今回もドイツの指揮者、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーの「音楽を語る」という本を読んで考えたことを書きます。

↓フルトベングラーの文章。

現今の音楽家は(技巧的な)【素材面の征服】にふけり、いわばそれだけを自分の目的とし、自分の課題は素材を複雑化することにあるとして、発展のためにつくしていると信じてます。
その結果、必然的に感情に即した全体の関連を、多少ともあきらめてしまうことになるのです。
ところが、なお極端な場合になると、全体の関連は、もう何もなくなってしまいます。
もはや、上級裁判所も、枠をもうけて取り締まらないので、この素材は、限りなくはびこりはじめます。
いまや、知性は、全力をもって、そのときどきの細部に勝手に凝りだすものですから、複雑さは、どんどん増大してゆきます。
しかし、このために細部は、遊離した知性を見せ、細部は、冷徹な完全さのもつ、とにかく機械的と感じられるあの独特な性質のものになります。
そればかりでなく、この細部は、もはや自然と感情に即した立ち場に立つ聞き手ではなくて、技巧面に立つ知性的な立ち場の聞き手だけに何かを語りはじめるのです。
それは精神的効果のないものとなるわけです。
(中略)
きく人の感情に細部はもう何も訴えることができないのです。
(中略)
私達の耳は、音楽の進展につれて【発達した】、というものではありません。
(中略)
人間的な全体の姿をあきらめてしまって、細部とか特殊化されたものとか、巧妙に法外に高められたものとかに脱線しているような芸術は、たとえどんなものにしろ、みなやさしいものだといえます。
そのわけは、そうした芸術は、全身全霊で、心で演出・再現されるまでもないものであって、ほんのもう知能と神経だけで演奏し再現すれば充分なものだからです。
この知能と神経は、とくに現今では容易にもつことのできるものです。
メカニックだけのものはみな、訓練しだいです。
しかし、【芸術】という言葉を生じさせる腕前は、訓練とは別問題のものなのです。

文章が難しいので要約してみます。

現代の音楽家(この本は1940年代の本です)は技巧的に音楽を征服することばかり考えている。
知性が細部を複雑化し機械的な音楽になる。
感情に即した全体の関連は無くなる。
知性的、技巧的な音楽は知性的、技巧的な聴衆しか興味を持たない。
複雑化した細部は、聴く人の感情に何も訴えることができない。
全体の姿をあきらめて、細部を技巧的に高めた音楽を演奏するのは簡単である。
そのわけは知能と神経だけで演奏すれば充分だから。
機械的な技巧だけのものは訓練しだいで身につけることができる。
【芸術】はこのような訓練とは別問題なのです。

更に要約します。

現代の音楽家は技巧、複雑な細部、知性にかたよって完全に機械的になっている、そういう演奏するのは簡単なこと。

全体の関連、全体の姿をあきらめているから自然な感情に何も訴えることが無い。

私の感想。

【そのような演奏をするのは簡単なこと】というのはおそらく、細部を技巧的に高めた演奏者のほうが生産しやすい、努力でなんとかなりやすいということだと思うのです。

演奏自体については、技巧的に音楽を征服してないタイプの演奏家の方が、よっぽど簡単に感情に訴える演奏が出来るといえます。

複雑に計算されたものは努力と訓練でなんとかなるが、そうではない演奏は天才しか出来ない。

天才のことは解明出来ないですし、天才自身も体が先なので計算もしていないしコントロールもしていません。
天才にはエビデンスもありません。

でも、もし天才のもつ感覚を、自分の体で知ることが出来るならば知りたいとは思いませんか?
 
それがビートでやっているパッシブムーブメントです。
コントロールせずに受動的に動ける機能を持つということです。