Blue Scraper -2-
翌日、薄曇り。
それが涼しさとは無関係なことは、暑さの代わりに増えた湿気が証明してくれる。
蒸し暑い。
快適とは程遠い。
それでも敢えて良いところを挙げろと言われれば、直射日光が無いくらいのものだ。
鬱陶しいを通り越して不快な感触は、夕立の気配を感じさせてくれる。
事実、遠くに見えるのはどす黒い雨雲だ。あと十分もすれば、土砂降りの雨になる。
湿気た空気を掻き乱して、今日も戦闘機は飛んでいく。
そして、それを目で追う女子生徒が一人。
彼女は今日も電車に乗り遅れていた。
昔の小説やドラマでありがちな「ごっめーん!遅くなっちゃったー!」とか言って走ってくるタイプなんだろうな、と思う。
あまり待ち合わせはしたくないタイプだ。特に、夏。数分でも待たされれば、きっと干上がる。
ホームの隅で、トムが仕切りに顔を洗っている。猫が顔を洗うと雨が降る、とは昔のことわざだったか。
ボムは顔を洗うのすら放棄したらしい。トムの倍の身体を横たえ、尻尾だけを苛立たしげに動かしている。
彼女は戦闘機を眺めた後、何枚か二匹の写真を撮っていた。
電車が少し遅れている。
ややあって、アナウンスが遅れを伝えてきた。土砂降りの雨で視界不良の為徐行運転、だそうだ。
遅れているのは、僕の方の路線だ。
彼女側は、辛うじて通常運転。滑り込んだ車両はびしょ濡れだった。
「やば…傘忘れた…」
彼女はトムを撫でて、慌てて電車に乗り込む。
その数分後、バケツを引っ繰り返したような雨がホームを襲った。
反対側のホームも見えないくらいの雨だった。
僕らの利用しているこの駅は、二つのプラットホームと四本の線路がある。
その内の三つが「本線」と呼ばれている。
僕の友人と、さっきの彼女が利用しているのがこの「本線」だ。
二本は上りと下り、一本は快速待ちやら普通電車が使う退避路線だ。
残りは僕の使う路線。
「本線」が街中を通っているのに対し、僕の路線は海沿いを走っている。
そして、この駅が始点であり、終点でもある。
ちなみに僕は、始点から終点まで利用している。
一応運営会社は同じなのだが、本線に対して見れば「ローカル路線」。相応の待遇、つまり本数は少ない。本線の半分程度だろうか。
よって、待ち時間は長い。お陰で、待つことには慣れている。
雨が止めば、そのうち電車は来る。どうせ、すぐに止む。
小降りになってきた頃、電車がやってきた。
遅れが出たせいかいつもより人が乗っていたが、僕には関係ない。人の流れが途切れれば、すぐに乗れる。
待っているのは僕だけだ。混まない事は解りきっている。
雲の切れ目から、日が差している。
その陽射しを浴びながら、電車はゆっくりと動き出した。
三日目ともなれば、パターンも読める。
電車が出て、ちょっとしてから彼女が走ってくる。
「ええー…うっそー…」
案の定。
ここまで予想通りの人間は初めて見た。多分、これから先もこんな感じなんだろうなぁと思う。
やはり、待ち合わせはしたくないタイプだ。
パターンのついでに、顔も覚えた。
同じ学校に居ながら、この先一生顔を合わせない奴も居るだろうし、そう言う意味ではちょっとした収穫だ。
そう、この補習を受けていなければ間違いなく顔を合わせる機会は無かった。
本日、快晴。
ベンチの日だまりでは、レアステーキが焼けそうだ。
トムが、水入れの水を舐め、嫌そうに身体を震わせる。幾ら日陰とはいえ、水もぬるいだろう。
もしかすると、お湯かもしれない。猫舌には辛いだろう。
そう言えば、と隣の彼女に目をやる。
初日に逢ったとき、彼女は部活だと言っていた。
格好と時間からして運動部では無いことは解った。だとしたら、文化系。
思考を遮ったのは、またしても轟音。
電車より、少し早めに聞こえてきたその音。
「…ファントム?」
F-4EJ、多分改。胴体左右のエアインテークが、ちょっとずんぐりとしたシルエットを形作って飛んでいく。今日は、三機。
そして、機体の名前を呟いたのは、やはり彼女。
戦闘機の名前を知っていて、見ただけで判別が付いて、尚かつカメラに収める彼女。
そういう生徒が所属していそうな部活を、僕は知らない。
戦闘機関連の同好会も無いし、写真部も無い。もし彼女が撮影しているのが鉄道なら、何となく想像は付くのだが。
或いは、単なる彼女の趣味かもしれない。
「…部活、何なの?」
電車に乗る直前、僕は思い切って彼女に聞いてみた。
「美術部」
そう答えて、僕と彼女は別れた。
ドアが閉まる。
(確かに、写真も美術ではあるな…)
終点の駅で降りて、展望台のある岬へ行ってみる。
何人かカメラを携えた人達が居た。
残念ながら、如何にもカメラ慣れしたオジサンばかりで、可愛らしい女の子なんて居るわけがない。
彼らの目的は、ただ一つ。。
「あぁ、帰ってきた!」
演習を終えて帰投する、戦闘機の撮影。
そこかしこでシャッターの落ちる音がする。
(あの子が来たら喜ぶかもしれないな)
何となく、そう思った。
次に逢うことが出来れば、話してみようか。
そこまで考えて、ふと自分が可笑しくなった。
僕はどうして、彼女の事を気に掛けてやっているのだろう。
ファントムが旋回をして、翼を振る。
轟音。
途切れた思考。
そして、歓声。
僕も帰ることにしよう。
それが涼しさとは無関係なことは、暑さの代わりに増えた湿気が証明してくれる。
蒸し暑い。
快適とは程遠い。
それでも敢えて良いところを挙げろと言われれば、直射日光が無いくらいのものだ。
鬱陶しいを通り越して不快な感触は、夕立の気配を感じさせてくれる。
事実、遠くに見えるのはどす黒い雨雲だ。あと十分もすれば、土砂降りの雨になる。
湿気た空気を掻き乱して、今日も戦闘機は飛んでいく。
そして、それを目で追う女子生徒が一人。
彼女は今日も電車に乗り遅れていた。
昔の小説やドラマでありがちな「ごっめーん!遅くなっちゃったー!」とか言って走ってくるタイプなんだろうな、と思う。
あまり待ち合わせはしたくないタイプだ。特に、夏。数分でも待たされれば、きっと干上がる。
ホームの隅で、トムが仕切りに顔を洗っている。猫が顔を洗うと雨が降る、とは昔のことわざだったか。
ボムは顔を洗うのすら放棄したらしい。トムの倍の身体を横たえ、尻尾だけを苛立たしげに動かしている。
彼女は戦闘機を眺めた後、何枚か二匹の写真を撮っていた。
電車が少し遅れている。
ややあって、アナウンスが遅れを伝えてきた。土砂降りの雨で視界不良の為徐行運転、だそうだ。
遅れているのは、僕の方の路線だ。
彼女側は、辛うじて通常運転。滑り込んだ車両はびしょ濡れだった。
「やば…傘忘れた…」
彼女はトムを撫でて、慌てて電車に乗り込む。
その数分後、バケツを引っ繰り返したような雨がホームを襲った。
反対側のホームも見えないくらいの雨だった。
僕らの利用しているこの駅は、二つのプラットホームと四本の線路がある。
その内の三つが「本線」と呼ばれている。
僕の友人と、さっきの彼女が利用しているのがこの「本線」だ。
二本は上りと下り、一本は快速待ちやら普通電車が使う退避路線だ。
残りは僕の使う路線。
「本線」が街中を通っているのに対し、僕の路線は海沿いを走っている。
そして、この駅が始点であり、終点でもある。
ちなみに僕は、始点から終点まで利用している。
一応運営会社は同じなのだが、本線に対して見れば「ローカル路線」。相応の待遇、つまり本数は少ない。本線の半分程度だろうか。
よって、待ち時間は長い。お陰で、待つことには慣れている。
雨が止めば、そのうち電車は来る。どうせ、すぐに止む。
小降りになってきた頃、電車がやってきた。
遅れが出たせいかいつもより人が乗っていたが、僕には関係ない。人の流れが途切れれば、すぐに乗れる。
待っているのは僕だけだ。混まない事は解りきっている。
雲の切れ目から、日が差している。
その陽射しを浴びながら、電車はゆっくりと動き出した。
三日目ともなれば、パターンも読める。
電車が出て、ちょっとしてから彼女が走ってくる。
「ええー…うっそー…」
案の定。
ここまで予想通りの人間は初めて見た。多分、これから先もこんな感じなんだろうなぁと思う。
やはり、待ち合わせはしたくないタイプだ。
パターンのついでに、顔も覚えた。
同じ学校に居ながら、この先一生顔を合わせない奴も居るだろうし、そう言う意味ではちょっとした収穫だ。
そう、この補習を受けていなければ間違いなく顔を合わせる機会は無かった。
本日、快晴。
ベンチの日だまりでは、レアステーキが焼けそうだ。
トムが、水入れの水を舐め、嫌そうに身体を震わせる。幾ら日陰とはいえ、水もぬるいだろう。
もしかすると、お湯かもしれない。猫舌には辛いだろう。
そう言えば、と隣の彼女に目をやる。
初日に逢ったとき、彼女は部活だと言っていた。
格好と時間からして運動部では無いことは解った。だとしたら、文化系。
思考を遮ったのは、またしても轟音。
電車より、少し早めに聞こえてきたその音。
「…ファントム?」
F-4EJ、多分改。胴体左右のエアインテークが、ちょっとずんぐりとしたシルエットを形作って飛んでいく。今日は、三機。
そして、機体の名前を呟いたのは、やはり彼女。
戦闘機の名前を知っていて、見ただけで判別が付いて、尚かつカメラに収める彼女。
そういう生徒が所属していそうな部活を、僕は知らない。
戦闘機関連の同好会も無いし、写真部も無い。もし彼女が撮影しているのが鉄道なら、何となく想像は付くのだが。
或いは、単なる彼女の趣味かもしれない。
「…部活、何なの?」
電車に乗る直前、僕は思い切って彼女に聞いてみた。
「美術部」
そう答えて、僕と彼女は別れた。
ドアが閉まる。
(確かに、写真も美術ではあるな…)
終点の駅で降りて、展望台のある岬へ行ってみる。
何人かカメラを携えた人達が居た。
残念ながら、如何にもカメラ慣れしたオジサンばかりで、可愛らしい女の子なんて居るわけがない。
彼らの目的は、ただ一つ。。
「あぁ、帰ってきた!」
演習を終えて帰投する、戦闘機の撮影。
そこかしこでシャッターの落ちる音がする。
(あの子が来たら喜ぶかもしれないな)
何となく、そう思った。
次に逢うことが出来れば、話してみようか。
そこまで考えて、ふと自分が可笑しくなった。
僕はどうして、彼女の事を気に掛けてやっているのだろう。
ファントムが旋回をして、翼を振る。
轟音。
途切れた思考。
そして、歓声。
僕も帰ることにしよう。
Blue Scraper -1-
うだる様な暑さ。
「じゃーな、また明日」
「ほいよ」
目の前を、電車と友人達が通り過ぎて行く。
僕が乗る電車まで、まだ時間がある。
小さな駅に、待合室なんて気の利いた場所は無い。
とりあえず、日陰に腰掛ける。これで少しは涼しいはずだ。
同じく日陰を求めてふらふら歩く奴らが居る。この駅に住み着いて居る二匹の猫だ。
誰が名付けたのか、並の体型を「トム」、巨体を「ボム」という。
二匹ともだるそうに伸びている。
夏毛とはいえ、猛暑だか酷暑の中ではコートを着ているようなもんだろう。
これ以上暑いのは嫌だと言うかのように、日陰に転がっている。僕に恥も外聞も無ければ、今すぐにでもそうしたいくらいだ。それくらい暑い。
こんなことなら、ギリギリまで校内に居れば良かったと後悔した。
そもそも、何でこんな暑い中登校しなきゃならんのか。
原因は単純だ。
英語の成績が思わしくないから補習しろ、だ。
僕としては、平均点以上あったし、そこまで悪くは無いと思ったのだけど、先のことを考えて一応受けることにしたのだった。
それが間違いだったと思う。
暑さで全部蒸発してしまう。記憶も脳みそも煮えて使い物にならなくなりそうだ。
全部は補習のせいだ。初日でこの有り様だ。僕の身体と気力は二週間も耐えられるのか。
日陰で伸びている猫に手を伸ばす。
トムは別の日陰に移ったが、ボムはかなりの巨漢だ。気付きはしたが、動くのは嫌らしい。
だからこんなにでかくなるんだ、とふてぶてしい猫の頭を押さえる。
熱い。
日陰に居るから少しは冷たいものだと思ったのに。
何となく頭をぐりぐりと撫でてやる。冬なら寄ってくるところだが、生憎と真夏だ。
うなぁ、と可愛げの無い声を上げて明後日の方を向く。
トムは大分離れた方であくびをしている。流石にそこまで行って弄る、もとい、撫でてやる気力も無い。
ボムは僕に背中を向けて無視を決め込んで居る。
つまらない。電車が来るまでの暇つぶしにもならない。
こんなにイライラするのも、全部暑さのせいだ。最後にボムを一撫でして、ベンチに戻る。
と、慌ただしく誰かが駆けて来る。女子生徒だ。
制服とリボンの色で同じ学校で同じ学年だと解る。
彼女は僕が見送った線路を眺め、腕時計を見て、大きく溜め息をつく。どうやら電車に乗り遅れたらしい。
見たことの無い顔だった。
同じクラスでも同じ補習を受けている訳では無いみたいだ。見かけた記憶は無い。
(それじゃ、部活か何かか?)
