シンクロニシティ -5ページ目

最近の(2-65)


7月27日(土)
剪定の届かぬ枝をじっとみる

 通勤―9
お台場というのはアメリカのぺルリが軍艦4隻を率いて品川沖にあらわれたとき、準備された徳川幕府の施設だ。埋め立ての島を造りそこに大砲を据えて迎え撃とうとした。砲台があるのでお台場といった。その跡が残っていて公園となっている。対岸の品川の埠頭まで800メートルくらいか。
この海峡を経て、江戸上近くまで侵入してきたとして、おそらくお台場と品川から砲撃したとしても阻止できなかったのではないか。長英戦争、薩英戦争の結果を見れば明らかで、火器の性能に格段の違いがあった。
日本国ではぺルリが来た時より250年前に、ヨーロッパ伝来の銃、大砲など戦争に使われていた。日本ではそれ以来、大きな内乱などなく、外国の侵入もなく、鎖国による平和が続いたので火器が進歩することはなかった。ヨーロッパのように国が地続きでつながっているところでは、切磋琢磨して武器も進歩せざるをえない状態だったのであろう。この時期の鎖国は日本としては素晴らしい選択だったか。十分考えるべき問題であろう。


 

最近の(2-64)



7月26日(金)
夜店番彫像のやふ動かずに

 通勤―8
70歳ころから現在の会社の診療所に勤めるようになった。会社は築地からお台場へ引っ越したので、毎日、海を眺める生活となった。JRで新橋駅まで出て、ゆりかもめに乗り換えお台場海浜公園で降りる.屋根付きの歩道橋を渡って勤務先のビルに達する。6階が診療所で、ここを毎日歩いて登った。エレベーターは数えるほどしか使わなかった。慣れてしまうと6階程度は負担にならない。勿論健康管理上、体力の維持のためだ。どのくらい役に立ったかはわからないが、自信にはなった。
お台場へ勤めるようになって、東京湾の最奥のウオーターフロントをじっくりと味わうことになった。

 

最近の(2-63)


7月25日(木)
  暑いねと声かけられて交差点

 通勤―7
自動車通勤では公共交通機関が整備されていない昔のタイの状況を述べた。日本でも地方の工場はほとんど自家用車の通勤となっている。会社が連絡バスを出しているところもあるが会社はバス利用を積極的にはすすめない。日本の給与生活者は7千万人弱で、6大都市圏に勤め先を得ている人が多いとしても、膨大な人数が車通勤を選択している。
おそらくこのことが、地方の公共交通、地方鉄道などの衰退をもたらしているのではないか。また従業員も減らして効率よく工場を運営しようとする。
少子高齢化、人口減少の波をもろにかぶっている。
また車通勤は運動不足になりがちだ。ドアツドアで生活して自宅へ帰ってからウオーキング、ジョギングなどに飛び出す人は稀だ。
最近は通勤しないで自宅での仕事を選択することも可能になった。
こういう人で着実に健康診断上のデータの悪化がみられる。体重増加、血圧上昇、コレステロール上昇、糖尿病悪化など。

 

最近の(2-62)


7月24日(水)
顔寄せて色付くほどにかき氷

 通勤―6
 これは「ガントレック」だ。「ガントレック」という古い映画の筋を忘れたが、保安官のような人が装甲したバスを運転して市庁舎に向かうシーンがあった。町中を走ってゆくと道路の両側の建物から猛烈な射撃を受ける。行く手を遮る反対勢力なのだ。射撃を受け、反撃しながら、また車をぼろぼろにしながら町中を進んでゆく。
自分は両側からコロナ感染という危機を感じながら進んでゆくのだ。通勤といっても朝から緊張だ。わずか10メートルほどをすり抜けて左折、エレベーターホールに達する。エレベーターは6台あってボタンを押せばすぐにやってくる。
21階が仕事場で、エレベーターを降りて左折したしたところにある。おはようと声をかけて、一日の仕事が始まる。

 

最近の(2-61)♂️

 

7月23日(火)

傘マスク通勤道具の令和夏

 

 通勤―5

  毎日暑い。夏日が続き、単に暑いだけでなく湿気がある。おまけに5類に格下げとなった新型コロナがさらに型を変えて猛威を振るっている。40代以降のこれまでコロナ感染の経験がない人がかかりやすいとテレビで現場の医師がいっていた。気を引き締めて通勤する。

傘をさすと日差しを遮るので本日のようにかんかん照りでは都合がよい。直射日光と紫外線が傘にずぶずぶと突き刺さるようだ。それを防いで歩いているとおもうと少し、愉快な気持ちになる。

歩いて通勤すると45分かかかる。通勤先のビルの通用裏口のガラスドアを開ける。2重になっていてもう一つガラスドアがある。そこを手前に引き開けると、狭い通路の両側に主に男性が壁際に2列に並んでおり、かろうじて真ん中に通れるスペースがある。慌ててマスクをしっかりと引き上げ、歩み出す。

