続き。

床が踏める体は、下に遠心力を使いきれば、上に戻ってくる。
落としきったエネルギーに連れられて次に行く。
重力に対して、振り上げて振り落とす動き。

だから、西洋の体は意図が無くても動く。
それが受動ということ、パッシブムーブメント。

床が踏めてないダンサーが感情を込めて踊ると嘘くさくなる、わざとらしくなる。

ダンサーの我が出ると、無駄に表現し過ぎてしまう。

付け足すことはせずに、ダンサー本人の感情をはぶいていく作業をする。

ダンサーの感情を削ぎ落としていった時に嘘くささが無くなりダンサーの純粋な表現が産まれる、そこにお客さんの感情が入り、初めて作品が完成する。

観る側が作品が完成させる。

お客さんひとりひとりが自由に感情を乗せて、踊りを見ることができる。

「ここはこういうふうに表現したい!ここはこの音を絶対に外さないでこう見せたいんだ!」という明確な意図を持った振りではない。

意図した動きだと意図したものしか見えない。
塩の味しかしない塩ラーメンみたいなもの。

下は映画評論家の淀川長治さんに関するツイート。
ツイートしているのはライターの方。

もしいま淀川長治が生きていたら、その「事実誤認」を糾弾されたかもしれない。
伝道師的なイメージが先行するあまり誤解されがちだが、淀川さんの批評はかなりの頻度で実際の映画と食い違っている。
間違いだらけと言ってもよい。
しかし急いで付け加えればそれは間違いでありながら間違いではないのだ。

淀川長治が、ある映画を語るさいに「誤認」を口にしたり文章に残したりせざるをえなかったということは、淀川さんのなかではその「誤認」が重大な意味をもつということなのだ。
つまり、そこには厳然と存在する一本の映画とはべつに、淀川長治にしか観ることのできない「映画」が存在しているのである。

映画の側から言い換えれば、その作品は、淀川長治に重大な「誤認」を呼びおこさせるような、ただならぬ力をもっていたということである。
「記憶違いのある映画は名作だ」という三谷礼二のことばのとおり。

さらに、ここで重要なのは、淀川さんの、いわば「幸福な誤認」は、意図的な「捏造」ではなく妄執の発露、つまり無意識の為せる産物であるということだ。
こうした「幸福な誤認」は映画体験の本質にほかならないが、しばしば(とりわけ昨今の風潮のなかでは)「捏造」と一絡げにされて糾弾の対象となる。


3:50あたりから。俳優の演技法の話。感情を込めて演技をしない俳優もいる。


かぶる話もありますが3:47から。感情を込めて演技をする俳優が嫌いな映画監督もいる。