こんにちは。オレだよ。
そう言ってはみたけれど、絶対これを読まないだろう。
それでもいいんだ。

覚えているだろうか?
真夜中にオレんちに来て、
ジョン・レノンの『stand by me』の歌唱法が
いかに世の中に対する嫌がらせに満ちているか”だけ”を
語りに来た時のことを。

覚えているだろうか?
真夜中にオレんちに電話で、
JBズの『ズ』の部分の間抜けさと素晴らしさについて
夜通し話し続けた時のことを。

覚えているだろうか?
オレんちから電話であの娘に、
告ったら、思いっきり「ダイキライ!」だなんて
罵られた寒い夜の日のことを。

覚えているだろうか?
自転車に二人乗りしながら、
”ぼくの~じてんしゃの~うしろに~のり~なよ~”って、
小さな声で歌ったことを。

どこかへ消えてなくなろうと決めて、パスポートを取った夜
聴かせてくれたトッド・ラングレンのライブに行ったんだ。
アンコールの曲は「Can we stell be frend」
友達というにはあんまり近すぎて、
考えたことすらなかった。

あの日から一度も会ってない。

道に迷ったらオレはいつも思い出してみるんだ。
ひたすら遊び続けたあの頃のことや、
考えてたバカバカしいことをたくさん。

オレたち庄司薫みたく、
真夜中の新宿御苑から青髭を眺めるのはムリ。
だってあれは小説だし、カギだってかかっていたしね。
でも、青髭になることはできるよ。
なんでかって?だってオレはいつか青髭になるんだって決めたから。
それは君が教えてくれたこと。

どうか忘れないでくれ。
オレたちの年代のヤツは大体「勝手にシンドバット」はそらで歌えるものである。

この歌を聴くたびに、ポップスとかロックとかって、
とりあえず何を歌ってもいいんだよな~。楽しくてノリが良ければ。と思う訳なんだが、
この曲以降は真面目にサザンを聴いたことがない。
なんでかっつーと、原由子の怨霊みたいなコーラスが毎回聞こえてくるからヤダ
という理由だけではない。

そこで、原由子のコーラスがない新曲「ダーリン」であるが、
曲は往年のR&Bで、アレンジも演奏も完璧。
PVはちょいワルオヤジといい女の、小粋でオサレな出会いと別れを描いた、
路上でのゲリラ撮影でファンサービスなどもしてみせ、オチもちょっぴりスケベで笑える・・・
何だか書いててイヤんなって来たが、
そんな売り上げ枚数まで予想できそうな、ビジネス的に大変良い出来である。
そしてもうひとつ、某缶コーヒーのCMで昭和の大物とCGで共演するアレである。
フジテレビの軽部なんかが”大物同士の対決”とか何とか言って、派手に持ち上げていたが、
オレは問いたい。桑田圭祐は本当に大物なのか。
そして本人は果たして、大物扱いされたいと思っているのだろうかということだ。

サザンの「勝手にシンドバット」は音楽の楽しさに溢れた曲である。
演奏して楽しい。歌っても楽しい。きっと本人もそうだっただろうと思うし、オレたちもそう思った。
そういうとても幸せな一曲だ。
でも、そうは考えない輩もいたわけで、
低俗だの、訳わからんだの、嘆かわしいなどと罵ったエラい人たちだが、
それをロック者としてサイコーの褒め言葉だったのに、
そう解釈できなかったというところがモンダイであろう。
桑田も最初は多分エラい人たちや、エラい人たちの常識に反抗してはみたが、
「いとしのエリー」などのスタンダードなバラードが、一般的に評価されたばっかりに、
これでエラい人たちにも認められたと考えたのかもしれない。
しかし、もうすでにエラくなってしまった人というのは、
褒められることに慣れているから、たいていいろんなことを忘れているものだ。
当然けなしたことなど忘却の彼方だ。そんな者どもの評価なんか気にしなければ良かったのに。

