私が学生時代、何人もの先生が言った記憶はあります。
「何でもいいから早く覚えろ!」
これが暗記教育を続けた結果ではありませんか。
上書きにより、結果を出そうとする手段。理解を伴う習熟を望まず、即物的な試験対策を目標に設定して、児童や学生の個性をリスペクトしない管理教育。
先生が理解できていないから説明を省き、暗記するように促すものでしょうに。このひとことを使いがちな先生ほど、ものごとを安易に考える傾向も高くて。
そうして学生たちは試験後に新しい暗記を求められ、これまでの記憶内容を忘れて刷新し、新しく習うことを記憶する。これでは算数から数学にかけてシステム化された指導内容に対応できなくなりませんか。
goo辞書によれば「習熟」とは、
あるテーマや活動についての、卓越した技能と知識 の意
こう書いてあります。使い慣れたら達成ではなく、技能と知識が卓越しなければ意味を持ちません。これが、論理性の根拠になります。
上書きしたら、論理を構築できず最新のデータのみを引き出しませんか。
学校はスペシャリストとエキスパート、どちらを養成したいかしらん。どちらにせよ、「指示待ち」ではほど遠い存在です。
息子の時代にも、前のひとことを放つ教員はいたそうで、彼に感想を訊ねたことがあります。回答は
「生徒がよほどふざけて会話にならないときはともかく、いつもそう言う先生の話は信用でけへん」
彼は、だいたいにおいて先生たちは私ほど丁寧に、わかりやすい説明をしないとも話していました。単にうちの子が理解に乏しいからそう思うのやら、「先生の話から推測して生徒が自前で理論を構築できること」が授業を行う大前提やら知りませんけれど。
「何でもいいから」とは、
「理由や事由のいかんを問わず」ということになり、
反論や意見、または質問は受け付けない態度を示します。
これでは、絶対的権力者と同様になりませんか。
教育機関の本質に関わる問題。
「鉄は熱いうちに打て」とは言いまして、
柔らかい状態の間に成形するよう、端的に説明する諺があります。
覚えることばかりを教え、考えるための資料や資材を提供しない指導は、将来的にどのような社会人を成形したいものやら。
「忙しい」を理由にするか「自分の段取りの悪さ」を理由にするかによって、
責任の所在は容易に動きます。
ところでアラフォーアラフィフの保護者世代のみなさま、
昭和の時代に学生生活を送った方々は、宿題の多さを実感なさった経験がありませんか。
中学受験のような塾や予備校へ通う子供の増加に伴い、近年は保護者の依頼によって学校では日常の宿題が減少傾向にありますが、
昭和の時代はなぜ、あんなにたくさんの宿題が生徒に課されていたか、ご存知ですか?
これも、私は母校の教員から雑談の中で教わりました。
端的に言えば、「先生が煩わしさを増やさないように、学生から勉強以外の時間を奪う」目的があったそうです。受験に伴う塾や予備校で勉強するならば目的は達成されますので、異論を挟むまでもなくなりますね。
オタクはいつの時代も嫌われる、道理ではないかしらん(笑)