“分断” “断定” “断絶” をなるべくなら回避したい、を対話を続けていく中から | 高校日本史テーマ別人物伝 時々amayadori

高校日本史テーマ別人物伝 時々amayadori

高校日本史レベルの人物を少し詳しく紹介する。なるべく入試にメインで出なさそうな人を中心に。誰もが知る有名人物は、誰もが知っているので省く。 たまに「amazarashiの歌詞、私考」を挟む。


○NHK Eテレ『100分de名著』
 2024年2月 放送分
 リチャード・ローティ著
 『偶然性・アイロニー・連帯』

 初回放送:毎週月曜 22:25~
 再放送①:翌日火曜 5:30~
    ②:翌週月曜 13:05~

◇「100分de名著」公式サイト
名著136『偶然性・アイロニー・連帯』



 著者名や書名にまったく見覚えがない上、内容が非常にイメージしにくいタイトルとなっておりますが。
 しかしNHKテキストを一読、これはもしや2024年の今こそ知っておくべき考え方の糸口なのではないか? いや哲学書なので難しいは難しいんですけどね。

 なんか各回サブタイトルも無駄にカッコいいぜ!

第1回:近代哲学を葬り去った男
第3回:言語は虐殺さえ引き起こす

 ところで上の第3回副題から想起されるのは、SF作家の伊藤計劃(いとうけいかく)が著した『虐殺器官』。アニメーターの村瀬修功(むらせしゅうこう)が監督として劇場版アニメを手がけた事でも有名な、伊藤計劃のデビュー作かつ代表作である。
 しかもなんか「100分de名著」番組内でも取り上げられている。いえ扱いは小っちゃいんですが、作品自体が好きなもんで。



 さて『偶然性・アイロニー・連帯』の特異な内容は「100分de名著」放送で詳しくやるんでそちらを見てもらうとして。
(第1回の初回放送はもう終わっちゃったけど、2/12(月)お昼に第1回再放送、夜に第2回放送があります。)

 ここでは放送テキストより、個人的にビシビシきた箇所を抜粋したいと思う。ホントはテキスト全文でしびれっちまってたから全部載せたいんだけどちょっと無理そうなんで、ほんの一部だけね。


○まずNHKテキストの表紙、及び巻頭カラーページにある文言から

【「会話」を守る】

【 終わりなき議論こそ哲学が向かうべき「希望」である】

【 現代アメリカを代表する哲学者でありながら、真理を探求する近代哲学を根本から否定したリチャード・ローティ。分断やポピュリズムを乗り越え、連帯可能な社会を目指すための「新しい哲学」の役割を追求した、実践的な思想を読みとく。】

【 哲学の使命は「会話を継続させること」】

【 連帯とは、伝統的な差異(種族、宗教、人種、習慣、その他の違い)を、苦痛や辱めという点での類似性と比較するならばさほど重要ではないとしだいに考えてゆく能力、私たちとはかなり違った人びとを「われわれ」の範囲のなかに包含されるものと考えてゆく能力である。】



 いやぁ、ガイド役でテキスト執筆者である哲学者の朱喜哲(ちゅ・ひちょる)さんの解説が専門的かつ簡明で、内容は難しいんだけどぐいぐい読ませます。
 そんな朱さんのローティ哲学をベースにした著書がこちら↓。

◇『〈公正(フェアネス)〉を乗りこなす 正義の反対は別の正義か』朱喜哲 太郎次郎社エディタス
「正義は暴走しないし、人それぞれでもない。」
 リチャード・ローティの思想をベースに「正しいことば」の使いこなし方をプラグマティズム言語哲学から探る。


 ああ、そんなこと言ってたらもっと「100分de名著」の概要を紹介したくなってきちゃったい。


○NHKテキストより、各放送回副題と章の見出し群

【はじめに:哲学者とは会話の守護者である】

【第1回:近代哲学を葬り去った男】
・西洋哲学の歴史
・哲学者ローティのキャリア
・「自然の鏡」という哲学者の自己像
・ローティのデカルト批判
・「対蹠人(たいせきじん)」の思考実験
・真理ではなく言語実践
・黙らせることを目指すのはやめよう
・歴史主義から、偶然性の哲学へ
・ボキャブラリーによる自己創造
・自己の偶然性、共同体の偶然性

