内田光子のシューベルトを聴いて思ったこと。それはいかにも日本的、日本人的なシューベルトだったということだ。具体的には、墨絵のように淡泊で音色が少ないこと、響きが木造の家屋のように柱や梁が強靭ではなく、石造りの土台がしっかりとした西洋の建物とは異なる柔らかさ、優しさが感じられ、ハーモニーに厚みと芯の強さがないこと。
特にそれを感じたのは後半演奏された「ピアノ・ソナタ第21番変ロ長調D.960」。繊細という表現もあり得るが、全体にタッチは軽く、シューベルトが気体のように淡い存在に感じられる。シューベルトはもうこの世には戻れない彼岸の世界にいる。喜びとか悲しみとかいう感情はない。
第1楽章の左手の低音のトリルは、死神に憑りつかれたシューベルトの恐怖感はない。遠雷が遥か彼方で鳴っているようだ。
第2楽章第1主題の3オクターヴをぬって奏でられる左手の高音がなんとはかないことだろう。幻が一瞬現れたちまち消え去るようだ。
第4楽章の第2主題が展開される付点リズムの強音もどこか柔らかさを残す。コーダもこの世に別れを告げるシューベルトの決然とした意志とは違い、近くに旅行に出かけるような、普通に元気に旅立つ雰囲気が感じられた。
内田光子は実体のないあの世に存在するシューベルトの幻影を表現しようとしたのだろうか。聴き終えた印象としては、淡泊で水彩画で描いたシューベルトの世界が浮かんできた。
むしろ前半に演奏された「ピアノ・ソナタ第4番イ短調D.537」と「ピアノ・ソナタ第15番ハ長調D.840《レリーク》」の方が、内田光子の良さが出ていたように思う。優しい大和撫子のような女性の包容力と品格が、まろやかで優しく響く高音に感じられた。それらの美しい音には日本の陶磁器に描かれた色絵の文様のような色彩感すら感じられた。バランスよく配置された室内のような居心地のよさ、整った世界ともいえる安定感があった。
プログラム後半は美智子皇后陛下がご来場になり、聴衆は立ち上がって拍手でお迎えした。
写真:内田光子(c)Decca Justin Pumfrey