ちょっと彼女の観察が過ぎたらしい。訝しげに見返して来た。どうも、と間の抜けた挨拶しか出てこない。
「補習…じゃぁ、ないよね」
「…部活、だけど」
「そっか」
会話はそれでおしまいだった。
猫が呆れたように欠伸をして、ぷいとそっぽを向いてしまった。
しかし自分が招いた状況とは言え、少し気まずい。
そもそも何で話しかけちゃったのか。普段ならまず有り得ない。
彼女は話すことなど無い、と僕の逆側のベンチに腰掛ける。
しかし、その逆側、直射日光で良い具合に熱い。
モーニングセットくらい余裕で作れるだろう。エコクッキングに使えそうだ。
…等と余計なことを取り留めも無く考えるのも、きっと暑さのせいだ。
気付けば、彼女は僕の隣に居た。
隣とはいえ、間を開けて日陰の隅に座っている。やはり、あの暑さ耐え切れなくなったらしい。
電車が来るまで、後少し。
遠くから、鋭い音が聞こえて来る。
レールの軋む音とは違う。電車じゃない。
そう気付いた時には、それは僕らの上を飛び過ぎて行った。
あれは。
「イーグル…」
そう呟いたのは、彼女の方だった。
F-15J、イーグル。二機。
数瞬遅れて、空を裂くジェットノイズが聞こえて来る。ずしりと、音が身体に響く。
日に何度か、こうやって戦闘機が頭上を飛び抜けて行く。
聞こえるたびに眺めていれば、音の響きで何が飛んで来たかくらいは解るようになる。
とはいえ、戦闘機の名前を呟きカメラを構える女子生徒を見かけたのは今日が初めてだった。
彼女は何枚か写真を撮り、それから戦闘機の去った方向をしばらく眺めていた。
それを遮るように、電車がホームへ滑り込んで来る。
レールを軋ませ、けたたましい金属音を響かせながら。
音は、二つ。
この時間は僕の乗る電車と、反対側、恐らく彼女の乗る電車が同時に発着する。
ドアが開き、幾人かの客が降りる。それと入れ違いに、僕は電車に乗り込む。
冷えた空気が心地良い。
彼女は予想通り、反対側の電車に乗り込んだ。
程なくして、双方の扉が閉まる。
二手に分かれるその前に、車体が身を寄せる。
その時、彼女は真っ直ぐにこちらを見ていた。
僕を通り過ぎた、その向こう側。
彼女は見えなくなった戦闘機を追い、遠い瞳は陶酔しているかの様だった。
(変わった奴…)
離れていくもう一つの電車を眺め、僕はそう思った。
街中を進む電車と彼女は、やがて見えなくなった。
それが、良く言えば彼女との出逢い、ある意味では遭遇だった。
「じゃーな、また明日」
「ほいよ」
目の前を、電車と友人達が通り過ぎて行く。
僕が乗る電車まで、まだ時間がある。
小さな駅に、待合室なんて気の利いた場所は無い。
とりあえず、日陰に腰掛ける。これで少しは涼しいはずだ。
同じく日陰を求めてふらふら歩く奴らが居る。この駅に住み着いて居る二匹の猫だ。
誰が名付けたのか、並の体型を「トム」、巨体を「ボム」という。
二匹ともだるそうに伸びている。
夏毛とはいえ、猛暑だか酷暑の中ではコートを着ているようなもんだろう。
これ以上暑いのは嫌だと言うかのように、日陰に転がっている。僕に恥も外聞も無ければ、今すぐにでもそうしたいくらいだ。それくらい暑い。
こんなことなら、ギリギリまで校内に居れば良かったと後悔した。
そもそも、何でこんな暑い中登校しなきゃならんのか。
原因は単純だ。
英語の成績が思わしくないから補習しろ、だ。
僕としては、平均点以上あったし、そこまで悪くは無いと思ったのだけど、先のことを考えて一応受けることにしたのだった。
それが間違いだったと思う。
暑さで全部蒸発してしまう。記憶も脳みそも煮えて使い物にならなくなりそうだ。
全部は補習のせいだ。初日でこの有り様だ。僕の身体と気力は二週間も耐えられるのか。
日陰で伸びている猫に手を伸ばす。
トムは別の日陰に移ったが、ボムはかなりの巨漢だ。気付きはしたが、動くのは嫌らしい。
だからこんなにでかくなるんだ、とふてぶてしい猫の頭を押さえる。
熱い。
日陰に居るから少しは冷たいものだと思ったのに。
何となく頭をぐりぐりと撫でてやる。冬なら寄ってくるところだが、生憎と真夏だ。
うなぁ、と可愛げの無い声を上げて明後日の方を向く。
トムは大分離れた方であくびをしている。流石にそこまで行って弄る、もとい、撫でてやる気力も無い。
ボムは僕に背中を向けて無視を決め込んで居る。
つまらない。電車が来るまでの暇つぶしにもならない。
こんなにイライラするのも、全部暑さのせいだ。最後にボムを一撫でして、ベンチに戻る。
と、慌ただしく誰かが駆けて来る。女子生徒だ。
制服とリボンの色で同じ学校で同じ学年だと解る。
彼女は僕が見送った線路を眺め、腕時計を見て、大きく溜め息をつく。どうやら電車に乗り遅れたらしい。
見たことの無い顔だった。
同じクラスでも同じ補習を受けている訳では無いみたいだ。見かけた記憶は無い。
(それじゃ、部活か何かか?)
