べらぼうなものにはべらぼうなものを、横浜流星が試される『蔦重(つたじゅう)』! | 高校日本史テーマ別人物伝 時々amayadori

高校日本史テーマ別人物伝 時々amayadori

高校日本史レベルの人物を少し詳しく紹介する。なるべく入試にメインで出なさそうな人を中心に。誰もが知る有名人物は、誰もが知っているので省く。 たまに「amazarashiの歌詞、私考」を挟む。


○読売新聞 4/29(土)朝刊
 1面「編集手帳」コラム


◆名声にはふしぎな一面がある。生前に認められなかった画家や作家、音楽家は数知れない。哲学者ベーコンいわく、〈名声は川のようなものであって、軽くてふくらんだものを浮かべ、重くてがっしりしたものを沈める〉
◆ゴッホでさえ評価する画商は一人もいなかったというのに、重くてがっしりしたものを見る力のあった人物が日本の歴史にいる。2025年のNHK大河ドラマが、江戸中期の浮世絵の版元・蔦屋重三郎を描くという。
◆喜多川歌麿や葛飾北斎らを見いだし、謎の人物である東洲斎写楽をスター絵師に育てたことで知られる。
◆写楽はいったい誰なのか。蔦屋とどんなふうに交わるのか。歴史ファンも物語が気になるところだろう。主演は横浜流星さん。大河ドラマ「おんな城主 直虎」を手がけた森下佳子さんがオリジナルの脚本を執筆する。
◆NHKの発表後、ソーシャルメディアでは「蔦屋重三郎って誰?」がトレンド上位に入った。浮世絵はゴッホら西洋美術にも影響を与えており、版元としての蔦屋のプロデュース力も無関係とは言えまい。功績のわりに名声は沈みがちだったかもしれない。




 このたび発表された2025年大河ドラマの概要。タイトルは『べらぼう ~蔦重栄華乃夢噺(つたじゅうえいがのゆめばなし)~』、主人公は江戸中後期の出版王・蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)!

 

 この公式発表に巷はザワついた、色んな意味でね!

 まず主演は横浜流星! NHKへの出演がいきなり大河ドラマ主演という大抜擢。時代劇では先頃に舞台『巌流島』に登演していたが、荒事を主とする剣豪とはまた違った色合の江戸期の文化人という配役でも大きな挑戦となることが話題に。

 それに輪をかけて世間を驚かせたのは、「蔦屋重三郎って誰?」という疑問符だ。日本史界隈(?)では文化人としてそこそこ有名な人物なのでよしんばどんな人物かを知っていても、まさか蔦重を大河ドラマのしかも主人公に据えるとは、という二重三重の驚きがメディアを賑わせている。

 そう、主人公=蔦屋重三郎のチョイスが完全に浮き世の不意を突いたのである!

 かく言う私もびっくらこいた。日本史用語として知識はあるし、2019年歴検日本史1級の記述問題でも出題されたから記憶にも新しい。でも「大河ドラマの主役」としてはどうか? より詳細な情報、生々しい人間像を描けるほどにその生涯を知っているか?、と問われれば甚だ心許ない・・・。

 蔦屋重三郎とはいかなる人物か、その生まれ生い立ち、性格気質、好むところ嫌うところ、どんな人に出会いどんな別れを経験したのか、何を目指し何を手に入れたのか、そしてどのように世を去ったのか?
 大河ドラマは言わずもがな一年がかりの長丁場、ゆえに通り一遍の知識ではその十分の一の物語展開にすら迫れないだろう。

 蔦屋重三郎とは何者か、江戸の世をいかに生きたのか? もっと知識を、もっとデータを!

 いえね、歴史・時代小説の分野では蔦重はちょいちょい登場してるんですがね、色んな作家さんが取り上げて配役も主人公から脇役まで幅広く。でもそれ以外のジャンルではあんまり扱う人がいないらしくって、漫画で検索したら近年ではこんな作品があるくらいかと。「まんがタイムジャンボ」誌連載で内容がちょっとファンタジー寄り、でも蔦屋重三郎の仕事や交友関係の説明はしっかり為されている。



 う~~ん、でももっとこう詳しくかつ分かりやすく、蔦屋重三郎の人となりの概形を教えてくれる格好の資料はないものか?
 こんな風に困った時は、かの有名な超高性能AI搭載ロボットに恥も世もなくすがりつきましょう!

 Hey、ドラえも~~~んっ!!


 うん? ダメ元で聞いてみたらちゃんと答えが返ってきた、さすがだぜ未来の世界のネコ型ロボット!


◇『ドラえもん探求ワールド 本の歴史と未来』115pより

【江戸時代のスーパー編集者・蔦屋重三郎】

 編集者の基本の仕事は、ヒットする本の企画を立てて、ライターやイラストレーターなどいろいろな分野のプロを集めて本をつくること。でも、それだけじゃなく、アマチュアから未来の人気作家を発掘して、プロへと育てる「作家のプロデュース」も、同じくらい大事な仕事なんだ。今から200年以上前、本が売り物になり始めた江戸時代にも、ヒット本を生み出し、人気作家を世に送り出したスーパー編集者がいた。それが蔦屋重三郎という人だ。

 重三郎は、江戸の吉原で生まれた生粋の江戸っ子。出版業を始めると、大人向けの絵物語の黄表紙(きびょうし)などの本や錦絵(にしきえ)を売り出してたくさんのヒットを飛ばした。付き合いのあった作家や絵師を自宅に住まわせて彼らをお世話しながら、斬新な企画を実現させ、新人をデビューさせたんだ。

 重三郎がプロデュースしていた作家は数多く、当時大人気の戯作者(げさくしゃ)の山東京伝(さんとうきょうでん)、のちに『南総里見八犬伝』などを書く曲亭馬琴(きょくていばきん)の作品を出版。彼らの黄表紙や読本(よみほん)は多くの読者を魅了した。
 さらに、新人の育成でも、「喜多川歌麿」「東洲斎写楽」という江戸時代を代表する二人の絵師を世に送り出している。彼らが描いた錦絵は、歴史の教科書などでもおなじみだ。

