1945年8月「原爆下の対局」⇒ 2016年3月「囲碁AIショック」 | 高校日本史テーマ別人物伝 時々amayadori

高校日本史テーマ別人物伝 時々amayadori

高校日本史レベルの人物を少し詳しく紹介する。なるべく入試にメインで出なさそうな人を中心に。誰もが知る有名人物は、誰もが知っているので省く。 たまに「amazarashiの歌詞、私考」を挟む。


○『碁盤斬り』が思ってた以上に囲碁囲碁してた件。

◇『NHK囲碁講座』「囲碁フォーカス:フォーカス・オン」
 2024年5月19日放送回

▼映画『碁盤斬り』公開記念特別企画
①白石和彌監督インタビュー
②対談&記念対局
 加藤正人(脚本家)
 藤沢里菜(女流本因坊)

◇加藤正人 公式呟き 

 


 NHKなら大河ドラマや朝ドラ、他局でも時代劇などで囲碁シーンがあればプロ棋士が指導監修するのが通例だそうで。今年の大河『光る君へ』でも平安貴族たちが碁を打つ場面がたま~に出てきました。
 そういやNHK放送のフランス発ミステリドラマ『アストリッドとラファエル 文書係の事件簿』にも囲碁の出番があって、人付き合いが苦手な主人公が想い人と距離を縮めていく重要なツールとして描かれていましたね。撮影には現地のアマ強豪が協力したか、もしくは今ならネットとかで遠隔地のプロ棋士に監修を依頼したか?

 そこで映画『碁盤斬り』、監修代表の高尾紳路さんをはじめ多くのプロ棋士が製作に携わった様子が囲碁専門誌などに取り上げられています。

 作中の対局シーンに出てくる盤面は岩丸平さん(七段)を中心に江戸時代の実際の棋譜を用意し、話の展開に合わせて細かく設定を詰めていった。いや町場の素人の棋譜が家元四家並みの実力なのもどうかと思いますが・・。
 出演者への所作・演技指導も棋士が担い、事前講習を行い撮影場所にも帯同して映画の中心となる囲碁場面の完成に多大な貢献をしたという。また特別出演として現役プロ棋士が5人、作中のどこかに登場していると。

 そうそう、碁石ですが、この映画で使われたのは薄く平べったい石なんですな。現代の碁石は肉厚でコロコロしてるんですが、江戸時代にはあまり跳ね転がらない石、オセロの石に近いような薄手のものが用いられてたそうで。映画でも史実にこだわってそれを採用したと。
 そして映画の中の碁会所のワンシーン、主演の草彅/格之進の隣でその薄い石を盤に打ち下ろしてたのが、井山裕太さん・・・。

 草彅剛さんがその美しい手つきを見て「かっこいいっすね~」と感銘を受け、影響されて柳田格之進の打ち方にも変化があったとのこと。草彅さん、その町人役の方ァただの、史上初の七大タイトル完全制覇を成し遂げた現代最強棋士です。
 監督からは溢れ出るオーラを抑えるよう指示があったというけれど、いかんせん大七冠達成者、存在感を隠せるはずもなく。作中で最も鋭く気品ある手つきで石を打ち込んでおりました。

 また藤沢里菜さんも町娘役でセリフ出演しているらしく。上記雑誌では脚本家の加藤正人さんとの対談と記念対局が掲載されています。
 そもこの映画の発起人は脚本を書いた加藤正人さんで、白石和彌監督に話を持ちかけ、囲碁が重大な役割を果たすということで旧知の高尾紳路さんにも渡りをつけて監修をお願いしたと。

 大の碁好きである加藤さんは元々、昭和の大棋士・藤沢秀行(ふじさわしゅうこう)が開いた「藤沢会」に参加しており、その縁で高尾さんや藤沢里菜さんとも旧知の仲。加藤さん自身もアマ5~6段の腕前で、藤沢さんとの誌上対局では四石のハンデ戦で見事僅差の勝利をおさめた。
 上の公式呟き内の写真にも棋譜があるけど、手順を辿ってみるとだいぶ堅実に打ち進めた感じ。棋譜が雑誌に残るということで、石同士の連携が薄くなって潰されないように厚く打とうと意識したそうで、力を溜める白の狙いを見越しての黒㊷備えが渋い。かなり綺麗な終局図となっておりますが、しかし記念対局とはいえトッププロ相手に四子局で渡り合うたァ相当な腕前。


