探索日 2024/3/15

加太砲台の記事はまだ手をつけておりません()

それより、もっと重大な遺構を探索してきたので記事にします。

 

大戦末期、本土決戦が近づき、従来の明治期に造られた砲台に追加してさらに多くの砲台が作られました。由良要塞では、淡路島由良地区の海面砲台が有名ですが(それでも知名度は低い)実は加太側にも造られていたのです。2023年11月ごろに県立図書館所蔵の由良要塞に関する資料を読み漁らなかったら見つからなかった情報で、インターネットで調べてもヒット件数は1件、その一件も所在が書かれているだけで砲台の写真は載っていませんでした。googleマップで男良谷の水雷隊跡写真欄を見てみると、二枚だけ載せられていました。投稿者は戦跡界隈で有名な定本義広氏。上記の文献を書いた人でもあります。あの人本当に凄いなぁ(笑)

ちなみに海面砲台というだけあって、そそり立つ崖に造られています。2023年12月ごろ手ぶら、単騎で突撃したのですが、急な崖に完敗。発見できず坊主で終わりました。

2024年2月、絶対にこの目で見たいという固い意志を持って、何度も文献とネットの情報を探しました。Twitterで海面砲台について投稿したところ、神奈川で大戦末期遺構を探索しているスカまさんが同行してくれることに。いやあ本当遠いところからありがとうございます。

崖ということで、20mのロープも購入しました。買っておいて良かったと思います。多分帰って来れなかった...正直次の探索者のために置いてきても良かったのですが、不法投棄にも分類されかねないので回収しました。訪問の予定がある人は是非ロープを持っていってほしい。

 

砲台の所在です。

 

 

自分が見れる情報は全て見た、場所も分かった、同行人も募った、ロープも買った!完全装備で3月15日、リベンジです。

まずは男良谷砲台まで行きます。一応遺構は見ますが、今日は用はありません。見慣れた砲台を横目に、隣の緩い崖を登っていきます。

 

 

 

場所で言うと右翼観測所(海岸へ降りる階段)側右の崖を登ります。

この崖を降ります()

 

左に見える木にロープを括って降りました。

私、単騎突入の時はこの場所から見える位置にあると思っていたのですが、見当違い。15mほど下ってやっと側面のコンクリートが見えます。探索する際はそこのところ気を付けて。

15m下ってやっと見える側面がこれです。下って左側に見えると思います。

 

 

前の梅原トーチカもこんな形で発見しましたね(笑)

では待望の砲台の顔です。

 

 

ででーん!ちょっと木が邪魔かな。

 

 

ででーん!!これが加太、男良谷に残る大戦末期遺構、海面砲台です。内部は崩落していますがそれでもこの迫力です。

ここには十二糎加農砲が配備されていました。

 

 

 

当時の釘や建材の木が残っています。

 

 

 

これも木が使われています。大戦末期を代表する遺品ですね。

スカまさん(身長172cm)と比べてみた。

 

 

砲台の高さは約2m、横幅は約3mほど。メジャーを持っていけば良かった...

内部を詳しく。

 

 

 

 

崩落すると言うことは内部は素掘りだったと言うことかな?土砂にもコンクリートは含まれていなかったし。

 

以上で大戦末期遺構 男良谷の海面砲台の記事は終了。男良谷の遺構を全て探索するのに10年以上費やしました。終わってみると寂しいものですね。

あと行っていないのは大川山堡塁、佐瀬川低堡塁、深山火薬本庫だけとなりました。どちらも行くのが面倒なので探索はずっと後になりますが、必ず記事にするので、それまで乞うご期待。

 

参考文献

由良要塞1・2・3  近代築城遺跡研究会 和歌山県立図書館所蔵

 

紀伊山岳戦

 

情報提供 定本義広氏

同行 スカま氏 

明けましておめでとうございます。激遅投稿ですが、今年も宜しくお願いします。

 

さて、梅原のトーチカに行った時に同行していただいた霞准尉さんと共に、大阪府岬町孝子の大戦末期遺構に行ってきました。二里ヶ浜から上陸してきた敵を28cm榴弾砲で撃破する想定だったようです。榴弾砲は友ヶ島第三砲台から3門移設されたと文献には書いていますが、元々どこに配備されていた砲なのかははっきり分かっていません。