ちょっと彼女の観察が過ぎたらしい。訝しげに見返して来た。どうも、と間の抜けた挨拶しか出てこない。
「補習…じゃぁ、ないよね」
「…部活、だけど」
「そっか」
会話はそれでおしまいだった。
猫が呆れたように欠伸をして、ぷいとそっぽを向いてしまった。
しかし自分が招いた状況とは言え、少し気まずい。
そもそも何で話しかけちゃったのか。普段ならまず有り得ない。
彼女は話すことなど無い、と僕の逆側のベンチに腰掛ける。
しかし、その逆側、直射日光で良い具合に熱い。
モーニングセットくらい余裕で作れるだろう。エコクッキングに使えそうだ。
…等と余計なことを取り留めも無く考えるのも、きっと暑さのせいだ。
気付けば、彼女は僕の隣に居た。
隣とはいえ、間を開けて日陰の隅に座っている。やはり、あの暑さ耐え切れなくなったらしい。
電車が来るまで、後少し。
遠くから、鋭い音が聞こえて来る。
レールの軋む音とは違う。電車じゃない。
そう気付いた時には、それは僕らの上を飛び過ぎて行った。
あれは。
「イーグル…」
そう呟いたのは、彼女の方だった。
F-15J、イーグル。二機。
数瞬遅れて、空を裂くジェットノイズが聞こえて来る。ずしりと、音が身体に響く。
日に何度か、こうやって戦闘機が頭上を飛び抜けて行く。
聞こえるたびに眺めていれば、音の響きで何が飛んで来たかくらいは解るようになる。
とはいえ、戦闘機の名前を呟きカメラを構える女子生徒を見かけたのは今日が初めてだった。
彼女は何枚か写真を撮り、それから戦闘機の去った方向をしばらく眺めていた。
それを遮るように、電車がホームへ滑り込んで来る。
レールを軋ませ、けたたましい金属音を響かせながら。
音は、二つ。
この時間は僕の乗る電車と、反対側、恐らく彼女の乗る電車が同時に発着する。
ドアが開き、幾人かの客が降りる。それと入れ違いに、僕は電車に乗り込む。
冷えた空気が心地良い。
彼女は予想通り、反対側の電車に乗り込んだ。
程なくして、双方の扉が閉まる。
二手に分かれるその前に、車体が身を寄せる。
その時、彼女は真っ直ぐにこちらを見ていた。
僕を通り過ぎた、その向こう側。
彼女は見えなくなった戦闘機を追い、遠い瞳は陶酔しているかの様だった。
(変わった奴…)
離れていくもう一つの電車を眺め、僕はそう思った。
街中を進む電車と彼女は、やがて見えなくなった。
それが、良く言えば彼女との出逢い、ある意味では遭遇だった。
Blue Scraper~蒼空~
蒼。
永遠に近く、果て無き情景。
何処までも透き通り、何処までも染み渡る色。
蒼。
それは空の色。
自由の色。
決して届かない色。
天翔る翼が、白く細く削り取っていく。
銀色の翼。鋼鉄の鳥の群れ。
少年と少女の見上げる果て、翼達は輪舞する。
蒼を切り取り、軌跡を描きながら。
永遠に近く、果て無き情景。
何処までも透き通り、何処までも染み渡る色。
蒼。
それは空の色。
自由の色。
決して届かない色。
天翔る翼が、白く細く削り取っていく。
銀色の翼。鋼鉄の鳥の群れ。
少年と少女の見上げる果て、翼達は輪舞する。
蒼を切り取り、軌跡を描きながら。
Cherry Blossom~再会~
薄くほころんだ蕾が、開いていく。
それは、果たされた証。
「約束」という名の、絆。
結ばれた証が空に舞う。
それは、季節を告げる風。
「再会」という名の、花。
彼は何を望んだのか。
彼女は何を願ったのか。
知るのはただ、消えていった花びらだけ。
再 会の時は流れる。
それは、儚い夢ではない、確かな約束。
それは、果たされた証。
「約束」という名の、絆。
結ばれた証が空に舞う。
それは、季節を告げる風。
「再会」という名の、花。
彼は何を望んだのか。
彼女は何を願ったのか。
知るのはただ、消えていった花びらだけ。
再 会の時は流れる。
それは、儚い夢ではない、確かな約束。
Cherry Blossom -16-
卒業式までに咲いたのは、三割にも満たなかった。
それでも桜が見られて良かったと彼女は言った。
最後の登校。馬鹿騒ぎした連中とも、学校で会うことは無くなる訳だ。
長い長い祝辞の間、考えていたのは色んなこと。
俺や、連中や、彼女のこと。今までと、これからと、変わることと変わらないこと。
世話になったようななってないような担任と記念撮影したり、それなりに仲良かったクラスメイトに引っ張り回されたり、俺にとっては最後まで楽しいものだった。
よりにもよって卒業式の翌日、連中と「卒業打ち上げ」と称して遊びに行った。
ゲーセンで遊んで、カラオケで騒いで、とにかく遊びまくった。
最後の遊びも、これで終わりだ。
とりあえず満場一致で、一人暮らしの奴のとこに押しかけることが決定した。
それで、おしまいだった。
彼女とは、卒業式以降会うことは無かった。
一人暮らしの準備で忙しいらしく、メールも電話もほとんどしなかった。
そして月末、彼女は引っ越した。
見送りには行けなかった。
「頑張れよ」
「お互いにね」
見送る代わりに、電話口で言葉を交わした。
入学式からしばらくして、ようやく桜並木が満開になった。
自治会のイベントで飲み会があったり、近隣の人達が散歩がてら花見に来たりして、結構賑やかだった。
その花の季節も去り、青々とした葉が目に痛い時季になった。
俺も新しい生活に慣れ、いつもの連中とも連絡を取り合う機会が減ってきた。向こうも向こうで新しい友達が出来る頃だ。
それでも時折遊んで、夏休みに約束通りに泊まりに行ったりしていると、何も変わっていない気がする。
けれど、確実に何かが変わっていく。
だけど、俺は寂しいとも思わないし、悲しいとも思わない。
それが自然だと解ったから。
それが、当たり前だと気付いたから。
彼女とのメールでもそう思う。
彼女は彼女なりに頑張っているし、俺は俺でやることがある。出来ることなんてほとんど無い。
歩道を染める枯れ葉を踏みしめる。
団地の生徒が俺を追い越していく。俺達もああだったんだろうな、と遠くなる背中をぼんやりと眺めていた。
幾度か彼女も帰ってきてはいるらしいが、俺の帰る時間や諸々の予定が合わなかった。
『いつになったら逢えることやら』
「せめて来年の桜の時季までにはって感じだな」
メールを終えて携帯を閉じる。
溜息が年の瀬の空に消えていった。
春、と呼ぶには、まだ少しだけ早い。
少しだけ咲いた桜の花が、柔らかな陽の光を浴びている。
薄桃色が、風に煌めく。
その風に紛れて、聞き慣れた足音が聞こえる。
俺は振り向かない。
軽く目を閉じて、深呼吸。
吹き抜ける風が、木立へと向かっていく。
この団地で一番大きな桜の木。
それは、待ち合わせ場所。
そして、約束の場所。
足音が近付いてくる。
俺は振り向かない。
「桜の花びらのおまじない、ちゃんと効いたんだね」
「だな」
閉じた手のひらを開く。色あせた花びらが、風に舞って消えていく。
「そっちの願い事って、何だったの?」
一呼吸置いて、振り向く。
「多分、同じことさ」
移り変わる季節。変わる生活。変わっていく関係。
その中で、変わることのない微笑み。
「久しぶりだな。元気そうで何よりだ」
「そっちも。ちょっとだけ、大人っぽくなったね」
二人、肩を並べて歩く。
花びらが舞い、空を春へと変えていった。
それでも桜が見られて良かったと彼女は言った。
最後の登校。馬鹿騒ぎした連中とも、学校で会うことは無くなる訳だ。
長い長い祝辞の間、考えていたのは色んなこと。
俺や、連中や、彼女のこと。今までと、これからと、変わることと変わらないこと。
世話になったようななってないような担任と記念撮影したり、それなりに仲良かったクラスメイトに引っ張り回されたり、俺にとっては最後まで楽しいものだった。
よりにもよって卒業式の翌日、連中と「卒業打ち上げ」と称して遊びに行った。
ゲーセンで遊んで、カラオケで騒いで、とにかく遊びまくった。
最後の遊びも、これで終わりだ。
とりあえず満場一致で、一人暮らしの奴のとこに押しかけることが決定した。
それで、おしまいだった。
彼女とは、卒業式以降会うことは無かった。
一人暮らしの準備で忙しいらしく、メールも電話もほとんどしなかった。
そして月末、彼女は引っ越した。
見送りには行けなかった。
「頑張れよ」
「お互いにね」
見送る代わりに、電話口で言葉を交わした。
入学式からしばらくして、ようやく桜並木が満開になった。
自治会のイベントで飲み会があったり、近隣の人達が散歩がてら花見に来たりして、結構賑やかだった。
その花の季節も去り、青々とした葉が目に痛い時季になった。
俺も新しい生活に慣れ、いつもの連中とも連絡を取り合う機会が減ってきた。向こうも向こうで新しい友達が出来る頃だ。
それでも時折遊んで、夏休みに約束通りに泊まりに行ったりしていると、何も変わっていない気がする。
けれど、確実に何かが変わっていく。
だけど、俺は寂しいとも思わないし、悲しいとも思わない。
それが自然だと解ったから。
それが、当たり前だと気付いたから。
彼女とのメールでもそう思う。
彼女は彼女なりに頑張っているし、俺は俺でやることがある。出来ることなんてほとんど無い。
歩道を染める枯れ葉を踏みしめる。
団地の生徒が俺を追い越していく。俺達もああだったんだろうな、と遠くなる背中をぼんやりと眺めていた。
幾度か彼女も帰ってきてはいるらしいが、俺の帰る時間や諸々の予定が合わなかった。
『いつになったら逢えることやら』
「せめて来年の桜の時季までにはって感じだな」
メールを終えて携帯を閉じる。
溜息が年の瀬の空に消えていった。
春、と呼ぶには、まだ少しだけ早い。
少しだけ咲いた桜の花が、柔らかな陽の光を浴びている。
薄桃色が、風に煌めく。
その風に紛れて、聞き慣れた足音が聞こえる。
俺は振り向かない。
軽く目を閉じて、深呼吸。
吹き抜ける風が、木立へと向かっていく。
この団地で一番大きな桜の木。
それは、待ち合わせ場所。
そして、約束の場所。
足音が近付いてくる。
俺は振り向かない。
「桜の花びらのおまじない、ちゃんと効いたんだね」
「だな」
閉じた手のひらを開く。色あせた花びらが、風に舞って消えていく。
「そっちの願い事って、何だったの?」
一呼吸置いて、振り向く。
「多分、同じことさ」
移り変わる季節。変わる生活。変わっていく関係。
その中で、変わることのない微笑み。
「久しぶりだな。元気そうで何よりだ」
「そっちも。ちょっとだけ、大人っぽくなったね」
二人、肩を並べて歩く。
花びらが舞い、空を春へと変えていった。
Cherry Blossom -15-
翌日、俺はもう一つの事実を知ることになった。
昨日俺と一緒に居た連中と、彼女の友人達が実はグルだったということだ。
グル、というのは適切じゃないかもしれない。というのも、俺が別行動を言い出した後に手を組んだらしい。
主犯は、昨日俺に手荒い説教をしてくれた奴だ。俺を呼び出した時に連絡を取っていた相手が、向こうのグループの子だったらしい。
「じゃぁアレか、帰る時間だとかそういうのも…」
「打ち合わせ済みだったって訳」
ついでにその後、合流してカラオケに行ったらしい。それはそれで楽しそうで、少しだけ羨ましかった。
よくよく考えれば、丁度良く両者が帰って俺達だけが残った。
