スティーヴン・イッサーリス ~プルースト・プログラム~ 音楽に“失われた時”を求めて  | ベイのコンサート日記

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音楽評論家、長谷川京介のブログです。クラシックのコンサートやオペラなどの感想をつづっています。

116日、王子ホール)
 熱狂的な音楽愛好家であったフランスの作家マルセル・プルーストに焦点を当てたコンサート。傑作「失われた時を求めて」は音楽についての記述が数多い。プルーストの友人にはアーン、フォーレ、サン=サーンス、フランクという作曲家もいた。またイギリスの現代音楽作曲家トーマス・アデスはプルーストに触発された作品をつくっている。

しかし 「失われた時を求めて」を読んでいない聴き手としては、小説と音楽を関連付けて聴くことができず、純粋に演奏を楽しむしかない。

 

イッサーリスはガット弦を使用している。音量的には不利でもあえてそれを通している。豊かな陰翳、自然な音がガット弦の特長だが、今日の演奏はどこか精彩がなかった。音量の小さいことを考慮して前から3列目中央の席を押さえたが、それでも音が響いてこない。ダイナミックの幅が小さく、それが表現の幅の狭さになってしまっていた。

 

1曲目はプルーストと若い頃からの友人だったレイナルド・アーン(1875-1947)の「昔の歌による歌謡的変奏曲」。最後の変奏だけは大きな表情をつくったが、それまでは冴えなかった。

 

フォーレ「チェロ・ソナタ第2番」も最後だけ盛り上げたが、振幅が小さく、この作品が持つ男性的と言ってもいい雄大なスケール感がない。ピアノのコニー・シーはカナダ生まれの若手女性ピアニスト。イッサーリスとの共演は長いらしいが、彼女のピアノも弾いている時の思い入れたっぷりの表情・動作ほど音楽に勢いがなく、響きが薄い。

 

それは最後のフランク「チェロ・ソナタ イ長調」(原曲はヴァイオリン)でも同様で、山場がないまま終わってしまった。

 

結局この夜の演奏で一番面白かったのは、イギリスの現代音楽作曲家トーマス・アデス(1971- )の「見出された場所」だった。もともとこの作品はイッサーリスのために書かれ、作曲者自身のピアノとともに初演。「場」がテーマということで、「水」「山」「野原」「都会」の4つの部分からなる。インパクトが強かったのは、最後の2つの部分。「野原」はセロニアス・モンクの音楽をさらに過激にしたようなジャズを思わせる作品で、シンコペーションの嵐が吹きすさぶ。ピアノのコニー・シーがモンクさながらに激しく打鍵するピアノに負けじとイッサーリスのチェロが挑みかかる。

「都会」は《不気味なカンカン》という副題が付されているが、サン=サーンスの「死の舞踏」のパロディと言う。しかし聴いた印象はピアソラのタンゴが大爆発しているようでもあった。最後はイッサーリスの弦が今にも切れそうな強烈なピッツィカートと強奏の連続で終わった。楽器の鳴りの悪さを払拭する爆演だった。

 

写真:スティーヴン・イッサーリス(cTom Miller