それから、サザンのファンだという人たちもどうだろうかと思う。
確かにデビュー当時サザンは最先端の音楽をつくる不良のバンドであったが、
現在では違う。
世代を一回りして。最も一般的な優等生バンドになった。
考えてみれば、中高生の頃サザンを聴いていた世代は、すでに人の親である。
「いいかげんハンパやってらんないっすよ。」である。そういう諦念でもって過ごす者も多かろう。
実際のところ、この世代がマトモに聴ける新曲は少ないから仕方のないことかもしれない。
そこでオレはファンに問いたい。
桑田圭祐の今現在の楽曲は本当にカッコいいのか?
自己正当化のためにかつての不良の更正と変節を許していいのか?
そして、桑田本人に問いたい。自分の持つ今現在の感性に疑問を持ったことはないのか?
あるからこそのPVでの悪フザケだとしても、あんまりイタすぎる光景である。

桑田圭祐がしている悪あがきを、
若者たちはただのオトナのジョークとして、簡単に見て見ぬ振りをしてはいけない。
彼はエラい人だから誰も教えてくれないのだ。
王様は素っ裸なのに。
悲しみに優劣はあるのだろうか?

昭和が終わり平成が始まった。
その時オレは、精神的に今までになく最悪な状態に陥っていた。
触るものを片っ端から傷つけ、触られるものには返す刀で切られるような日々。
出口なしであった。
でも、長い人生そういうもんだ。と今では言える。

そんな頃、ある論争が写真業界で起こっていた。
それは篠山紀信が、荒木経惟の妻がガンに罹り死んでゆくまでを、
愛猫チロとの生活を織り交ぜながら撮り続けた「愛しのチロ」という作品について、
写真に私情を挟んではいけないと言って批判したことから始まったものだ。

オレは、篠山か荒木かどっち派かと聞かれれば、荒木と答えるだろう。まあ趣味の問題だが。
篠山は基本がイベント屋なので、仕掛けの派手さに目を奪われるし、
荒木は大事な家族や飼い猫、近所の子供、風俗の女のあっけらかんとしたエロなど、
わりと身近なものを題材にしているので誤摩化されやすいが、
根っこの部分では二人に大差はないと考えている。
それは何かというと、被写体に対する冷徹すぎる態度である。
美しいものも、醜いものも、カッコいいものも、ダサイものも、どれがより高尚だというのではなく、
すべて同じ高さでものを見ているという点で彼らは同じだ。
これはクリエーターが絶対忘れてはならない姿勢であるし、
優秀なクリエーターというものは大体そうだ。

そこで、「愛しのチロ」である。
この写真集は生(チロとの暮らしぶり)と死(妻の壮絶な闘病生活)、
喜びも悲しみも平等に扱われる。それは誰にでも起こることで、特別なことではない。
この作品を、妻に先立たれ、愛猫とこの世に取り残された
かわいそうな写真家の泣ける写真集だとだけ考えるヤツは(実際そんな売られ方をしていた。)
幼稚である。

「愛しのチロ」の最後のページは、
自宅のベランダに積もった雪と遊ぶチロで締めくくられる。
オレたちはその淡々とした場面に、ぽっかりあいた底なしの孤独と、
ほんの少しの光明を想像出来る。どんな悲しみもいつか終わる。それでも人生は続くのである。


「私情を挟んで申し訳ないけど・・・。」なんて歌われても。
アンタの悲しみは、オレたちのそれに比べてそんなに尊いかね?
そりゃそうだろうさ。印税もたんまり入るしね!

久しぶりに近くの本屋に行ってみて、あらためて気づいたんだけど、
週刊誌の隣にハードロリコン雑誌置いてあるんですね。M字開脚でスゴイ巨乳の、
でも顔はかわいいアニメ顔の女の子なやつが、
フツーの本屋さんなのに。表現の自由だか何だか知りませんが、
あんなのが当たり前に置いてあるのをみると、子供を連れておちおち出かけられないなんて思います。

そんなことを言う私は、毎月買う雑誌は映画秘宝で、
子供たちに初めて映画館で見せた映画は「カンフーハッスル」だったし、
*ィズ*ーランドに行きたがると、ドブネズミがいっぱい住んでる怖い場所だからやめようといい、
出産前には内田春菊の「私たちは繁殖している」を読み、
胎教にカルチャークラブと美輪明宏と鳥肌実のコンサートに行き、
プリンスを聴きながら、予定日に備えたものです。
そんなめちゃくちゃ恥ずかしい、自称サブカル女のなれの果てが主婦をやっているような人です。
 