(掲載写真解説)

・人気役者の首絵「市川蝦蔵(いちかわえびぞう)の竹村定之進」。作者は人気浮世絵師の東洲斎写楽。写楽は、重三郎が発掘した新人だった。

・女性の表情を描いた首絵『婦女人相十品』より「ポッピンを吹く娘」。喜多川歌麿が描いた錦絵の1枚で、これも重三郎が出版して世に出した。

・重三郎が出版した、山東京伝の黄表紙『盧生夢魂其前日(ろせいがゆめそのぜんじつ)』。中国の有名な故事のパロディだ。




 つまり蔦屋重三郎なる人物、「版元であり編集者であり斡旋人であり文化人庇護者」=「パブリッシャー兼プロデューサー兼エディター兼パトロン」。一筋縄ではいかない巨大な才覚、あるいはそれを超えた煮え滾る熱情を感じさせる多彩な肩書。



◇『ドラえもん探求ワールド 本の歴史と未来』78~79p要約

【平和な江戸は出版天国!】

「貸本屋のおかげで庶民も本が読める時代」

 平和な世の中になった江戸時代は、木版印刷による印刷業も盛んになった。
 17世紀後半になると、「貸本屋」という本のレンタルショップも誕生した。買うより借りるほうが安いので、庶民が気軽に本を読める環境ができあがったんだ。このあたりから庶民文化が一気に花開く。恋愛や仕事やお金のことなど、世の中のことをリアルに描いた「浮世草子(うきよぞうし)」というジャンルの小説が大流行。有名作家によるベストセラーが次々生まれた。さらに「どこのお茶屋がおいしい」といったランキング記事(番付)や旅行ガイドブックのような本も出版されたよ。

 「絵が主役!」

 江戸時代は木版画が発達したため、文字と同じく絵もたくさん刷れるようになった。絵のモチーフは富士山の風景や、人気役者の似顔絵などさまざま。今なら絵葉書やアイドルグッズを買う感覚に近いかな? 世界的に有名な「浮世絵」が登場したのもこのころだね。



 「本の歴史と未来」と謳うだけあって江戸期の出版事情についてもサラっと触れている。(たまに歴史のウンチク語り出すよねドラえもん。)

 戦争が起こらず生活が安定した江戸中期は読み物にしても版画にしても、印刷技術の発達と庶民の識字率向上とが相まって空前の出版文化が花開いた時代であった。貸本の登場と市民同士の文化交流が更なる活性化を促し、江戸時代以前には上流階級と知識人のみが専有していた文化教養の楽しみが広く一般階層の人々にも行き渡り日本史上初の大衆文化が成立した。
 その流れの結節点でありマルチメディアの発信者にして文化人の受け皿、移り気な江戸町民に矢継ぎ早に新しい娯楽を提供し続けた仕掛人。それが蔦屋重三郎という人である。
 ねっ、一筋縄じゃいかなそうでしょう?

 では更に詳しいプロフィールを求めて、今度はこの方に呼びかけてみましょう!

 アラマタえも~~~んっ!


 うん、返事はありませんね。でも構わずに蔦屋重三郎を紹介しているページからそのまま引用しちゃいましょう。


◇『アラマタ人物伝』98~99p

「蔦屋重三郎」(1750~1797)
ベストセラー連発の出版プロデューサー

【PROFILE】
 江戸の生まれの出版業者。本屋からはじめ、山東京伝、曲亭馬琴、十返舎一九らベストセラー作家を売りだす。喜多川歌麿や東洲斎写楽など、浮世絵師も世に出した。日本の出版業の先がけといえる。

【人物伝】
 全国、どこにいっても目にするCD・DVDレンタルのTSUTAYA。その社名は、江戸時代を代表する出版業者・蔦屋重三郎の名にあやかったものなのだそうだ。
 その蔦屋重三郎という人物は、江戸時代なかばの庶民文化を花開かせた、今でいう腕ききの出版プロデューサーだった。24歳のとき、江戸の町で本屋を開き、才能のある若い作家をさがして本を書かせた。そして、庶民向けの娯楽本をつぎつぎにヒットさせ、江戸を代表する出版人となっていく。
 重三郎がデビューさせた山東京伝、曲亭馬琴、十返舎一九らは、のちに一流のベストセラー作家となった。それだけではない、浮世絵師の喜多川歌麿を育て、「美人画の歌麿」として大成させたりもした。

 ところが、絶頂期ともいえる1791年、重三郎41歳のとき、とつぜんピンチがおとずれる。老中・松平定信による「寛政の改革」のひとつとして風紀の取りしまりが行われたからだ。京伝の本が、世の中に悪影響をあたえるとされてしまったのだ。
 京伝は手鎖(てぐさり=手錠をかけられて自宅から出ることを禁止される)50日の刑に処せられ、重三郎も財産の半分をうばわれてしまう。しかし、それでも重三郎はめげなかった。

 そして3年後の1794年5月、機会をうかがっていた重三郎が発表したのは28枚の浮世絵。当時、江戸で上演されていた歌舞伎の役者をえがいたものだ。作者の名は東洲斎写楽。その後、およそ9か月の間に、相撲取りの肖像画もふくめて合計140点あまりを売りだした。

 しかし、マンガ的で誇張された画風は、じつはあまり受けなかった。のちに欧米で高い評価を受けたことによって、大正時代に日本でもようやく関心が高まったのである。また、写楽の作品が世に出たのはあまりにも短期間だったため、どんな人物だったのかは、ほとんどわからず、今でもナゾの浮世絵師といわれている。

