東京タワーに昇ったことがある | 希望と光のブログ

希望と光のブログ

思いついたことを書いていきます。

昔1度だけ東京タワーに行ったことがある

PVアクセスランキング にほんブログ村

~疎外感や孤独を感じている人たちへ~

パソコン教室を営んでいる

和田基博と申します

 

 

 

 

 

魂の片割れ、ツインフレーム、ソウルメイト、カルマメイトといった言葉を

 

初めて目にして気にしだしたのはもう2年前になる。

 

 

 

 

子供の頃から日常的に普通にあった、この世のものでは無い何かを見たり、

 

感じるといった他の人に話しても信じてはもらえず、大人になるに連れ、

 

それを言わなくなり封印して生きてきた。

 

 

 

 

それまでほとんど高校、大学と勉強もしないまま親は

 

私の言うことを聞いてお金を出してくれた。

 

 

 

親は小さな会社を営んできていたが跡を継ぐ気もなく、大学の就職活動は

 

誰に相談することもなく、本を読むのが好きだったことから

 

一人で探し東京の大手書店に勤めることになった。

 

 

 

九州の福岡県の飯塚市育ちで福岡市には大学時代3年間住んでいたこともあり、

 

都会とはどういうものかは分かっていたつもりだったが、

 

東京に出てきて住んでみて人の多さと人情の薄さを感じ、

 

何処からかにじみ出る態度からなのか行動からなのか、初めて入った蕎麦屋で

 

天婦羅蕎麦を頼んで食べた時店主から、何処から来られたかを聞かれ、

 

いかに自分が田舎者であるかを感じたこともあったが、

 

勤め先が銀座という場所であったことで、そこでいろいろなことを経験して感じ

 

覚えていった。

 

 

 

 

仕事は書籍を扱うことで好きな事でもあったし面白く、夢中になった。

 

 

勤め先で同じ年の同僚の女性と付き合うことになり、結婚の約束まで交わしたが、

 

私はB型劇症肝炎で入院、その後入退院を繰り返して

 

将来の事を考えられずに悩んでいた。1年半の間に5度目だったか6度目だったか

 

定かではないが数度目の入院最中に福岡の実家から、父がガンで入院することになり、

 

帰って来いという母からの電話だった。

 

 

 

同じ時期、婚約までしていた彼女の兄が亡くなり私が九州の実家へ帰ることを話すと、

 

彼女の父親は一人娘を遠くにやることは出来ず、気骨のある父親で

 

会社の重役だと聞いたことがあったことから、病気くらいで逃げ帰るような奴には

 

娘はやれないと言っていて、その事情を、父の感情が先に立ち、分かってくれていない

 

と彼女はポツリと話した。

 

 

 

父の容体が芳しくないとうことで母は私が入院中でも迎えに来るというので

 

実家に戻ることを彼女に話した。

 

 

 

地元の病院へ紹介状を書いてもらい退院した。

 

 

 

母と二人で、勤め先からすぐ近くにあっても行ったことがなかった

 

東京タワーに初めて登った。

 

 

 

 

下の入り口付近で甘茶を配っていて、田舎でも子供の頃はこうして甘茶を配っていて

 

よく飲んだと母から聞き、退院後だったからか薬みたいな味だと思った記憶がある。

 

 

 

 

会社の同僚や彼女と別れの挨拶をして当時新宿副都心にあった店の

 

本部長に挨拶に行ったとき、「何故帰る!」と怒られ、苦笑いをして黙っていると、

 

「向こうでもがんばれよ!」と笑ってくれたのが印象として残った。

 

 

 

 

 

帰りの飛行機で富士山が見えていたのを母が

 

「うわー、奇麗ね」といった言葉を

 

隣には母がいるという安心感とこれからどうなるんだろうという

 

複雑な感情で聞いていたのを、今でも憶えている。

 

 

 

 

実家に戻ってからは私の病状がみるみる回復していったのと

 

比例するように父のガンは全身に転移して悪化していった。

 

 

 

父が亡くなり私は親の会社を受け継いだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

仕事帰りチェーン店の喫茶店に二人で立ち寄り、毎晩のように

 

私はアップルティー、彼女はレモンティーを頼み、飲みながら

 

いろいろなことを話したが、私が方言を話さずに標準語を使っていたにも関わらず、

 

イントネーションが可笑しいと何時も笑っていた。

 

 

 

 

彼女は某有名大学を出ていて

 

聡明であったが、謙虚で控え目であった。

 

 

 

 

 

 

 

その彼女とも暫くは毎晩のように電話し、東京と福岡を行き来して

 

遠距離での交際をしていたが、30数年前の当時の医学では

 

劇症肝炎から慢性肝炎の状態にあり、子供を作るのは相手にうつす可能性もあり

 

諦めた方が良いという事、いずれは肝硬変と移行して、ガンの発症率も高まり

 

そしておそらく50代くらいまで生きられるかどうかという

 

主治医から言われた退院時の説明が頭の中で渦巻いていて、

 

肝炎の事で子供の問題や相手の将来の事もあり、

 

そんな人はいなかったが、「好きな人ができた」とウソを言って別れた。

 

 

 

私が少しは成長したなと思うのが、今考えれば

 

彼女にとってはそんなことは問題ではなかったことが

 

分かるようになったことである。

 

 

 

 

今はその彼女も家庭を持ち、孫までできて幸せに暮らしていることを、

 

幸あらんことをと、ただ、祈るばかりである。

 

 

 

そして過去の出来事は、ツインフレームだと信じている

 

M女史とはどうなるかは分からないにしても

 

これからへの希望へと繋がっているという

 

事だけは分かっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

続きは次回以降アップしていきたいと

思いますので

少しでも、何か参考になったとか

興味があるとか気が落ち着いたと

思って下さると幸いです。

 

PVアクセスランキング にほんブログ村

 

 

 

 

おススメ記事

 

 

 

 

 

 

にほんブログ村 メンタルヘルスブログ ヒーラーへ
にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ
にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアルヒーリングへ