住せぬための用心、文字に当たる風情 | 高校日本史テーマ別人物伝 時々amayadori

高校日本史テーマ別人物伝 時々amayadori

高校日本史レベルの人物を少し詳しく紹介する。なるべく入試にメインで出なさそうな人を中心に。誰もが知る有名人物は、誰もが知っているので省く。 たまに「amazarashiの歌詞、私考」を挟む。


○ amazarashi『スワイプ』に見る「住せぬ心」


〈やくざのバイトで密漁
 溺れて死んだ上級生
 昔はやればできる子
 取り憑かれたなら手遅れ
 自殺者は年何万人
 多重債務者の行く先
 孤独死は何パーセント
 記事では見えない想い
 ないがしろ 〉

 ああこの歌い出し、老舗の味みたいな信頼感。これぞ amazarashi の曲ですな!
 そしてこの詞章、おそらくはamazarashi 秋田ひろむが日々流れてくるニュースの中から心に引っ掛かった事件や事故を切り取って配置したものだろうが。2020~2023年のここ3、4年間に実際に起こった現実の報道、その一つ一つを具体的に想起し宛がえるほどに生々しい見出したちである。

〈不景気な地方自治体
 おばあちゃんかかる特殊詐欺
 週明け上がる水死体
 大人のせいで子供死んだり 〉
〈市民を殴る警備隊
 不正も手当たり次第
 砲弾発射の耳鳴り
 都市近郊の軍事支配 〉


 社会派のメッセージを携えた強靭な映画『ヴィレッジ』のコラボソングということで歌詞のつよさは期待していた通りのものであったが、さりとてこのメロディーは予期していた以上の中毒性をもって我が耳を満たす。
 なんて言うんだろう、「グルーヴ感がある」? サビ部分でついついリズムに乗って体を揺らしたくなるようなノリが来る。しかしながらそのサビ部分の歌詞は上記の通り暗澹たる内容。

 ここは素直にメロディーに乗っていいものか、はたまたそんな詞を口に出して小躍りするなど不謹慎だと、後ろめたさを感じるべき所なのか? 幾ばくかのさざ波も心中に立たせつつ、でもやっぱり口ずさみたくなるフレーズと韻律。この新曲の “新” なる所以のところであろうか。

 詞の内容は社会への強く激しい告発なのだろう。だが歌の姿は流麗で柔和でさえあるように感じられる。amazarashi の新しいものを生み出そうとする尽きせぬ工夫、加えて過酷なテーマを過酷なまま提出するのではなく、流れる音曲に乗せることでより抵抗なく心理に浸透させる効果。

 内外(うちそと)二面の様相をもって成立する『スワイプ』、それに翻弄されて心のヤワな部分がカリカリと掻き立てられるその歌い心地。ああ、amazarashi の新曲だぁ・・・(結局はウットリ)。



◇『日本の古典をよむ ⑰
 風姿花伝・謡曲名作選』小学館

【花伝 第七 別紙口伝】

(五)住せぬための用心

〈演技が一面に片寄ることを避けるための用心(住せぬ心)を説く。〉

 能では、万事につけて細心の心配りを持たなければならぬ。たとえば、怒り狂う強い演技をしようとする時は、柔和な心を持つことを忘れてはならない。これは、どんなにはげしく怒っても、荒くはならないための手段である。怒る強い演技に柔和な心を持つことは、珍しさを生む道理ともなる。
 また、美しい物まねを演じる時に強き心を持つべきだという道理をも忘れてはならない。こうしたやり方は、すべて、舞い・はたらき(所作)・物まねなど、すべての演技において「住せぬ」(同じ所に常に停滞せず、新鮮さを保つ)という道理に基づいている。




○藤井監督の構成に乗り横浜流星が舞う、「文字(もんじ)に当たる風情」


 それにつけても『スワイプ』ミュージックビデオの凄さよ。本気出し過ぎだろう、藤井道人監督と横浜流星。どんな日程で制作進行したのかな?

①2人が中心となりamazarashi 側にオファー、どこかの段階で映画の完成フィルムかもしくは編集途中の映像かを秋田ひろむに見てもらう。

②秋田ひろむがその時の感興をもとに『スワイプ』を書き上げる。

③編成した曲を藤井監督が聴き映像の構想を練る。横浜流星ともイメージを共有、MV撮影に入る。

 こんな感じかな? 分からんけど。
 独立したクリエイター、アーティスト同士がコラボし完成した鋭利な映像詩。シンパシー・リスペクトから出発しインスパイアがあり、共鳴した双方の高め合いの末に曲・演技の渾然一体たるもう一つの擬似世界が現出した! この世にゃ神も仏もありゃしねぇ!

