ブルーノ=レオナルド・ゲルバー ピアノ・リサイタル(11月5日、武蔵野市民文化会館小ホール) | ベイのコンサート日記

ベイのコンサート日記

音楽評論家、長谷川京介のブログです。クラシックのコンサートやオペラなどの感想をつづっています。

 

 ゲルバーを聴くのは1968年初来日の年、京都会館で聴いて以来、実に50年ぶり。ゲルバーも今年77歳、喜寿を迎えた。今日は同窓会に出るような気持ちで会場に向かった。

 

 50年前のプログラムはシューマン「謝肉祭」がメインだった。左足が不自由なゲルバーがゆっくりとピアノに向かう姿とお化粧をしたような白い顔を覚えている。今日は付き添いに腕をあずけながらもっと遅い足取りで、やっとピアノに近づく。ずいぶん太ってしまった。燕尾服がはちきれそうだ。今日も化粧しているようだ。髪は豊かでふさふさとしている。介添えの手を借りなければ座れない。椅子の上にホカロンのような四角い布を置いてもらっていた。

 

 今日はオール・ベートーヴェン。50年前のシューマンは完璧な演奏だったが、どこか突き放した客観的な演奏だったことを思い出した。果たして、ベートーヴェンは? やはり同じような演奏だった。

 

 ゲルバーの言いたいこと、伝えたいことは何だろうと、聴きながらずっと考えていたが、演奏からは何も伝わってこない。これがエリソ・ヴィルサラーゼだと音符のひとつひとつに意味やメッセージが込められている。先月聴いたジャン=マルク・ルイサダの場合は「愛」が伝わって来る。しかし、ゲルバーはわからない。タッチはしっかりとしており、「月光」第3楽章では音抜けも目立ったが、総じてテクニックは安定している。高音の艶やかさ、トリルの美しさ、弱音のやわらかさなど、ベートーヴェンの様式感は問題なく表現される。

 

 ただその演奏に感じ入るものがあったかと言うと、そうした情感にかかわるものは聞き取れない。結局自分の頭に浮かんだのは、気難しいベートーヴェンの姿であり、人を簡単には寄せ付けないベートーヴェンに重なるゲルバーの孤独感だった。

 

 それが端的に出ていたのは、ゲルバーが聴衆の咳にずいぶん神経質になっていたことだ。ソナタ第3番の第4楽章で咳を繰り返す聴衆がいたが、突然ゲルバーが「After!(アフター!<後にしろ!>)」と叫んだ。そのまま演奏を続けたが、速いパッセージは音量も急に大きくなり、怒りの感情が込められているようだった。

 

 休憩後の第15番《田園》が始まってすぐ、また咳込む客がいた。なんと、今度は演奏を止めて、咳が聞こえた方を怖い顔でにらみつける。そして、右手を差し伸べながら「Cough(コフ<咳>)」と皮肉を込めて言い放った。さらにもう一度「Cough」と繰り返した。「咳をしたければ今どうぞ」ということだろう。場内はシーンとして反応なし。そのあと一言「Half time(ハーフタイム<咳をするなら次の曲の間に>ということか>)」と言い放ち、また演奏に戻った。

 第15番はタイトル通り穏やかな自然を感じさせる曲だが、ゲルバーの言葉は厳しいものがあった。演奏に優しさが感じられたのは皮肉だった。

 

 最後の第21番「ワルトシュタイン」は名演だったと思う。構成感がしっかりとしており、強靭なタッチ、美しいトリルなど、充実している。右手で分散和音を弾きながら、主題を奏でる左手を交差させるのは太った体ではきつそうだが、器用にこなす。主題がffで回帰する際も堂々としている。プレスティッシモのコーダは高揚感があるスケールの大きな演奏だった。

 

 一人で立ち上がったゲルバーは満足げな表情で、微笑みを浮かべながら聴衆に感謝の気持ちを示すかのように手を差し伸べた。すぐに場内が明るくなり、アンコールがないことが示される。終わらない拍手にゲルバーは舞台袖から顔だけ出し、笑顔で「バイバイ!」と手を振った。