大戦末期遺構なので榴弾砲以外に配備された火砲の種類等を確定するのは不可能ですが、榴弾砲の旋回部が付近の橋の一部に転用されているので、孝子に持ってきたことは事実です。

今も残る遺構は弾薬庫のみですが、入り口の崩落が激しく、中に入れなくなるのも時間の問題です。今回地下壕は4つ確認できましたが、おそらくもっとあるのではないかと思っています。

 

 

いつにも増して雑ですが、見取り図です。小弾薬庫2つと大弾薬庫1つ、離れたところに未完成の弾薬庫(陣地から離れているので別の用途だった可能性大)一つを確認できました。小弾薬庫はL字型、大弾薬庫はコの字型になっています。二つを比べると、小弾薬庫は大弾薬庫と同じようなコの字型になる予定だったのではないかと思います。大弾薬庫はほとんど完成していますが、片方の入り口が崩落しています。反対側に入り口跡がないか探しましたが、確認できなかったため大弾薬庫も作りかけでしょう。小弾薬庫は区別するため、左を1、右を2とします。

 

弾薬庫内ではどこを撮っているかが分かりにくいため、掲載順に弾薬庫内見取り図を描いておきます。

 


では第一弾薬庫から見ていきます。もう一度言いますが、入り口の崩落が激しく、中に入れるのは今のうちです。

 

 

外から中を見てみます。

 

 

崩落しているため内部への出入りは大変で、もし中に入るつもりで訪れるなら1人で来るのはお勧めしません。入るのは簡単でしたが、出てくるのはロープが必要で、霞准尉さんに助けてもらいました。彼は入りませんでしたが、2人とも入っていたら出れなかったでしょう。太っている人も入るのはキツイかもしれません。スコップ持ってこないと...

入り口から内部を見ます。

 

 

内部は崩落しておらず、立って移動できます。入り口が狭いためか、小弾薬庫2つともコウモリはいませんでした。

内部を見てみます。

 

 

やっぱり写真ではわかりにくいですね。弾薬庫2の方を向いています。掘りかけと言われればそう見えるかも?

その場で振り返り、入り口方面を見てみます。

 

 

これは分かりやすいかな。内部にも多少瓦礫はありますが、行動に支障が出るほどではありません。

内部から入り口を見てみます。

 

 

結構内部に土砂が入ってきています。これを這い出るのは大変だった...

一応壕内に遺品が落ちていないか確認しましたが、特にそのようなものはありませんでした。

 

次は第二弾薬庫です。見取り図を貼っておきます。

 

 

ここも入り口がいつ塞がってもおかしくありません。

外から内部を見ます。

 

 

第一よりも入り口が狭い気がしましたが、出入りは簡単でした。

中に入って、入り口を見ます。

 

 

第一よりも小さい気がしますね。土砂が地面に流れ込んでいるからでしょうか?

入り口から奥を見てみます。

 

 

内部は小さいですが、地上よりも涼しく、とても静かです。あまり長居はしたくないなと感じました。地下壕内は不安になります。

奥から入り口を見ます。

 

これで小弾薬庫群の解説はおしまい。

大型弾薬庫にいく前に、第二弾薬庫の入り口は窪地になっています。何か意図して掘ったのか、第一弾薬庫と高さを合わせるためか...後者の方が有力な説となりそうです。

 

 

写真ではわかりにくいですが、縦横3m、高さ1〜1.5mくらいの掘り込みです。写真に写っている人は霞准尉さん、奥の穴が第二弾薬庫です。

小弾薬庫の隣に弾薬庫建設予定地と思われる山肌があったので、掲載しておきます。

 

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予定ではもっと弾薬庫が作られたはずです。弾薬庫としての用途ではなく待機所や作戦指揮室も作られたかもしれません。司令所は作られたようですが、今回はシダが生い茂っており、確認できていません。

 

では大弾薬庫へ。

大弾薬庫は入り口の崩落が少なく、立って入ることができます。そのため内部にはコウモリが沢山(笑)

見取り図です。

では①から見ていきましょう。

 

 

立って入ることができると言っても、多少は土砂が積もっており、時間経過や災害があったら埋まってしまうのも近い将来かもしれません。

では中に入って行きます。

 

 

小弾薬庫より奥行きがあるように感じられます。天井にはコウモリと冬眠中のカマドウマが多数見られました。爆撃されなくて良かったです。(芸予要塞小島の探照灯跡で見事爆撃された筆者)

奥まで行って左を見ます。

 

 

うーん、素晴らしい() 地下壕は詫間海軍航空隊の地下壕しか入ったことが無かったので新鮮です。初めは奥で行き止まりかと思いましたが、奥まで行くと左に曲がっていました。

 

 

ちょっと分かりにくいかな。曲がる直前は少し土砂が積もっています。曲がった先は天井が少し低い?

