去年のニュース。


世界的バイオリニスト、ピンカス・ズーカーマン

「韓国人は歌わない、DNAにない…日本人も同じ」

以下、Wikipediaから。


2021年、ジュリアード音楽院主催のオンラインクラスにて、混血の日本人姉妹2人に対し人種差別的な発言をしたことで非難を浴びた。概要は次のとおりである[2]

  • 姉妹の演奏に対するコメントで「二人で完璧に演奏することを考えるのは控えて、もっとフレーズのことを考えるべき。少しビネガーを足して…いや醤油か!」と笑いながら発言した。
  • 歌うように演奏するようアドバイスに加え、「韓国では歌を歌わない」と発言。
  • 姉妹の一人が韓国人ではないことを伝えると、「日本でも歌は歌わない」と発言。
  • アジア人の訛を真似ながら韓国人が歌を歌えない旨の発言をし、その理由として「彼らの遺伝子に備わっていないから」と説明。

この事実が明らかになり、『ニューヨーク・タイムズ』だけでなく、バイオリニスト・ドットコムなど音楽専門紙も批判記事を掲載した。ジュリアード音楽院は動画から問題になった部分の発言を削除した。ズーカーマンは「私が使った単語は文化的に鈍感なものだった。学生たちに個人的に謝罪の手紙を書き、不快な気持ちになった人々には遺憾に思う」という立場を明らかにした。 一方、ソーシャルメディアで拡散中の映像でズーカーマンは「中国人のみなさんは決してメトロノームを使わない。ただ速くうるさく(演奏)するだけ。みなさんは速くうるさければ最高だと思う。そのように考えるな」と話した[3]



このニュースに対しての私のツイート。

「バイオリンを歌わせることができるバイオリニストは、他人の演奏を聴いて、歌う歌わないを区別できる。

バイオリンを歌わせることができないバイオリニストは、歌う歌わないの区別ができない傾向がある。

一流のプレーヤーになるには、まず一流のリスナーにならないと。ということかな。


ピンカス・ズーカーマンの言う歌わない演奏を、歌う演奏に変えたいヴァイオリニストの方はビートのパーソナルレッスンを受けてください。


アジア人が歌わない理由も、その改善方法も解明済みです。

ヴァイオリン以外のクラシック音楽、楽器の方もどうぞ来てください。」


「中国人が早く弾くのは周りの人から「凄い!」って称賛されたいからではないだろうか。

音楽家もダンサーも、はるか先にある偉大なものより、目の前にある凄いと言われるものを追いかけがち。」




Twitterでの、あるピアニストの方との会話。


あるピアニストの方【外国人の先生のマスタークラスでも大抵先生の指導法は特別なことを言ってるわけでもありません。でも音が全然違います。生徒は何も変わりません。】


私「音が全然違います。生徒は何も変わりません。っていうのは誰と誰の音が違うのですか?外国人の先生に教わっても日本人は何も変わりませんっていう話ですか?」


あるピアニストの方【先生と生徒の音の質の差のはなしでした。

演奏自体は確かに良くはなるのですか、その音の差を埋める事はほとんどないです。】


私「まず日本人の体と白人の体は違います。その違いから音の質の差が生まれます。海外の先生はその体の違いを埋める方法を知りませんから、教えようが無いというのが正直なところだと思います。」




「ホロヴィッツのショパンを聴いてクラシックをいっぱい聴きたくなってレンタル屋さんで借りてみたけど、ホロヴィッツを知った後の他の人が弾くショパンは高音がキンキンしていて全体的に音が硬い。


そういう人が弾いたショパン以外の曲は良かったりする。

ショパンを弾きこなせる人が少ないのか?ホロヴィッツ以外のショパンがショパンじゃなく聴こえる。」


「今日のパーソナルレッスンはヴァイオリニストの方でした。

ヴァイオリンは持ち運びが出来るのでレッスン前後の演奏や音の違いを比べることができるので面白かった。」


「今日はヴァイオリニストの方へのパーソナルレッスン。

今日は2回目。

初回の感想は、日常生活で歩きに加速がついた。音が全身を通る。坂道の感覚が変わった。」


曲面スピーカー。 

 


ソコロフの音。 

大事なのは、見た目の形や動きと、身体の中の動きは違うということです。


結局、自分の身体に素直なんです。

自分の身体から生まれる音しか出してない。

他人を羨ましがらない。

比べない。

理想に近づこうとしていない。

チューリップがバラになるために研究したり追求したりしない。

受動ってことは、他人になろうとしないってことなんで、絶対「っぽく」はならないんですよ。

なりようがない、自分自身だから。

本物しかない。

自然以外の何者でもない。



耳を開く。とは何か?

踏めない人は広い前後の空間、奥行き、遠近感を感じることができない。音楽の立体感を感じられない。

耳を開くとは、単に聴覚の話ではなく、空間認識能力の差と考えます。