月は行かねばならない場所か?『月とゲットー』 | 高校日本史テーマ別人物伝 時々amayadori

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高校日本史レベルの人物を少し詳しく紹介する。なるべく入試にメインで出なさそうな人を中心に。誰もが知る有名人物は、誰もが知っているので省く。 たまに「amazarashiの歌詞、私考」を挟む。


○何用あって月世界へ?


◇読売新聞 2024.5.4(土)朝刊
 21.くらしサイエンス面
 「科想空感」(執筆:三井誠)

 夢のような困難な計画がよく実現したと思う。半世紀余り前、月へ人類を送った米国のアポロ計画だ。米国内では、その実現を疑い「アポロ計画はでっち上げ」と主張する陰謀論があるほどだ。その難題に再び、米国が挑んでいる。日本も協力し、日本人が2028年にも月に降り立つ可能性が出てきた。

 そんなニュースを聞き、米国の経済学者リチャード・ネルソン氏の1977年の著書「月とゲットー」(邦訳は慶應義塾大学出版会)を思い出した。この本は、人を月に送り込むほどの科学技術を持つ国がなぜ、貧しい人が住むゲットーなどの問題を解決できないのか、と問いかける。
 背景の一つをこう指摘する。「社会的な格差や人々の偏見をなくす政策は、月に行く宇宙船を作るよりもはるかに難しいのかもしれない」。人々の心に向き合う政策は、物理法則をもとに進められる宇宙開発よりも困難ということか。

 邦訳した東京大名誉教授の後藤晃さんは「月とゲットーという印象的な言葉で、社会のゆがみをあぶり出した。明快な解決策を示したわけではないが、議論を呼び起こすきっかけを作った」と語る。

 ネルソン氏は社会問題の難しさについて、解決に向けたノウハウが不十分なことも指摘している。
 例えば、医療と教育を比較してみる。医薬品であれば動物実験などをもとに効果を検証し、改良して実験を繰り返せる。一方、教育では誰がどのような生徒を対象に行うかで効果は様々だ。子どもたち相手に実験を繰り返し、万能の教育マニュアルを作ることは現実的ではない。

 ノウハウが蓄積された自然科学では、目標が設定されれば、試行錯誤はあるにせよ、前進していける。科学技術で可能になる目新しいことは注目を浴び、さらなる推進力を生む。
 しかし、科学技術が発展しても、取り残される社会問題があることを忘れてはいけないだろう。「月とゲットー」は半世紀近くを経ても通じる壮大な問いを、現代社会に投げかけているように思える。

 (引用終わり)



 上掲の読売新聞記事では「アポロ11号の飛行士が1969年、人類で初めて月面を歩いた=米航空宇宙局(NASA)提供」として人類初の月面着陸時の写真を示す。

 科学史上、いやさ人類史に刻まれたこの偉大な宇宙進出の瞬間に、冷めた目を向けていた人がここにも一人。
 文筆家で昭和の名コラムニストであった山本夏彦さん。その名言・箴言の中でもつとに有名で著作の表題にもなったのが、こんな展望でした。
「何用あって月世界へ、月はながめるものである」


 “夏彦節” は総じて飄々として皮肉げな論調で、私の生来の気質に合って面白おかしく愛読しておりました。所属への忠誠や確固たる信念とは無縁の、どこか人を食ったような天の邪鬼で軽やかなスタンスが懐かしい。故人となって月日も流れ、著書も手に入れるのが難しくなってきた。


○「進化を加速させる科学技術、必死でその後を追いかける人類」の図

 第二次世界大戦が終結した1945年から世界は東西冷戦の時代に突入した。アメリカ・ソ連を盟主とする両陣営は軍事力を増大させるとともに、競って科学技術の進展を図った。
 大戦中に対ドイツ・日本戦で重要な争点となり、対日戦を早期終結に導いたと評価される原子爆弾(←特に米欧の側でこの評価があり、もちろん日本の側から見ると肯えない感情もある)。

