2人の江戸研究家、江戸の戯作文化を語る。あと「いい男」の条件とか。 | 高校日本史テーマ別人物伝 時々amayadori

高校日本史テーマ別人物伝 時々amayadori

高校日本史レベルの人物を少し詳しく紹介する。なるべく入試にメインで出なさそうな人を中心に。誰もが知る有名人物は、誰もが知っているので省く。 たまに「amazarashiの歌詞、私考」を挟む。


○申し分なき「いい男」?

 江戸研究家で教育者の田中優子が曰く。



・巻末「いい男の条件」より


(323p)


 江戸にはいわゆる創造者だけでなく、人と人、才能と才能を結びつけるコーディネーターの能力を発揮する人がいて、そういう人々によって才能が見出され、江戸文化が活性化していた。平賀源内、大田南畝、蔦屋重三郎がそういう人々である。

 彼らは「いい男」か? まず、ダンディではない。人目を惹くいい男ではコーディネーターはつとまらない。嫉妬が先に立つからだ。しかし人の心を惹きつけ、楽しくさせ、まわりに人が集まって来るには違いない。

 自然にサロンができあがり、そのなかでこそ本人も楽しい、という人がこの役割を果たせる。なかでも蔦屋重三郎の才能を見る目は群を抜いていて、いわば人間についての目利きである。




 たっ、た、大変じゃあ! 蔦屋重三郎を演じる横浜流星は人目を惹くかなりの「いい男」かもしれない! 大丈夫か横浜流星!?
 田中優子は同じ章で蔦重と関係が深い戯作者・山東京伝も評していて「美男子」であると。そう、現時点の横浜流星であればなんとなく山東京伝の方がピッタリくるやもしれず。


・同『江戸から見ると 1』
(318p)

 歴史学者の西山松之助はかつて、「江戸もの」「江戸生まれ」「江戸衆」など関連する語彙をありとあらゆる文献で調べ上げた結果、山東京伝こそが「江戸っ子」の特性を明確なかたちに典型化した人間だ、と喝破した。


 “粋(いき)” で “いなせ” な「江戸っ子」なら今すぐにでも演じられそうな横浜流星、さて果たして蔦屋重三郎は如何に? いや「いい男」でも全然OKな気もしますが。
 いやいや「いい男」が適格かどうかはさておき、蔦屋重三郎を演じるに当たりまず肝要なのはやはり「才能を見る目」「人間についての目利き」。




 2021年映画『HOKUSAI』にて、ダメ出し→嫉妬と迷い→伝説の画風爆誕、の三段活用。
 大器の片鱗を見せながらも自らの道を見出せずにもがく若き葛飾北斎(柳楽優弥)、彼に同時代の天才たちを引き会わせてその開花を促す蔦屋重三郎(阿部寛)。ここでは鎬を削る才能同士のピリつく接触を通して、各々にしか成し得ない表現を追求させた大人(たいじん)としての蔦重が描かれている。腹を据えて自分なりの表現にたどり着いた北斎への認め方がまた渋い・・っ!

 しかも蔦重の凄い所は、この浮世絵師たちとの折衝と並行して娯楽文学の方面でも数多の文才たちと交渉し大ヒット戯作本を制作していた点。守備範囲が広過ぎる、江戸の町を世の様を市井の才能を、一体どこまで見通していたのだろうか?

* しっかし映画版の喜多川歌麿(玉木宏)は色っぽいですな。確かに美人画の大家ではあるが、玉木宏さんが演じると艷っぽさが増すというか。NHK朝ドラ『あさが来た』の柔和な新次郎役とはまた違ったこちらも大人(おとな)の演じっぷり。


○戯作文化は「無駄」こそ命!