【第2回:「公私混同」はなぜ悪い?】

・「アイロニー」とは何か
・改訂に開かれる「終極の語彙(ファイナル・ヴォキャブラリー)」
・公共的な社会正義と私的な利害関心
・「リベラル・アイロニスト」というあり方
・バザールとクラブ
・公共空間のしんどさと私的空間の危うさ
・公私の一致という理想はなぜ捨てられるべきか
・本音と建て前の両立
・現代社会の問題を乗り越えるヒント
・「バザールとクラブ」の比喩の公共性
・人間や社会は受肉したボキャブラリー
・トロツキーと野生の蘭

【第3回:言語は虐殺さえ引き起こす】

・再記述は「屈辱」ももたらす
・文化政治としての哲学
・パートナーをどう呼ぶかも文化政治
・「虐殺の文法」
・ジェノサイドに至る「言語ゲーム」
・ことばによる「非 - 人間化」
・「人権」は機能しない
・リベラル・アイロニストとアイロニストでないリベラル
・文学の力

【第4回:共感によって「われわれ」を拡張せよ!】

・本質なしでの連帯の可能性
・残酷さに対峙するための共感
・希望としての「感情教育」
・加害者たりうることへの感情教育
・内なる残酷さを描くナボコフ『ロリータ』
・興味関心の欠如という残酷さ
・カスビームの床屋
・読者の無関心を暴く
・「われわれ」を再記述する
・小さな手がかりから連帯せよ
・再び、トランプ現象について
・いかにして会話を守るか
・一人の哲学者の足跡から、私たちが学べる希望





○立岩真也、逝く

 2023年7月末。社会学者の立岩真也(たていわしんや)さん、逝去。

 うわー、知らなかった・・・。

 今月発刊のこの特集号↓で、日本の現役思想家の総特集を組むのって珍しいなと思って表紙の細部をよく見たら、「1960―2023」って書いてある。
 うん? 亡くなったわけでもあるまいし、なんで生没年みたいな表記を添えてあるんだろう? ははぁ、これまでの業績をまとめて現時点の集大成とするような趣旨なのかな。


 って思って中身をパラパラと読み始めると、寄稿文の口調がどうも悼んでるような調子なので、これはやっぱりお亡くなりになったのか・・と。
 もう少し読んでくと、訃報の詳細にも行き当たって。あぁ追悼特集号だ。

 立岩真也は思想界の巨人。障がい者運動、社会的弱者保護活動、各種差別の解消運動、人権擁護弁論、など広く人の生を弱らしめる観念や制度を改善していこうという言論活動を長年続けてきた。
 月刊『現代思想』にも毎号寄稿し長~く携わってきて、というか所属した立命館大学と共に『現代思想』誌上が立岩真也の主な論座であった。ゆえの臨時増刊での追悼特集であろう。

◇『自閉症連続体の時代』みすず書房 2014年


◇『介助の仕事 街で暮らす/を支える』ちくま新書 2021年


◇増補新版『弱くある自由へ 自己決定 ー 介護・生死の技術』青土社 2019年


◇『ベーシックインカム 分配する最小国家の可能性』齊藤拓との共著 青土社 2010年


◇『相模原障害者殺傷事件 優生思想とヘイトクライム』杉田俊介との共著 青土社 2016年



 ただ、あんまり一般の知名度は高くないかもしれない。扱うフィールドが最近ようやく陽の目を見るようになってきた福祉分野、それも理論方面がメインだという事情もありますが。