打ち合わせが無ければ、まず有り得ない。
聞くところによると、その主犯と向こうのグループのもう一人の主犯は昔からの知り合いらしい。
つまりは、俺達と同じ。
「何だよ、お前にも幼馴染み居たんだったら言ってくれりゃ良かったのに」
そう言ってやると、そいつは何かを言いかけて黙ってしまった。図星、だったかのかもしれない。
だとすると、俺に対して容赦なく言える理由も納得がいく。
むしろそうじゃなければ納得がいかない。
「それより、お前、あれからどうなったんだ」
「そっちが教えてくれたら教えてやる」
俺がそう言うと、そいつはぷいとそっぽを向いてしまった。
結局何も聞けなかった。そいつとそいつの幼馴染みがどういう関係なのかは、結局解らず終いだった。
敢えて追求はしない。いずれは、解ることだろうから。
俺と彼女は、以前より一緒にいることが少なくなった。
俺は本格的に受験を意識しなければならなくなったし、彼女は一人暮らしの準備やらで忙しくなったからだ。
精々登下校を一緒にするくらいで、遊びに行くなんてことは出来るはずも無かった。
別に寂しいとは思わない。ただ、それぞれの準備を始めただけだ。行く先が違うだけ。
きっと彼女も、そう思っているはずだ。
「進路が決まっても決まらなくても打ち上げやろうな~」
「…頼むからその言い方は止めてくれ。縁起でも無い」
受験当日、俺を送り出してくれた友人はそう言って背中を押してくれた。
彼女は居なかったけれど、俺にはお守りがある。
帰り道に買っていた、チョコレートのオマケ。揃って出た、シークレットのお守り。
(だから、大丈夫)
ともすれば気圧されて負けてしまいそうな俺を支えてくれる、もう一つの、かけがえのないもの。それを握り締めて、自分を落ち着かせる。
焦るな、大丈夫だ、自分とみんなを信じろ、と。
「酷い顔」
送り出した連中と入れ替わる形で、彼女が迎えに来てくれていた。
忙しい中わざわざ時間を作ってくれたのだ。
素直に嬉しいが、案の定というか当然というか、あんまりな一言で憔悴しきって出てきた俺を迎えてくれた。
「半月くらい胃が痛みそうだ」
「大丈夫だよ」
正直自信が無いと弱音を吐く俺の背中を、そう言いながらさすってくれた。
帰路のバスの中、ふつりと糸が切れたように力が抜ける。
「眠けりゃ寄っかかんなよ」
「んー…悪いな」
この間と逆だなと思いつつ、小柄な彼女に身を寄せる。コロンの香りが鼻をくすぐる。
そろそろ着くと起こされるまで、俺は淡い桜の香りと共に、眠気に身を任せていた。
俺の胃痛がピークに達した頃、俺宛に一通の封書が届いた。
入学手続きの書類だった。
担任と進路指導室への報告の帰り、いつもの連中に捕まった。
どうやら仲間内では、俺が最後に決まったらしい。
これで仲間内の進路は全員決定した訳で、とりあえず一安心、というところだ。
「とはいえ、みんなバラバラかぁ」
そういえば、誰一人として同じ道へ進む奴は居ない。
俺と彼女、俺と連中、みんなバラバラなのだ。
「遊ぼうと思えば遊べるだろ、いつでも」
「だよなぁ」
だから寂しくない、と俺は言う。数瞬の沈黙。
「まぁ、せっかくだし、予定合わせて少しだけ遊ぼうぜ」
「この間みたいに向こうのグループも一緒に?」
「いやいや、予定合わせんの難しいし、俺らだけでさ」
「たまには良いな、そういうのも」
「この前がイレギュラーだっただけだろ。いつもと変わんねーじゃん」
これで最後になるかもしれない遊びの予定が立てられる。
終われば、しばらくは遊べない。
帰り道、結果報告と共に彼女にそう言うと、彼女は笑った。
「別れる別れるって思うから、寂しいのよ」
そう、約束をした日に聞いた言葉だ。
「二度と逢えなくなる訳じゃない、でしょ?」
それは、俺が彼女に向けて言った言葉だ。同時に、俺へと向けられた言葉。
「そうだったな」
随分と春めいた風が、木立を抜けていく。
暖かく、柔らかな、春の気配。
それは同時に、別れを告げる風だ。
「でもやっぱ、寂しいよね」
彼女の言葉が涙でにじんだような黄昏に溶けていく。
俺は彼女の頭を少し乱暴に撫でて、そっと唇を重ねた。
昨日俺と一緒に居た連中と、彼女の友人達が実はグルだったということだ。
グル、というのは適切じゃないかもしれない。というのも、俺が別行動を言い出した後に手を組んだらしい。
主犯は、昨日俺に手荒い説教をしてくれた奴だ。俺を呼び出した時に連絡を取っていた相手が、向こうのグループの子だったらしい。
「じゃぁアレか、帰る時間だとかそういうのも…」
「打ち合わせ済みだったって訳」
ついでにその後、合流してカラオケに行ったらしい。それはそれで楽しそうで、少しだけ羨ましかった。
よくよく考えれば、丁度良く両者が帰って俺達だけが残った。
打ち合わせが無ければ、まず有り得ない。
聞くところによると、その主犯と向こうのグループのもう一人の主犯は昔からの知り合いらしい。
つまりは、俺達と同じ。
「何だよ、お前にも幼馴染み居たんだったら言ってくれりゃ良かったのに」
そう言ってやると、そいつは何かを言いかけて黙ってしまった。図星、だったかのかもしれない。
だとすると、俺に対して容赦なく言える理由も納得がいく。
むしろそうじゃなければ納得がいかない。
「それより、お前、あれからどうなったんだ」
「そっちが教えてくれたら教えてやる」
俺がそう言うと、そいつはぷいとそっぽを向いてしまった。
結局何も聞けなかった。そいつとそいつの幼馴染みがどういう関係なのかは、結局解らず終いだった。
敢えて追求はしない。いずれは、解ることだろうから。
俺と彼女は、以前より一緒にいることが少なくなった。
俺は本格的に受験を意識しなければならなくなったし、彼女は一人暮らしの準備やらで忙しくなったからだ。
精々登下校を一緒にするくらいで、遊びに行くなんてことは出来るはずも無かった。
別に寂しいとは思わない。ただ、それぞれの準備を始めただけだ。行く先が違うだけ。
きっと彼女も、そう思っているはずだ。
「進路が決まっても決まらなくても打ち上げやろうな~」
「…頼むからその言い方は止めてくれ。縁起でも無い」
受験当日、俺を送り出してくれた友人はそう言って背中を押してくれた。
彼女は居なかったけれど、俺にはお守りがある。
帰り道に買っていた、チョコレートのオマケ。揃って出た、シークレットのお守り。
(だから、大丈夫)
ともすれば気圧されて負けてしまいそうな俺を支えてくれる、もう一つの、かけがえのないもの。それを握り締めて、自分を落ち着かせる。
焦るな、大丈夫だ、自分とみんなを信じろ、と。
「酷い顔」
送り出した連中と入れ替わる形で、彼女が迎えに来てくれていた。
忙しい中わざわざ時間を作ってくれたのだ。
素直に嬉しいが、案の定というか当然というか、あんまりな一言で憔悴しきって出てきた俺を迎えてくれた。
「半月くらい胃が痛みそうだ」
「大丈夫だよ」
正直自信が無いと弱音を吐く俺の背中を、そう言いながらさすってくれた。
帰路のバスの中、ふつりと糸が切れたように力が抜ける。
「眠けりゃ寄っかかんなよ」
「んー…悪いな」
この間と逆だなと思いつつ、小柄な彼女に身を寄せる。コロンの香りが鼻をくすぐる。
そろそろ着くと起こされるまで、俺は淡い桜の香りと共に、眠気に身を任せていた。
俺の胃痛がピークに達した頃、俺宛に一通の封書が届いた。
入学手続きの書類だった。
担任と進路指導室への報告の帰り、いつもの連中に捕まった。
どうやら仲間内では、俺が最後に決まったらしい。
これで仲間内の進路は全員決定した訳で、とりあえず一安心、というところだ。
「とはいえ、みんなバラバラかぁ」
そういえば、誰一人として同じ道へ進む奴は居ない。
俺と彼女、俺と連中、みんなバラバラなのだ。
「遊ぼうと思えば遊べるだろ、いつでも」
「だよなぁ」
だから寂しくない、と俺は言う。数瞬の沈黙。
「まぁ、せっかくだし、予定合わせて少しだけ遊ぼうぜ」
「この間みたいに向こうのグループも一緒に?」
「いやいや、予定合わせんの難しいし、俺らだけでさ」
「たまには良いな、そういうのも」
「この前がイレギュラーだっただけだろ。いつもと変わんねーじゃん」
これで最後になるかもしれない遊びの予定が立てられる。
終われば、しばらくは遊べない。
帰り道、結果報告と共に彼女にそう言うと、彼女は笑った。
「別れる別れるって思うから、寂しいのよ」
そう、約束をした日に聞いた言葉だ。
「二度と逢えなくなる訳じゃない、でしょ?」
それは、俺が彼女に向けて言った言葉だ。同時に、俺へと向けられた言葉。
「そうだったな」
随分と春めいた風が、木立を抜けていく。
暖かく、柔らかな、春の気配。
それは同時に、別れを告げる風だ。
「でもやっぱ、寂しいよね」
彼女の言葉が涙でにじんだような黄昏に溶けていく。
俺は彼女の頭を少し乱暴に撫でて、そっと唇を重ねた。
Cherry Blossom -14-
虚を突かれた、とはこういうことなのかもしれない。
伝えたい事があるのは、彼女も同じだったとは。
言いたいこと、言わなきゃいけないことは何なのか、それを質すことさえも出来ない。
彼女のコートが風に翻り、月がそれを煌々と照らしている。
「実はね、私…進路決まってた」
そんなことか、と言いそうになる。ただそれだけか、と。
そう思って初めて、俺は彼女から進路の話を一切聞いていなかったことを思い出す。
「気を遣って言ってなかったって訳か」
乾いた声で、問う。
「それもあるけど…そうじゃない」
しばらく彼女は俯き、決心したように顔を上げる。
「推薦で、女子校行くことになった」
「…そうか」
「学校も遠いから、四月から一人暮らし」
「…そうか」
「こうやって遊んだり、一緒に学校行ったりってのも、これで最後」
声が震えているのは、寒さのせいだけでは無いのだろう。
「だからね、今日遊びたかったの。今日言おうって、そう、思ってた」
震えているのは、声だけではない。
だから、俺は努めて明るく言うしかない。
「別に、いつ言ってくれても良かったのに。友達に推薦で決まったって言ってるのも居るし」
明るく、伝えるしかない。
「二度と、逢えなくなる訳じゃない」
彼女は俯いて黙る。
俺はかける言葉が見付からない。それが口惜しい。
風が、僅かに開いた桜の花びらを奪い、散らしていく。
「―――あっ」
彼女が弾かれたように駆け出す。
散った花を追って、駆ける。必死に手を伸ばし、儚く舞う花びらを掴む。
そしてそのままバランスを崩し、歩道の段差から足を踏み外した。
「…っと…何やってんだ、お前は!」
その身体を、寸前で抱き止める。咄嗟に身体が動かなければ、間に合わなかった。
何が起こったのか解らないのか、彼女は不安定な姿勢のまま動かない。
大きく息をつくと、俺に身体を預けてくる。
腕を解けば崩れてしまいそうな彼女。俺は動くに動けない。
「覚えてないかなぁ……」
そんな俺に構わず彼女が言う。背を向けたまま、ぼんやりと。
「何を」
「ちっちゃい時さ、こうやってみんなで花びら追いかけてたの」
そういえば、小学生の時分にそんなことをしていた気がする。何で、そんなことをしていたんだろう。
「こうやって、空中でキャッチしたらさ、願い事叶うって」
それで、俺も、彼女も、みんなも、必死になって追いかけていたんだっけ。