 軍事・情報戦の一環として宇宙空間への進出でも激しい競争が繰り広げられ、衛星軌道、月、更にその先へと、人間は飽くことなく歩を進めようとしてきた。
 しかし軍事上の意味だけではない。中近世の科学の発展とともに明らかになっていった、地球の外の空間への知的関心と。その更に以前、太古の昔から想像の上で夢見られてきた、天上世界の神秘への憧れとロマン。
 初期のロケットが大気圏を突破するその一世紀以上前から、SF(空想科学)小説においては早くも月世界旅行が世人の宇宙ロマンをかき立てていた。

 そして現在、今やあらゆる情報機器の内部に埋め込まれたチップは、人工衛星からのデータを基に多くの機能を働かせている。また高度に発達した原子力制御技術がなくば、電力需要の多くの割合を満たす原子力発電の恩恵も失われるだろう。
 科学の進歩は止まらない、止まれない。より速く、より大きく、より便利に、より遠くへ。一度生み出してしまった技術は廃棄できないし、一度走り出した開発は容易には後戻りできない。

 科学技術が人間の社会・経済に与える多大な恩恵を考慮してなお、その急速な進歩の影で取りこぼされて行く課題の存在を見過ごしてはならないだろう。
 それは大きく2つに分類できるだろうか。

①科学技術がもたらす負の側面
②科学技術の影で取りこぼされてしまう社会問題

 上掲記事が載った読売新聞では、同日の他の紙面でこんな特集が組まれた。ちょいと長くなるので見出しと概要だけ抜き出してみよう。


◇読売新聞 同日紙面

▼ 21.くらしサイエンス面
「サイエンス Report」より
〖 米スリーマイル島原発事故 45年 〗〖 廃炉最終段階へ 課題も残す 〗〖 核燃料回収に新技術 〗〖 最終処分未定  作業完了予定は2037年 〗

 1979年にアメリカで起きた、商用原子力発電所では初めてとなる炉心溶融(メルトダウン)事例であるスリーマイル島原発事故の廃炉作業の現状を追う。

▼1面特集「生成AI考④」
 日本の医療現場での生成AI活用の機運と注意・問題点について

▽関連記事6面
〖 医療 任せられるか 〗
〖 悩みに「共感」/正確性懸念 〗
〖「現在:業務の効率化」「進む研究:診断や治療への活用」「未来:医師と協働」〗
〖「現在の課題①:虚偽の情報」「現在の課題②:情報漏洩」「今後起きうる課題:依存」〗
〖 薬の開発 大幅加速も 〗
〖 患者を真に理解 難しい 〗

 (抜粋終わり)


 これは科学技術の進展と日常生活への普及における正負の面の数例である。
 原子力においては各地でたびたび起こってきた原発事故と、核燃料廃棄物の処理をめぐる未解決の議論。また映画『オッペンハイマー』が示唆する現実世界での核兵器使用の脅威。

 あるいは急激に勃興するAI(人工知能)をめぐって、現行社会の形を根底から一変させる希望的な可能性と、フェイク情報が蔓延し人間の知性が後退するという暗い未来像の警鐘。
 科学技術の光と影のコントランストが一層強烈に映るようになった現在。人の生活のミクロ・マクロの両面に複雑に組み込まれたテクノロジーが、多くの人の命を脅かす危機的局面もまた増大の一途を辿っている。


○そして未解決の、あるいは次々に現れ来る社会問題への


◇日経新聞 2024.5.5(日)朝刊
 12面「文化時評」より抜粋

〖 文化のアイデンティティーとは何か 〗〖 何度も蒸し返されてきた論争が再び問われる 〗(執筆:赤川省吾)