【重三郎と関わりのある同時代人】
 浮世絵師・喜多川歌麿
 作家・十返舎一九
 浮世絵師・葛飾北斎
 浮世絵師・東洲斎写楽
 作家・山東京伝




 ドラえもんとアラマタえもん(?)のお蔭で蔦重の基本的情報はだいたい揃ってしまった感があるが、まあ蛇足ぎみだけど改めて蔦屋重三郎の来歴を簡単に紹介しておこう。


○蔦屋重三郎 略伝

 江戸中・後期の江戸の本屋、版元。江戸生まれの吉原育ち。1750年生~1797年没。
 色街である吉原に育ち、って時点でだいぶ特殊な生い立ちのような気が。「吉原」ってかなり限定された区画の立地なんで、他の町で育ったのとは少なからず異なる少年時代を送ることになるだろうか。
 舞台としても吉原はただの色街・歓楽街ではなく、江戸の様々な階層の人々の社交場であり全国から人が集まる観光地でもあった。とにかく色んな人が居る。遊郭の遊女はもとより妓楼の差配人に奉公人、遊びに通う士分や町衆、遊び人に旅人、その需要を当て込む商売人たち。たぶん色と欲と趣味と揉め事と小さな悲哀とでゴチャゴチャしている繁華街で蔦重は育ったのだろう。

 20代前半の1773年頃に同地の借店で本屋を開業、出版事業にも乗り出し吉原の案内書である「吉原細見(よしわらさいけん)」を発行する。
 「細見」とは詳細な地図のことだが「吉原細見」は吉原遊郭の案内パンフレットである。この地図入り案内書が1730~1880年頃に年間数冊も刊行されたため遊郭案内の代名詞となった。各店一軒ごとに遊女の名前と階級を示し、巻頭の料金相場表と対照すれば遊興費が概算できるなど工夫が凝らされていた。これに参画し編集改訂に携わったのが蔦重の出版業の第一歩であるらしい。
 1770年代、20代の青年蔦重はこの吉原を拠点に吉原細見を始めとして徐々に流通網を広げ、繁華街の中での情報発信基地の基盤を築いていく。

 30代に入った1780年代には更にビジネスを拡大、扱うジャンルも吉原細見・浄瑠璃詞集・黄表紙・洒落本・往来物(学童教科書)・狂歌絵本など多岐に及ぶ。
 1783年には老舗店や有名商店がしのぎを削る一等地、日本橋の通油町(とおりあぶらちょう)へと進出する。じゃあ吉原の店舗はどうなったかというと、拙の勉強不足でよく分からない。たぶん吉原店での営業も継続して行われてたと思うんですけどね。

 で、いよいよ版元として力をつけてきた蔦重のもとにはますます多くの人の縁が集まっていく。出版にまつわる職人たち、当時の印刷形態で「版木(はんぎ)」を作るのにも「文人or絵師/彫師(ほりし)/摺師(すりし)」の各工程の技術者を抱えておくのはもとより。
 蔦屋重三郎のプロデューサーとしての出色は各分野のクリエイターたちをベテランからルーキー、武士や町人や役者まで、幅広く採用し売り出したことにある。

 年長者には懐に入り込んで制作を依頼し、同年輩には志を共にして新たな趣向の作品を生み出す輔けとなり、年下の未だ無名の新人たちには時に自分の家に住まわせて面倒を見ながらその才能の開花を見守る。
 出来上がった作品に対しては「作料(さくりょう)」を支払って(もしくは前払いして)作者の生計を確立させ、それまで兼業が多かったクリエイターたちが創作に専念できる専業作家の道を後押しした。これも蔦重の画期的な業績の一つ。

 ゆえに「蔦屋」はそのような重三郎のもとに集まってきたユニークなクリエイターたちや斬新な発想をもつ技能者たちの集まる場、知的サロンともなっていった。あとで一覧にするけど、ホントに江戸後期文化の錚々たる顔ぶれが蔦屋のサロンで意見交換や厚誼を結んでましたんで。若き日の大作家が素寒貧で居候してた、ってエピソードも多いし。
 また蔦重自らも大田南畝ら江戸の文化人と交流し狂歌作家としても活躍している。ただ人を差配し人と人との縁を取り持つだけでなく、自ら制作の現場に飛び込むことで当世最先端の流行の機微を掴もうとしていたのだろう。

 その姿勢から緻密な仕掛人というよりは前のめりな先取の気概の人、というイメージが浮かぶ。
 そんな情熱で手がけた戯作小説や浮世絵の出版が時好にかない、江戸で一、二を争う地本(じほん=江戸版の書物)問屋へとのし上がった。

 しかし1787年、商業を重視した田沼意次に替わって松平定信が老中首座に就くと風向きがにわかに変わる。質素倹約を旨とする寛政の改革の諸政策は江戸経済を停滞させ、厳しい風俗統制は芸能界を萎縮させただけでなく出版業全体にも及ぶ。
 その頃の蔦屋はといえば本格的に浮世絵分野に乗りだし喜多川歌麿を売り出して人気絵師へと押し上げていた。時流に乗った狂歌絵本もヒットして押しも押されもせぬ一大版元に。

 そこに一大事、1791年(寛政三年)、幕府の風紀取締りに山東京伝の洒落本が引っ掛かって刑罰を被る。その版元である蔦重も家財半減の処分を受け資本力を減退させた。
 この寛政改革の出版統制によってそれまで作家の大きな割合を占めていた武士階級で執筆から手を引く者も増え、江戸文化全体が一時的に停滞する。

 改革の嵐が吹き荒れた苦難の数年間、だが推進者の松平定信は93年に失脚、懲りずに蔦重も再び精力的に動き出す。
 94年には謎の新人「東洲斎写楽」を電撃デビューさせ短期間で膨大な作品を世に送り出した。まあこれは当時はイマイチ世間受けしなかったみたいだけど。
 蔦屋の営業においても取扱い出版物の全国流通を図るなど更に意欲的に事業展開。