「願い事、叶うかなぁ…」
力なく笑う彼女。小刻みに震える肩。
溢れ出た雫が、俺の手を濡らす。
「叶うさ」
「そうだと、良いな」
無理して笑おうとしているのが痛いほど解る。その気持ちが頬を伝って、こぼれ落ちる。
何度拭ってやっても、彼女の涙は止まらない。
こういう時、ドラマだと気の利いた台詞の一つや二つを言うところだろう。だけど俺には、出来ない。
言う資格も、無い。
泣かないでくれ、ときつく抱き締めてやることしか出来ない。
昔からそうだった。
彼女が泣く度に、俺はどうする事も出来なかった。
ただ傍に居て、泣き止むのを待つしかなかった。
あの頃から俺は何も変わっていない。
「言えば、良かったんだ」
彼女は途切れ途切れに言う。
「素直に、最初から、寂しくなるって」
声に涙を混じらせながら、絞り出すように。
「言わなきゃ、ずっと、一緒に居られるって、そう思って―――」
そこから先は言葉にならなかった。
堰を切ったかのように嗚咽が漏れる。
ずっと堪えていたものが、溢れ出したんだろう。俺はそれに気付いてやれなかった。
少し、ほんの少しだけでも注意していれば、きっと気付けたのだ。簡単なことなのに。
(…そうじゃないか)
本当は気付いていたのかもしれなかったのに、気付かないふりをしていたのかもしれない。
無意識に関係ない、知らないんだと。俺自身気付くのを避けていたんだろう。
気付けば、何かが変わってしまうと。
もう戻れないところに行ってしまうのではないかと。
怖かった。
変わることが、戻れないことが、先に進むことが怖かった。
風に流されてきた花びらを掴む。
頼りなく、儚い、その桜の花びらに、たった一つの想いを込める。
変わることを恐れない。
だから、戻らないという覚悟。
そして、進んだ先へ想いを繋ぐ。
「約束しよう」
そっと彼女の身体を離す。濡れた瞳が、訝しげに俺を見る。
「帰ってきた時は、必ず連絡しろよ。そしたら、また今日みたいに遊びに行こう」
向こうで彼氏が出来たときはしょうがない。そう付け加えると、彼女は困ったような笑顔を浮かべる。
「いつもの場所で、待ち合わせして、好きなところへ行こう」
仰いだ先には、桜の木。いつもの、待ち合わせ場所。
「…忘れないでよ?」
「俺は平気だ。だけどお前、忘れっぽいから」
「絶対忘れない。覚えてるから。そっちこそ…覚えててね?」
別の涙が彼女の瞳を濡らし、頬を伝う。
「約束だ」
小さい子供みたいに小指を絡ませる。
二度と逢えない訳じゃない。ただ少し、離れる時間が増えるだけだ。俺達は何も変わらない。
ただそう伝えたいだけなのに、上手く言葉にならない。
「参ったな…どう言えば良いのか…」
迷った時間は、少し。
俺は彼女の涙をもう一度拭ってやる。
そして、伝えたい言葉を唇に乗せて、そのまま引き寄せる。
閉ざした瞳。微かに震える肩。
感じたのは、コーヒーのほろ苦さ。それと、ミルクティーの甘い味。
言葉はもう、必要なかった。
伝えたい事があるのは、彼女も同じだったとは。
言いたいこと、言わなきゃいけないことは何なのか、それを質すことさえも出来ない。
彼女のコートが風に翻り、月がそれを煌々と照らしている。
「実はね、私…進路決まってた」
そんなことか、と言いそうになる。ただそれだけか、と。
そう思って初めて、俺は彼女から進路の話を一切聞いていなかったことを思い出す。
「気を遣って言ってなかったって訳か」
乾いた声で、問う。
「それもあるけど…そうじゃない」
しばらく彼女は俯き、決心したように顔を上げる。
「推薦で、女子校行くことになった」
「…そうか」
「学校も遠いから、四月から一人暮らし」
「…そうか」
「こうやって遊んだり、一緒に学校行ったりってのも、これで最後」
声が震えているのは、寒さのせいだけでは無いのだろう。
「だからね、今日遊びたかったの。今日言おうって、そう、思ってた」
震えているのは、声だけではない。
だから、俺は努めて明るく言うしかない。
「別に、いつ言ってくれても良かったのに。友達に推薦で決まったって言ってるのも居るし」
明るく、伝えるしかない。
「二度と、逢えなくなる訳じゃない」
彼女は俯いて黙る。
俺はかける言葉が見付からない。それが口惜しい。
風が、僅かに開いた桜の花びらを奪い、散らしていく。
「―――あっ」
彼女が弾かれたように駆け出す。
散った花を追って、駆ける。必死に手を伸ばし、儚く舞う花びらを掴む。
そしてそのままバランスを崩し、歩道の段差から足を踏み外した。
「…っと…何やってんだ、お前は!」
その身体を、寸前で抱き止める。咄嗟に身体が動かなければ、間に合わなかった。
何が起こったのか解らないのか、彼女は不安定な姿勢のまま動かない。
大きく息をつくと、俺に身体を預けてくる。
腕を解けば崩れてしまいそうな彼女。俺は動くに動けない。
「覚えてないかなぁ……」
そんな俺に構わず彼女が言う。背を向けたまま、ぼんやりと。
「何を」
「ちっちゃい時さ、こうやってみんなで花びら追いかけてたの」
そういえば、小学生の時分にそんなことをしていた気がする。何で、そんなことをしていたんだろう。
「こうやって、空中でキャッチしたらさ、願い事叶うって」
それで、俺も、彼女も、みんなも、必死になって追いかけていたんだっけ。
「願い事、叶うかなぁ…」
力なく笑う彼女。小刻みに震える肩。
溢れ出た雫が、俺の手を濡らす。
「叶うさ」
「そうだと、良いな」
無理して笑おうとしているのが痛いほど解る。その気持ちが頬を伝って、こぼれ落ちる。
何度拭ってやっても、彼女の涙は止まらない。
こういう時、ドラマだと気の利いた台詞の一つや二つを言うところだろう。だけど俺には、出来ない。
言う資格も、無い。
泣かないでくれ、ときつく抱き締めてやることしか出来ない。
昔からそうだった。
彼女が泣く度に、俺はどうする事も出来なかった。
ただ傍に居て、泣き止むのを待つしかなかった。
あの頃から俺は何も変わっていない。
「言えば、良かったんだ」
彼女は途切れ途切れに言う。
「素直に、最初から、寂しくなるって」
声に涙を混じらせながら、絞り出すように。
「言わなきゃ、ずっと、一緒に居られるって、そう思って―――」
そこから先は言葉にならなかった。
堰を切ったかのように嗚咽が漏れる。
ずっと堪えていたものが、溢れ出したんだろう。俺はそれに気付いてやれなかった。
少し、ほんの少しだけでも注意していれば、きっと気付けたのだ。簡単なことなのに。
(…そうじゃないか)
本当は気付いていたのかもしれなかったのに、気付かないふりをしていたのかもしれない。
無意識に関係ない、知らないんだと。俺自身気付くのを避けていたんだろう。
気付けば、何かが変わってしまうと。
もう戻れないところに行ってしまうのではないかと。
怖かった。
変わることが、戻れないことが、先に進むことが怖かった。
風に流されてきた花びらを掴む。
頼りなく、儚い、その桜の花びらに、たった一つの想いを込める。
変わることを恐れない。
だから、戻らないという覚悟。
そして、進んだ先へ想いを繋ぐ。
「約束しよう」
そっと彼女の身体を離す。濡れた瞳が、訝しげに俺を見る。
「帰ってきた時は、必ず連絡しろよ。そしたら、また今日みたいに遊びに行こう」
向こうで彼氏が出来たときはしょうがない。そう付け加えると、彼女は困ったような笑顔を浮かべる。
「いつもの場所で、待ち合わせして、好きなところへ行こう」
仰いだ先には、桜の木。いつもの、待ち合わせ場所。
「…忘れないでよ?」
「俺は平気だ。だけどお前、忘れっぽいから」
「絶対忘れない。覚えてるから。そっちこそ…覚えててね?」
別の涙が彼女の瞳を濡らし、頬を伝う。
「約束だ」
小さい子供みたいに小指を絡ませる。
二度と逢えない訳じゃない。ただ少し、離れる時間が増えるだけだ。俺達は何も変わらない。
ただそう伝えたいだけなのに、上手く言葉にならない。
「参ったな…どう言えば良いのか…」
迷った時間は、少し。
俺は彼女の涙をもう一度拭ってやる。
そして、伝えたい言葉を唇に乗せて、そのまま引き寄せる。
閉ざした瞳。微かに震える肩。
感じたのは、コーヒーのほろ苦さ。それと、ミルクティーの甘い味。
言葉はもう、必要なかった。
Cherry Blossom -13-
思ったより平たい皿に乗っていたものだから、さほどの量は無いと見ていた。今更ながら、それが間違っていたことに気付く。
オムライスドリア、侮り難し。正直、これだけでお腹が一杯だ。
「追加でケーキ頼むけど、何か頼む?」
「いや、俺はいらない…」
あれを平らげて尚追加でデザートか。よく甘いものは別腹だと言うが、彼女にはもう一つ胃袋があるのだと思う。
「やけに食欲旺盛だな」
「普通だよ?むしろそっちが少ないくらいじゃない?」
「俺は至って平均的だと思うんだがな」
これでも人並だと思っていたが、彼女に言わせれば俺は少食らしい。むしろお前が大食いだと突っ込みたい気分だった。
程なく苺をあしらった可愛らしいケーキが運ばれてきた。季節のケーキ、らしい。
メニューには「今月はイチゴ!」と書かれていた。でも苺には少し早いかな、とも思う。
「…ちょっと酸っぱい」
「だろうね」
「一口食べる?」
「ん、じゃ一口だけ」
彼女がケーキをすくって俺に差し出す。俺は少しだけ身を乗り出してケーキを貰う。
確かに、少し酸味が強い。
「苺には早かったな」
「でも、結構、いけるでしょ?」
苺の酸味を生クリームの甘さが和らげる。春らしい味だ。
「流石に一個はキツイけどな…」
コーヒーを一口含む。ケーキの甘さがそのほろ苦さには丁度良かった。
半分の量だったら頼んだかもしれない、と思う。
「半分残したげれば良かったかな?」
顔に出ていたのか、彼女が残ったケーキを見て呟く。既に三分の一くらいになっていた。
「次来た時に、気が向いたらで良いよ」
おかわりのコーヒーと、彼女のミルクティーを注ぎに席を立つ。
ぼんやりとコーヒーを注ぎながら、賑わい始めた店内を見回す。
思った通り男だけのグループは居ない。女の子だけか、カップルか。今更ながら、俺には縁の無い店だったんだと実感する。
何となく、一組のカップルに目が行く。
よっぽど仲が良いのは解るが、見ているこちらが恥ずかしいくらいだ。カップルにありがちな「相手の口元に持って行ってあーんと食べさせる」というお決まりも、当然ながらこなしている。
これ以上はもう無理だ。当てられるどころかのぼせて倒れてしまう。
シロップを一つ掴み席に戻る。
「どしたの?」
「え、別に…」
「ぼーっとしてるね」
「そうか?」
「うん。コーヒーにレモン入れる気?」
俺が掴んでいたのはシロップではなく、レモンだった。
レモンコーヒーの味は、ちょっと想像したくない。
馬鹿みたいな間違いをしたのも、絶対さっきのカップルに当てられたせいだ、と思う。
彼女はとっくにケーキを食べ終えていた。そういえば、一口貰ったきりだった。
「そういや、それ一口貰ったよな」
「うん、あげた。ボケたの?」
「……あんまりな言い方するな」
その時の光景を思い出してみる。間違いない。
傍から見ればさっきのカップルと変わらなかった。
なによ、とやや不機嫌そうに俺を覗き込む彼女。どうやら別に気にしていないらしい。
(むしろ俺が気にしすぎ、か?)
