バザラスからのアジアン紀行 -4ページ目

立田(竜田:龍田)

毎月3回、

 

水曜日の夕刻、

 

能の謡稽古をしている。

 

今月から『立田(竜田:龍田)』の

稽古に入った。

 

16年かけて、これで60曲目の謡。

 

能には約200の演目が

あるから、

 

まだ1/3にも届いていない。

 

全て稽古するには寿命が

足りない(笑)。

 

以下、能サポより『立田(竜田:龍田)』

のあらすじとみどころ。

 

あらすじ

 

「日本中の寺社に経典きょうてんを奉納する旅の

 途中、僧の一行(ワキ・ワキツレ)が

 南都なんと(奈良市)からかわちのくに(大阪府)

 へ行くことにします。

 

その途中、龍田たつた明神みょうじんへ参詣するために

たつ田川たがわを渡ろうとすると一人の女(前シテ)

が現れ、川を渡るなと言います。

 

龍田川の川面かわもを流れる紅葉もみじを乱して

はならないというのです。

 

今は霜降月しもふりづき(旧暦11月、現在の12月頃)、

紅葉の季節は過ぎ、川も凍っているのだ

から渡ってもよいだろうと僧は反論しますが、

紅葉が氷の中に閉じこめられているのだか

ら、それを踏み破ってはならないと女は僧に

注意します。

 

龍田の自然は昔から多くの歌人に

よって歌に詠まれ、神の心を慰めて

きたのだから、それに思いを

ず参詣するのは神の心をないがし

ろにすることだと、女は僧をたしな

めます。 

 

女は龍田明神に仕える巫女みこと名乗り、

僧たちを境内へ案内し、冬になっても

鮮やかに紅葉している神木の紅葉もみじ

見せます。

 

僧が龍田明神に祈りを捧げると、女は

自分こそが龍田たつたひめであると言い残し

社殿の中に消えてしまいました。 

 

龍田の里に住む男(アイ)が僧に尋ね

られるままに龍田明神の由緒を語り、

龍田明神への祈りを続けるよう勧めます。

 

僧たちが神前で夜通し祈りを捧げていると、

龍田姫たつたひめ(後シテ)が姿を現します。

 

龍田姫は龍田の紅葉をたたえて語り舞い、

さらに「神楽かぐら」の舞を見せます。

 

やがて夜明けと共に龍田姫は姿を隠

しました。」

 

みどころ

 

「奈良県生駒郡いこまぐん三郷町さんごうちょうに鎮座する龍田山

 の神、龍田姫は秋をもたらし木々を紅葉さ

 せる神として信仰されてきました。

 

女の登場の場面、川面の紅葉を乱して

はならないと、僧の渡河を止めるのは

なんとも風流です。

 

龍田明神に参詣するのですから、心なく川を

渡ることを戒めています。 

 

後半では龍田姫が舞いながら龍田の

自然を称えます。

 

紅葉に限らず、龍田の自然は多くの歌

に詠まれてきました。

 

春の桜から冬の氷に閉ざされた紅葉まで

の龍田を、題材にした和歌を引用した美し

い謡です。

 

龍田姫の「神楽かぐら」は、序盤は厳粛な雰囲気

で始まり、「神楽」独特の旋律とリズムで演

奏され、途中からテンポの速い舞に変わり

ます(最後まで「神楽」の演奏で通す演出も

あります)。

 

 〈龍田〉では女が着る唐織からおりや龍田姫が着る

舞衣に、紅葉を表す赤色の入ったものや金糸

で紅葉の柄を織り出したものを用いることもあ

ります。

 

また龍田姫の冠には通常月と太陽を模し

た金具を飾りますが、カエデの葉を飾る

演出もあります。

 

 龍田姫の謡に「御代みよを守りの、御矛みほこ

守護し」という言葉が出てきますが、この

能が作られた室町時代には龍田明神は

あま逆矛さかほこ(イザナギ・イザナミの国生み

神話に登場する矛)」を守護すると信じら

れていました。」

 

 

お江戸をほっさるく(ぶらぶら散歩する:宮崎弁)

高温多湿な期間が長い

日本。

 

昔から日本人は風呂が大好き。

 

そんな風呂好き日本人の社交場だった

銭湯も年々その数を減らしている。

 

この日歩いているのは、

 

毎週金曜日に「おかず弁当」を

買いに行っている料理処「初音」

の周辺です。

 

練馬区旭町と埼玉県和光市の

境界線上です。

 

蔵あり、銭湯あり、

 

昭和の香りムンムンです。

 

暫く行くと、

 

天王様の坂。

 

坂の横から階段を登れば牛房の

鎮守八雲神社(天王様)があるた

め、天王坂と呼ばれたそうです。

 

八雲神社は、牛頭天王・スサノオを

祭神とする祇園信仰の神社です。

 

歩いたのは、木蓮の季節でした。

 

自然はとっくに秋の生態に

入っているのに、

 

気温は、盛夏を超えるほどの

猛暑続きです。

 

猛暑が終われば、急に肌寒く

なるかも知れないので、ご注意

下さい。

 

SNSは、人々の絆を強めるより、

分断を強化するツールでもある

ことをしっかり認識する必要が

ある。

 

特に子供を持つ大人達はね。

 

『近代の呪い』渡辺 京二 著(平凡社)

明治から俺達の世代までは、

近代の申し子。

 

何もかもが近代に生まれた

物事を母体にして育って来た。

 