 ところが勢いを盛り返していた半ばの1797年、脚気(かっけ)で突然にこの世を去る・・。
 ・・と、いう所で蔦重の物語は終わらない。

 蔦重の一回り二回り下の世代、文名が上がらなくて蔦屋に転がり込みサロンで先輩作家たちの薫陶を受けながら習作を重ねていた作家・絵師たちがいよいよ輝きだす。葛飾北斎、十返舎一九、曲亭馬琴。今日に「江戸文化」と聞けば筆頭として名前が挙がる偉大なクリエイターたち。
 更には蔦重がその隆盛に大きく貢献した「浮世絵」、それは19世紀日本文化を代表するとともにのちに海を越え、西洋美術にも少なからぬ影響を与えたものである。
 江戸中後期の特に大衆文化の発展と結実とに巨大な足跡を残した蔦屋重三郎の事績。その跡を辿れば辿るほどに判明する、文化人・芸術家を惹きつけ、縁しをつなぎ未知の創作へと導く異形の人間力。

 果たして横浜流星、この巨大にして茫洋たる異彩の人物を現代に現出せしめること能うや、能わざるや?
 役者としての大抜擢であると同時に20代後半に訪れた大きな大きな試練でもある、その役作りを楽しみにしておきましょう。(いや人気俳優だから、同時期に他作品の撮影も重なってけっこう修羅場になってるだろうけども。お体には気をつけてね~!)


 ・・とまあ、ドラえもんとアラマタえもんが大筋をあらかた紹介してくれてたもんだから、特段つけ加えるデータもそんなにないや。
 もっと詳しく蔦重の生涯を追いたいって方はこちら↓の「和樂web」の記事をどうぞ。



○ 18世紀(1700年代)後半

 では続いて蔦重が躍動した時代、その生涯が1750~1797年であるから1770~1800年頃、おおよそ18世紀後半の日本史の大きな出来事を編年体でまとめてみましょう。この時代は高校日本史とかでもちょっとフワッとしたマイナーになりがちな所なもんで。

1767.田沼意次、側用人になる(田沼政治の開始)
1772.田沼意次老中に、各種産業で株仲間を公認
1772.明和の大火(目黒行人坂の大火、江戸三大火事の一つ)
1774.杉田玄白・前野良沢ら『解体新書』を刊行
(1775~.アメリカ独立戦争、アメリカ建国)
1782~1787.天明の飢饉(東北地方冷害)、打ちこわし(大坂・江戸)
1783.浅間山の大噴火
1785.最上徳内ら蝦夷地周辺調査
1786.老中田沼失脚
1786~1787 関東大洪水、飢饉
1787.天明の打ちこわし
1787.松平定信老中首座、寛政の改革開始(抑圧的な改革の一環で厳しい文化統制、筆禍に発展)
(1789.フランス革命)
1792.ロシア使節ラクスマンが根室に来航、漂流してロシアに滞在していた大黒屋光太夫が帯同し帰国
1793.松平定信が老中を解任され寛政の改革終わる

 政治的には田沼時代と松平定信の寛政改革、天災としては江戸大火と浅間山噴火と天明の飢饉その他の自然災害、鎖国下ではあるが遠いアメリカ大陸の独立戦争と欧州の王政打倒革命さらにはロシアの日本接近、また文化面では江戸大衆文化の開花と出版業の隆盛。
 特に「花のお江戸は八百八町」に絞ってみると、文化の主流が上方(大坂・京都)から江戸へ、また印刷物の普及と基礎学問習得によってより多くの庶民が情報発信とその享受の両面に関わることができる大衆メディア時代を迎えていた。
(現在のネット環境の恒在化とソーシャルメディアの普及、コンテンツの多様化と総配信者化という状況に少し似ているかもしれない。)

 また銘記すべきは1780年代全般にわたる自然災害と飢饉の頻発。全国規模でこれらが発生して局地的に酸鼻を極めた惨状を呈する地方もあり、将軍のお膝元である江戸でも被災や打ちこわしの発生、周辺地域からの流民の流入で百年の泰平を打ち破る不穏な空気が満ち満ちていただろう。欧州で黒死病(ペスト)が流行った時のように一時的に厭世観や刹那的享楽主義が蔓延していたやもしれず。
 その民衆の厭世気分やら快楽主義、憂さ鬱憤晴らしや超現実の夢に興じる手段の一つは確かに娯楽作品であっただろう。

 この後にもちょいちょい出てくるんで、ここらでその当時の戯作(娯楽読み物)や文学作品、浮世絵にまつわる用語を簡単に説明しておきましょう。吉原細見は先述したとして、

・戯作(げさく)文学・・ 
 江戸時代中期以降に江戸で発達した通俗文学の総称。黄表紙・洒落本・人情本・読本・滑稽本などをいう。

・草双紙(くさぞうし)・・
 江戸中期以降に刊行された絵物語。各ページの大きな絵と平仮名主体の文章による通俗的な読み物。表紙色が赤本・青本・黄表紙とあり、内容も子供向けから大人向けまで表紙色で区別した。厚さも初期の短編から19世紀には合巻(ごうかん)へと大型化。

・黄表紙(きびょうし)・・
 大人向けの絵入り物語。現在の青年誌マンガとラノベの中間、あるいはイラストムックに近いか。内容も庶民向けで読みやすく、調子が良いというかけっこう巫山戯た享楽的なノリが多かった。寛政改革の弾圧で一時沈滞。
 在りし日の江戸の風俗をこよなく愛した文筆家の杉浦日向子はこの黄表紙を江戸文化の結晶と称えており、所蔵の一綴じを旅先にまで持っていって気軽に読んでいたそうだ。

・洒落本(しゃれぼん)・・
 遊里文学。遊里での通人の遊びや遊女の恋愛模様を描く。これも寛政改革で摘発された。

・滑稽本(こっけいぼん)・・
 これはそのまんまの内容、ではあるが市井の生活風景を克明に描いて歴史資料としても重要。

・狂歌(きょうか)・・
 笑い、皮肉を主眼とした定型歌、五七五七七の和歌形式。同じく五七五形式の俳句を庶民化滑稽化させた川柳に少し遅れて流行した。古典のパロディーや政道に対する風刺批判の歌などがある。歌会で詠まれた歌を採録した狂歌本の出版には絵入りの体裁がとられた。