何もかも俺以外の誰かのせいだ、と適当に心の中で八つ当たりをしておく。
流し込んだコーヒーの味は、前よりも数倍苦く感じた。
気付けばそろそろ夕飯時で、店も混んで来た。
色んな話をしていたと思う。俺はコーヒーを、彼女はミルクティーを飲みながら。
それこそ、今日の話からいつもの学校の話まで、一年分くらいの内容を話したように思う。
これまで、こんなにも彼女と話したことは無かっただろう。
伝えたいことがある。
聞きたいことがある。
それなのに。
「帰るか、そろそろ」
それなのに、どうしていつも。
「そうだね。混んで来たし、お腹も一杯だし」
こうやって、止めてしまうのだろう。
「割り勘な」
「ちぇー。ケーキ奢ってくれても良いじゃん…」
「一口しか喰ってねえのにか」
こんなやり取りしか、出来ないのだろう。
「ほら、バス来るから早くしろよ」
「次の待とうよ」
「置いてくぞ」
「…女の子には優しくするもんだよー?」
「お前がそういう質かよ」
こんな風にしか、接してやれないのだろう。
帰りのバスの中、俺の肩を枕に眠る彼女を見ながらそう思っていた。
素直になるって難しいんだな、と当たり前のことを思う。
多分、幼馴染みだから、自分も向こうも解っていると思い込んでいた。きっと、それだけのことだったんだろう。
そして、俺はそれに甘えていたんだろう。
何も、解ろうともせずに。
「起きろよ。そろそろ着くぞ」
「んー…」
バスを降りると、暖まった身体がすぐに冷たくなる。早く帰ろう、と俺は彼女を促した。
頬を撫でる冷たい風が、僅かな温もりさえも奪っていく。
名前だけの春の帳に、氷のような月が掛かっていた。
伝えたいことがある。たった、一言だけ。
結局それを言えないままだったな、と思う。
本当は、言わない方が良いのかもしれない、とも思う。
それでも。
「言わなきゃいけないことがあるんだ」
立ち止まる彼女。
「言わなきゃ、いけないことが、あるんだよ」
一言一言、紡ぐように口に出す。ややもすれば、風に流されてしまいそうな声で。
何かを堪えるようにそう言った彼女を、俺はただ見つめることしか出来ない。
オムライスドリア、侮り難し。正直、これだけでお腹が一杯だ。
「追加でケーキ頼むけど、何か頼む?」
「いや、俺はいらない…」
あれを平らげて尚追加でデザートか。よく甘いものは別腹だと言うが、彼女にはもう一つ胃袋があるのだと思う。
「やけに食欲旺盛だな」
「普通だよ?むしろそっちが少ないくらいじゃない?」
「俺は至って平均的だと思うんだがな」
これでも人並だと思っていたが、彼女に言わせれば俺は少食らしい。むしろお前が大食いだと突っ込みたい気分だった。
程なく苺をあしらった可愛らしいケーキが運ばれてきた。季節のケーキ、らしい。
メニューには「今月はイチゴ!」と書かれていた。でも苺には少し早いかな、とも思う。
「…ちょっと酸っぱい」
「だろうね」
「一口食べる?」
「ん、じゃ一口だけ」
彼女がケーキをすくって俺に差し出す。俺は少しだけ身を乗り出してケーキを貰う。
確かに、少し酸味が強い。
「苺には早かったな」
「でも、結構、いけるでしょ?」
苺の酸味を生クリームの甘さが和らげる。春らしい味だ。
「流石に一個はキツイけどな…」
コーヒーを一口含む。ケーキの甘さがそのほろ苦さには丁度良かった。
半分の量だったら頼んだかもしれない、と思う。
「半分残したげれば良かったかな?」
顔に出ていたのか、彼女が残ったケーキを見て呟く。既に三分の一くらいになっていた。
「次来た時に、気が向いたらで良いよ」
おかわりのコーヒーと、彼女のミルクティーを注ぎに席を立つ。
ぼんやりとコーヒーを注ぎながら、賑わい始めた店内を見回す。
思った通り男だけのグループは居ない。女の子だけか、カップルか。今更ながら、俺には縁の無い店だったんだと実感する。
何となく、一組のカップルに目が行く。
よっぽど仲が良いのは解るが、見ているこちらが恥ずかしいくらいだ。カップルにありがちな「相手の口元に持って行ってあーんと食べさせる」というお決まりも、当然ながらこなしている。
これ以上はもう無理だ。当てられるどころかのぼせて倒れてしまう。
シロップを一つ掴み席に戻る。
「どしたの?」
「え、別に…」
「ぼーっとしてるね」
「そうか?」
「うん。コーヒーにレモン入れる気?」
俺が掴んでいたのはシロップではなく、レモンだった。
レモンコーヒーの味は、ちょっと想像したくない。
馬鹿みたいな間違いをしたのも、絶対さっきのカップルに当てられたせいだ、と思う。
彼女はとっくにケーキを食べ終えていた。そういえば、一口貰ったきりだった。
「そういや、それ一口貰ったよな」
「うん、あげた。ボケたの?」
「……あんまりな言い方するな」
その時の光景を思い出してみる。間違いない。
傍から見ればさっきのカップルと変わらなかった。
なによ、とやや不機嫌そうに俺を覗き込む彼女。どうやら別に気にしていないらしい。
(むしろ俺が気にしすぎ、か?)
何もかも俺以外の誰かのせいだ、と適当に心の中で八つ当たりをしておく。
流し込んだコーヒーの味は、前よりも数倍苦く感じた。
気付けばそろそろ夕飯時で、店も混んで来た。
色んな話をしていたと思う。俺はコーヒーを、彼女はミルクティーを飲みながら。
それこそ、今日の話からいつもの学校の話まで、一年分くらいの内容を話したように思う。
これまで、こんなにも彼女と話したことは無かっただろう。
伝えたいことがある。
聞きたいことがある。
それなのに。
「帰るか、そろそろ」
それなのに、どうしていつも。
「そうだね。混んで来たし、お腹も一杯だし」
こうやって、止めてしまうのだろう。
「割り勘な」
「ちぇー。ケーキ奢ってくれても良いじゃん…」
「一口しか喰ってねえのにか」
こんなやり取りしか、出来ないのだろう。
「ほら、バス来るから早くしろよ」
「次の待とうよ」
「置いてくぞ」
「…女の子には優しくするもんだよー?」
「お前がそういう質かよ」
こんな風にしか、接してやれないのだろう。
帰りのバスの中、俺の肩を枕に眠る彼女を見ながらそう思っていた。
素直になるって難しいんだな、と当たり前のことを思う。
多分、幼馴染みだから、自分も向こうも解っていると思い込んでいた。きっと、それだけのことだったんだろう。
そして、俺はそれに甘えていたんだろう。
何も、解ろうともせずに。
「起きろよ。そろそろ着くぞ」
「んー…」
バスを降りると、暖まった身体がすぐに冷たくなる。早く帰ろう、と俺は彼女を促した。
頬を撫でる冷たい風が、僅かな温もりさえも奪っていく。
名前だけの春の帳に、氷のような月が掛かっていた。
伝えたいことがある。たった、一言だけ。
結局それを言えないままだったな、と思う。
本当は、言わない方が良いのかもしれない、とも思う。
それでも。
「言わなきゃいけないことがあるんだ」
立ち止まる彼女。
「言わなきゃ、いけないことが、あるんだよ」
一言一言、紡ぐように口に出す。ややもすれば、風に流されてしまいそうな声で。
何かを堪えるようにそう言った彼女を、俺はただ見つめることしか出来ない。
Cherry Blossom -12-
一人が帰ると言い出したところで、解散となった。
俺達はあれから結局ゲーセンに居っぱなしだった。言ってしまえば、いつもと変わらなかった。
ただ一点を除いては。
帰り際、あいつは俺に耳打ちした。
「頑張れよ」
「…言われなくても」
その答えに満足したのか、あいつは俺の肩を叩くとそのまま皆と帰っていった。
(解ってるって)
解っている。これからどうするか、くらいは。どうしたいか、という事も。
とりあえず、彼女と連絡を取らなければならない。
その存在をすっかり忘れていた携帯に手を伸ばし、気付く。
(逆に向こうが先に帰ってる可能性もあるんじゃねえの?)