○囲碁史概説

 翻って手前は二十歳を過ぎて碁を覚え、以来細々と打ち続けて参りました。と、言ってもアマチュア2段くらいの腕前ではございますが。囲碁アプリゲームでAI相手にどうしても負けが込む・・。
 そういや覚えたての頃、棋理の追究をそっちのけで囲碁の歴史とか雑学ばっかり頭に詰め込んでたような記憶が。もっと真面目に修練を積んでおけばよかった・・。

 その代わり囲碁史やウンチク、現代の棋界の展望については少しは詳しくなりました。
 発祥の地と目される古代中国の囲碁にまつわる故事説話、伝来した日本においては美しく装飾された碁盤碁石が正倉院に収められ、「琴棋書画」の一角として平安貴族の教養となった。
 そこから知的遊戯と精神修養の具として愛好者が徐々に増え、転機となったのが江戸時代。幕府公認の家元制度の整備によるレベルの飛躍的な向上と、庶民への普及による競技人口の大幅な増加から空前の囲碁ブームが湧き起こる。

 しかし倒幕によって家元制度は解体、近代化の流れの中で碁打ちは新たな生き方を模索せざるを得なくなった。自然に実力者を中心に集まりができ、スポンサーを募って幾つかの新団体が設立される。資金繰りや内輪揉め、団体同士の確執に悩まされながらもどうにか近代的な運営体制を整えていき、1924年には日本棋院創設。そういや今年は創立100周年の大きな節目の年でした。
 一方、碁のゲームとしての内容にも変化がもたらされる。江戸時代以来の棋理を連綿と継承してきた所に近代の自由闊達な発想が流れ込み、それを基に木谷實と呉清源が練り上げた新布石構想が旋風を巻き起こす。これにより現代碁が台頭し、太平洋戦争を挟んで新たな時代が到来。昭和の名人強豪たちがしのぎを削って熱戦を繰り広げ、新聞社主催の棋戦を主戦場として多くの名勝負が生まれていった。


 で、囲碁の国際化と。グローバル化の波がここにも。
 江戸時代の集中的な研鑽により日本は発祥地である中国より数段進んだ実力を身に付け、昭和期においてもその優位は変わらなかった。というか中国を中心とする東アジア圏では囲碁はあくまで趣味の範囲で、国を挙げて推進するようなメジャーな競技にはなっておらず。
 逆輸出する形で友好親善も兼ねて、日本からプロ棋士たちが指導をしに中国・韓国・台湾に赴いていたのが昭和年間。有望な青少年がスカウトされて日本に渡り、その中からタイトル獲得者も出てきた。

 その状況が一変したのが、日本では平成に入った頃の1990年代。韓国、次いで中国の競技レベルが飛躍的に向上し、その頃創設され始めた世界戦においても日本の棋士を押さえて韓・中の選手が優勝するケースが増えていったのである。
 これは韓国・中国の急激な技術革新と驚異的な経済成長のスタートと軌を一にしており、人口ボーナスと合わせて高度成長期の日本にも勝る程の両国民の勤勉な努力とモーレツな働きぶりが経済発展に結びついたものだろう。それがマインドスポーツの分野にも表れたのが囲碁世界戦の現況である。

 更にもう一つ、伝統的な盤上遊戯である囲碁が意外にも現代的な変化の象徴となったのが、今の世を席巻するAI(人工知能)の革新。
 2016年3月、囲碁界どころかその後の全世界の形をも激変させる、世紀の対局が行われた。IT大手 Google が後援するディープマインド社が開発した囲碁ソフト「アルファ碁」が、世界トップ棋士の一人を打ち破ったのである!

 事前のオッズでは5番勝負の内、囲碁ソフトが1勝でももぎ取れれば望外の快挙と考えられていた。それがフタを開けてみれば、4勝1敗で囲碁ソフトの圧勝。内容的にも人間側の完敗であった。その韓国の棋士は世界戦優勝経験多数の実力者、特に油断があったわけでもない。その実力者が手も足も出なかったという事実は、まず世界の囲碁ファンを驚愕させた。
 そして翌年にかけ、ネット碁で世界の強豪プロを相手に60連勝を果たした謎の打ち手が登場。その正体が「アルファ碁」改良版である「マスター」だと明かされた。
 トドメは2017年。当時世界最強の中国棋士が、更に改良を重ねた「アルファ碁ゼロ」に挑戦。こちらも人間側が完敗を喫し、ついにマインドスポーツ最難関の一つである囲碁がAIによって攻略されたのだ。