 ドイツでは全人口の3割近くが移民系だ。2010年、ウルフ独大統領(当時)は東西ドイツ統一20年の記念演説で国民に問いかけた。「いったい祖国とはなんだろう」。そして続けた。「キリスト教やユダヤ教はドイツ史と一体である。しかしイスラム教もいまやドイツの一部である」。ドイツは多様な文化、宗教、民族を持つ国家に生まれ変わったとのメッセージだった。
 いま再び論争が巻き起こる。今秋に大型地方選が行われるドイツでは極右政党「ドイツのための選択肢(AfD)」の勢いが増す。「すべてを郷土のために。すべてをドイツのために」。党幹部はナチス時代のスローガンを連呼し、「文化的な他人」を排除すべきだと訴える。

 ナショナリズムは単なる移民排除ではない。「文化的な単一性を求める特性がある」と英ウォーリック大学のシバモハン・バッルバン准教授は言う。では同党にとってドイツ文化とはなにか。「ドイツ的なものが指導的立場にある文化」「ドイツへのアイデンティティー」「ドイツへの愛国心」の3つが核だと公約で定義する。

 芸術界とて容赦しない。多様性を尊ぶような演出や演目は「左翼のプロパガンダ」であり、「我々のアイデンティティーへの攻撃」だとみる。オーケストラや美術館は「自らの郷土に資するもの」に注力すべきだという。今年2月、古都アイスレーベンの劇場が資金繰り難に陥り、公的資金で支援するかどうかが議論になった際、同党は反対した。「劇場職員が極右に反対するデモに参加したから」が理由だった。
 ドイツはナチス時代、前衛的な近代美術を弾圧した。その反省から戦後はリベラル色が濃く実験的な芸術を重んじる風潮があったのに、時計の針を戻そうとしている。
 気がかりなのは泡沫政党ではないことだ。さまざまなスキャンダルを抱えながらも地盤のドイツ東部では支持率が3割と首位を独走し、第1党の勢い。反ナチスが国是にもかかわらず、民族主義を文化政策に持ち込む政党が有権者に浸透する危うい実態がここにある。
 似たような動きは周辺国にも広がる。

 (~中略~)

 確かに移民・難民の急増は治安の悪化などの問題を引き起こす。だからといってノスタルジー(郷愁)に浸り、ナショナリズムに傾くようでは欧州の未来は暗い。人材開国を探る日本への教訓でもある。

 (抜粋終わり)



 世界的な選挙イヤーと言われる2024年、多くの国で極右政党の台頭・躍進が続く。
 国会上下院などでの与野党のねじれ構造なら珍しくもないし、国内政治停滞などの弊害は生じるだろうが、それは民主政治の正常な1場面とも考えられる。

 だが極右政党の台頭や、ポピュリズム(大衆迎合)政治家の躍進はやや意味合いが異なる。極右やポピュリストは往々にして社会の多様性を誹謗毀損し、社会的弱者や少数者を排撃する傾向がある。
 彼らが第一党となり国家指導者となれば政治のバランス感覚は失われ、文化の多様性はもとより生活上のあらゆる場面でマイノリティがナショナリズムによって淘汰される不寛容な社会が形成される。

 格差、貧困、偏見、差別。文明が進歩してもこれら社会上の課題は依然として残り、『月とゲットー』が指摘するように解決が難しい社会問題は、成長著しく雇用と莫大な富とを生み出す技術革新の栄光の影に隠れて対策が一層の遅れをとってしまう恐れがある。
 科学技術の発達はそれはそれで良し、宇宙進出のロマンや実利、エネルギー資源の安全利用は完全否定されるものではないだろう。だがそれらに対するに数倍する熱心さと危機意識とで、技術革新によって激動する社会の成員ひとりひとりの権利の保護と幸福度の増進にも目を向けなければならない。

 科学技術は一足二足飛びに目に見えて日々進歩しているのに、一方の社会問題への取り組みは遅々として進まず、時に後退しているようにも見えることがる。
 進歩する科学技術の活用で解消することのできる社会問題も多くある、あるいは今後増えていくとは思うんですけどね。でも社会問題って、人類史数万年の半恒常的な課題でもありまして。人間存在の道義性にも関わる根深い課題で、解決の道を探るのにもとんでもない時間と労力を必要とするものかと。一筋縄じゃあいきませんやね。