白石城(しろいしじょう) | ルアーマンのブログ

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東北新幹線の下り、白石蔵王駅のすぐ手前、左側に一瞬だけ白石城の表示が見えます。

赤い矢印が白石城

宮城県白石市(しろいしし)にあり、しろいしじょう と読みます。

 

白石蔵王駅を過ぎた直後にはこのように。

ただしすぐにトンネルに入って見えなくなってしまうけど。

 

2月20日、まずは東北新幹線はやぶさで仙台駅まで。

 

そして東北新幹線やまびこで1駅戻り、白石蔵王駅へ。

特急も含めて1日乗り放題チケット「キュンパス」なので、このルートが安価で楽。

 

(新幹線の到着時間は はやぶさ >やまびこ だが、

 実物では はやぶさ飛行速度 < やまびこ(音速) なんだけど・・・笑)

 

白石蔵王駅からバスで数分の市役所前へ。

バス便は少ないので、よーく調べてから行くと良いでしょう。

 

市役所前の自販機には 片倉小十郎の絵。

 

白石城の歴史

 

鎌倉時代頃に白石氏が居城とする。

戦国時代には伊達氏の領地に。

1590年、豊臣秀吉の小田原攻めに遅れた罰として伊達政宗は岩出山城へ移され、代わりに蒲生氏郷が入る。

蒲生氏が宇都宮へ移ると、白石城は会津を本拠とする上杉景勝の領地に。

1600年、徳川家康の上杉景勝征伐の際、白石城の戦いで家康方の伊達政宗が白石城を奪い返す。

関ヶ原の戦いの後、伊達政宗は仙台へ移って仙台城を築城すると共に、1602年に伊達政宗ナンバー2の片倉景綱(通称:片倉小十郎)に白石城を与える。

 

片倉小十郎は伊達政宗より10歳年長で、家臣と言うだけでなく米沢城時代から教育係のように接していました。

天然痘で飛び出た政宗の右目を切り落としてあげて片眼でも出世できるとを説いたり、小田原攻めに遅れた際、豊臣秀吉に誠意を示すために白装束を着るよう進言したことなどの逸話があります。

 

関ヶ原の後、伊達と上杉は和解。

片倉景綱と上杉景勝筆頭家臣の直江兼続が一緒に温泉に行ったという話もあるらしい。

 

病のため1615年の大阪の陣(大阪ではなく、当時は大坂と表記)には出陣できずに亡くなったが、子孫は代々 片倉小十郎を名乗り、明治になるまで白石の地を統治しました。

 

なお、大坂の陣では伊達、片倉、上杉とも家康方として大活躍。

 

市役所などの間から白石城が見える。

 

入口に来ました。

 

左から、本丸の切岸、大手口、切岸、水堀跡の水路 となっています。

 

こんな城下

 

現在は中心部分の城跡、野球場、神社などが益岡公園として残っています。

 

梅が咲いていました。

 

途中、左へ振り替えるように道が分かれており、その先の二ノ丸には白石高校の跡地。

高校はすぐ南西側、公園の外に移転。

 

ここは二ノ丸大手二ノ門があった場所。

門は白石市内の当信寺に移築されています。

 

上る途中の本丸周囲の石垣、左側が戦国時代の野面積み、右が江戸時代に入ってからの切込接(きりこみはぎ)。

江戸時代に入ってから崩れた箇所を修復したもの。

また野面積み、切込接の両方とも、石垣上部が崩れ落ちている。

 

 

歴史探訪ミュージアム

白石城の歴史、古文書などの展示があり、入場無料。

城にまつわる映像作品視聴は有料。

 

天守閣への入場券はここで購入

 

片倉小十郎の像

そうか、代々「片倉小十郎」を名乗っていましたね。これは初代、片倉景綱です。

 

本丸の復元ジオラマ

御殿の建物が多くを占めていました。

 

大手二ノ門

 

天守閣(三階櫓)

明治に入り解体されたが、平成7年(1995年)に復元されたもの。

天守閣の増したは野面積み、その左の本丸土台は切込接か打込接(うちこみはぎ)。

 

本丸の多くは切込接だが、天守台は野面積み。

 

二ノ丸側から

 

天守台の隅は算木積みなどでではない。

地震で崩れないか心配。

 

この周辺のマンホール

 

なぜかポケモンのラプラス&クスネのマンホールも。

 

大手一ノ御門

 

本丸石垣の隅は算木積み

 

大手二ノ御門

 

大手二ノ御門を内側から

 

 

 

本丸御殿跡

 

広場となっています。桜の木が多い。

 

片倉小十郎景綱公頌徳碑  初代 片倉小十郎の記念碑です。

 

鐘堂

 

鐘堂の前には井戸

 

 

天守台の石垣が崩れないうちに入ってみましょう。

 

続日本100名城スタンプは天守閣の中。

入場料400円払わないとスタンプを押せません。セコい?

 

甲冑  左半分は伊達家で、右は真田家。

 

こちらは左から伊達政宗の兜、片倉小十郎、伊達政宗幼少期

 

左から真田幸村(信繁)幼少期、真ん中は不明、右は真田幸村

 

真田幸村と白石城の関係は・・・

1615年、大阪夏の陣で、敗北を予感した真田幸村は、娘の阿梅と息子の大八を敵である片倉重長(初代片倉景綱の子)に託した。

後に片倉重長の正室が没すると、阿梅を継室とした。

また大八は片倉守信と名乗り、仙台藩氏となった。

このように片倉家は真田幸村の子孫を繋いでいたのです。

 

初代 片倉小十郎(景綱)

 

天守閣上から見下ろした大手二ノ門と白石市の街

右遠方には白石蔵王駅

 

1600年、白石城の戦いでは 中央の山の手前に伊達政宗が陣を張った。

 

片倉家の馬印

 

本丸の北側にある厩口門から退城

 

厩口門は白石市内の延命寺に移築されています。

 

路面には案内板

 

本丸から10分弱の場所にある武家屋敷

片倉家のさらに家臣の小関家の屋敷跡。

1730年に建築されたもので、初代片倉景綱とは特に関係無いです。

 

 

街のマンホールには片倉家の馬印

 

街には片倉小十郎の顔はめパネル

 

帰りは徒歩でJR東北本線の白石駅へ

 

駅の階段にも白石城

 

桜の時期には城ファンでなくとも楽しめそうな

良く整備された続日本100名城です。