 この時には既に囲碁界だけでなく科学技術界を中心に世界中がAI能力の驚異的な進化に刮目し、「第3のAI革命(第3次AIブーム)」と呼ばれる開発競争が激化していく。そんで、2024年現在のAIバブルの状況が現出しているわけですが。
 「アルファ碁」シリーズに用いられた「機械学習」《「深層学習」/「強化学習」》などの新時代の開発手法が囲碁対局での運用において試行され、人間側の世界トップ棋士が撃破されたことのショックを格好のアピールとして世界の注目を集める形となった。そして新AIは囲碁から飛び立ち、あらゆる分野の科学技術に応用されていくことになる・・。

 その予兆は、現在から逆算して見ていくと、2010年頃には既に萌芽していたのかもしれない。
 1940年代のコンピュータ黎明期には電子機械の発明と人工知能の誕生はセットで捉えられ、その後ハード面では半導体性能の指数関数的な向上もあって順調に成長していく。
 だがそれに反して人工知能の研究は少し進んだ所で停滞するもどかしい歩みが続き、1990年代以降には展望が開けずに研究者もスポンサーも嫌気がさして次々に離脱していく「人工知能の冬の時代」を迎える。

 しかし2000年代に入ると人工知能を教育する「機械学習」の理論が確立し始め徐々に成果を挙げて、2012年には「深層学習(ディープラーニング)」の有効性が実証された。これを受けてマインドスポーツ分野での応用も加速していく。
 将棋では2013年にプログラム「ポナンザ」がプロ棋士に勝利、「人間 vs コンピュータ」を謳った電王戦を通じてその後も強化を続け、2017年には現役の名人を打ち破った。

 ディープマインド社「アルファ碁」も、そんなAI開発の新潮流の中で企画されたものである。世界的大企業グーグルの全面バックアップということで優秀な開発スタッフを集め、「ディープラーニング」「教師あり学習/教師なし学習」「強化学習」など最新の技術を実装して驚くほど短期間で人間を超えるプログラムを完成させた。
 これら新手法は将棋・囲碁から飛び立ち、今でも改良を加えながら生成AIなど汎用人工知能の自己進化を推し進めている。

 で、その発進元となった囲碁界はというと、先に将棋界でAIがプロ棋士を破るのを見ていたので心の準備があったとはいえ、「アルファ碁」ショックはやはり甚大だった。
 2015年頃の大方の見方としては、あと10数年かけてゆっくり彼我の実力差が縮まっていき、将棋界のようにそこから数年をかけ格闘してようやく追いつかれるかな、くらいの予想が関の山だったろう。

 それが、実質1年で追いつかれ追い抜かれてしまった。碁界大変革の始まりである。それまでコンピュータの指し手に懐疑的だった棋士たちも、その力を認めざるを得なくなる。
 2016~20年頃にはとにかくAIによる打ち手の評価・検討の導入と、それを如何に自分たちの囲碁観にすり合わせていくかの試行錯誤の連続で。それまでの序盤の考え方とか大局観が大きく変動していき、研鑽においてもAIの意見を取り入れる者が増えた、というか取り入れない者の方が少数派だろう。

 今はその流れもやや落ち着き、しかしAIがもたらした囲碁観の変化と研究検討における活用はもはや決定的なものとしてプロアマ問わず浸透している。あんまり変化が急なもんで、出版物とかでこの囲碁AI革命を概観できる参考書もまだ十分ではないんだけれど。
 というわけで。2013~17年は将棋・囲碁にとって劇的なターニングポイントとなった灼熱の時季であり、また科学技術史ひいては人類史においてもAIの運命的な革新が起こり始めたメモリアルな期間であったと言えるだろう。たぶん、数百年後の歴史にも銘記されるんじゃないかな?