最近の(2-60)

 

7月22日(月)

傘をさしマスクを口に令和夏

 

 通勤―5

 

現地の日本人従業員によるとタイの女性は手先が器用で大変辛抱強いそうだ。日本では戦前に「女工哀史」のような織物工場の過酷労働があったがそういうこととは関係がないようであった。この工場ではパソコン用のハードデスクをつくtっているといっていたが、本体は現在パソコン事業からひいているので、今はどうなっていることやら。

会社通勤は運転に十分慣れたので4,5年で止めたように思う。都会では公共交通機関がある限り、それを利用するほうが良いようだ。

最近の(2-59)


7月20日(土)
輪の向ふ知人の踊る盆の宵

 通勤―4
この勤め先から海外勤務者の健診に出かけたことがあった。タイのバンコク郊外の工場を見学したときのことである。
駐在している社員はバンコク周辺に住んで工場へ通っていた。朝の出勤時に社員の車に同乗させてもらったが50㎞くらい離れた工場まで2時間半から3時間かけて通うという。要するに朝の渋滞がひどいのだ。枝道などがないらしく幹線道路が上下線とも車でびっしりで、連休のころの日本の高速道路の渋滞を思わせた。ただ、これが毎日なのだ。
ようやく工場にたどり着くと、大型バスが50台ほど工場敷地に駐車している。近隣から通勤する現地従業員用の送迎バスなのだそうだ。
大型バス50台は実際揃って並んでいるのを見ると、尋常でなく壮観の一語だ。朝夕、タイ人の女性がどどっと乗り降りする様はさらに壮観だ。
ちなみに、現地従業員はほとんど女性。これはタイの文化であるという。タイの男性はしゃがんで煙草をふかして、かけ事に頭をめぐらすのだそうだ。誇張に過ぎないと思うが、女性にしっかり者が多く、まともに働く男性が少なめなことは事実のようだ。


 

最近の(2-58)



7月19日(金)
吊り瓜をサンドバッグにストレ―ト 

 通勤―3
川崎の病院へはJRで川崎まで出てさらに南武線で北上したが、ある時から乗用車で通勤を始めた。自動車免許を取ったのだ。車の運転になれるためだ。通勤時間はは10分ほどは短縮した。それまでは川崎まで南に下って北上というルートであったやや南へ下って多摩川沿いに北上のコースとなった。車の運転のトラブルがなかったとはいえないが、少なくとも事故をおこすことなく、60歳近くまで通い続けた。
勤め先の企業の病院は工場内にあった。一般に地方にある工場は都市郊外がほとんどで通勤は自家用車のことが多い。この工場は交通が便利なように戦前に建てられたものであったので、公共交通機関での通勤が可能であったが、あえて自動車通勤をして運転になれるよにした。こうして運転歴は30年以上になった。 



 

最近の(2-57)


7月18日(木)
ああ緑緑緑の山野かな

 通勤―2
 日本には7千万人の給与労働者がおり、日々、通勤している。その労力は生涯にわたり大変なものだ。勿論それを支える交通機関も膨大なネットワークだ。
大学医局の先輩は定年まで大学に通い続けた。通勤は横浜市外からで片道2時間半、往復5時間を毎日費やしていた。24時間の半分は睡眠と通勤で消えてしまうとその先輩は言っていた。その口調は淡々としていて、そういう人生を生きているという雰囲気だった。先輩は故人ではあるが、アレルギー学で優れた研究を多数出され、自分が尊敬する方だった。
企業の病院へ通勤で通うことは、大学の研究室から離れてやっと一般並になったと感懐したことを覚えている。通勤の電車の混雑は都心から逆方向ではあったが朝夕は混んでいた。ただ、その川崎の病院へ田園都市線経由で通勤するものがいうには、自分がのる電車とは比較にならない混み方だという。ほとんど息ができないくらいで、電車が揺れて人の間にわずかな隙間ができるとき、息を吸うのだそうだ。
このころは日本の通勤電車のすさまじい混み具合が海外でもよく紹介されていた。ドア―が閉まらず、駅員が乗客を押し込む姿が典型としてよくテレビに出ていた。



 

最近の(2-56)



7月17日(水)
大声で自由に歌おうパリ祭

 通勤―1
学校通いは通学、働いて日々の糧を得るために通う場合は通勤という。通学は小中は徒歩、高校はすでに廃線となっているが都電、大学は徒歩。
社会人になって大学病院へ勤めていた時は、徒歩、自転車、引っ越ししてからは私鉄東武線と地下鉄千代田線を乗り継いだ。企業の病院に就職してからは谷中の自宅に戻って、以来、通勤の起点は谷中だ。企業の病院は川崎市中原区にあり、横須賀線の武蔵小杉駅がまだないころだったので、JR京浜東北線で川崎まで行き南武線で武蔵中原へ出た。1時間10分くらいかかった。