シンクロニシティ -3ページ目

最近の(2-61)♂️

 

7月23日(火)

傘マスク通勤道具の令和夏

 

 通勤―5

  毎日暑い。夏日が続き、単に暑いだけでなく湿気がある。おまけに5類に格下げとなった新型コロナがさらに型を変えて猛威を振るっている。40代以降のこれまでコロナ感染の経験がない人がかかりやすいとテレビで現場の医師がいっていた。気を引き締めて通勤する。

傘をさすと日差しを遮るので本日のようにかんかん照りでは都合がよい。直射日光と紫外線が傘にずぶずぶと突き刺さるようだ。それを防いで歩いているとおもうと少し、愉快な気持ちになる。

歩いて通勤すると45分かかかる。通勤先のビルの通用裏口のガラスドアを開ける。2重になっていてもう一つガラスドアがある。そこを手前に引き開けると、狭い通路の両側に主に男性が壁際に2列に並んでおり、かろうじて真ん中に通れるスペースがある。慌ててマスクをしっかりと引き上げ、歩み出す。

最近の(2-60)

 

7月22日(月)

傘をさしマスクを口に令和夏

 

 通勤―5

 

現地の日本人従業員によるとタイの女性は手先が器用で大変辛抱強いそうだ。日本では戦前に「女工哀史」のような織物工場の過酷労働があったがそういうこととは関係がないようであった。この工場ではパソコン用のハードデスクをつくtっているといっていたが、本体は現在パソコン事業からひいているので、今はどうなっていることやら。

会社通勤は運転に十分慣れたので4,5年で止めたように思う。都会では公共交通機関がある限り、それを利用するほうが良いようだ。

最近の(2-59)


7月20日(土)
輪の向ふ知人の踊る盆の宵

 通勤―4
この勤め先から海外勤務者の健診に出かけたことがあった。タイのバンコク郊外の工場を見学したときのことである。
駐在している社員はバンコク周辺に住んで工場へ通っていた。朝の出勤時に社員の車に同乗させてもらったが50㎞くらい離れた工場まで2時間半から3時間かけて通うという。要するに朝の渋滞がひどいのだ。枝道などがないらしく幹線道路が上下線とも車でびっしりで、連休のころの日本の高速道路の渋滞を思わせた。ただ、これが毎日なのだ。
ようやく工場にたどり着くと、大型バスが50台ほど工場敷地に駐車している。近隣から通勤する現地従業員用の送迎バスなのだそうだ。
大型バス50台は実際揃って並んでいるのを見ると、尋常でなく壮観の一語だ。朝夕、タイ人の女性がどどっと乗り降りする様はさらに壮観だ。
ちなみに、現地従業員はほとんど女性。これはタイの文化であるという。タイの男性はしゃがんで煙草をふかして、かけ事に頭をめぐらすのだそうだ。誇張に過ぎないと思うが、女性にしっかり者が多く、まともに働く男性が少なめなことは事実のようだ。


 

最近の(2-58)



7月19日(金)
吊り瓜をサンドバッグにストレ―ト 

 通勤―3
川崎の病院へはJRで川崎まで出てさらに南武線で北上したが、ある時から乗用車で通勤を始めた。自動車免許を取ったのだ。車の運転になれるためだ。通勤時間はは10分ほどは短縮した。それまでは川崎まで南に下って北上というルートであったやや南へ下って多摩川沿いに北上のコースとなった。車の運転のトラブルがなかったとはいえないが、少なくとも事故をおこすことなく、60歳近くまで通い続けた。
勤め先の企業の病院は工場内にあった。一般に地方にある工場は都市郊外がほとんどで通勤は自家用車のことが多い。この工場は交通が便利なように戦前に建てられたものであったので、公共交通機関での通勤が可能であったが、あえて自動車通勤をして運転になれるよにした。こうして運転歴は30年以上になった。 



 

最近の(2-57)


7月18日(木)
ああ緑緑緑の山野かな

 通勤―2
 日本には7千万人の給与労働者がおり、日々、通勤している。その労力は生涯にわたり大変なものだ。勿論それを支える交通機関も膨大なネットワークだ。
大学医局の先輩は定年まで大学に通い続けた。通勤は横浜市外からで片道2時間半、往復5時間を毎日費やしていた。24時間の半分は睡眠と通勤で消えてしまうとその先輩は言っていた。その口調は淡々としていて、そういう人生を生きているという雰囲気だった。先輩は故人ではあるが、アレルギー学で優れた研究を多数出され、自分が尊敬する方だった。
企業の病院へ通勤で通うことは、大学の研究室から離れてやっと一般並になったと感懐したことを覚えている。通勤の電車の混雑は都心から逆方向ではあったが朝夕は混んでいた。ただ、その川崎の病院へ田園都市線経由で通勤するものがいうには、自分がのる電車とは比較にならない混み方だという。ほとんど息ができないくらいで、電車が揺れて人の間にわずかな隙間ができるとき、息を吸うのだそうだ。
このころは日本の通勤電車のすさまじい混み具合が海外でもよく紹介されていた。ドア―が閉まらず、駅員が乗客を押し込む姿が典型としてよくテレビに出ていた。