 同じく江戸研究家で、エッセイから漫画まで多様なスタイルで江戸文化の面影を慕った杉浦日向子(すぎうらひなこ、故人)が曰く。



・「江戸・遊里の粋(いき)と野暮」より

(133p)
 草双紙(くさぞうし)は、洒落本(しゃれぼん)、滑稽本、黄表紙(きびょうし)といった江戸の戯作本(げさくぼん)の総称です。

(134p)
 草双紙は、通(つう)と無駄の文学と言われます。無駄というのは、必要のないものという意味ではなく、ナンセンスというニュアンスです。つまり、実用的とか教訓調ではないんです。ハハハ・・と笑いのめして過ぎ去ってしまう風のようなものです。


・「江戸にすんなり遊べるしあわせ」

(78p)
 黄表紙の絵というのは、鳥や獣が武士の格好をしていたり、非常にばかげているんですが、地の文がまた絵を上回るくらいおかしい。「疾走する虚無感」というか、内容が何もないんです。

(79p)
 江戸前の美学というのは、価値観が今と全く違うんです。現代ではマイナスの、お金がないとか、家が狭いとかということもすべて肯定的にとらえてしまう、不思議な社会です。出世しないほうが楽しい、無理して健康より、短命でも自分なりの一生を生きたほうがいいという・・・何も背負い込まないし、等身大の自分の人生を自分の速度で走り抜けるというのが徹底しているのです。
 そういう世界にふれたとき、自分自身が救われた感じがしたんです。私たちはまだまだ周りを気にしていて、逆に自分を見失っていると。


・「黄表紙の面白さ」

(86p)
 私が江戸に入っていったきっかけは、そういった「白っ茶けた」側からでした。思えば資質に合った、仕合わせな出会い方でした。西鶴、近松、(鶴屋)南北に入る前に、春町、(朋誠堂)喜三二、京伝だったのです。
 京伝こと山東京伝は、一九、馬琴と並んで教科書にも出、わりと有名なほうですが、前二者については、ほとんどその名を知られていません。二人は黄表紙の創始者であります。私にとって、江戸の文芸のなかでは、黄表紙が最も気分に合っています。
 黄表紙というのは、大人の読む絵本で、見開きごとに絵があり、その余白に文字がびっしりと書き込まれています。

(87~89p)
 黄表紙の面白さというのは、「肩すかし」の面白さで、たえず、ヒョイヒョイと間をはずすといったリズミカルなものです。決して、グイグイと笑わせるといった親切なものではありません。
 (中略)

 黄表紙から無駄口やシャレを除いたら、あとは単純きわまりない粗筋しか残りません。ストーリーとは関係のないこのムダ部分に作者の苦心があります。
 (中略)

 何が面白いと言われると、やっぱり困るのですが、その他愛なさが値打ちなのです。春町も喜三二も四十、五十の分別ざかり、二人とも侍で、しかも重役クラスのおとーさんです。それが、こんなのを書くわけです。
 読み方については、江戸の草紙類は毎年お正月に発売されます。黄表紙は一冊五丁(10ページ)の小冊子で、次の巻が出るまでまた一年待ちます。ゆっくり読むのは当たり前です。



 好きって言ってるわりには「内容が何もない」とか結構ひどいことを書いているような気もするが、それでも江戸後期の庶民文化を象徴する概念を言い得ているように思う。
 「無駄」と「笑い」。愚にもつかないナンセンスな無駄を愛し、自分も含めてこの世界を笑いのめすサラッとした気っ風。江戸の人々が熱烈に求めたのはそのような気質を形にしたお茶らけた娯楽であった。

 しかし不思議なことに、2人の女性江戸研究家が揃って愛好するのが「恋川春町」「山東京伝」という2人の戯作作家。特に恋川春町は手放しで賞揚している。
 確かに春町、京伝の2人は黄表紙・洒落本の全盛期に文壇を牽引した人気作家であったし、その後の江戸文学に及ぼした影響も大きい。だけど恋川春町に関しては先駆的作品「金々先生栄花夢(きんきんせんせいえいがのゆめ)」の著者であることを差っ引いても、かなり甘い採点をしているような。

 田中優子評して曰く、「創造的な知性とユーモアを持った純粋な人物」。春町が武士階級で本来は誠実な人柄で、また人々に読書を通して栄華の夢を与えた一方で不遇の最期を迎えた、というその境涯に心を惹かれたものか。

 さてもさても、テレビでやんないかな映画『百日紅(さるすべり)』(杉浦日向子漫画原作)。



(お江戸の暮らしは今より便利でもなければ良いことばかりでもなかったろうけど、それでも丁寧で自己にしっかり根差した生き方が、四季の自然の中に息づいてたんだなぁ・・・。)