 加えて「強い言葉」「分かりやすい構図」を極力、使わないようにしていたそのスタンスの取り方も一因かなと。
 「強い言葉」を使っての自信溢れる断言は衆目を引くし一見すると頼もしいように思え、「分かりやすい構図」への置き換えは複雑な問題を快刀乱麻を断つが如く解決できる最適解の存在を予感させることができる。

 だが立岩真也の文章は、そんな簡便な「強さ」、単純化した「分かりやすさ」とは離れた所にある。オピニオンリーダーとか論壇の重鎮、とかとも違う独自の立ち位置にあった。
 というか文体もかなり独特で、すっきりストレートとは対極のうねうねした論旨展開を特徴とするんですけれど。それで内容も専門的なもんだから余計に読みづらい。

 一般向けとか青少年向けに入門書みたいなのも書いたりしてるんだけど。難解さは薄れてるけどこれはこれで飄々として、安易に結論を掴ませないような朦朧たる語り口。これはもう生来的な文体なんだなと。
 よく高校・大学入試などで思想家の著書が国語の文章題になって出題されますが、立岩の文章がもし出たら受験生は少なからず苦戦するんじゃないかと思う。

◇増補新版『人間の条件 そんなものない』立岩真也 新曜社 2018年
*旧版はイースト・プレス出版「よりみちパン!セ」シリーズ 2011年



 でもその思想の骨格は今の社会にこそ必要とされる、価値観の多様さの肯定と他者への理解とを促す先進性に富んだものである。
 それは「社会生存学」とも呼ぶべき包括的な倫理学であり、またそれを社会生活上で実地に実現していく事を求める実践論でもあった。

 ずーーっと文章を書いてる人だったみたいだからこれまでの成果は書籍なりネット上の小論考なりにまとめられて、現在も多くが読める状態なのだが。それでも混迷の今の時代にあって、リアルタイムで思考しそれをテキスト出力する主体が喪失したことは無念なことである。

 しかしここ数年、おそらくは令和に入る頃から、立岩の思想に実社会の方がようやく追いつき始めている。
 障がい者を取り巻く環境の変化、より良い生活を求める当事者運動、政府・企業一体となった賃上げの動き、ジェンダー多様性の認知、etc.

 そんな立岩真也の思考や文体の特徴の一つは、「止まることなく流れ続けること」のように感じられる。
 自らの論理展開すら煙に巻くように途中で蛇行して、一つの結論になかなか収斂させない。収束は一時的な答えを出すのには便利だが、そこで考えが止まってしまうことをも意味する。ゆえに1ヵ所に居着かない、結論と見えた所からまた更に細かく話を進めようとする。

 また一つの観点にも居着かない。独善的な思考に陥るのを避けるように、立岩は膨大な取材やインタビューを重ねて数多くの人の意見や視点を集めていった。この人はこう言っている、自分はこう思う、でももっと違う考え方もあるよね。そうして会話とアイロニーを通し、思弁は絶え間なく続いていく。
 性急な断定や断言とは程遠いその連綿たる胡乱なスタイルにこそ、複雑な時代を生きていく上での術の一つ、「生存学」の一技法が示されているのではないだろうか。



○2人が見つめていたもの

 不思議ですね、日本の社会学者の立岩真也とアメリカの哲学者リチャード・ローティ、2人の目指した所は実はかなり近い地点、もうほぼ同じと言える理想だったんじゃないかという気がしてくる。
 2人の活動時期には20~30年くらいズレがあるけどまぁ近い時代の思想家と言ってよく、しかしたまたま日本で今年2月に別々の媒体で特集が組まれただけの拙い共通項しかないとも見える。

 だが、ともに現代社会の実態把握とその実践的改善案を理論面から考え発信していったという道筋が似通っているか。何より、その実践の先に、人が人としてより良く生きていく健全で思いやりのある世界の実現を目指していた、という点が諸々の差異を超えて共通していたのではないか、と思える。
 現代の論客であった2人の思想は同時代人の考え方の道幅をわずかながらも拡張し、これから更に後進たちによってまとめられ用いられて広がっていくことと思う。