札幌交響楽団東京公演2022 ユベール・スダーン(指揮) 山根一仁(ヴァイオリン) | ベイのコンサート日記

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音楽評論家、長谷川京介のブログです。クラシックのコンサートやオペラなどの感想をつづっています。

(2月8日・サントリーホール) 
ベルリオーズ 「ロメオとジュリエット」より「愛の場面」

チェロとヴィオラに始まる愛のテーマが美しい。木管も繊細。ヴァイオリンが少し痩せた音だが、スダーンが得意とするベルリオーズの色彩感のある音が聴けた。

 

伊福部 ヴァイオリンと管弦楽のための協奏風狂詩曲

山根一仁の超名演が、インターナショナルな名作である作品の真価を知らしめた。冒頭の長いカデンツァから尋常ならざる気迫があり、ヴァイオリンは大地を震わせるばかりに鳴らされる。音程の正確さ、音色の美しさ、音楽的な深さ、そしてスケールの大きな表現は驚異的で圧倒された。

山根一仁は以前聴いたとき線の細さを感じたが、今日の演奏は逞しく野性的で、そうしたイメージを一掃した。

 

スダーン札幌交響楽団の演奏も、伊福部の演奏で良く聴く日本的な情念がある湿り気のあるものとは異なり、西洋的な響きで音色が乾いて切れ味が良い。

第1楽章後半の、後に映画ゴジラのテーマとして使われたモチーフも、映画に紐付くような余計な味付けがなく純音楽的に聞こえる。スダーンはゴジラの映画は新旧作とも見ていないのかもしれない。

 

ティンパニのソロで始まる第2楽章は、オーケストラの刻むオスティナートのリズムと一体となり弾き続ける山根のソロがすさまじい。
コンガがリズム楽器の主体として使われるため、原始的なエネルギーが前面に出てくる。スダーンの刻む乾いたリズムが日本民謡的なエンヤコラの調子を感じさせないこともプラスに働く。

 

山根一仁の弾くカデンツァにも日本的なベタベタした情緒を感じさせない。


伊福部はこの作品の改訂の際、緩徐楽章を削除したが、その理由として
『旋律線に余計なこぶしを付けないようにした。ヴァイオリンの場合は、こぶしを付けると、どうしても楽器の品格が失われ、音楽というより芸になってしまう。それをなるべく避けようとした。両端楽章では何とか行ったかと思うのですが、長大な緩徐楽章では、やはりこぶしを付けないでは持たない。といって、それをやっては、この曲での独奏楽器に品格を与えるとの試みが水泡に帰してしまう。だったら取るしかないということで、カットしました』と語っている。
山根は作曲家の意図に沿った演奏を全編にわたり展開したと言えるだろう。

 

カデンツァの後、オーケストラのオスティナートと山根のソロがひとつになりエネルギーを蓄え続け、突然終わるコーダの高揚感は前代未聞で圧巻。

聴衆の拍手の大きさが感動の大きさを物語っていた。

 

 

様々な解釈があっていいので、シューマン「交響曲第2番」でのスダーンの国籍不明・様式不明の演奏もありだと思うが、正直違和感があり感動はなかった。

 

すっきりとした響き、ヴィブラートは控えめ。かといってピリオド的でもない。前半のベルリオーズを思い出させるフランス的な演奏とも言える。明るく屈託がない。
札幌交響楽団を良くまとめあげ、演奏は密度が濃く、バランスも悪くない。しかし、心には全く響かない。シューマンの心境はほとんど伝わってこない。


第3楽章では少し感情が込められ、オーボエのソロも美しいが、深くは入って行けない。第4楽章は活気があったが、第3楽章の主題の回想などでは哀しみの感情が出てもいいのに、そうしたものは演奏からは感じられない。

 

シューマンは常にドイツ的でなければならないとまでは言わないが、少しは作曲家の心に近づいた演奏を聴きたいものだ。それでも聴衆の拍手は終わることがなく、スダーンのソロ・カーテンコールとなった。