○駆け出して走り抜けて、すべって転んでまた立ち上がって、辿りついた今日を “無駄” となじるな

⇒ amazarashi『雨男』

〈がむしゃらに駆けた無謀な日々を
 懐かしむだけの飾りにするな
 恥さらしのしくじった過去と
 地続きの今日を無駄となじるな

 心が潰れた土砂降りの日に
 すがるものはそれ程多くない
 だからあえて言わせてくれよ
 未来は僕らの手の中! 〉



 人と人を繋ぎ多くの仲間に囲まれた蔦屋重三郎、その輪の中でも特に親しくしお互いに影響を与え合ったのは、先輩の恋川春町と後輩の山東京伝であったかもしれない。

 恋川春町は武士身分。『金々先生栄花夢』(1775年刊)で既存の草双紙の常識を破り大人向け読み物・黄表紙を創始した先駆者であった。自身で絵を描き文章を添え黄表紙の人気作を次々に発表し、江戸に黄表紙ブームを巻き起こす。
 20代半ばの蔦重がちょうど出版事業に着手した矢先に『金々先生』が大ヒットし戯作ブームが訪れ、それは若き日の蔦重の志に決定的な影響を与えただろう。恋川春町と知遇を得た蔦重はのちに版元として彼の出版物を手がけ、またそのブームの中から次世代の山東京伝らが続々と出てきた。

 山東京伝は絵の修業をして最初は画工から出発するが、非凡な文才を発揮したちどころに作家としての頭角を現した。恋川春町に続く俊英として天明~寛政年間の黄表紙・洒落本の隆盛を先導する。
 早くから吉原の遊里に親しんだことから蔦重のバックボーンとも重なる部分が多く、版元も蔦屋を主として創作にも蔦重の要請や提案を受け入れ、公私ともに親しくしていたようだ。

 江戸中後期の安永~天明~寛政年間に大衆娯楽を席巻した黄表紙・洒落本のブーム、その中心に居た恋川春町・山東京伝・蔦屋重三郎。この3人を打ちのめした一大事件。
 松平定信による1787~93年の寛政改革において行われた文化統制、その出版界における処断者の筆頭3人の名も、恋川春町・山東京伝・蔦屋重三郎・・・。

 幕府による寛政改革の風紀取締りは、まず足下の武士身分の綱紀粛正から始められた。士分の恋川春町は改革を明確に風刺した『鸚鵡返文武二道』(1789年刊)を見咎められ幕府の出頭命令を受けるが、病気を理由にこれを拒否。公職も退いてその年の夏に逝去した。長患いで病床にあったというが、一説には自殺であったとも。

 一方の山東京伝は町人であったため改革当初の取締りは免れていたが、次第に厳しくなっていく統制令に創作活動続行を躊躇していた。そんな中で長年親しく交友し惜しみなく支持後援をしてくれていた蔦重の懇請によって、『仕懸文庫』他の洒落本を教訓本(自己啓発本?)と偽って刊行。
 それが発覚し、遊里での男女の恋愛模様を浮薄に描いた洒落本を公序良俗を乱すものとして問題視を強めていた幕府は、民間への見せしめとしても作者:山東京伝に手鎖50日、版元:蔦屋に家財半減の重い処分を下した。

 山東京伝の方の処分はそんなには重くなかったみたいだが、京伝その人が江戸っ子の割には内向的で繊細な性格の人だったらしく、公の処罰にショックを受けてしばらくぐったりしてたらしい。その間は執筆どころじゃなくて、弟子入りしてた曲亭馬琴がしょうがないから代筆したりしていたと。
(小心者だけど正直な人柄で美男子だったらしいから、通い慣れた遊里ではだいぶモテてたのかもしれない。あらイヤだわ嫉妬心が・・・。)

 蔦屋に対しての方が重い処断だったろう。家財資産は半減。吉原の支店(手代に任せていた五十間道店)は吉原細見の卸小売の株付きで売却しちゃったようだ。これは大きい。日本橋通油町の本店も人員削減などで縮小。
 吉原遊郭も風俗取締りによって活気を失い不況、出版業においてもお上のお咎めを恐れて業界全体が不振に陥っていた。これが蔦屋の経営再建に大きな影を落とす。