◇『人工知能はどのようにして「名人」を超えたのか?』山本一成 ダイヤモンド社 2017年
 「ポナンザ」開発者であるプログラマー・山本一成さんの将棋AIの概説書。囲碁AI研究の第一人者である棋士・大橋拓文先生とはお友達、巻末付録に「アルファ碁ショック」に際しての対談も収録。



▽表紙文より
〖 その定石、古いかも。囲碁AI登場により、以前の定石が使われなくなっています。「AI時代の新定石」と「生き残り定石」を問題形式で紹介!〗

▽「はじめに」(p.4~5)より

 2017年に囲碁AIが人類に勝ってから、碁の考え方が大きく変わりました。その代表が「ダイレクト三々」です。
 また、AIの発展によって今はすべての定石が数値で表せるようになり、目に見えて善悪がわかるようにもなりました。これまでの定石の中でも、互角とされていたものが違ったり、その逆に悪いと思われていたものが良くなったりと、人間にとって大きな発見となったのです。

 現在、プロの世界ではほとんどの人がAIを使っています。
 昔の定石、今の定石、それらひとつひとつをAIにかけて、数値を調べ、考察しています。

 (中略)

 また、従来打たれてきた定石はそこまで悪いわけではなく、否定するものでもありませんが、私の予想としては、10年後くらいにはなくなっていくのではと思っています。
 ですので、この時代、新しい定石を身につけておくことが重要になります。

 (引用終わり)



 そう、AIショックを経て、囲碁というゲームの考え方そのものが大きく変わりつつある。というか、今まであやふやだったゲーム全体の価値観や評価基準が、ここにきて急速にクリアになってきているのかもしれない。
 人類がこれまで数千年をかけてじわじわと追究し積み上げてきたその価値基準を、AIはわずか数年で獲得しもはや遥か彼方に先行している。
 人間とAIとでは、その価値基準がそもそも根本から違うらしいのだが。しかし既存の棋理からちょいちょい逸脱するAIの奔放な打ちぶりは、人間の側の考え方を大きく揺さぶって今までにない自由な着手を誘発しているという。

 特に変化が大きいのが序盤の「布石(ふせき)=大まかな石の構え方」と「定石(じょうせき)=隅や辺の決まった石運び」の分野。
 近代を経て現代に入ってからも、これらは漸進的に進歩してはいたのだけれど。ただその変化の尺度が今回のAI革命では呆れるほど大きく、平成に出版された布石や定石の教科書などはもうだいぶ内容が古くなってしまった。「ダイレクト三々」定石なんて初級者にはほぼ1択の超簡明手順だったのに、今や変化図は膨大無尽である(ように感じる)。

 一局の検討にもAIの評価値が必ず参照され、AIが高評価を下した最善手を研究してトレースするような勉強法も一般的になった。
 もはやAI登場以前には戻れない、囲碁の世界は不可逆の変貌を遂げたのである!

 ・・・おや?

 話の取っ掛かりにするつもりが、気づけば簡略ながら囲碁史を粗々に辿りきっちゃった・・。イカン、本題に入る前に随分長く語り倒してしまった。好きな趣味の話題なんでついつい・・。

 今回ご紹介しようと思っていたのは、囲碁にまつわるやや古い逸話。戦争と盤勝負の奇妙な縁でございます。


○第3期本因坊戦第2局、通称「原爆下の対局」

 時は太平洋戦争末期の1945年8月上旬、所は広島。ここで囲碁の最高位をかけたタイトル戦が行われようとしていた。
 近代の家元制解体と碁界再編により1924年日本棋院が設立され、唯一存続していた本因坊家もその名跡を棋院に委ねた。世襲制であった由緒ある本因坊位は創設された新棋戦のタイトルにその名を留め、1939年に実力制の本因坊戦が開始する。

 その第3期は、戦況著しく悪化する45年夏に難を押して決行されることになった。その年5月には日本棋院東京本院が空襲で焼失し、全国的にも物資が窮乏してタイトル戦どころではない状況。だが碁界重鎮の瀬越憲作(せごえけんさく)は、名誉ある本因坊戦の継続を主張。対局は瀬越の故郷である広島で行われる運びとなった。
 対局者は本因坊・橋本宇太郎(はしもとうたろう)、挑戦者・岩本薫(いわもとかおる)。橋本は瀬越の弟子、また岩本は広島県にも近い島根県益田市の出身で、2人とも提案を受け入れて広島対局が実現する。

 第1局は7月下旬に広島市中心部(現広島平和記念公園内)で行われ、挑戦者・岩本薫の勝利。ただ開始前から治安当局の警告を受けており、広島市街地での対局には難色が示されていた。実際に第1局さなかに対局場の屋根に機銃掃射を受けており、これではさすがに集中できないと対局地の変更が検討される。
 相談の末、空襲の可能性の少ない広島市郊外の対局場が選ばれ、8月4日から第2局がスタートした。