 

最近の(2-56)



7月17日(水)
大声で自由に歌おうパリ祭

 通勤―1
学校通いは通学、働いて日々の糧を得るために通う場合は通勤という。通学は小中は徒歩、高校はすでに廃線となっているが都電、大学は徒歩。
社会人になって大学病院へ勤めていた時は、徒歩、自転車、引っ越ししてからは私鉄東武線と地下鉄千代田線を乗り継いだ。企業の病院に就職してからは谷中の自宅に戻って、以来、通勤の起点は谷中だ。企業の病院は川崎市中原区にあり、横須賀線の武蔵小杉駅がまだないころだったので、JR京浜東北線で川崎まで行き南武線で武蔵中原へ出た。1時間10分くらいかかった。



 

気のむくままに(2-70)

 

  

7月16日(火)

  宵闇にまだ時間ありパリ祭

 

  同調圧力ー17

同調圧力は圧力というからには己の外部にあるように思うが、本来的に内部の問題だ。心の中でこれはいっていいのか、外れていると思われないかと吟味,秤量している。

自分の場合、ひそかに嫌いとおもっていること、しかしおおっぴらにいうには同調圧力が働くと懸念されることがあると述べてきた。時々そのことを友人に話すこともあるがへえ~という顔をされるだけだ。変な奴と思われたかもしれないが。付き合いが絶えるというようなことはなかった。

日本の今の現状、戦後経済が発展し、一時は世界に冠たるものがあったが、現在は衰退、少なくとも周辺国に抜かれ、高齢化、人口減少を招いている現状は、政治家も指導者も人を得なかったと同時に、一人一人の生活行動、信条に何か欠けるものがあったと思っている。おぼろげながら、見えてきたものに逐次、ブログで触れてゆこう。

気のむくままに(2-69)

 

  

7月15日(月)

  今の世は暗くはないさパリ祭

 

  同調圧力ー16

同調圧力の本質を突き詰めてゆくと、協同社会の安定性を保つ自然発生的な面に気づく。誰もが圧力を感じるが、自身の存在も圧力になっていることは意識しない。

抽象的なことではなく一つ一つの事象、慣習、その他もろもろのことがあって、その密度の高い意識空間を共有しかつ圧力を受けている。これが頭の中にある社会というもの。

一人一人がその空間は異なっているのは当然だが、共通に重なりあう部分があるから現実の社会は成り立っている。同調圧力は重なりあう部分と個人的な部分の境界線で働く。

気のむくままに(2-68)  

 

7月13日(土)

頂上を目指す目に汗朦朧と

 

  同調圧力ー15

命の危険はなくとも何らかの圧力が働くから心の中にだけ秘めている。自分の場合も、やはり同調圧力を感じるから、触らずできたがそれで世間を狭くしてきたことは確かだ。

友人でやはりかなり秘密にしているが、時々その考えがでるひとがいる。例えば「天皇制反対」などという考え。自分はどうでもよいことで公の場では敬うように振舞うだろう。そうかといって制度として本当に必要かというとわからない。ただ熱意をもって反対の気持ちを持つ,あるいは大事にするというほどのことはない。友達の場合は秘めていて、時と場合によっては熱意をこめて語りたいといったふうだ。誰もが自分の思いを時と場合によってはどうしてそういう考えに至ったかを語りたい気持ちはある。

これは親、家族が戦争でどのような体験をしたとか、身の回りの人の不幸をどのようにとらえてきたかなど人それぞれに考えが異なるであろう。自分は戦前生まれだが、戦争によってはアメリカ嫌いにも天皇制反対にもならなかった。防空壕に逃げ込んだことも焼け跡で戦闘機より機銃掃射を受けそうになったこともある。父母からそれぞれ聞かされたのだから確かなことだが、生き方に影響があったとは思えない。

気のむくままに(2-67)

 

7月12日(金)

眼の中に汗朦朧と上目指す

 

  同調圧力ー14

誰でも人には滅多にいわない秘密のことを抱えているものと思っている。それが自分のようにひそかに嫌っているものであれ、あるいはのぞんでいることであれ、さまざまだろうが、表に出さないことは共通している。嫌っていることが表に出にくいのは世間一般とは方向が違うからで、同様の思いの人には滅多に会うことがない。

これが案外と世間を狭くしていることは自覚している。それによって話はあわせるが深い付き合いとはならない。

戦時中は一億総意の同調圧力にはすさまじいものがあっただろう。反対し同調の気持ちをもたないとしてもそれはひそかに圧力に負けているよりいたし方なかった時代だろう。

今は言論の自由の時代だ。自分がひそかに嫌っていることを明らかにしようと少なくとも日本では生命の危険などはない。