今日よりも明日、

明日よりも明後日、

今年よりも来年を

目指すべき幸せの橋頭保として、

前進、前進、前進あるのみと、

気忙しく生きて来た。

 

資本主義的経営が、常に前年度

の業績を更新しなければならない

ように、我々個人生活も常に現在の

在り様を更新するように、息つく暇も

なく生きなければならなかった。

 

在野の思想史家である渡辺京二さん

(1930-2022)は、そんな近代に疑問

を呈し、人間存在の根源的自由の視点

から反撃を試みた。

 

以下、平凡社のコメント

 

「『逝きし世の面影』の著者が人類史の視点

 から近代を総括する注目の講義録。

 

私たちはどこから来て、どこへ向かおうとして

いるのか──。

 

この混沌たる時代を生き抜く現代人のための

必読の書。 

 

私たちはどこから来て、どこへ行こうとして

いるのか──。

 

無限の経済成長にのみ幸福を見る時代は

終わった。

 

単線的な進歩主義に基づく近代史観から脱し、

人が人らしく生きうる共同社会を取り戻すため

に、近代化の意味を再び問い直すときがきて

いる。

 

豊かさの背後に刻まれた呪いを自覚し、

これからを生きる術を考える。」

 

目次

 

第一話 近代と国民国家──

     自立的民衆世界が消えた
 

     近代の時代区分/「国民」の誕生

      ──中国人留学生が見た日本
 

      民衆への憂い/幕末期の民衆意識
 

      近代の成立要件1──自立的民衆

      世界の解体/市民社会の陥穽
 

      民衆世界の自立性とは何か/近代

      の成立要件2──知識人の出現
 

      近代的知識人とは誰か/管理社会

      への問い
 

      反国家主義の不可能性/国民国家

      における「人間の条件」

第二話 西洋化としての近代──

     岡倉天心は正しかったか
 

     現代社会の様相/「近代化=

     西洋化」図式への批判
 

     世界を制覇した西洋文明/経済化

     された世界
 

      セルジュ・ラトゥーシュと岡倉天心/

      なぜ西洋モデルは普遍化したか

 
      西洋近代の贈り物/特殊を通じた

      普遍の創造

第三話 フランス革命再考──

     近代の幕はあがったのか
 

      大佛次郎を読み直して/フランス

      革命を問い直す


      アンシアン・レジームの特徴/

      絶対王政の時代
 

      貴族の実情/革命のはじまり/

      国民議会の成立


      過激化の要因/「新しい人間」

      から恐怖政治へ


      連鎖する革命の負の遺産/

      右翼・左翼を超えて

第四話 近代のふたつの呪い──

      近代とは何だったのか


      近代の所産を問う/江戸時代の

      人権事情
 

      前近代的自由の自由さ/身分

      制社会における平等
 

      近代に見る人権・自由・平等/

      衣食住向上の意義


      インターステイトシステム/世界の人工化


      科学と科学技術の可能性/

      人間中心主義の帰結


      これからの課題──呪われた

      時代を生き抜くために

つけたり 

大佛次郎のふたつの魂


私の大佛次郎/『ドレフュス事件』


『ブゥランジェ将軍の悲劇』/

『パナマ事件』から『パリ燃ゆ』へ


パリ・コミューン──民衆の共同世界

という夢/保守の情念への目覚め


進歩と伝統が共存する魂/大佛次郎

作品の今日的意義

あとがき

 

驚愕のランチ・プレート 「初音」

500円(税込)で毎週金曜日に

買っている初音おかず弁当。

 

この日は、スパゲティー2食と、

 

これと

 

これの4点。

 

別の日はこれと、

 

ズッキーニの豆腐のチャンプルー

のこれと、

 

とんかつ2点の合計4点。

 

別の日は、大将の愛情メモ入り。

 

これと、

 

これと、

 

これと、

 

これの4点。

 

別の日はこれと

 

これと、

 

これと、

 

これの4点。

 

大将!

毎週、色んな美味しいおかずを

安く沢山作って頂いて、有難うござ

います!!

永遠の今

永遠は、今の中にある。

哲学者、西田幾多郎氏の言葉。

 

瞬間に永遠が宿ると言い換えても

良いだろう。

 

時間は、直線的に流れて

はいない。

 

円環的循環的にこの瞬間に在り、

瞬間的に過去と未来が同時する。

 

今この瞬間の自分に、過去と

未来が宿っている。

 

その瞬間瞬間の流れを、
人間が便宜的に概念化
したのが時間。
 
つまり、時間は人間が作り出した
存在根拠の無い夢幻のような
物。
 
室町の一休宗純和尚は
こう喝破した。
 
世の中は 食うて糞して 寝て起きて 
後は死ぬるのを待つばかりなり(笑)。
 
人間なんて所詮「糞袋だ!」
とも言い放った(笑)。
 
蓋し名言である(笑)。
 
これらの名言の裏には、深い人間愛が
あると同時に、
 
人間の浅はかな生き様を諫める
意も含まれている。
 
貧富貴賤に翻弄される
人間の欲望など「糞くらえ!」
であり、
 
己を「糞袋」と看做せば、
 
平凡な日常とても、有難い
施しに充ち満ちている
ということ。
 
つまりは、永遠は今にあり、
今が永遠なのだとも言える。
 
時間など伸縮自在。
 
心の持ち様によって、薬にもなれば
毒ともなるのだ。