でも、ロリコンだの萌えだのを、おもしろがって持ち上げる風潮には、
本当に気持ち悪いのを通り越して、怒りさえ感じます。
まったく、女と女の子を何だと思っているんでしょう。
いや、別に私はフェミニストのヒトでは全然ないのですが、
(特におバカさんの田嶋陽子センセイは大キラい。)子供たちも、
今は自分で本屋にもコンビニにも行けないからいいようなものの、本当にイヤです。
 
もう一つ腹が立つのは、CMにキスシーンが増えた事です。
ドラマや映画なら、話の流れで心の準備もできますが、
CMは唐突に入り込んでくるので、非常に不愉快です。
みんなは見たいと思ってるんですか?これもひとつの少子化対策なんでしょうか?
馬鹿げていると思います。
最近踏んだ地雷はケツメイシの「冬物語」のPVですが、
ゲージツっぽくて(単にモノクロ映像ってだけだけど)透明感のあるエロは
アリとでも言いたいのでしょうか?
くーだらない!業界関係者も、いいかげんにしてほしいです。プンスカ!


カンケーないけどオレはさ~、
ダイエットとは無縁の立派なカラダの女の子がたくさん出て来て、
お尻とかぐるんぐるん回してるようなPVを見る方がいいな。
だって、生きてるな~つーか、元気が出るじゃんか。
日本の女の子もそんな子が増えてきて、なんか別世界の生き物ってカンジで大変結構。
RIP SLIMの「熱帯夜」とか曲もPVも良かったな~下品で。
でも、夜中にこっそり見るよ。だってその方が楽しいじゃん。女子供にゃわかるめえがな。
ケケッ。VIVA!下世話!!

日曜の夕方、「笑点」のあとに、
引き続き「真相報道バンキシャ」と他のチャンネルをスクラッチしながら見る。


そこでオレは大変なものを見つけた。それは”北朝鮮の女の子バンド”である。
正確に言うと、ファンキー末吉が北朝鮮の女子高生をプロデュースした、
初の本格的なロックバンド。そうはいってもクラブ活動の一環のようなものだが、聞いてびっくり。
か・・・かっこいいじゃないか!
ボーカルの女の子は、将来喜び組候補になれそうなくらいの美少女。
ギターは科学者志望の、天然バカテク。
あんまり驚いたので、速攻動画サイトをを検索したが、早すぎてUPしていなかった。
まぁ当たり前か。

そういえばロックって基本的に反体制なんだよねえ?忘れてたけど。
だいたい近頃、大学や会社の軽音部みたいなバンドばっかり出てきやがってさあ、
どれが誰だか全然区別がつかないんだっての。
誰かオレに、ケツメイシとコブクロとスキマスイッチの違いを説明してくんな!
何?そいつらはロックのカテゴリーには入らないって、
そんじゃ今日本のヒット曲にロックはなしってことかよ。ダメじゃん!

北朝鮮の女の子たちは、初めて聴くロックのリズムを素直に受け入れて、
自分のものにしているように見えた。
途中、学校の隣にある当局から練習を止められたりして、
テンションが下がりそうになったもりしていたが、その曲は完成して、番組内で流されたのである。

自分で歌を作って歌うとは、
自分のなかにあるざわめきを表現するということではないのか?
誰のために歌うのか。将軍様のため?いやちがう。きっと最初はどんな子もみんな自分のためだ。
そして、ざわめきから目を背けたヤツは
売れていようがいまいが、必ず駄目になる。そんなものは歌ではない。ただの記録だ。
彼女たちの歌の曲や歌詞を誰が作ったのか、肝心の部分は見ていないのでわからない。
それが仮に彼女たちが作ったのか、ファンキー末吉がつくったのかは、この際問題ではない。
要はその曲が、その時その場の気分を的確に表しているかどうかが重要なのだ。

北朝鮮の片隅で彼女たちは歌った。
「私はクエスチョンマークを愛している。」と。
今、世界で最強のロックなリリックであると
オレは確信する。