そう思うと、呼び出し時間が妙に長く感じる。
いつだったか、メールにも電話にも応じなかった俺に対して怒っていた彼女。その気持ちが今なら解る。
『もしもし?』
いざ応答があるとびっくりする。そんな自分が、何だかいつも以上に情けない。
「あーっと、まだ友達と一緒か?」
『ううん、もう皆帰ったよ。またメール見て無いの?』
そう言えば「新着メールアリ」の表示が見えた気がする。
「悪ィ、見るの忘れてたわ」
まぁ良いけどさ、と呆れ半分諦め半分に言われた。
「これからどうするよ」
時間は五時半を過ぎたところだ。少し早目の夕飯には丁度良い時間だろう。
『美味しいとこ知ってるの。ちょっと早いけど夕飯にしない?』
彼女も同じことを思っていたのかもしれない。
「じゃ、レストラン街の辺りで」
遅れたのは、かなり意外なことに、俺の方だった。
「珍しい」
「ホントにな」
幸いなことに彼女の機嫌も良かった。文句を言われるかと焦っていたが、特に何も言われなかった。
それよりも食欲を優先したいらしい。こっちだ、と俺を先導していく。
連れて行かれたのは、イタリアンだかフレンチだか解らないが、とりあえず男同士ではまず行かない店だった。
軽く照明が落とされている。代わりに、ランプに見立てた照明が各テーブルに置かれている。
夕食というよりも、ディナーと言った方が相応しいかもしれない。
「ここさ、オムライスドリアが美味しいんだよ」
「…何それ」
「ここのオススメ。一度食べてみると良いよ」
そういえば表の看板にも「当店オススメ!」と大きく書かれていた。オススメなら、そう外れは無いだろう。
俺と彼女は揃ってその「オムライスドリア」とドリンクバーを頼んだ。
「飲み物、何にする?取って来たげるけど」
「じゃ、アイスティーで」
彼女が席を立つ。何気なしに置かれた荷物に目が行った。
小さい紙袋と中くらいの手提げが一つずつ。
良くは知らないが、女の子が好きそうなモノで、俺には縁の無い代物だというのは解った。
「何か面白いものでもあった?」
気付けば、彼女が戻って来ていた。
「いや…色々行って来たんだと思って」
俺は袋を指差す。
「まぁね。コスメコーナー行ってきて、ウォータープルーフのマスカラとか見てきた。すっごいよ。新製品もあったし」
「うぉーたーぷるーふ…」
異国語だった。
「後は…新しく出来たブランドショップがあって、そこも見てきた。手が出ないから、見るだけ」
「ブランド…」
異世界だった。
「しばらく見ない間にファッションストリートとかって綺麗になっててさ、驚いたよ~」
「はぁ…」
異次元だった。
「後はねー…」
話はまだ続いている。が、俺は半分も解らない。
適当に彼女の話を解釈してみる。異国語かつ異世界かつ異次元で遊んできたらしい。何が何だかさっぱり解らない。
つまりは、俺には縁のない世界でそれなりに楽しんできた、ということだろう。別行動して正解だったんじゃないかと思う。
一緒だったら、多分俺が耐えられない。
「そっちは?」
彼女の視線が、景品の入った袋に注がれている。
「んー…まぁ、いつもと同じ。ゲーセンで遊んでた。あぁそうだ」
やるよ、と彼女に渡したのは、件のファスナーアクセサリーだ。
「良いの?」
「ダブったし」
答えて気付く。くれた奴と同じ答え方だった。何だか可笑しい。
何笑ってんのよ、と彼女が怪訝な顔をする。それがまた妙な感じで笑ってしまう。
「ゲームに熱中し過ぎて頭でも打ったんじゃない?」
「かもな」
お待たせしました、とタイミング良く料理が運ばれてきた。
少し大きめのグラタン皿に、ホワイトソースのかかったオムライス。ソースと卵にほんのりと焦げ目が付いている。香ばしい匂いが食欲をそそる。
「オムライスにホワイトソースかけて焼いて…あぁ、そういう意味ね」
「そそ、だからオムライスドリア。まんまでしょ?」
オムライスの中身がドリアだと想像していたことは内緒にしておこう。
「それじゃ」
と、彼女はグラスを掲げる。
「何に対して?」
応じながら俺は聞いてみる。
「んー…お疲れ様ってことで?」
「まぁ、確かにな」
では改めて、と彼女は腕を伸ばす。
「乾杯」
そっと触れたグラスが、澄んだ音を立てた。
俺達はあれから結局ゲーセンに居っぱなしだった。言ってしまえば、いつもと変わらなかった。
ただ一点を除いては。
帰り際、あいつは俺に耳打ちした。
「頑張れよ」
「…言われなくても」
その答えに満足したのか、あいつは俺の肩を叩くとそのまま皆と帰っていった。
(解ってるって)
解っている。これからどうするか、くらいは。どうしたいか、という事も。
とりあえず、彼女と連絡を取らなければならない。
その存在をすっかり忘れていた携帯に手を伸ばし、気付く。
(逆に向こうが先に帰ってる可能性もあるんじゃねえの?)
そう思うと、呼び出し時間が妙に長く感じる。
いつだったか、メールにも電話にも応じなかった俺に対して怒っていた彼女。その気持ちが今なら解る。
『もしもし?』
いざ応答があるとびっくりする。そんな自分が、何だかいつも以上に情けない。
「あーっと、まだ友達と一緒か?」
『ううん、もう皆帰ったよ。またメール見て無いの?』
そう言えば「新着メールアリ」の表示が見えた気がする。
「悪ィ、見るの忘れてたわ」
まぁ良いけどさ、と呆れ半分諦め半分に言われた。
「これからどうするよ」
時間は五時半を過ぎたところだ。少し早目の夕飯には丁度良い時間だろう。
『美味しいとこ知ってるの。ちょっと早いけど夕飯にしない?』
彼女も同じことを思っていたのかもしれない。
「じゃ、レストラン街の辺りで」
遅れたのは、かなり意外なことに、俺の方だった。
「珍しい」
「ホントにな」
幸いなことに彼女の機嫌も良かった。文句を言われるかと焦っていたが、特に何も言われなかった。
それよりも食欲を優先したいらしい。こっちだ、と俺を先導していく。
連れて行かれたのは、イタリアンだかフレンチだか解らないが、とりあえず男同士ではまず行かない店だった。
軽く照明が落とされている。代わりに、ランプに見立てた照明が各テーブルに置かれている。
夕食というよりも、ディナーと言った方が相応しいかもしれない。
「ここさ、オムライスドリアが美味しいんだよ」
「…何それ」
「ここのオススメ。一度食べてみると良いよ」
そういえば表の看板にも「当店オススメ!」と大きく書かれていた。オススメなら、そう外れは無いだろう。
俺と彼女は揃ってその「オムライスドリア」とドリンクバーを頼んだ。
「飲み物、何にする?取って来たげるけど」
「じゃ、アイスティーで」
彼女が席を立つ。何気なしに置かれた荷物に目が行った。
小さい紙袋と中くらいの手提げが一つずつ。
良くは知らないが、女の子が好きそうなモノで、俺には縁の無い代物だというのは解った。
「何か面白いものでもあった?」
気付けば、彼女が戻って来ていた。
「いや…色々行って来たんだと思って」
俺は袋を指差す。
「まぁね。コスメコーナー行ってきて、ウォータープルーフのマスカラとか見てきた。すっごいよ。新製品もあったし」
「うぉーたーぷるーふ…」
異国語だった。
「後は…新しく出来たブランドショップがあって、そこも見てきた。手が出ないから、見るだけ」
「ブランド…」
異世界だった。
「しばらく見ない間にファッションストリートとかって綺麗になっててさ、驚いたよ~」
「はぁ…」
異次元だった。
「後はねー…」
話はまだ続いている。が、俺は半分も解らない。
適当に彼女の話を解釈してみる。異国語かつ異世界かつ異次元で遊んできたらしい。何が何だかさっぱり解らない。
つまりは、俺には縁のない世界でそれなりに楽しんできた、ということだろう。別行動して正解だったんじゃないかと思う。
一緒だったら、多分俺が耐えられない。
「そっちは?」
彼女の視線が、景品の入った袋に注がれている。
「んー…まぁ、いつもと同じ。ゲーセンで遊んでた。あぁそうだ」
やるよ、と彼女に渡したのは、件のファスナーアクセサリーだ。
「良いの?」
「ダブったし」
答えて気付く。くれた奴と同じ答え方だった。何だか可笑しい。
何笑ってんのよ、と彼女が怪訝な顔をする。それがまた妙な感じで笑ってしまう。
「ゲームに熱中し過ぎて頭でも打ったんじゃない?」
「かもな」
お待たせしました、とタイミング良く料理が運ばれてきた。
少し大きめのグラタン皿に、ホワイトソースのかかったオムライス。ソースと卵にほんのりと焦げ目が付いている。香ばしい匂いが食欲をそそる。
「オムライスにホワイトソースかけて焼いて…あぁ、そういう意味ね」
「そそ、だからオムライスドリア。まんまでしょ?」
オムライスの中身がドリアだと想像していたことは内緒にしておこう。
「それじゃ」
と、彼女はグラスを掲げる。
「何に対して?」
応じながら俺は聞いてみる。
「んー…お疲れ様ってことで?」
「まぁ、確かにな」
では改めて、と彼女は腕を伸ばす。
「乾杯」
そっと触れたグラスが、澄んだ音を立てた。
Cherry Blossom -11-
レースゲームで二勝一敗、UFOキャッチャーでぬいぐるみが二つ、シューティングゲームでノーミスクリア。
今日のゲーセンの戦果は上々だった。いつも以上に集中していたからかもしれない。
多分、他のことを考えない為に。
「半端ねえな」
「何が」
「お前の戦果」
俺以上の戦果の奴に言われたくない、と心の中で呟く。奴は景品の詰まった袋を二つも抱えていた。
覗いているのはぬいぐるみやフィギュア。一体どれだけ取ってきたのだろう。
と、景品の詰まった袋から何かを取り出し俺に渡してきた。
ファスナーアクセサリーを二つ。しかも同じ種類だ。
「何だよ」
「やるよ。ダブったし」
「何で二つ」
「ダブったし。連れに合ったときに一個上げりゃ良いだろ?」
「余計なことを…」
二つとも突き返そうとした俺の腕を掴み、そいつはゲーセンの外へと俺を連れ出した。
他の奴は奥の方で対戦でもやっているのか、姿が見えない。俺達が居なくなった事も解らないだろう。
自販機の並ぶコーナーまで来たところで、ようやく俺は解放された。
掴まれていた腕が痛い。軽くさすりながら周囲を伺う。
近くのベンチには誰も居ない。ゲーセンの喧騒は遠く、人気は全く無い。静かで、話をするには丁度良い場所だ、とふと思う。きっと何かを俺に言うつもりでここに連れて来たに違いない。
そいつはベンチに腰を下ろし、俺も座るように促した。
「何なんだよ」
俺を呼んでおいて、そいつは何も言わない。俺を無視して、携帯を弄っている。
このスペースは時折人が通る程度で、ひっそりとしている。俺とそいつの間には、沈黙しか無い。
一向に口を開く気配のないそいつにしびれを切らし、ベンチから立ち上がる。
「用がねぇんだったら、俺は戻るぜ」
「待てっての。用有るし」
ようやく口を開いたものの、携帯から目を離さない。誰かとしきりに連絡を取っているらしい。
「だったらそっち済ませてからにしろよ」
俺の苛立ちが伝わったのか、そいつは携帯を閉じて俺を見る。呆れと、少しの怒りが混じった表情だった。
滅多に見せない表情に、俺は少し戸惑う。
「何だよ…」
「とりあえず、座れよ」
ベンチに座り直した俺に、そいつは言う。
「お前ってさ、人の気持ちに疎いんじゃねーの」
「疎いって…」
