明けましておめでとうございます。激遅投稿ですが、今年も宜しくお願いします。

 

さて、梅原のトーチカに行った時に同行していただいた霞准尉さんと共に、大阪府岬町孝子の大戦末期遺構に行ってきました。二里ヶ浜から上陸してきた敵を28cm榴弾砲で撃破する想定だったようです。榴弾砲は友ヶ島第三砲台から3門移設されたと文献には書いていますが、元々どこに配備されていた砲なのかははっきり分かっていません。

大戦末期遺構なので榴弾砲以外に配備された火砲の種類等を確定するのは不可能ですが、榴弾砲の旋回部が付近の橋の一部に転用されているので、孝子に持ってきたことは事実です。

今も残る遺構は弾薬庫のみですが、入り口の崩落が激しく、中に入れなくなるのも時間の問題です。今回地下壕は4つ確認できましたが、おそらくもっとあるのではないかと思っています。

 

 

いつにも増して雑ですが、見取り図です。小弾薬庫2つと大弾薬庫1つ、離れたところに未完成の弾薬庫(陣地から離れているので別の用途だった可能性大)一つを確認できました。小弾薬庫はL字型、大弾薬庫はコの字型になっています。二つを比べると、小弾薬庫は大弾薬庫と同じようなコの字型になる予定だったのではないかと思います。大弾薬庫はほとんど完成していますが、片方の入り口が崩落しています。反対側に入り口跡がないか探しましたが、確認できなかったため大弾薬庫も作りかけでしょう。小弾薬庫は区別するため、左を1、右を2とします。

 

弾薬庫内ではどこを撮っているかが分かりにくいため、掲載順に弾薬庫内見取り図を描いておきます。

 


では第一弾薬庫から見ていきます。もう一度言いますが、入り口の崩落が激しく、中に入れるのは今のうちです。

 

 

外から中を見てみます。

 

 

崩落しているため内部への出入りは大変で、もし中に入るつもりで訪れるなら1人で来るのはお勧めしません。入るのは簡単でしたが、出てくるのはロープが必要で、霞准尉さんに助けてもらいました。彼は入りませんでしたが、2人とも入っていたら出れなかったでしょう。太っている人も入るのはキツイかもしれません。スコップ持ってこないと...

入り口から内部を見ます。

 

 

内部は崩落しておらず、立って移動できます。入り口が狭いためか、小弾薬庫2つともコウモリはいませんでした。

内部を見てみます。

 

 

やっぱり写真ではわかりにくいですね。弾薬庫2の方を向いています。掘りかけと言われればそう見えるかも?

その場で振り返り、入り口方面を見てみます。

 

 

これは分かりやすいかな。内部にも多少瓦礫はありますが、行動に支障が出るほどではありません。

内部から入り口を見てみます。

 

 

結構内部に土砂が入ってきています。これを這い出るのは大変だった...

一応壕内に遺品が落ちていないか確認しましたが、特にそのようなものはありませんでした。

 

次は第二弾薬庫です。見取り図を貼っておきます。

 

 

ここも入り口がいつ塞がってもおかしくありません。

外から内部を見ます。

 

 

第一よりも入り口が狭い気がしましたが、出入りは簡単でした。

中に入って、入り口を見ます。

 

 

第一よりも小さい気がしますね。土砂が地面に流れ込んでいるからでしょうか?

入り口から奥を見てみます。

 

 

内部は小さいですが、地上よりも涼しく、とても静かです。あまり長居はしたくないなと感じました。地下壕内は不安になります。

奥から入り口を見ます。

 

これで小弾薬庫群の解説はおしまい。

大型弾薬庫にいく前に、第二弾薬庫の入り口は窪地になっています。何か意図して掘ったのか、第一弾薬庫と高さを合わせるためか...後者の方が有力な説となりそうです。

 

 

写真ではわかりにくいですが、縦横3m、高さ1〜1.5mくらいの掘り込みです。写真に写っている人は霞准尉さん、奥の穴が第二弾薬庫です。

小弾薬庫の隣に弾薬庫建設予定地と思われる山肌があったので、掲載しておきます。

 

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予定ではもっと弾薬庫が作られたはずです。弾薬庫としての用途ではなく待機所や作戦指揮室も作られたかもしれません。司令所は作られたようですが、今回はシダが生い茂っており、確認できていません。

 

では大弾薬庫へ。

大弾薬庫は入り口の崩落が少なく、立って入ることができます。そのため内部にはコウモリが沢山(笑)

見取り図です。

では①から見ていきましょう。

 

 

立って入ることができると言っても、多少は土砂が積もっており、時間経過や災害があったら埋まってしまうのも近い将来かもしれません。

では中に入って行きます。

 

 

小弾薬庫より奥行きがあるように感じられます。天井にはコウモリと冬眠中のカマドウマが多数見られました。爆撃されなくて良かったです。(芸予要塞小島の探照灯跡で見事爆撃された筆者)

奥まで行って左を見ます。

 

 

うーん、素晴らしい() 地下壕は詫間海軍航空隊の地下壕しか入ったことが無かったので新鮮です。初めは奥で行き止まりかと思いましたが、奥まで行くと左に曲がっていました。

 

 

ちょっと分かりにくいかな。曲がる直前は少し土砂が積もっています。曲がった先は天井が少し低い?

 

 

曲がった先は行き止まりで、崩落が起きています。もしかしたら当時は完成していて、戦後の土砂崩れで完全に塞がったのかもしれません。メジャーがあれば貫通していたか分かるんですけど...

 

では写真を載せながら外に出ます。

 

やはり小弾薬庫とは少し設計が違うのか、入り口まで遠く見えます。対戦末期だから設計図なんかもないんだろうけど。

大弾薬庫の隣には弾薬庫建設予定地と思われる跡がありました。

 

 

次は砲座に行きますが、対戦末期遺構なので非常に分かりにくいです。

第三砲座から大弾薬庫を見ています。

 

 

一番状態が良かった第三砲座の写真です。

 

 

砲座とも言い難いですが、資料にはそう書いているので深くは掘りません。

 

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28糎陣地と離れた場所に地下壕(未完成)と火薬庫と思われる施設跡があったので紹介します。

 

まずは地下壕。ご丁寧に看板がありましたが、弾薬庫として使われたかは不明です。おそらく別の用途で作られたものだと思います。一応説明通りにここでは弾薬庫と表記します。

 

 

では弾薬庫正面です。

 

 

対戦末期遺構としては珍しく石垣が使われています。当時のものでしょう。

中を撮影しますが、すぐ行き止まりで、終戦間際に造られたと分かります。

 

 

5mも無かったと思います。計画書にはこの周りにも地下壕が建設される予定でしたが、今回はこれ一つしか確認できませんでした。シダの群れに紛れている可能性も。

 

次は火薬庫ですが、資料と照らし合わした結果ですので他の施設の可能性もありますし、そもそも人の手で造られたものかも分かりません。

 

 

 

長方形で、中心に入り口と思われる凹みがあります。自然にできたとは考えにくいですが、それも確定できません。

 

今回確認できた遺構は以上です。おそらくもっと探せば未確認遺構もあるのでしょうが、あとは次現地に訪れる戦跡探検者が見つけてくれることを願います(笑)

 

今回の戦跡分布図です。

 

 

次は必ず加太砲台仕上げますので、よろしくお願いします。そして、今回遺構探索に付き合っていただいた霞准尉さん、貴重な時間を割いて頂きありがとうございました。

 

参考文献

 

 

 

霞准尉氏持参資料(個人資料なので公開はしない)

 

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