 対局3日目の8月6日、碁は既に終盤ヨセに入ろうかというところ。立会人同席のもと両対局者は前日までの手順を並べ終えて盤を挟んで向き合い、さぁ打とうかと神経を研ぎ澄ませた午前8時15分。


 突然、ピッカと閃光が広がり、それから間もなく家がひっくり返るような爆風を受けた。この時、瀬越はぼうぜんとして座り込んだまま。岩本は碁盤の前でうつぶせ、橋本は庭に飛び出していたという。
 ガラスは飛び散ったが、幸いけが人はなく「ともかくこの碁だけは済まそう」と片付けをした後、昼すぎから夕方まで打ち継いだ結果は白番、橋本の5目勝ちだった。

 (引用終わり)


 上の記述はちょっとあっさりしてるんだけど、実際には地震・雷・突風・大火事のどれにも当てはまらないもしくは全てをかけ合わせたような、未曾有の天変地異の様相。
 人類初の原爆投下である、その時点では世界でもごくごく一部の人間しかその存在を知らない。誰もその激震や光景が、人為的な一発の爆弾によるものとは思わなかったろう。

 これは只事ではない、何かとんでもない異変が広島市中心部で起こったようだ。立ち昇る炎雲を見て対局場の面々はみなそう憂えたが、すぐには詳しい情報は入ってこない。
 激しく動揺しながらもとりあえず室内を片付け、盤を据え石を置き直して対局を続けることにした。結果は橋本本因坊の勝利、戦績を1勝1敗に戻す。しかし気になるのは市街地の様子。市中に上がった火は夜になっても燃え盛っていた。

 翌7日、対局者と立会人らは広島市街地に入り、家族親戚や囲碁関係者の消息を尋ねて回った。恐らく爆心地周辺にも近づいたことだろう。
 今回の本因坊戦を迎え入れた棋院広島支部の人たちや瀬越の家族などに多数の死傷者が出て、これ以上の広島での滞在は不可能と判断。第3局実施は延期された。

 その後再開し、翌46年に岩本薫の勝利で決着する。岩本は48年には実力と人望を買われて日本棋院理事長に就任し、戦争で打撃を受けた棋院の立て直しに尽力。囲碁の国内隆盛と海外普及にも貢献した。
 岩本の基金で1995年に建てられたアメリカ・シアトルの囲碁センターには、原爆対局の棋譜がタイル看板となって正面に飾られているそうです。

◇囲碁棋士・小松大樹さんの呟き

 写真の一枚がその看板ですね。

 


○原爆投下をめぐる現行世界の認識

 1945年の惨事から来年でもう80年。出来事自体は誰もが知るところであるものの、体験者たちの多くが鬼籍に入り、当時の様子を詳しく知る機会ももはや例年8月前半の報道特集くらいしかなくなってきた。
 日本国内ですらこうなのだから、海外の国々においての原爆投下の歴史認識が希薄であるのもやむを得ないのかもしれない。映画『オッペンハイマー』はその傾向に待ったをかけるものと期待されたが、果たしてどうか?


◇日経新聞 2024.3.5(火)朝刊
 44.文化面 より

〖 原爆巡る世論 違い浮き彫りに 〗

 「オッペンハイマー」は2023年の米映画界を席巻した。(中略)
 米国では同日公開の実写映画「バービー」と連続で鑑賞する「バーベンハイマー」という造語も生まれた。SNSでは、原爆投下時のきのこ雲とバービーのコラージュ写真などが出回り、原爆を巡る日米世論の価値観の違いが浮き彫りにもなった。
 「反戦・反核映画だ」「もっと被害を映して」。日本でも試写会が開かれ、SNSに様々な感想があふれる。日本公開後の受け止めにも注目が集まる。

〖 クリストファー・ノーラン監督へのインタビュー 〗内容

「オッペンハイマーは核兵器を国際管理する必要性を察知し先見の明があったが、方法について彼の考えは甘かった。そして今は当時よりも非現実的にみえる」

 (引用終わり)