「あの時何にも感じなかったのか、お前」
容赦のない、強い声。
あの時。多分、彼女と別行動を取ると言った時のことだろう。
「気まずいとかそういうのは感じてたけど?」
「ふざけてんじゃねえよ!」
重い衝撃。息苦しさ。俺を睨む目。
そいつは俺の襟首を掴み、押し殺した声で続ける。
「あの子見て何にも思わなかったのかよ。あの子がどう思ってるとか、どう考えてるとか、そういう気遣いしてやれないのかよ。お前、幼馴染みだろ。幼馴染みのくせに、何にも解ってねえのかよ」
掴まれた襟首を揺すられる。容赦なく畳みかける声に、頭の奥が熱くなる。
俺はそいつの腕を乱暴に振り解いた。耳の後ろで、鼓動が大きくなるのを感じる。
「幼馴染みが何だってんだよ。お前こそ、言われる俺の身にもなれよ。気遣いがどうこうって、お前が言える立場かよ。ふざけてんのはそっちだろ?毎度毎度ネタにしてんのはお前らだろうが!」
握り締めた手が、声が、震えている。怒りのせいだろうか。
今にも殴りかかりそうになる身体を、どうにか押さえつける。
俺の言葉は止まらない。
「何?お前アイツに惚れてんの?それならそうと言えばいいだろ?回りくどいことやらなくても好きだってアピールしたら?それとも振られたのかよ。八つ当たりか?幼馴染みつってからかうのも…」
再びの衝撃。反転する視界。遅れてやってくる、後頭部の痛み。
ベンチに叩きつけられたと解るのに、数瞬かかった。痛みで声が出ない。
「…確かに悪かったよ。からかい過ぎたのは悪かったと思ってる。俺は別にあの子のことに関しちゃ何にも思ってねえんだよ。ただな、お前があの子に関して何にも思ってないのは許せなかった」
「どういう…ことだ」
絞り出すように質す。痛みと息苦しさで、眩暈がする。
「お前は、お前自身の気持ちが解ってない。あの子のことも解ってない」
もう一度襟首を掴まれる。振り払う力はもう無い。
反論する言葉も、無い。
そいつは俺を引っ掴んだままだった。視界が揺れる。どうやら引き起こしただけらしい、と気付くまで時間がかかった。
頭がぼんやりとする。強く打ったせいじゃないのは解っている。
回る視界、突き刺さる言葉。俺は―――。
ぼんやりとしている俺を見てはマズイと思ったのか、冷たい缶ジュースを「奢ってやる」と俺に渡す。
そいつもジュースを飲む。俺はしばらく手の中で転がしてから、蓋を開ける。
熱くなった身体に、冷たいジュースが染み込んでいく。その感覚は、中々に心地良い。
しばらくの沈黙。先に破ったのは、そいつだった。
「まぁさ、ちょっと熱くなっちまったけど…」
ちょっとどころじゃねえよ、と反論しかける。掴まれた腕も、襟首も、打った後頭部も痛い。
「こうでもしねーと、お前の本音解りそうにもないし、お前自身も気付きそうもなかったし」
だから手荒な手段を使った、と呟くように言う。俺はもう苦笑しか出ない。
不器用な奴だと思う。だけどそれは、俺も同じなのかもしれない。
「…で、その俺の本音とやらは解ったのか」
「大体な。お前自身もそうじゃないのか」
「多分、な」
言葉で伝えるのは得意ではないからこその、荒療治。
こいつに無茶苦茶やられなくても、多分俺は解っていたはずだ。ただそれがどういうものか、気付いていなかっただけだ。
それが何なのか、どういうものなのか、今の俺には解っている。それはこいつのお陰なんだろう。
「でも素直に礼を言う気にはなれない」
「…悪かったよ」
ジュースを飲み干す頃には、痛みも引いていた。
「戻るぜ。他の奴ら放っといたままだ」
「そうだな」
応じながら、俺は頭の片隅で考えていた。そいつに言われた言葉と、俺の本音を。
(「お前は、お前自身の気持ちが解ってない。あの子のことも解ってない」―――)
そう、俺は何も解ってなかった。いや、解らないフリをしていただけなのかもしれない。
解らないと誤魔化して、嘘を吐いて、逃げていたのかもしれない。あいつから、そして、俺自身からも。
「…何笑ってんだよ」
知らずと笑っていたらしい。
「打ち所が悪かったのかも」
本気で慌てるそいつの様子に、俺は腹を抱えて笑い出す。安心したのか、そいつも少しだけ笑った。
「二人して何やってたんだよー。居なくなってびっくりしたぜ」
ゲーセンに戻るなり、放っといた奴らに文句を言われた。そいつのせいだ、と俺は指差す。対戦やるからお前が奢れ、とそいつが引っ張って行かれる。ちょっとした仕返しだ。
気付けば、一人喧騒の中に取り残された。ゆっくりと連中の後を追う。
少しの痛みと、口に出さなかった本音を抱えて歩く。
俺はもう、逃げない。
今日のゲーセンの戦果は上々だった。いつも以上に集中していたからかもしれない。
多分、他のことを考えない為に。
「半端ねえな」
「何が」
「お前の戦果」
俺以上の戦果の奴に言われたくない、と心の中で呟く。奴は景品の詰まった袋を二つも抱えていた。
覗いているのはぬいぐるみやフィギュア。一体どれだけ取ってきたのだろう。
と、景品の詰まった袋から何かを取り出し俺に渡してきた。
ファスナーアクセサリーを二つ。しかも同じ種類だ。
「何だよ」
「やるよ。ダブったし」
「何で二つ」
「ダブったし。連れに合ったときに一個上げりゃ良いだろ?」
「余計なことを…」
二つとも突き返そうとした俺の腕を掴み、そいつはゲーセンの外へと俺を連れ出した。
他の奴は奥の方で対戦でもやっているのか、姿が見えない。俺達が居なくなった事も解らないだろう。
自販機の並ぶコーナーまで来たところで、ようやく俺は解放された。
掴まれていた腕が痛い。軽くさすりながら周囲を伺う。
近くのベンチには誰も居ない。ゲーセンの喧騒は遠く、人気は全く無い。静かで、話をするには丁度良い場所だ、とふと思う。きっと何かを俺に言うつもりでここに連れて来たに違いない。
そいつはベンチに腰を下ろし、俺も座るように促した。
「何なんだよ」
俺を呼んでおいて、そいつは何も言わない。俺を無視して、携帯を弄っている。
このスペースは時折人が通る程度で、ひっそりとしている。俺とそいつの間には、沈黙しか無い。
一向に口を開く気配のないそいつにしびれを切らし、ベンチから立ち上がる。
「用がねぇんだったら、俺は戻るぜ」
「待てっての。用有るし」
ようやく口を開いたものの、携帯から目を離さない。誰かとしきりに連絡を取っているらしい。
「だったらそっち済ませてからにしろよ」
俺の苛立ちが伝わったのか、そいつは携帯を閉じて俺を見る。呆れと、少しの怒りが混じった表情だった。
滅多に見せない表情に、俺は少し戸惑う。
「何だよ…」
「とりあえず、座れよ」
ベンチに座り直した俺に、そいつは言う。
「お前ってさ、人の気持ちに疎いんじゃねーの」
「疎いって…」
「あの時何にも感じなかったのか、お前」
容赦のない、強い声。
あの時。多分、彼女と別行動を取ると言った時のことだろう。
「気まずいとかそういうのは感じてたけど?」
「ふざけてんじゃねえよ!」
重い衝撃。息苦しさ。俺を睨む目。
そいつは俺の襟首を掴み、押し殺した声で続ける。
「あの子見て何にも思わなかったのかよ。あの子がどう思ってるとか、どう考えてるとか、そういう気遣いしてやれないのかよ。お前、幼馴染みだろ。幼馴染みのくせに、何にも解ってねえのかよ」
掴まれた襟首を揺すられる。容赦なく畳みかける声に、頭の奥が熱くなる。
俺はそいつの腕を乱暴に振り解いた。耳の後ろで、鼓動が大きくなるのを感じる。
「幼馴染みが何だってんだよ。お前こそ、言われる俺の身にもなれよ。気遣いがどうこうって、お前が言える立場かよ。ふざけてんのはそっちだろ?毎度毎度ネタにしてんのはお前らだろうが!」
握り締めた手が、声が、震えている。怒りのせいだろうか。
今にも殴りかかりそうになる身体を、どうにか押さえつける。
俺の言葉は止まらない。
「何?お前アイツに惚れてんの?それならそうと言えばいいだろ?回りくどいことやらなくても好きだってアピールしたら?それとも振られたのかよ。八つ当たりか?幼馴染みつってからかうのも…」
再びの衝撃。反転する視界。遅れてやってくる、後頭部の痛み。
ベンチに叩きつけられたと解るのに、数瞬かかった。痛みで声が出ない。
「…確かに悪かったよ。からかい過ぎたのは悪かったと思ってる。俺は別にあの子のことに関しちゃ何にも思ってねえんだよ。ただな、お前があの子に関して何にも思ってないのは許せなかった」
「どういう…ことだ」
絞り出すように質す。痛みと息苦しさで、眩暈がする。
「お前は、お前自身の気持ちが解ってない。あの子のことも解ってない」
もう一度襟首を掴まれる。振り払う力はもう無い。
反論する言葉も、無い。
そいつは俺を引っ掴んだままだった。視界が揺れる。どうやら引き起こしただけらしい、と気付くまで時間がかかった。
頭がぼんやりとする。強く打ったせいじゃないのは解っている。
回る視界、突き刺さる言葉。俺は―――。
ぼんやりとしている俺を見てはマズイと思ったのか、冷たい缶ジュースを「奢ってやる」と俺に渡す。
そいつもジュースを飲む。俺はしばらく手の中で転がしてから、蓋を開ける。
熱くなった身体に、冷たいジュースが染み込んでいく。その感覚は、中々に心地良い。
しばらくの沈黙。先に破ったのは、そいつだった。
「まぁさ、ちょっと熱くなっちまったけど…」
ちょっとどころじゃねえよ、と反論しかける。掴まれた腕も、襟首も、打った後頭部も痛い。
「こうでもしねーと、お前の本音解りそうにもないし、お前自身も気付きそうもなかったし」
だから手荒な手段を使った、と呟くように言う。俺はもう苦笑しか出ない。
不器用な奴だと思う。だけどそれは、俺も同じなのかもしれない。
「…で、その俺の本音とやらは解ったのか」
「大体な。お前自身もそうじゃないのか」
「多分、な」
言葉で伝えるのは得意ではないからこその、荒療治。
こいつに無茶苦茶やられなくても、多分俺は解っていたはずだ。ただそれがどういうものか、気付いていなかっただけだ。
それが何なのか、どういうものなのか、今の俺には解っている。それはこいつのお陰なんだろう。
「でも素直に礼を言う気にはなれない」
「…悪かったよ」
ジュースを飲み干す頃には、痛みも引いていた。
「戻るぜ。他の奴ら放っといたままだ」
「そうだな」
応じながら、俺は頭の片隅で考えていた。そいつに言われた言葉と、俺の本音を。
(「お前は、お前自身の気持ちが解ってない。あの子のことも解ってない」―――)
そう、俺は何も解ってなかった。いや、解らないフリをしていただけなのかもしれない。
解らないと誤魔化して、嘘を吐いて、逃げていたのかもしれない。あいつから、そして、俺自身からも。
「…何笑ってんだよ」
知らずと笑っていたらしい。
「打ち所が悪かったのかも」
本気で慌てるそいつの様子に、俺は腹を抱えて笑い出す。安心したのか、そいつも少しだけ笑った。
「二人して何やってたんだよー。居なくなってびっくりしたぜ」
ゲーセンに戻るなり、放っといた奴らに文句を言われた。そいつのせいだ、と俺は指差す。対戦やるからお前が奢れ、とそいつが引っ張って行かれる。ちょっとした仕返しだ。
気付けば、一人喧騒の中に取り残された。ゆっくりと連中の後を追う。
少しの痛みと、口に出さなかった本音を抱えて歩く。
俺はもう、逃げない。