・読本(よみほん)・・
 長篇伝奇小説。挿絵が少なく文章が主体だった。

・錦絵(にしきえ)・・
 多色刷りの版画浮世絵。1765年に鈴木春信が多色摺技法を考案して美人画を出してから流行。改良が重ねられ色彩や発色もより鮮明化していった。

 さて次は大河ドラマ『べらぼう ~蔦重栄華乃夢噺~』に出てきそうな登場人物の見当でも試みにつけてみましょう。山師の勘ではごぜぇますが。


○18世紀後半、蔦屋重三郎に関係してきそうな日本史人物たち。

 基準は「1770~1800年頃に活躍」した「江戸生まれ/江戸在住/全国的に有名」のいずれかで「政治/商売・出版・芸術」のジャンルで蔦重と絡みそうな人物、もしくは接触させると面白くなりそうなキャラ。
 ※( 、)は名前の読みと生没年ね。

◇政治家

・田沼意次(たぬまおきつぐ、1719~1788)
 小姓役から成り上がった大物政治家。実利を重視し商業を振興したことで、蔦重前半生の商売人としてのし上がっていく時期の世相に影響を与えた。

・松平定信(まつだいらさだのぶ、1758~1829)
 寛政の改革の指導者、文化統制がモロに蔦重に打撃を与えた。意外や蔦重よりも年下で、血統の良さと学識の高さで若くして老中首座となり改革を断行する。身分が違い過ぎて直接対決はしないだろうが、版元蔦屋の出版物の摘発が江戸市中への見せしめであったならば意識はしていただろう。定信が頑迷に清廉の世を目指したことから目の敵というか天敵扱いはしそう、お互いに。


◇文人・絵師(生年順)

・平賀源内(ひらがげんない、1728~1779)
 ご存知、江戸時代を代表する多芸多才なマルチクリエイター。科学者として有名だが後半生は物書きとして色んなジャンルに手を出していた、その一環で蔦重が参入した時期の「吉原細見」に序文を寄せたり。
 史実として深い交流があったかは分からないが、ドラマ仕立てにするなら必ず蔦重に絡ませるだろう1世代上の大先達。青年蔦重にマルチメディア展開の醍醐味という種を植えつけて散っていくか?
(当人は器用貧乏で多才を生かしきれずに横死するんだけど・・。その交流がのちの蔦重の総合出版体制の構築と文化人の庇護姿勢に寄与した、とかね?)

・恋川春町(こいかわはるまち、1744~1789)
 戯作者・狂歌師・浮世絵師。江戸生まれ。この時代の文化人は多芸で作家兼絵師、絵師修行のち作家みたいな人がちらほら居たらしい。恋川春町もその一人で、創作した文章に自分で絵を付けて原稿を完成させることができた。その文・絵を融合させた黄表紙の祖と目される。
 寛政の改革に際してそれを直截に諷刺した著作『鸚鵡返文武二道(おうむがえしぶんぶのふたみち)』が当然のごとくお上の逆鱗に触れて処断。それを最後に亡くなったが自殺説もある。

・大田南畝(おおたなんぽ、1749~1823)
 別名義は大田蜀山人(しょくさんじん)、または四方赤良(よものあから)。江戸生まれの幕府役人。平賀源内に触発され狂歌師となり、のち作家に。蔦重と同世代で大河では盟友として序盤から出てくるんじゃないかな~?
 狂歌の第一人者や黄表紙作家として活躍したが寛政改革を潮に文芸から一時遠ざかる。そりゃそうだ本職は幕府役人なんだから。しかしそれから役人として順調に出世し、しばらくして創作にも復帰し江戸文壇の重鎮となった。

・石川雅望(いしかわまさもち、1753~1830)
 狂歌師、江戸生まれ。別名義は宿屋飯盛(やどやのめしもり)。版元蔦屋、大田南畝・蔦重とともに江戸狂歌ブームの火付け役となる。

・喜多川歌麿(きたがわうたまろ、1753~1806)
 現代にも著名な浮世絵師。蔦屋が版元としてプロデュース、一躍人気絵師に。代表作は美人画だが狂歌絵にも定評があり、蔦重が新画法の開発にも協力するなど二人三脚の活動をしていくと考えられる。

・葛飾北斎(かつしかほくさい、1760~1849)
 説明の必要があるだろうか?と思うけど一応説明しておく。江戸時代の浮世絵師、というか日本文化が世界に誇るアーティスト「HOKUSAI」。
 とんでもなく長生きして数多くの作品を生み出したが、絵描きに能力を全フリする余りにだいたい生涯全般において器用な立ち回りはできなかったみたい。なので青年期に蔦重に出会ってプロデュースしてもらわなければ世にすら出てなかったかも?
 また浮世絵から写実画から伝統的肉筆画、絵本の挿絵から通俗本の描写に至るまで当時の「絵」にまつわるあらゆる画法を生涯にわたって吸収修得し独自の画境を開いて多ジャンルにまたがる創作を続けたが、そのスタイルの確立には若き日に蔦重の元で様々な芸術家と交わりながら模索を繰り返したことが影響しているかもしれない。

・山東京伝(さんとうきょうでん、1761~1816)
 江戸生まれ。戯作者で黄表紙・洒落本・読本など幅広く手がけ、主な版元は蔦屋。この山東京伝の黄表紙作品に版元である蔦屋重三郎の人物画と口上がけっこう頻繁に出てくる。京伝も文画両才の人なので、その人物画は京伝自筆のものだろうか。
 京伝の執筆活動とか題材選びに蔦重が深く関与していた証左となると同時に、11歳差はあるけど単純に仲が良かったのかもしれない。それで寛政改革で仲良くしょっ引かれたんじゃなかろかね? っていう感じで隠れて売ってた洒落本『仕懸文庫(しかけぶんこ)』が引っ掛かって手鎖50日の刑(手錠をつけて謹慎処分)。
 とはいえ刑罰としてはそんなに重くなくて、その後も読本に転向したりして執筆活動は普通に続けられたのだが。もしかしたら朋友の京伝を摘発の道連れにしてしまった蔦重の方が、才能ある後輩を守れなかった事でより強くショックを受けてたかもしれない。

