小田和正は今年還暦だそうである。

誰にでも消したい芸歴はある。
どんだけ格好つけようと、笑われてもしょうがない過去がある。例えばオレだが、
皆がさだまさしだのアリスだの、松山千春などにうつつを抜かしていた頃、
当時田舎の中学生にはほとんど知られていなかったオフコースを、ひとり
「オレって大人~。」などど言いながら、悦に入って聴いたものだ。
前述のアーティストのファンなんか、秘かにバカにしていた。
深夜にFMラジオをエアチェックしながら聴いたライブは、
あの異常な完成度のハーモニーを、ほぼ完全に再現していたことに呆れるほどシビレた。

ところで、オレはもともと歌詞をまじめに読まない人で、
感動的な歌詞よりも、自分がそのメロディーにのれるか否かが大事だと思っていた。
だが、マジメな中学生は考えた。
人の心の内面に目をつぶるような、そんないーかげんな人間でよいのかと。
そして、ひ~とり~で生きてゆ~ければ~とか歌いながら、
リリック重視で楽曲を聴いていく方向にシフトチェンジしたのだ。

そうして修行のように聴いたニューミュージックの数々。
歌詞では泣けるのに、オケはなんだか中途半端で考えオチだったり、
反対にオケは素晴らしくカッコいいのに、歌詞はたわいもない事を歌っていたりする。
どうすればいいのか?迷っているうちに、
自分の衝動に正直な中学生は、踊れる洋楽を聴くようになり、
あとで歌詞の意味を知る。
翻訳される事でワンクッション置かれた冷静さがカッコよくかんじたものだ。

そこで問いたいのが、良い曲とはなんなんだ?というハナシである。
カッコいいオケで、よく出来たリリックであるに越したことはないが、
ポイントはいったいなんなのか?
ーそれは”冷めた確信”であると思う。それがあれば、おのずと”正解”が導き出される。

高校生になり、念願のオフコースのコンサートに行った。
「さよなら」の大ヒットでお客は超満員。
無駄なトークは一切なく、最後まで突っ走った大人のライブに、素直に感動した。
なかでも鈴木康博が生ギター一本で歌った「青春」は、ほんっとーに素晴らしかった。
ここにオフコースのすべてがあると確信した。
最後にアンコールは「さよなら」で締めくくられたが、
オレの心は周りの歓声とは逆に冷えていった。
もうここに来ることはないだろう。売れたバンドに興味をなくすなどといった狭い心ではなく、
単にこう思ったのだ。もう卒業だと。

そして、数十年(!)が経った・・・。

オレは目を疑った。
あのCMは何?「自己ベスト2」の宣伝で、高層ビルの窓ふきしながら早送りで歌うやつだよ。
小田和正ときたら半笑いなんだけど。
あと、へたくそなイラストのカワイイおじさんのついたアルバムジャケット。
あれは何、どうしてほしいわけ?
「どうだい?僕っておもしろいだろう。」とかなんとか、
昔は「どう?」なんて言わなかったじゃん。「どう!」だっただろう?
それともナニ、下々の世界に降りて来て単純な人たちを喜ばそうとしてくれてんの?
歩み寄ってくれんの?別にぜ~んぜん嬉しくないんだけど!
それはそうとマジで大丈夫なのか、還暦クライシス~。

沢尻エリカが復帰したことについては、他の人が書くだろうからここで多くは書くまい。

一言だけ言わせてもらうなら、
休暇中に歯並びを直しとくと、もう少し品がよくなって、
NHKの大河ドラマの仕事とかも来るだろうにな~。
しかし歯並びが悪いところこそが彼女のよいところであり,
心のロッカーとしての素質は充分とオレは見た。

芸能人なのに、”私服のセンスが悪く”て”O脚の足”で歩き
そして”歯並びが悪い”子達を見ると、オレは無条件で合格ボタンを押してしまう。
それは成り上がるために必要な勲章のようなもので、
スキだらけでマヌケなカンジがまた、ザ・芸能人で、うれしくて震えてくる。
しかし、ロック歌手という職業は、果たしてそれでよいのかという話である。

