厳しいな・・・
赤坂5回2/3 8失点
赤坂、投手としては厳しいんじゃないか・・・
この前の試合でもメッタ打ちされてたし。
http://web1.incl.ne.jp/nsystem/
高校時代から評価の高い打者に転向してみては・・・
打者としての評価が高かった投手といえば中里を思い出すが巨人での活躍を耳にしないな。
情報お持ちの方、誰か教えて下さい。
赤坂、投手としては厳しいんじゃないか・・・
この前の試合でもメッタ打ちされてたし。
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高校時代から評価の高い打者に転向してみては・・・
打者としての評価が高かった投手といえば中里を思い出すが巨人での活躍を耳にしないな。
情報お持ちの方、誰か教えて下さい。
『133キロ快速球』(山本昌著)
自分が初めて山本昌を見たのは昭和62年の開幕シリーズ巨人戦。
敗戦処理としてブラウン管の中に現れた山本昌は細長い手足をギクシャクさせた不器用なピッチングフォームで巨人打線にボコボコに打たれ、あっという間にマウンドを降りてしまった記憶が残っている。
この年、中日の投手陣は前年オフに落合とのトレードで牛島、桑田、平沼といった主力、中堅投手をロッテに放出していたため極度のコマ不足に喘いでいた。そんな事情から「人手不足だから1軍で投げさせざるを得ない投手の一人」という役割で登板しているのだと僕は理解していた。
「それにしてももうちょっとマシな投手がいるだろう!」
当時、田舎の小学5年生だった自分がそう思ったくらいだから、山本昌の若かりし頃のピッチングがどれだけ酷かったかお分かりいただけるだろう。
実際、この年に入団してきた同じ左腕の近藤真一が「えぐいカーブ」を武器にデビュー戦で巨人を相手にノーヒットノーランという金字塔を達成すると「これで(自分は)クビになるな」と覚悟したという。
どうにか解雇は免れた山本昌は、翌年野球留学でアメリカに渡たることになる。
しかし、ここでもブルペンでのピッチングを見た往年の名投手サンディー・コーファックスからは
「この投手はすぐにサイドハンドにするか、さもなくばトラックの運転手になったほうがいい。」
と評されたという。
数ヵ月後、後に代名詞ともなるスクリューボールをマスターした山本昌のピッチングを見た同氏は、アイク生原に「この投手はあなたがサイドにするか、トラックの運転手になるべきだといった、あのときの投手ですよ」といわれると「おれがそんなことをいうはずがないだろう」と惚けたという。
事実、山本昌は目覚しく進化していた。
マイナーリーガーの野手から教えてもらったというスクリューボールを武器にシーズン途中に日本に帰国してからは5勝を挙げ日本シリーズでも第3戦の先発を任されるまでになっていた。
解雇を覚悟した敗戦処理投手が留学によってスクリューボールをマスターし、自らの道を切り拓いたのだ。
ここまでは案外良く知られた話し。
実はその翌年も星野監督の命令により再びアメリカに留学させられていた話しはあまり知られていない。
大いに飛躍を期待された帰国2年目のシーズン。開幕から勝てない試合が続き、初勝利を挙げることができたのは5月27日、実に14試合目の登板だった。
一度は追い払ったはずの「解雇」という恐怖が再びちらつき始めた焦りと恐怖。それらを拭い去ることができる唯一の処方箋が勝利であることはいういうまでもない。
野球人生において最も忘れられない勝利であり、涙が止まらなかったと本書では語られている。
その後、このシーズンでは9勝まで白星を積み重ねたところで『二桁勝利の壁』にぶつかり、そこで星野監督から「もう一回アメリカに行って来い!」ということになったらしい。
この二度目の留学により、山本昌は前述の恩師アイク生原と二人三脚でカーブの習得に取り組みはじめる。3年がかりでこれをマスターした山本昌は、93年に17勝を挙げ最多勝と最優秀防御率の二冠を獲得するまでになり、ついに球界を代表する投手に登りつめた。
あのぎこちない不器用な投球フォームの敗戦処理投手が今や200勝投手。
成功の要因がスクリューボールの習得にあるとするならば、その成功の陰には人との出会い、感謝の心があったのだとこの本が教えてくれているようでもある。
本書の後半、話しがオオクワガタ、ラジコンカー、フェラーリ、カラオケとどんどん脱線していき、仕舞には「クイズミリオネア」でのみのもんたとのやりとりまで事細かに振り返り始める始末。
まぁ、それも山本昌の人柄が表れているようで悪くはない。
《お勧め度》
★★★★☆