・十返舎一九(じっぺんしゃいっく、1765~1831)
 滑稽本をはじめ多方面の小説作品を書き上げた人気作家。江戸の蔦屋方に寄宿して文画両才を発揮し戯作者デビュー。1802年からスタートした『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』が大好評で続刊、20年のロングシリーズに。


▼蔦重が世話した世代へ・・

 当時の文化人は江戸に集結する。幕府役人とか藩のお抱えとかで地方に籍があっても江戸勤めや江戸藩邸出向やらで江戸住みできたし、あるいは他の身分でも学問留学や年季奉公とかで江戸に出てきて文化人と交流しながら自身の創作の道を探ったり。
 中には地元を出奔して見切り発車で江戸に来た若者たちも居ただろうが、そんな熱意はあるが実績はない若者が転がり込む宛ての一つとなったのが蔦屋重三郎の懐。蔦重の一回り下の世代、北斎・京伝・一九・馬琴などは蔦屋方に居候したりたむろしたりしながら想を交換し触発し合い、また腕を磨き競い合って次の化政文化を築いていく。蔦屋はそんな豪華な交流スポットとしても機能した。
(同じような場所で思い浮かぶのが手塚治虫の「トキワ荘」なんですが。)


・曲亭馬琴(きょくていばきん、1767~1848)
 壮大な大長篇ファンタジー読本『南総里見八犬伝』で著名な小説家。滝沢姓。若い頃に主家を出奔し、山東京伝の下に弟子入りして作家見習いをしたり蔦重の所に居候したりしていた。それがのちに大成して通俗娯楽小説の大家。
 まぁ立派になって・・・という大作に着手するのは蔦重の没後。たぶん蔦重の最期の印象の中では才能ある若手のままだろうけれど、相当長生きしていずれ文学史に残る偉業を成し遂げることに。

・鈴木牧之(すずきぼくし、1770~1842)
 越後の文人。しばしば江戸に出て山東京伝・曲亭馬琴・十返舎一九ら文人や芸術家、役者などと交遊。のちに雪国の気候・暮らしを活写した『北越雪譜』を著す。

・東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく、生没年不明)
 謎の天才浮世絵師。活動時期は1794~95年の一年にも満たない間。というかデビュー当時はあんまり人気が出なかったらしいから正体もあんまり詮索されなかったのかもしれない?
 謎とはいっても学術的な最有力候補は挙がっておりまして、阿波徳島藩主お抱えの能役者で八丁堀に住んでいた斎藤十郎兵衛(さいとうじゅうろべえ)なる人物が中の人であると。
 でもどうしてその人が斬新な浮世絵作品をごく短期間に大量に描き上げることになったのかの理由は不透明で、そこん所もドラマでどう色を付けて描かれるか?


△ 登場がビミョーな人物

・杉田玄白(すぎたげんぱく、1733~1817)
 1774年『解体新書』公刊、主な学術研究の拠点は江戸だったので絡みは無くもない? サイドメニューで前野良沢はいかがですか?

・長谷川平蔵(はせがわへいぞう、1745~1795)
 池波正太郎『鬼平犯科帳』でお馴染みの幕府役人。蔦重とは生没年と江戸在住、寛政政策絡みという点で近似する。若い頃は江戸遊里に足繁く通っていたというから、吉原で出くわすか?

・四世鶴屋南北(つるやなんぼく、1755~1829)
 現在でも人気の歌舞伎作品を数多く残した劇作家。新作歌舞伎の構想に当時の世相や江戸文化を盛り込むなら蔦屋出版物の影響は避けて通れない、かな? でも晩成型で代表作を書き出すのは19世紀に入ってから。

・小林一茶(こばやしいっさ、1763~1827)
 信濃の俳人。1778~1791年頃には江戸に奉公に出ていたため、蔦重と道ですれ違わせたりしてみる?


✕ たぶん登場は無いかな~な人物

・小田野直武
・林子平
・最上徳内
・大黒屋光太夫
 ※「西洋画」「蘭学」「朱子学」とかまで入れちゃうと繁雑すぎてテーマがぼやけるかな~、と。


 さて一読して分かる通り、一部の政治家を除けば『べらぼう』登場人物の予想候補は文人・絵師ばっかりなんですね。当たり前だけど武将とか軍人なんかはまず出てきません。そもそも戦乱が無いし。(都市暴動とか捕縛とかの描写はあるでしょうが。)
 大河ドラマの王道たる戦国時代と幕末維新、また他の時代でもたいていは源平合戦・太平記/南北朝動乱・応仁の乱・近代戦争とどこかで必ず戦さと重なるものであるが、今回はそれは無し。

 まあでも2024年の大河『光る君へ』は紫式部の生涯を描くということで、その時代も大きな戦乱はほぼ無かったんですがね。その代わり藤原氏一門を中心とした政権の内外で権力争いは熾烈を極め、刀伊の入寇(1019年)で藤原隆家が外敵を撃退したりはしてますが。そこで権力争いに並んで主軸として扱うのは『源氏物語』を生み出した平安貴族たちの雅びな王朝文化。
 そんな訳で2024年、2025年と戦乱を主体としない大河作品が連投するという珍しい編成に。なので2年目の『べらぼう』が江戸文化の発展をテーマとしてもそんなに違和感はないだろうけど、逆に戦乱という大きな出来事を挟まない分で物語展開のメリハリがつきにくいという難点も予測される。

 有名っちゃ有名だけど文人・絵師だけがぞろぞろ出てきて作品を作って売り出す、そのパターンをどこまで劇的に多様に観せられるか、蔦重の生き様と化学反応させていけるか? 
 また戦乱が無いまま革命的な政権転覆も起こらず、その中で泰平と背中合せの閉塞感や水面下の政争謀略なんかをいかに予感させられるか、そんなモヤモヤした時代の様相を頭から塗り替え得る文化・娯楽の力をどう示していくか?
 これらもまた『べらぼう ~蔦重栄華乃夢噺~』制作の課題、難しさだろう。