そこで、沢尻エリカの歌手活動である。
彼女の歌を聴くといつも感じる事があるのだが、
彼女には、歌うたいとして決定的に足りない何かがあるとは思わないだろうか。
歌唱力?リズム感?違うねーだ。そんなのないことを前提で言ってんの。では何か。
それは基礎的な運動能力である。
沢尻エリカは二つの異なる動作を同時にこなす訓練が、圧倒的に足りない。
音楽にのって体が自然に動くという動作も、ほとんど身についていない。
多分、意外とカラダでものが考えられない、理屈でここまでやって来たんだろう。

ロックは身にしみないと歌えない。というか、アタマで考えたことはたかが知れている。
とりあえず動いてみないとわからないことはいっぱいある。
だから、大人の人たちは若い娘さんから“身にしみる”という機会を、
まだ稼げるからといって奪わないであげてほしい。
っつーか、簡単にちやほやすんなってコト。
そんなんじゃ、ツェッペリンのライブに連れてってやったところで、
「ああどうも。」とかいって
アゴ挨拶されるだけだぞ。

ETV特集「ケータイ小説@2007.jp 藤原新也・次世代へのまなざし」を見る。

いまどきの若者を追って、相変わらずの藤原新也ではあるが。
オレは一般の中年と同じく、ケータイ小説は読まない。だがこれだけ売れるのには
訳があるのだろうと思って、さわりだけでも読んでみたが、おもしろさがわからない。
何故だろうと思っていると、
地べたに座っている若いヤツの写真を見せながら藤原新也が、

「魚釣りには棚というものがあって、アジの棚とサバの棚は交わらない。
近頃は人間にも棚があって、この写真の子供達と、自分達大人は交わらず、
同じ場所にいても違うものを見ている。」

と言っていたのであった。なるほどと膝を打ったのである。そりゃわかんないはずだ。


同じ場所にいて違うものを見ているという状況は、
とてもクリエイティブで何かものすごく新しいものが生まれる可能性を感じるが、
出てくる作品が不治の病に侵されて引き裂かれる恋人達の、悲しい恋の物語ばっかりじゃねえ・・・。
それよりも、薄ら寒いコンビニや、ちらかったワンルームのたまり場で、
出会って別れたその子供達自身の方に興味がわくし、
彼らがそんな所に置かれている事がせつない。

公開中のケータイ小説の映画化作品には、
ミスチルなどのドリカム的な楽曲がテーマ曲として採用されているが、
現実の彼らの状況とは、実はものすごく遠く離れた世界だ。
はっきりいってケータイ小説は、少なくともマトモな中年には必要ないだろう。
そしてオレは、そんな地べたに座った彼らの事を描いてみる方に興味はあるが、
当事者であるあの子達には、見向きもされないにきまってる。商売にならん。

だって若くて未熟なのは、もう充分つらいのに、
誰が好き好んでわざわざ夢をぶち壊しにされるような現実を突きつけられたいだろうか?

つーか今、ドリカム批判をすると、冷たい人だと言われそう~。人でなしと呼ばれそう~。
でも、呼ぶなら呼ぶがよい。大体みんな、そんな簡単に泣いていいのか?
「美和ちゃんかわいそう~!」「吉田、よく頑張った!」
「いつかまた歌える日を私たち、いつまでも待ってるからね。」
はいはいわかったわかった。大事な伴侶が病気で、壮絶な闘病の末の早死に。
彼のために悲しみをかくしつつ、歌い続けるけなげな私・・・。もうお腹いっぱい。

あのさ~つまり何が言いたいかっつーと、
幼稚なんだよ。表現者たるもの”かなしいこと”をかなしいって言っちゃあダメ。
それは、ウンコを見て”それはウンコだ”というようなものbyナンシー関だからして、
ぜったいやっちゃいけないことなんだ。でも世間を動かしているのは、
そういうやさしい人たち。
そのように大変な人でなしのオレであるが、
どうしても聴くと泣いてしまう歌がある。
ばなながだいすき、でもはんぶんしかたべられない『さっちゃん』の三番であるが、
この歌詞を読んで、泣けるとはどういうことなのか、考えてみて欲しい。

さっちゃん
さっちゃんがね
とおくへいっちゃうって
ほんとかな
だけどちっちゃいから
ぼくのことわすれてしまうんだろう   
さみしいな
さっちゃん