 こんなエピソードがある。この頃(1792~93年頃)、十返舎一九と曲亭馬琴が蔦屋方に寄宿し番頭代りとして働いていたと。江戸後期の化政文化を代表する小説家の2人が店番としてフツーに働いてるというのもとんでもない光景だが、もしかしたら居候していたというより、この時期の蔦屋のあまりの苦境を見かねて住み込みで手助けしていたのかも。

 それでも蔦屋の家勢は傾き往時の活況はなかなか戻らない。京伝も改革の嵐が過ぎる頃には再び筆を執ったし蔦重も東洲斎写楽を売り出して起死回生を図ったりはしていたが。
 だが蔦重は諦めない。一度は極めかけた栄華の夢、その夢に破れ甘い幻想から目醒めても、なお夢を追い走り出そうとする。何が蔦重をそうさせたのか?

⇒『雨男』
〈友達の約束を守らなきゃ
 それだけが僕の死ねない理由
 本気で思ってしまった
 笑ってよ、笑ってくれよ!〉

⇒『ヒーロー』
〈そしたら
 絶体絶命の危機の淵で
 起死回生の一撃はきっと
 怒りか、悲しみだ 〉

 敬愛する先達にして友人、恋川春町の死は蔦重にどんな影響を与えた? その死が自死であるならば考えられる原因は、自身が版元となった著作への幕府の詮議である。自責の念と喪失の悲しみか、はたまた自身の無力と理不尽な弾圧への怒りか、それとも再起を誓うきっかけとなるか。この一事は蔦重の行動にどう作用していくのか?

 大河ドラマではそれがどんな風に描かれていくでしょう。
 あとついでに、このキーパーソンとなることが予想される恋川春町/山東京伝の配役は誰になる? 今からあれこれ空想が尽きませぬ。

 それにしても amazarashi『雨男』の歌詞って、寛政改革の筆禍に遭った直後の蔦屋重三郎の心境を強く暗示しているような気がするんですよねぇ。

⇒『雨男』

〈心が潰れた土砂降りの日に
 すがるものはそれ程多くない
 だからあえて言わせてくれよ
 未来は僕らの手の中!〉

〈土砂降りの雨の中、
 ずぶ濡れで走って行けるか?〉



○思い入れある「邯鄲」を


 ああっ、すいません横浜流星さん、“雨男” “雨男”って連呼して古痕をえぐってしまって! 

 ところで記念イベントに寄せたウェブ記事(上置サイト内)にも書いてありますが、映画『ヴィレッジ』においては能の演目「邯鄲」が作品全体に通奏する大事なテーマとして据えられていました。


「撮影前から能に向き合い人生を思いながら舞う」

 本作を屋台骨として支えるのが「能」だ。能面を見つめ、怒りや苛立ちといった感情を内に押し留める優を演じる上でも能は大事な手がかり。横浜さんは、この伝統芸能にも真摯に向き合った。撮影に入る前に共演者らとともに能の舞台を鑑賞し、能楽師に教えを乞い、撮影中もオンラインで指導を受けた。横浜さんが「優の人生そのもの」と語る能の演目「邯鄲」を舞うシーンでは、頭の中で優の人生を回想していたそうだ。



 この「邯鄲(かんたん)」の物語こそは大河ドラマ『べらぼう ~蔦重栄華乃夢噺~』においても、その「栄華の夢」に当たる基幹テーマとなるのではないかと予想している。
 しかも能の演目「邯鄲」そのままの筋ではなく、これを江戸の戯作者たちがこぞって取り上げ換骨奪胎し滑稽化した、いわば「邯鄲」のパロディー版が蔦重の「人に夢を売る」人生を決定づけるのではないかと。

 横浜流星が深い思い入れを持って演じた『ヴィレッジ』の主人公、その人生の写し絵とも言える「邯鄲」。それを引き受けつつ後世に娯楽化し軽妙洒脱な読み物とした「栄華の夢」。これは何かの縁か。
 いやむしろ、「邯鄲」を柱石とした『ヴィレッジ』で主演を張ったからこそ、何らかの不可思議な力に導かれて『べらぼう』蔦屋重三郎とその時代へと引き寄せられたのではあるまいか? なればなおさら運命的な奇しき縁と言えよう。


○大河『べらぼう』のキーワードは「夢商い」と「無駄」=「遊び」?