 

 

曲がった先は行き止まりで、崩落が起きています。もしかしたら当時は完成していて、戦後の土砂崩れで完全に塞がったのかもしれません。メジャーがあれば貫通していたか分かるんですけど...

 

では写真を載せながら外に出ます。

 

やはり小弾薬庫とは少し設計が違うのか、入り口まで遠く見えます。対戦末期だから設計図なんかもないんだろうけど。

大弾薬庫の隣には弾薬庫建設予定地と思われる跡がありました。

 

 

次は砲座に行きますが、対戦末期遺構なので非常に分かりにくいです。

第三砲座から大弾薬庫を見ています。

 

 

一番状態が良かった第三砲座の写真です。

 

 

砲座とも言い難いですが、資料にはそう書いているので深くは掘りません。

 

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28糎陣地と離れた場所に地下壕(未完成)と火薬庫と思われる施設跡があったので紹介します。

 

まずは地下壕。ご丁寧に看板がありましたが、弾薬庫として使われたかは不明です。おそらく別の用途で作られたものだと思います。一応説明通りにここでは弾薬庫と表記します。

 

 

では弾薬庫正面です。

 

 

対戦末期遺構としては珍しく石垣が使われています。当時のものでしょう。

中を撮影しますが、すぐ行き止まりで、終戦間際に造られたと分かります。

 

 

5mも無かったと思います。計画書にはこの周りにも地下壕が建設される予定でしたが、今回はこれ一つしか確認できませんでした。シダの群れに紛れている可能性も。

 

次は火薬庫ですが、資料と照らし合わした結果ですので他の施設の可能性もありますし、そもそも人の手で造られたものかも分かりません。

 

 

 

長方形で、中心に入り口と思われる凹みがあります。自然にできたとは考えにくいですが、それも確定できません。

 

今回確認できた遺構は以上です。おそらくもっと探せば未確認遺構もあるのでしょうが、あとは次現地に訪れる戦跡探検者が見つけてくれることを願います(笑)

 

今回の戦跡分布図です。

 

 

次は必ず加太砲台仕上げますので、よろしくお願いします。そして、今回遺構探索に付き合っていただいた霞准尉さん、貴重な時間を割いて頂きありがとうございました。

 

参考文献

 

 

 

霞准尉氏持参資料(個人資料なので公開はしない)

 

画像サイズ変更サイト

 

 

まず初めにお詫びしなければいけないことがあります。

更新遅くなり申し訳ありません。8月には加太砲台の記事を書き終えると言ったのですが、暑さと遠さで面倒になりほったらかしにしてました。そこでお詫びには足りませんが、2023/8/27に行ったトーチカの記事を書こうと思います。

 

概要

第144師団により建設された、大戦末期の本土決戦を想定した対戦車砲トーチカです。大阪を目指して突撃してくる米兵を孝子峠で殲滅するためのトーチカでしたが、結局は使われず今に残ります。

 

で、今回のトーチカ、探すのに2日かかりました。情報が全くないに等しく、私が調べた中では、唯一トーチカに関する資料、情報はニュース和歌山のある記事だけでした(リンクは最後に貼っておきます)。そこで手に入れた情報は

・近くに旧道が走っていた

・標高40m前後

・和歌山市梅原地区の山中

 

今でもよく見つかったなと自分でも驚いています。

では早速遺構の状態から。

 

内部は陥没しており入ることはできませんが、当時の鉄不足を証明する、鉄筋の代わりの木を見ることができます。

 

 

 

 

この後付近にいたTwitterのFFさんと合流し、再度トーチカへ行きました。その方から144師団の引き渡し資料をいただきました。

 

今回は加太砲台の繋ぎということで勘弁してもらいたい。絶対いつか書きますから()

以上、梅原対戦車砲トーチカでした。

 

参考文献

 

 

 

 

FFさん提供資料

https://t.co/jU01dgBFUZ