井上道義 服部百音 読響 ショスタコーヴィチ「ヴァイオリン協奏曲第1番」「交響曲第5番」 | ベイのコンサート日記

ベイのコンサート日記

音楽評論家、長谷川京介のブログです。クラシックのコンサートやオペラなどの感想をつづっています。

(2月10日・サントリーホール)

みぞれ交じりの雪が降りしきる中、サントリーホールに向かう。
都内でも10センチ積もるという予報におびえ、スノーブーツを購入。デイバッグに入れスニーカーで出かけた。幸い積もるまでには至らないが、橋の上や歩道の一部ではシャーベット状になり滑って危ない。
こういう夜はショスタコーヴィチを聴くにふさわしい。雪のためキャンセルした人も多かったと思うが、それでも聴きたいと集まった聴衆を前に、出演者も感じるところがあったのだろう。凄まじい演奏が展開された。


ショスタコーヴィチ「ヴァイオリン協奏曲第1番」

服部百音のショスタコーヴィチに対する思いの深さが感じられた。凄まじい気迫と気合、凄絶な集中力、命をかけるような演奏に圧倒される。井上道義読響の繊細な演奏も印象的。第4楽章コーダでのソリスト、指揮者、オーケストラの一体感も圧巻だった。

 

服部百音のヴァイオリンはショスタコーヴィチに対しても音は常に美しさが保たれる。逆に美しすぎるためショスタコーヴィチの深層を描くには、もう一歩中に踏み込めていないようにも感じた。ヴァイオリンに音量と逞しさが増せばさらに素晴らしかったと思う。

 

三者の熱演に対して起こったのは大変な拍手。アンコールはシューベルト(エルンスト編)の「魔王」。ショスタコーヴィチの名演の余韻を残すために、このアンコールはなくてもよかったのでは。素晴らしいテクニックであったことは間違いないとしても。

 

ショスタコーヴィチ「交響曲第5番」は井上道義のショスタコーヴィチの集大成。やりたいことは全てやったという熱演。作曲家の顔が良く見える。ショスタコーヴィチの怒りに共感する井上の怒りが激しい演奏から伝わってくる。

それは特に第4楽章の凄まじいエネルギーの爆発と、抉るような悲しみ、コーダの弦の激しいトレモロ、大太鼓の一撃に感じられた。

第2楽章スケルツォのチェロとコントラバスの弦も切れよ、とばかりの強奏にもその感情はあった。舞曲や中間部の皮肉も効いている。

第3楽章アダージョの悲しみは深いが、同時に甘美さも感じられた。

 

大熱演であり井上道義へのソロ・カーテンコールもあったが、感動が大きくないのはなぜだろう?井上の指揮に何か限界のようなもの、超えられない壁を感じる。

 

作曲家の怒りと絶望、音楽的な美の追及の先に、まだ表現できていないものがあるのではないか。

それは例えば、ロシアの大地の匂い、空気や自然かもしれない。ロシア民族に脈々と流れる民族の歴史や血であるかもしれない。

もうひとつは、今夜のような演奏は以前どこかで聞いたことがあるという既視感かもしれない。第5番を聴く機会はショスタコーヴィチの作品の中ではとびぬけて多い。よほど突き抜けた新鮮な解釈がない限り驚きは少ない。
井上道義のショスタコーヴィチを聴く機会は多く、どういう演奏になるのかあらかじめ予想できてしまうということもあるのだろう。