・「第三章、弱さの思想を育てよう/敗北と無駄を抱きしめる」より

(159p)
辻信一:
 それから、「無駄」について。ぼくらはいつのまにか、結果の出ないものは全て無駄であって、やること、やったことに意味がないと思うようになってしまった。それってつまり、遊ばなくなってしまった、ということでしょ。遊びって、何か結果を出すためにやるわけじゃない。だからこそ遊びは遊びなんだから。
 でも、日本の大人たちは子どもたちにいつも言っている。「そんなことやってなんの意味があるんだ?」とか、「そんな意味のないことなんか止めなさい」とか。
 しかし、よく引用される梁塵秘抄の「遊びをせんとや生まれけむ、戯れせんとや生まれけむ」のように、古来から遊びにこそ人間の生きる意味があると多くの人々が考えてきた。



 たとえ「無駄」だとしても自分が面白いと思った所にこそ精力を傾け、結果を気にせず全力で取り組む「遊び」。宵越しの銭は持たない江戸っ子の心意気、ならば何を価値とするかというと、それが今この瞬間を大事にする気負いのない「遊び」の感覚なのではないだろうか。
 そして「夢」。ハテどこに書いてあったか、江戸の人々には「 “この自分” は唯一絶対ではなくて、たまたま “この世” に生まれ落ちて生きている、たくさんの可能性の中の一つだ」という生命観に憧れる心があったんだと。
 そこで「夢」は自分がなり得たかもしれない他の可能性を垣間見る空想の舞台、もう一つの人生を体験する一場の演劇として機能した。

 そこに知的でコミカルな「夢」を人々に売る商い、「夢商い」が登場する。
 それは江戸中後期においては大衆娯楽の戯作本であり、浮世絵であり、川柳・狂歌であり、芝居であり、講談であり、謡曲であり、各種道楽であり、それらを提供した貸本屋であり、戯作者・絵師であり、版元であり、役者・劇作家であり、道楽の師匠たちであった。

 その中でも最大級の渦の中心に居た蔦屋重三郎。どんな人間観を抱き、どんな思想を持ち、どんな理想を掲げていた? 史実はがっちり固まっているようでいて、ドラマを通して伝えたいメッセージや描かれる人間模様によって、これから如何様にも変化しうる蔦屋重三郎のキャラクター像。
 さて果たして「べらぼう」で「いい男」で、人との出会いと別れを繰り返し酸いも甘いも噛み分けた「人間についての目利き」“蔦屋重三郎” 、横浜流星はどう形作っていくのか?

 願わくば世知辛い “憂き世” を超えて軽やかな “浮き世” の存在を感じさせるような、日々を過ごす縁(よすが)となり人生を生き抜く力を与えてくれる「夢」、致命的な挫折をすら笑い飛ばす痛快な「栄華の夢」を見せてほしい。




【 杉浦日向子と親交のあった評論家・佐高信(さたかまこと)との対談より 】

(68~71p)

佐高:
 権力者を茶化して、手鎖の刑を受けた人がいましたよね。
杉浦:
 黄表紙作者の山東京伝の五十日間が有名ですね。他に幕府からお咎めを受けた恋川春町も有名です。恋川春町は、幕府が蝦夷地の交易でロシア関係と密貿易をしていたのをすっぱ抜いたんです。
佐高:
 権力者はたいてい表と裏で違うことをやっている。
杉浦:
 表裏の落差が激しくて、人民には正しいことをしろと偉そうに訓示を垂れますが、裏ではやりたい放題、自分の地位の保全しか考えていない。
佐高:
 そういう相手には横攻めのテクニックが大事ですね。

杉浦:
 山東京伝は遊郭の吉原を舞台にした作品が多いんです。実は吉原は官官接待の舞台にもなっていて、京伝はそれを書いた。行政側にとってはそういうこともチクチク来たんでしょうね。
佐高:
 山東京伝はどういう人なんですか。
杉浦:
 家業の小間物家をやりながら黄表紙を書いていた根っからの町人です。書かないと食えないというわけでもないので、けっこう過激なことをやっていたようですね。
 でも手鎖の刑を受けてから作風が変わってしまいました。命をかけてまで書くというほどでもなかったようです。
 町民出身の作家より武士出身の作家のほうがきつかったかもしれません。恋川春町は、(駿河)小島藩の留守居役を務める武士で、外交官として知り得た裏の情報をみんな書いてしまって、不審な死を遂げているんですね。切腹させられたのかもしれません。

