ルース・スレンチェンスカ ピアノ・リサイタル (サントリーホール) | ベイのコンサート日記

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音楽評論家、長谷川京介のブログです。クラシックのコンサートやオペラなどの感想をつづっています。

421日、サントリーホール)

 93歳のピアニスト、ルース・スレンチェンスカの初めての東京公演。岡山の歯科医師三船文彰氏は、2003年台北で主催した日本の演奏家のプライベートコンサートで、飛び入りで弾いた彼女が弾くピアノに魅せられた。

以来三船氏は岡山を中心としたコンサート行うなど、9回日本に招聘している。200580歳のとき、ラスト・コンサートを行うが(NHKテレビでドキュメンタリーが放送された)、その後も来日が続き、昨年も岡山でリサイタルとレコーディングを行った。そのパワフルぶりに、三船氏は冗談で東京公演をスレンチェンスカに申し出たところ、横にいた夫人がすかさず、「すぐにサントリーホールに申し込みを」と厳命(三船氏の言葉)、たまたまこの日だけが空いていたという。

 

ルース・スレンチェンスカは1925年カリフォルニア生まれ。5歳でカーティス音楽院に入学。ホフマンに学ぶ。そのほか師事したピアニストはラフマニノフ、ペトリ、シュナーベル、バックハウス、コルトーといったロシア、ドイツ、フランス三大ピアニズムを受け継いでいる伝説的な巨匠が並ぶ。またホロヴィッツはスレンチェンスカより21歳年上だが、彼女を尊敬し親友としていた。

 

サントリーホールはP席とRALA席のP席寄りを空席としていたが、他はほぼ満席。客層もふだんのクラシックのコンサートと異なり、ピアノ関係者が多いように思えた。女性が7割ほど占めていた。

 

スレンチェンスカがステージに登場。身長150センチほどと小柄。銀髪が美しい。一度だけ、ステージにせり上がったオーケストラ台に手をつくが、姿勢が良く、すり足でゆっくり歩く。ピアノはステージの縁に並行ではなく、やや左に振って置かれてあるため、鍵盤とスレンチェンスカの手と指の動きが二階席からも良く見える。

 

譜面を見ながらの演奏(ベートーヴェンとショパンは暗譜)だった。
最初はショスタコーヴィチ「24の前奏曲とフーガ作品87-5」。シンコペーションでリズムがつかみにくい曲を、ゆっくりと弾くので、曲想がよくわからない。しかしフーガは、同じく遅いテンポながら、しっかりとした瑞々しい音で明解に弾く。なにより芯のある強い音は年齢を感じさせない。

次のJ.S.バッハ「平均律クラヴィア曲集より第5番前奏曲とフーガBWV850」は、ゆっくりと、しかし大きなつかみと流れで弾く。

 

ブラームス「3つの間奏曲」と「2つの狂詩曲」は続けて弾かれた。合わせると30分以上弾き続けたことになる。93歳とはとうてい信じられない。しかもこれはブラームスをロマンティックに弾くとこうなるのか、という見本のような演奏。
 間奏曲作品1171は、ふつう我々が聴く演奏の1.5倍は遅いのではないか。間奏曲作品1172変ロ長調が前半では最も感銘を受けた。テンポは遅くない。驚いたのは、演奏がものすごく若々しいこと。目をつぶって聴いていると、少女がピアノを弾いているように思えてくる。音が瑞々しい。イメージとしては、泉から新鮮な水がこんこんと湧き出てくるようだ。間奏曲117-3から狂詩曲へほとんどアタッカで弾かれた。狂詩曲ロ短調はペダルをしっかりと使い、ダ・カーポされる主題はヴィルトゥオーゾ風の大きなスケールで弾いた。第2番ト短調も同じようにうねるような演奏。最後の二つの和音も激しく終わらせた。嵐のようなブラームスだ。

 

前半を聴いて思ったことは、19世紀のピアニストが現代に現れたらスレンチェンスカのように弾くのではないかということだ。フォルムやテンポを現代のピアニストのように、厳格に守るということはしない。勝手気儘というのではなく、時代様式というのか、それが19世紀から20世紀初めにかけては伝統とされてきたのではないだろうか。

 

スレンチェンスカの師の一人、ヨゼフ・ホフマンの残された録音を聞くと、端正ながらも感情をこめる部分はきわめて大胆に激しく弾いている。高音の瑞々しい美音は、スレンチェンスカに影響を与えているのがよくわかる。

 

後半は、ベートーヴェン「ピアノ・ソナタ第17番作品31-2ニ短調《テンペスト》」」から始まった。これは先日聴いたピリスとは好対照の演奏だった。世代の違い、様式の違いをはっきりと示しており、興味深いものがあった。ピリスについては、すでにレヴューを書いているので、そちらを参照されたい。

 

スレンチェンスカは、第1楽章冒頭ラルゴの分散和音をひとつひとつの音がわかるくらいゆっくりと弾いた。アレグロの第1主題もじっくりと構え急がない。

2楽章アダージョが良かった。特に左手で弾かれる、轟くような音型に続いて弾かれた第2主題が素晴らしかった。ドルチェの旋律にかかるスラーを息の長い歌のようにたっぷりと歌わせる。こういう歌わせ方、長く滑らかなレガートは難しいのではと思う。スレンチェンスカは、それをまさに巨匠の風格で表現する。第3楽章アレグロの主題も悠然と、堂々と進む。

この演奏には場内も沸いた。

 

ラフマニノフ「絵画的練習曲作品33-7」は、かなり自由に崩して弾き、「大洋」という副題で呼ばれることもあるショパン「練習曲作品25-12」も、悠然としてスケールが大きい。

 

会場は、スタンディング・オベイションとなった。93歳というピアニストの健闘を讃えるだけではなく、スレンチェンスカの演奏自体に感動した自然な反応だと思われる。

 

アンコールを弾く前にスレンチェンスカが椅子の上で、大きく背中を伸ばしたので、場内に笑いが満ちた。ショパン「ワルツ第7番嬰ハ短調作品64-2」をスレンチェンスカはひとつひとつの音を愛おしむようにゆっくりと弾いた。瑞々しい音は豊かな自然の中で、本物のおいしい湧水を飲むように感じられた。

 

 CD録音が行われていたようなので、いずれ三船文彰氏が主宰するレーベルLiu Mifune Art Ensemble Records(販売はレグルス)から発売されると思う。