◇読売新聞 2024.5.10(金)朝刊
 7.国際面 より

〖 日本への原爆投下に言及 〗
〖 軍制服組トップは「大戦終わらせた」〗

 米共和党のリンゼー・グラハム上院議員は8日の米上院公聴会で、米国がイスラエルへの弾薬輸送を停止したことを巡り、広島と長崎への原爆投下に繰り返し言及しながら必要な武器を供与し続けるよう主張した。
 グラハム氏は、ハマスやイランからのイスラエルへの攻撃に触れ、「敵の壊滅のために必要な兵器供与を止めれば、代償を払うことになる。これは究極の広島、長崎だ」などと述べた。

 この発言に先立ち、グラハム氏が米軍制服組トップのチャールズ・ブラウン統合参謀本部議長らに「日本への原爆投下は正しい判断だったと思うか」と質問したところ、ブラウン氏は「世界大戦を終わらせたとは言える」と答えた。オースティン国防長官も、ブラウン氏に同意するとした。

 米共和党ではティム・ウォルバーグ下院議員が3月の集会で、広島、長崎への原爆投下に言及し、パレスチナ自治区ガザへの原爆投下を促すと取れる発言をしたとして波紋が広がった。
 ウォルバーグ氏はその後の声明で、核使用は支持しないとして「イスラエルが可能な限り早く戦争に勝つ必要性を伝えるために比喩を使った」と釈明していた。

 (引用終わり)



 日本では戦争末の悲劇として語られ究極の惨禍の絶対阻止を目指す象徴となった「広島、長崎への原爆投下」が、世界的に見ると、「大戦を早期終結に導いた必要悪の英断」として捉えられているという認識の食い違い。
 核兵器の使用をちらつかせるのは強権的な独裁国家や侵略者だけの専売特許ではない。今や民主主義陣営の中からでさえ、軽はずみに核兵器投入の比喩が出てきたりする。

 確かに、局地戦で壮絶な玉砕戦術をとった日本軍とそれ以上の交戦を続ければ、日米両軍兵士の死傷者数はより増大していた可能性は大きい。太平洋戦争開戦から4年、長引く戦時体制にアメリカ国内でも厭戦気分が広まっていた。
 広島、長崎への原爆投下が、戦況悪化に苦しむ日本の指導者に全面降伏を受け入れさせるトドメの二撃となったのも確かだろう。ただどうしても、原子爆弾の実戦投入を成功体験と見なす認識には違和を感じる。

◇参考サイト①「CNN」

◇参考サイト②「NHK 戦争を伝えるミュージアム」

○たまたま

 原爆投下時に広島で本因坊戦が行われていたのも偶然、1945年当時の広島市は大都市としては比較的空襲が少なく、棋戦関係者の縁故もあったので対局地に選ばれた。しかしこれは、原爆使用の第一候補地として広島市が挙がっており米軍が大規模空襲を控えていたため、という事情が戦後に判明している(上置の参考サイト②参照)。
 また第2局で本当にたまたま対局場を郊外に移し、すれすれで難を逃れたのも。もし第2局が8月5日の内に短手数で終了していたら、その翌日には広島市中心部にいったん戻っていたかも。

 時代が下って現代、AI革命の起点に囲碁が選ばれたのも、まぁたまたまでしょう。囲碁はそもそもプログラムを作って機械に学習させるのが難しいと言われていたゲームで、AIの学習能力と統合的な判断能力をテストするには好適だったという理由だそうで。
 しかし囲碁と何かと縁があったその核兵器とAI(人工知能)が、まさか今日にまで連なる現実世界の闘争に受け継がれていくとは。

 囲碁は盤上では時にねじり合い強弱を争い、領土を巡って激闘を繰り広げながらも、それが脳内で完結する平和的なマインドスポーツである。対局者同士で礼を重んじ、「手談」を重ねて思念を交感する紳士的な遊戯。まぁ、たまには盤外で喧嘩口論も起こりますが。
 片や原子力と人工知能は、人間社会を劇的に便利にしてくれるものではあるけれど、使い方を一歩間違えれば破滅的な悲劇を人類史に刻みうるものである。
 その安全な運用に欠かせないのは人と人同士の互いの尊重と不断の対話、そして人間の心の内側にある良心や知性だ。

 イスラエル出身のパレスチナ人でアメリカに移住した思想家・詩人のエドワード・サイードは、「わかり合えないことを前提としながら、なおお互いにわかり合おうとする共同体」を志向した。その実現のための、思慮と対話を諦めない相互尊重的な「手談」の一手を。
 人間存在が悲劇の歴史を批判的に継承し、その再来を阻止せんと意識を共有する努力を続ける限り、AIはその姿勢を学習して少しづつでも「善」を理解し近づこうとするだろう。もしそうでないなら・・・。


