka)らと共にスミスはジャマイカのダブ・ポエトリーの先駆者的存在で、この 

ダブ・ポエトリーという言葉はジャマイカ生まれのイギリスを拠点に活動していた 

リントン・クウェシ・ジョンソン(Linton Kwesi Johnson)により1970年代中盤に有名になった。 


ジョンソンはスミスのポエムを自身のレーベル、LKJからリリースし、その中には 

「Mi Cyaan Believe It」や「Roots」が含まれる。

   

スミスは1978年、キューバにおいて開催されたWorld Festival of Youth and 

Studentsのジャマイカ代表だった。 


火曜日、詩人/教師/俳優のオーウェン‘ブラッカ’エリス(Owen ‘Blakka’ Ellis)、 

詩人/ミュージシャンのエンバラ(Mbala)、Poetry Society of Jamaicaの統括で 

あるトミー・リケッツ(Tommy Ricketts)、そしてホストのヤシカ・グラハム 

(Yashika Graham)がスミスに敬意を払った。


「ここで始まり、ここで終わったのだ。こうやって続けていけるのは今夜ここ 

にいる皆のおかげだ」とエリスは思い起こした。彼は‘Mi Cyaan Believe It’を 

朗読し、自身の言葉を締めくくった。 


感情的だったリケッツは、スミスがEdna Manley Collegeに通っていた 

時にキャンパスで行った強烈な演説を思い起こした。

   

彼はボブ・マーリー(Bob Marley)の‘I Like it Like This’とウェイラーズ(Wailers) 

の‘Rock My Boat’をそれぞれ朗読し締めくくった。 


*この記事は、ワールド レゲエ ニュースからの転載記事です。 

*画像は、Google画像検索より無断拝借しております。 

 悪しからず。

 


2018年12月12日

レゲエがUNESCOの無形文化遺産に登録される その4

テーマ:マイ フェイヴァリット MUZI~K

 

ナイアビンギの巨匠、ラス・マイケル(Ras Michael)

 

ソース: jamaicaobserver.com
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1950年代の暮れ、西キングストンのスラムから聞こえた崇高なリズムを初めて耳にしてから、ラス・マイケル(Ras Michael)はこれが自分の進むべき道だと分かったという。

 

「そのころ私は人々にラスタたちは悪者ではないということを知らせたかった。ラスタは神の使いなのだ!」と彼は強調した。

 

ラス・マイケルは自身のグループ、サンズ・オブ・ニガス(Sons of the Negus)を50年近くも引き連れ、‘New Name’や‘None a Jah Jah Children no Cry’などの伝統的なアンセムをレコーディングしている。

 

月曜日、キングストンのセント・アンドリュー・パークで行われたナイアビンギのイベントで彼はエチオピアのクリスマスを祝った。

 

“ナイアビンギ・スペシャリスト(Nyahbingi Specialist)”を名乗る彼は現在カリフォルニアのロサンゼルスに20年住み、まだ彼の音楽に敬意を払ってくれる人々がいるというアメリカ全土でパフォーマンスを行っている。

 

「オーディエンスは18歳から80歳くらいまでで、“これが我々の必要な音楽であり、あなたはラスタのことを歌い続けなければならない”と言ってくれる」と彼はジャマイカ・オブザーヴァー紙に語った。

 

彼はインターネットを彼の音楽を新しい世代に紹介できたことして評価しているが、長年の問題を更に悪化させてしまったと語る。

 

「多くの人間が何年もかけて私のカタログを搾取し、配当金を吸い上げ続けている」と彼は語り「私は血と汗と涙から出た著作権使用料をほぼもらっていない」と続けた。

 

アルバム「Dadawah」と「Freedom Choice」が最も搾取されている作品だと彼は指摘した。

 

トミー・コーワン(Tommy Cowan)によってプロデュースされた「Rastafari」は最小限の見返りしかないと彼は主張する。

 

マイケル・ヘンリー(Michael Henry)としてゲイル、セント・メアリーで生まれたラス・マイケルは西キングストンで育ち、リヴァイバル教会でポコマニアやカリプソ、ゴスペル、スカのサウンドに触れたという。

 

彼とサンズ・オブ・ニガス初のレコーディングは1967年の‘The Lion of Judah’だ。これはまた以前ラスタ文化と音楽を紹介していたジャマイカ・ブロードキャスティング・コーポレーションで行われた彼のラジオ・ショーとも同じ名前である。

 

このグループが最後にリリースしたアルバムは「Spread Jah Love」だ。

 

*この記事は、ワールド レゲエ ニュースより転載致しました。

*画像は、Google画像検索より無断拝借致しました。

 悪しからず。

 

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