 たぶん藤井監督が秒以下の単位まで緻密に計算して作り込んだ全体の構成、それに命を吹き込む横浜流星の熱演。
 曲の展開に合わせて演技も七色に変化し、旋律に合わせてヨレヨレと踊り、鬱積した想いを決壊させて為す術もなく崩折れていくその結末。こんなに歌曲と全きシンクロを果たしている癖に、映画『ヴィレッジ』のアナザーストーリーであり、かつそれらとはまた別個の映像表現としても成立し得ているという妙味。

 本来は別々の分野で活躍する表現者たちの一瞬の邂逅、その幸せな結実。内容はそこそこ剣呑だけれども、各者各様の楽しげな挑戦と協同の喜びもまた画面に溢れているようにも感じられる。ああ、ステキ・・・(結局はウットリ)。

 またタイトル『スワイプ(swipe)』という英単語についても、曲の骨格としては「スマホなどで画面を指でなぞりスクロールして画面を遷移させる」操作を想定しているだろうが、「swipe」には他の意味もある。
 元々の主な意味は「強振する・強打する」であるらしい。ゴルフなどで腕を大きく振りかぶってボールを強打する、等の場面で使われ、そこから派生した「相手を痛烈に非難する」他の意味もあると。

 そう、ミュージックビデオの佳境でやってましたね、横浜流星演じる青年がついに暴発して強打・強振を。

〈今日をスワイプ
 今日をスワイプ、〉

 の切羽詰まったフレーズに、きつく握りしめた刃物を目一杯にスワイプ!

 更に、濃い夕陽が射す土手の帰り道をトボトボと歩いているさなか、想い余って持ってたバッグを地面にスワイプ!

 ムゥ、歌詞と動作が不即不離の間を保って一つの結末へと収斂していく。自分の人生をスワイプ、他人の不幸をスワイプ、灰色の暮らしをスワイプ、抑え込んでた欲動をスワイプ!
 我慢忍耐を振り切り大きく振りかぶって強振強打、後は野となれ山となれ!

 そして暴発と前後して精神の均衡を崩した青年、その理性と自我は暗く穏やかな、何者にも邪魔されない心の奥の穴の中へと吸い込まれていく・・・。
 アバヨッ、現実世界!!

 ああ、歌詞音曲と所作形相との不埒なダンスに魅入られて。



◇前掲『風姿花伝』より

【風姿花伝 第三 問答条々】

(七)文字(もんじ)に当たる風情

〈 謡(うたい)の文句と所作の関係についての論で、「音曲・はたらき一心」の境地を推奨する。〉

 問う。「文字に当たる風情」(謡の文句に適合した所作)ということが言われますが、それはどんなことですか。

 答う。これは具体的な演技の稽古に関することだ。
 能におけるあらゆる「はたらき」(所作)は、「文字に当たる」(謡の文句に当てはめる)やり方から生まれている。「体配(たいはい)」(身構えや身のこなし)とか「身づかい」(身の動き)とか言われているものも同様だ。

 具体的に説明すれば、謡の文句の意味どおり所作をするよう心をつかうがよい。たとえば、「見る」という文句には物を見る型をし、「指す」とか「引く」とかの文句の時は手をさし出したり引いたりし、「聞く」とか「音がする」とかの文句なら耳を傾けるというように、すべて文句どおりに身を動かせば、それがそのまま能の「はたらき」になるのである。

 「はたらき」で一番重要なのは身を動かすことであり、第二が手をつかうこと、第三が足をつかうことだ。そのいずれの場合も、謡の節や「かかり」(旋律の情趣)によって、文句に配当する身体的動作を加減すべきである。しかしその点は文章では説明しにくい。実際に稽古する時に、師匠がやるのを見てそのとおりに似せ学ぶがよい。

 この、文句に適合した所作を稽古によって体得しきれば、謡と所作が一つに融合するであろう。しかもその、謡と所作が一つに融合する境地が、つまりは能の奥義を悟得した段階であり、「堪能(かんのう)」(熟達していること)と言うのもこの境地を意味しているはずである。これは秘密にすべき説だ。
 「音曲」(謡)と「はたらき」(所作)とは、本来は別々に心をはたらかす二つのものなのに、融合させて一つ心で演じ得るほど見事に技量を極め得た役者は、無上第一の上手と言えよう。そうした人の謡と所作が一心の能こそ、真の「強き能」(あぶなげのないしっかりした能)であろう。

 また、「強き」とか「弱き」とかいうことを、しばしば人は、「荒さ」や「幽玄」(美しさ)と混同するものだ。たとえば、やさしさのない荒い能を「強い」と思ったり、弱々しい能を「幽玄」であると批評したりするのは、まったくおかしなことだ。何度見直しても見劣りのしてこない為手(して=役者)があるであろう。そういう芸が本当の「強き」なのだ。また、何度見直しても花やかな為手がいるであろう。それこそが「幽玄」なのだ。