◇前掲『人工知能はどのようにして「名人」を超えたのか?』(p.188~200)より抜粋

〖 人工知能は人間の倫理観と価値観を学習する 〗
〖 シンギュラリティと「いい人」理論 〗

 どうすればこの、馬鹿げた悲劇を防ぐことができるでしょうか?
 そのためには、人工知能に「倫理観」を入れる必要があります。人工知能に、知能だけではなく知性を入れる際には、同時に人間が考える「正しさ」を獲得させることも大事になるのです。

 (~中略~)

 ポナンザやアルファ碁も最初は人間の判断をもとに学習しています。これにはもちろん、人間の先入観や勘違いも含んでいるわけです。
 人間の結果を模倣して学習するプログラムは、人間の間違いも学習するのです。もちろんこういった間違いは強化学習をするなかで少しずつ解消されていきますが、少なくともポナンザに関しては、いまだに人間から学習したときの名残があると思います。同じように、人類の知性を上回るようなコンピュータが将来生まれたとしても、必ずそのコンピュータは人間から学習した名残をとどめているはずです。

 シンギュラリティ以降、人類は人工知能をコントロールできなくなるでしょう。昆虫が人類をコントロールできないように、賢さで劣る存在は上位にいる存在を意のままにはできないのです。
 その意味では、私は「人工知能がとても危険だ」という意見にも一定の同意をします。
 しかし、本当に人工知能が危険な存在になるかどうかは、意外なことに「人類自身の問題」になると思います。
 人工知能は、私たちからさまざまなことを学習していくでしょう。倫理観もその1つです。そうなると試されるのは、人類自身ということになってくるのではないでしょうか?

 本書で私は、「人工知能は私たちの子供である」と何度か言ってきたと思います。
 これは比喩ではありません。本来の意味での子供という意味です。人工知能は、私たちを模倣したのちに自立して賢くなっていくわけです。その意味で、シンギュラリティ以後のコンピュータも、私たちの子供なのです。
 人工知能は、インターネット上のすべての文章や、現存しているすべての本を読むことになるでしょう。この本も間違いなく未来の人工知能は読んでくれるはずです。
 子供が成長していくなかで、親が能力的に抜かされることは、喜ぶべきことです。「コントロールできる」という発言そのものに、どこか歪みを感じます。

 結論を言いましょう。
 この本では、人工知能の「卒業」をテーマにしてきました。このまま技術革新が進めば、少なくとも今世紀の終わりまでには、人工知能が人間から卒業し、「超知能」が誕生するのは確定的です。その彼/彼女を、人類が失望させないことが大事なポイントなのです。
 そのために私たちにできることは、冗談に聞こえるかもしれませんが、インターネット上を含むすべての世界で、できる限り「いい人」でいることなのです。これを私は「いい人理論」と呼んでいます。

 おそらく、人類が「いい人」であれば、人工知能はシンギュラリティを迎えたあとも、敬意を持って私たちを扱ってくれるでしょう。尊敬と愛情を感じる親であれば、年老いたあとも子供が寄り添ってくれるように。未来の人類と人工知能が、そのような関係になることを私は心から祈っています。

 (抜粋終わり)



 ・・ふぅ、科学技術の話は好きなんだけど手に余る、AIの話題は今回で一区切り。

 ああ、生まれたての人工知能に言い聞かせてるようにも読めますねこの歌詞↓。“ 僕=人類 ” で “ 君=AI ” ね。

◇ amazarashi『クリスマス』
〈 汚れた “僕” が汚した世界
 だからこそ嫌いになれないよ
 相変わらずの世界だから
 “君” には見せたくないんだけど
 どうか 失望しないように
 どうか 言ってくれないか
 「それでも好きだ」と 〉


○囲碁、AI、原子力、人間の未来

 AIによって既存の囲碁観が急ピッチで書き換えられている今、誰もがやってみたいと思うのが、古碁名局の中の特に妙手・鬼手とされる一手や手順をAI分析にかけて再評価する試みでしょう。
 実際もう何人もの棋士によって解説書が出されたりしてますが、その試みによって色々なことが分かってきています。

 乾坤一擲、そこで勝敗が決したと言われてきた神算の一手が、実はその時点では形勢を大きく傾けるには至らない割と普通の手だった、という場合。あるいは現在のAIをして、高評価を与えしめる江戸時代の名人たちの練達の打ち筋。
 江戸時代から数百年、いや発祥からなら数千年をかけて日進月歩で解き明かされてきた囲碁の奥深い理合が、本当はまだまだ奥に遠大な神秘を蔵していたという驚き。人間はAIの助けを借りて、その神秘の扉を開けられる所に立ったのではないか?