佐高:
 彼らが書いた黄表紙を江戸の庶民たちは歓迎したんですか。
杉浦:
 庶民と、旗本・御家人といった使われているクラスの武士たちが快哉を叫んだようです。かゆいところをかいてくれたというような・・・。
 江戸の笑いがすぐれているなと思う点は、相手を一方的に笑う、あるいは一方的にさげすむのではなくて、自分も笑われる側に身を置いて、こんなおめでたい世の中だからおれも食っていけるんだというような開き直りがあるところです。
佐高:
 自分も手は汚れている。真っ白けじゃないんだ。しかしそれにしてもちょっとひどいよなという感じ。
杉浦:
 人を好きになる時に欠点を含めて享受しなければいけないわけですから、そういう腹の据え方はあったようです。それが笑いの質の高さになると思います。
佐高:
 そうすると江戸の笑いとは、相撲のかわず掛けみたいなものかな。
杉浦:
 うっちゃりですよね。自分も一緒に倒れこむ(笑)。ただし、くそまじめな刺し違えはだめ。まじめイコール野暮、野暮に価値のない時代ですから(笑)。

 (~中略~)

佐高:
 いま、笑いというのはどんどん少なくなっているようですが。
杉浦:
 笑いがどこから生まれるかというと、だます、だまされる、あるいははずす、こける、落っこちる、というようなところからだと思うんです。どつぼにはまらないでつぼの縁をくるくる冷やかしながら中をのぞき込んで、ときどき石を投げたりしている感じ。
佐高:
 ボクシングでいうとアウトボクシングというか、足を使って逃げながら、カウンターを当てるようなものだ。
杉浦:
 現代に笑いが少ないのは、失敗してはいけないんだということを子どもの時から教えられていることが原因なんじゃないでしょうか。失敗して当たり前なんだというふうに育っていかないと笑えないですよ。



 


 う~ん、なんとなく黄表紙とか洒落本とかって戯作文学に片寄ったような気がするんで、最後に江戸後期の浮世絵事情にも触れておきましょう、と提供映像に頼ってみたり。しかもこれはこれで葛飾北斎に片寄ったし・・・。
(2021年公開作品だからこれもそろそろテレビでやんないかな?
 映画『HOKUSAI』。)



 むうぅ、老北斎・田中泯さんのアップがド迫力すぎて今まで説明してきたことがぜんぶ霞んでしまう・・っ!
 やっぱり最後はこっちの浮世絵プチ情報で絞めときやしょう。



・「浮世絵」(14~16p)

 写真が発明される以前の日本では、浮世絵が唯一のビジュアルメディアだった。
 いまでは立派な美術品あつかいだが、そもそも浮世絵は、複製を多部数刷ることを前提にして、成り立つ情報媒体であり、ウケることならなんでもやる、テレビのバラエティー番組ばりのノリが、身上なのだ。
 色彩、構図、描線等の、芸術的評価は、後世の人間のお節介というもの。当時は、世間の評判を得て、一気にたくさん売って、勝ち逃げするのが、最高の栄誉だった。

 政治風刺から、天災、事件、事故、芸能情報、きわどいスキャンダルまで俎上に載せ、エンターテインメントとして組み立て、鮮やかに魅せる。粋(いき)で、お洒落で、贅沢な、プロ集団のお手並みが、存分に発揮される。
 絵画として見てしまうと、絵師の名ばかり云々されるが、実際は共同作業の工房だ。プロデューサーである版元を核に、絵師、彫り師、刷り師がヒットを狙って画策する。浮世絵からは、いつも時代の最前線の風が吹いてくる。

 浮世絵は「江戸錦絵」と呼ばれ、江戸の特産品でもあった。重くなく嵩ばらず、故郷への土産にうってつけだ。いま江戸で何が流行っているのか、一目でわかるから、帰郷の際の話にも花が咲く。人気のスターやアイドルのファッション、話題のスポット、噂の数々がてんこもりに詰まっている。