○横浜流星、試練の時

 さてさてこんな感じで本屋にして編集者、自社印刷工場所有の出版社社長、プロモーターにしてプロデューサー、出資者にしてパトロン、才能と才能とを繋ぐハブベース、裏方にして大看板、江戸時代中後期の大衆文化に多大な影響を与えたエンターテイナー。
 例えば蔦屋が安価で大量生産・大量流通した貸本や浮世絵は江戸の町々はおろか全国に普及した。各種の本は世情を映し出すと同時に、本の内容が流行を生み出しトレンドを牽引することもあった。
 また浮世絵は今でこそ伝統的アート作品として扱われるが、当時は身近でありふれたものだった。美人風俗画はファッション誌、役者絵はブロマイドやインスタ写真、風景画は観光ガイド、のように世相を反映するメディアの役割を果たし、企業広告を兼ねた一般市民の情報源でもあった。
 また例えばある明治大正期の文豪が「江戸の昔」を思い浮かべる時、それは蔦重が演出した江戸の町人文化の名残だったりしたかもしれない。
 通俗的で庶民的という大衆文化が花開いた江戸、その動きの源たる出版・メディア展開・エンタメ発信の渦の中心に居たのが蔦屋重三郎。

 一個の人間の大きさとしても後の世に遺した影響にしても、とても広範で重要な像を結ぶ蔦屋重三郎という歴史人物。これに挑むは横浜流星、ただ今26歳の気鋭の映画人。
 ドラマ放映は2025年ということでたぶん撮影入りは来年になるのかな? まだ間はあるとはいえ、一年かけてじっくりみっちり一人の歴史人の生涯を濃密に描いていく大河ドラマの主演、準備は既に始まっているのだろう。

 それにつけても横浜流星が演じるに当たり大河ドラマ主役という大役であることを一旦脇に置いても、他ならぬ「蔦屋重三郎」であることで役柄としての難しさも幾つか出てくるだろうことが予想される。その幾つかを挙げてみよう。

【難しさ その①、「吉原遊郭」】

 なんと言っても吉原育ちでそこから業を始めた蔦重。大丈夫か横浜流星!?
 大河版の蔦重がどんな気質かはまだ分からないけど、少なくとも少年期~青年期はどっぷり色街に漬かって生き抜くことになる。チャラ男にはならないとは思えど、じゃあ堅物が吉原でうまくやっていけんのかと。
 しかもただ育っただけじゃなく、その遊郭の一角でお店(おたな)の軒先を借りて本屋を開業。更には案内パンフレット「吉原細見」の編集改訂と出版シェア獲得でのし上がっていくのである。
 ってぇことはですよ、横浜流星が吉原遊郭一軒一軒をつぶさに見て回り、ここにはこんな遊女が居る、こっちにはこんなサービスがある・・って目を皿にして徹底的に調べ歩いていく、と。ハテ横浜流星のキャリアでこんなイメージの役柄ってありましたっけ?

 まあ幕府公認の遊里でそこまで極端にアングラでもなかったろうけど、男女の様々な情態が絡んでくることは確かだろう。もしかしたら若き蔦重の早熟なラブロマンスが描かれるかもしれない? 大丈夫なのか、横浜流星!?


【難しさ その②、「最期まで行く」】

 蔦重その享年は今の年齢換算で47歳、対して横浜流星は大河撮影期間にはたぶん28歳。
 大河ドラマの慣例でおそらく蔦重の最期までは描かれるだろう。ゆえに終盤では20歳近く年上の男を演じることになる。まあ他の大河主演俳優さんたちも自分の年齢より40歳、50歳上の老境を演じることが珍しくもないから特別な悩みでもないんだろうけど。
(今年の『どうする家康』のラストシーンは松本潤40歳VS大御所家康74歳である。これからどう老け込んでいくのか楽しみ?!)

 ドラマ序盤~中盤は蔦重と年齢が近いから等身大の感覚で臨めるだろうが。後半、蔦重40代の円熟期はドラマのハイライト。寛政改革の処断を受けたりそこから再起して益々活発に動き回り、一方で懐に抱えていた若い才能たちが芽を出してプロデュースにも熱が入り。
 手腕にいよいよ磨きがかかり江戸文化の先導者としての矜持とそれに相応しい貫禄が備わっていたであろうその時期を、お上の抑圧で意気消沈していたお江戸の町にエンターテイメントの力で活力を再び呼び戻そうとしていたその時期を、果たして20代の横浜流星はどう表現していくのか?

 これまた今までの出演作で「油の乗った40代中年男」って無かったと思うんだけれど。
 「先輩の指導を仰ぐ後輩」「年長者の薫陶を受ける新人」とかの役柄はあっただろうが今回はその逆。特に後半においては「プロジェクトを下支えする総合プロデューサー」「パトロンとして作家や絵師たちを抱える一座の主」として、同世代や後進の若者たちを教え導き励ましながら引っ張っていく。個としての情熱は保ち続けながらしかし集を率いて結果を出し、数多の企画を同時進行で抱えながら尚且つ業界全体の活性化にも目配せする、そんな成熟した大人の男の役回り。

 さりとて現代の横浜流星の周りにも参考にできるモデルがたくさん居ると思う。最新映画『ヴィレッジ』においてタッグを組んだ河村光庸プロデューサー、座長である藤井道人監督。時代の相を凝っと見つめて今に必要とされる作品の構想を練る経験豊富なプロデューサー、その想に肉付けして人を動かし具体的な形にしていく映画監督。かくの如き一つの作品を世に送り出すまでの各位の動きは現代の映画作りにおいても相似する部分があるはずである。