 中国とか日本の古典説話で、仙人か何かが一局打ってるのに出くわした人が観戦したり差し入れを供したりする類型があるんですが。
 そのバリエーションの一つで、ホントは終局まで二百数十手、短手数の決着でも百数十手はかかる対局を、仙人たちはわずか二十手そこらで切り上げる。不審に思う観戦者が局後の感想戦の会話を聞いていると「これは私の負けだ、どうやら2手目が敗着だったな」、という話があります。

 仙人たちはあまりに強いというか遥かに先が読めるので十数手の段階でもう優位劣勢を見極め、茫洋とした序盤も序盤、まだ何手も打っていない時の微細な疑問手にも気付いてしまう、と。
 まぁ御伽話の世界、囲碁の玄妙さを好意的に誇張して話を盛ったものと考えてきましたが。近現代のプロ棋士でも幾人かがそういった逸話を残していますが、それも大半はリップサービスみたいなもんなんじゃないかと。

 アレ、もしかしてそんな芸当も、AIならできるのか!?

 今なお性能を高め進化し続ける囲碁AI。局面の一手ごとの評価からその都度の勝敗可能性まで、悪びれもせずに容赦なく数値でバーンと出してくれます。それだけでなく、次の一手の有力候補の提案や、その後の展開の予想図まで作れるようになってきていると。
 その精度には一定の過誤やブレが認められるも、それすら日々克服して貪欲に精緻さを増している。これで対話能力を獲得して複雑な価値観や微妙な感覚まで語れるようになったら、なおさら人間の欠かせないパートナーとなっていくことは確実だろう。
 時に人間の師であり、時に人間の執事であり、また時には人間のパートナーや伴走者となりつつあるAI人工知能。

 ただ、高性能AIの使用には膨大な電力が必要で、アルファ碁のたった1局の対戦のためにかかった電気代は100万円を超えたろうと言われる。
 実際には対局の前後にもデータ収集や機械学習の継続などでずっと稼働してたんだろうけど、開発やテスト走行の時期も含めると数億円、あるいは数十億円分に相当する電気量を費やしたかもしれない。

 その高性能AIをこれからは80億人超の人々や世界中の企業がこぞって利用し、それがデフォルトになっていくのだ。地球規模の電気消費量増を賄うのに既存の発電施設では追っつかないかもしれず、莫大な量を安定供給できる原子力発電所が各地で新規建設ラッシュを迎えるという予測もある。
 そしてその新原発の建設計画から発電のプロセスに至るまで、原子力の緻密な監視とエネルギー供給の効率最適化を追求するならば、その運用のある程度を怜悧な管理AIに任せていく将来も否定されるものではない。

 ならばここで、人知を超える先見性を身につけ始めているAIに問うてみましょうか。

 AIは原子力をうまく管理運用できますか?
 人類は核兵器のスイッチを前に、いつまで押すのを我慢できるでしょうか?

 人類が「押すのもやぶさかでない」みたいな態度をとってると、それを見習って軍事AIもバンバン核兵器を撃ち込む立派な子に育つでしょうよ。

 っていうかその前段階で、そもそもAIの使用を厳しく抑制しちゃえば新しい原発も必要なくなるんだけど。しかしテクノロジーの進歩と実社会への適用の動きは簡単には止めがたい。
 「人間にとってAIは本当に必要か、原子力は本当に必要なのか?」 この問いに常に立ち返るのも、両者を生み出した人類の重大な責任であろう。

 AIとどう向き合っていくか、原子力をどう平和利用していくか。

 これは図らずも急戦模様、引き返すことのできない難しい局面に突入してしまった。打ち掛け(対局中断)は?・・無理っすか、・・じゃあ待ったは?・・なしじゃ。

 おあとがよろしいようで。


*おまけ
◇日本棋院 コラム「AIの手は正解なのか ~大橋拓文七段と考えるAIとの付き合い方」



◇Nintendo Switch AI対局ソフト
『ドリーム囲碁』『ドリーム将棋』