もうじき注連縄づくりと秋季大祭
~疎外感や孤独を感じている人たちへ~
パソコン教室を営んでいる
和田基博と申します
10月になってやっとというか、つい先日まで猛暑、酷暑で30℃半ばまで上がって
気温が高く暑かったのが、朝晩はエアコンも要らないくらいに涼しくなりました。
外へ出かけると田んぼの畔にはあちこちに彼岸花が咲いていて、遅い秋を感じます。
村社入り口参道にも灯篭を囲むように彼岸花が咲いていて、通るたびに
目を和ませてくれています。
今月はもうすぐ注連縄づくりと秋の大祭の行事が予定されていて
自宅から村社へ行く途中にある氏子会関係者の家に立ち寄り、
日にちは知らされているものの時間はまだだったので寄ってみました。
その方も日時は聞いていないそうで総代と長老たちが話してから決まるということで
代理神主とも神事の時間を打ち合わせないといけないからだそうですが、
アバウトなのです。
年間行事なので時間帯も決めておいた方が良いのではないかと話してみました。
というのも村社は神社がある上の区と下の区から移設して合祀した
祇園神社の自治会の住人という、二つの自治会住民で氏子会が構成されていて、
それぞれに地区総代や世話人にも通知して知らせないといけないからなのです。
あまり急に知らせても今の時代、それぞれに用事等で皆が参加できる
というものでもないのです。
年間行事も日にちは決まっているので、
時間帯もあらかた決めて氏子全員に通知するように総会で話してみようということで、
注連縄づくりと秋季大祭の時間帯が分かり次第、携帯で知らせるということで
私も総代に連絡して相談してみると言って、その方の家を出ました。
まあ、大したことではないと思い浮かび、成るようになると時間もあったので
そのまま村社へ出かけました。
参道横の灯篭周りに咲いている彼岸花を眺め、刈っていた草も伸びてきて
そろそろ刈るかと思いながら車を止め、車を降りて深呼吸をしました。
鳥居前に立ちそれぞれの柱に拝をして鳥居の祓いを奏上し、鳥居をくぐりました。
何かが変わったと息を吸い、御池から水が流れてくる祓所で禊祓おうと
天津祝詞を奏上しようと住所、氏名、年齢、お参りに来たことを述べ、二拝したあと
「高天原に~」というべきところを何故か「かけまくも~」と無意識に出てしまいました。
自分で奏上していて、ありゃ、違う、間違ったとわかりましたが、
そのまま「~、あらむをば~」と祓詞を奏上しました。
「畏み、畏み、申すー」と無事、禊祓えたと気持ちも清々しく感じたので、
自分で決めたことが間違いだとか、礼を失したとか無礼にはならないと感じたので、
これも間違いはなく、こういったことも大したことではないと感じたのです。
気持ちも明るく、左右の狛犬に挨拶し、拝殿前で一礼し、左手の猿田彦大神の神体に
行ってお参りしました。
神道では神職の方たちが祝詞を奏上するとき、絶対に所作や祝詞を一言一句
間違えてはならないという決まりがあると聞いたことがあって、
それはお祓いなど依頼されたときに、責任があるという考えからきているそうです。
しかし人間がすることなすことがすべてうまくいくとは限らず、間違いがあったとしても、
あるのが人間だと私は感じるからで、やる本人、自分はそれに努めないといけないのは
当たり前ですが、他人が間違えたとしても、それを容認する心の広さと寛容こそが重要で
大切だと思っているのです。
仏教でもそれは同じで経文の文言やマントラが出てこないとか、長い陀羅尼など
間違えることもあり、それに対するものとして大金剛輪陀羅尼というマントラがあります。
お堂で先祖供養をしているときに、まあ、間違えなかったしても、
唱えた方が良いと感じることもありますが、間違えるのが人間ということが前提で
間違いは間違いではないという、作法やお勤め、マントラがあるということではないかと
私は思うのです。
不味いのは、これは普段の生き方とも通じていて、上手くいかなかったらどうしよう、
成功しなかったら不利益や不幸になるのではないかと、まだ起きてもいない
未来の不安や怖れからの対処として、安心感を得られるのではないかと思うのです。
「起きたこと、やってしまったことは仕方がない」、
「たいしたことじゃあない、ちっぽけなことだ」
と感じられたら、怖れから解放され、勇気が出て、意欲が湧いてきて、
行動につながるような感じがするのです。
少しでも、何か参考になったとか
興味があるとか気が落ち着いたと
思って下さると幸いです。
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