 また「蔦屋重三郎」のモデルとしても格好の先達がいる。


 2021年の映画『HOKUSAI』で阿部寛さんが蔦屋重三郎を演じていた! 阿部寛さんといえばTBS系2022年ドラマ『DCU』で横浜流星と共演し横浜流星も個人的に私淑したという大ベテラン。その阿部寛扮する映画版蔦重は主人公・若き葛飾北斎を叱咤激励し彼の大成を促すというこれまた大事な役、しかし危なげもなく江戸の出版王を見事に演じきっていた。大物の風格があるのを見込んでの配役であろうが、参照できる所は多いだろう。



【難しさ その③、「 “個の内面” ではなく “無数の衆” をどこまで見つめられるか?」】

 ここまで辿ってきたように蔦屋重三郎といえばあらゆるエンタメジャンルに踏み込んでいった生得のマルチタレントではあるが、自身は人に作品制作を依頼して印刷出版を受け持ち、クリエイターとしてはあまり表に出ることはなかった。
 しかしプロデューサーとして目利きとして、全てのエンタメジャンルに精通しあらゆる出版行程に通暁し、江戸文化の隅々にまで熱い眼差しを向け続ける遠大な探求心の持ち主であっただろう。加えて “人” “民衆” への飽くなき好奇心、それが無くばクリエイター集団を率いることも江戸庶民から絶大な人気を勝ち取ることも叶わない。
 ゆえに蔦重は動くたびに自他の興趣を煥発し、人と出会うたびに膨れ上がっていく、あまねく総てを包み込む大嚢なのである。

 片や横浜流星、テレビのインタビューや対談などを見る限り、多趣味ではない、かなぁ・・・。
 どっちかというと寡趣味な方らしく、超インドア派。私生活が充実してる共演者に「どうやったらそんなに色々なものに興味を持てるの?」って旨のコメントしてたぐらいだから、これは好奇心の塊みたいな蔦重を演じるためにはものすっごく奮発する必要があるんじゃなかろうか?
 普段は「壁か天井を見つめてボーっとしてます」って山奥の草庵で修業三昧のお坊さんみたいな過ごし方の現代人が、魔都江戸のあらゆるエンタメ現象に首を突っ込んであまつさえ時代のムーブメントの扇動者にすらなり得た興味関心の権化みたいな近世人を演じる、と。
 モノトーンから極彩色の世界へ、役柄とプライベートとの落差が凄いな大丈夫か横浜流星!?

 役者としても今まではどちらかというと「“個” を突きつめる」演技が多かったような気がするが、『べらぼう』後半で求められるのは「“衆” を見つめ “集” を率いる」大きくなっていく人格である。
 削ぎ落とすのではなく、付け足していく。振り払うのではなく、手を携えていく。一人で全部やるのではなく、大勢でワイワイとアイディアを持ち寄って皆でやる。ヒットの功績は作者の名に冠したその上で、代表者としての責は自分一人の名において負う。


◇『蒼天航路』㉕巻より
 曹操が配下の夏侯淵(かこうえん)を評し、かつ一人の王として立つ覚悟を求める場面。

「夏侯淵は道理を強く好み無駄を徹底的に嫌う。弓を好むも道理、兵法を好むも道理。四海の戦略もその道理を素早くとらえ局地の百戦を制してきたが。
 だが夏侯淵。これから先、その分(ぶ)と性質を超え、唾棄してきた無数の無駄とどこまで向き合える?」

「いかに勝ちを治めるかは兵法で足りる。だがそれは一介の将であればの話だ。
 これから何人もの将軍を統括する司令官となるべき者に求めるもの。それは、敵を人として、戦を政(まつりごと)として、どれだけ興味をもてるかによる。」



 「夏侯淵」→「横浜流星」に、「将軍」→「戯作者・絵師/表現者」に、「敵」→「大衆」に、「戦を政として」→「出版業/映画を人に感動を与えるものとして」に変えると【蔦重を演じる難しさ その③】になります。
 唾棄してきた無駄、とまでは思ってないだろうけど、これまで食指が動かずに見送ってきた無数の趣味やコンテンツに、どれだけ興味を持てるか? 江戸の庶民文化を心の底から敬慕し追求できるか? 役作りはそこが大事な土台のような気がします。


 この方面で参考になるのが脚本を担当することが決まった森下佳子さん。そりゃ歴史ドラマの脚本を多く手がけてる作家さんだから当然かもしれませんが、上のWEB記事のコメントを読む限りは筋金入りの歴史好きであるらしい。『べらぼう』が描く江戸中後期についても並々ならぬ含蓄を持っていそうな力強いオーラが文面から伝わってくる。
 脚本読みなどでこれからイメージ共有や意見交換を重ねていくだろうから、このような人とよく話し合って時代の空気を予習しておくのは江戸文化のあれこれに興味を持つ一つの入り口にできるかも。

 そう『べらぼう ~蔦重栄華乃夢噺~』は、横浜流星にとって登竜門であると同時に試金石でもある。大役を演じきれれば大いに柄を上げ、それゆえの重圧ものし掛かるだろう。
 それに輪をかけて「蔦重」である。個の演技を研ぎ澄ますと他の魅力的な登場人物たちが表に出てこないし、逆に集を立てようとすると主役の蔦重が脇役みたいになってしまうし。プロジェクトリーダーであってもクリエイティブリーダーではなく、顔役ではあっても集の先頭ではない難しさ。
 更にはこの時代の世界と世相とに対峙し呑み込まれない強靭な精神、と同時に庶民のありふれた暮らしに目を留める温かな眼差し。そんな複層多面的な人間をどう表現していくのか? 課題は山積み。

 横浜流星の役者魂が試される。


○さて本題に入りましょう。

 そんな横浜流星さん、これを好機とNHK放送局でのamazarashi ブッ込み、どうか一つ宜しくお願い致しますっ・・!
 映画『ヴィレッジ』✕ amazarashi コラボソング『スワイプ』のMV公開が 4/26 、その翌 4/27 に大河ドラマ『べらぼう ~蔦重栄華乃夢噺~』制作公式発表、この珍奇な縁に免じてどうか!

 いえ何より難しいことは百も承知の上で、何卒・・ッ!