娘に質問されました。「ねぇかあちゃん、プラスチックなコイってなあに~?」と。


ここでエスプリの利いた答えが出来ないと、
娘の今後の情操教育に問題が起きるような気がしたので、私は一生懸命考えたのでした。

Perfumeの1stアルバム「GAME」が
オリコン初登場で3位以内になったということは、
日本の音楽業界にとって久々の慶事です。
めざましテレビで軽部がPerfumeのことを
「洪水という意味のこのグループは云々」と紹介したように聞こえたので
「香水だろ?」などとテレビに向かってつっこんだりしましたが、
まあ私の聞き間違いだったのだけど、
ある意味この盛り上がりは本当に、洪水のようにも感じるのです。

「プラスチックは、かるくて、こわれにくくて、
いろんないろやかたちをかんたんに作れるものだから、ーそんなコイのこと。」
私はそう娘に答えたわけですが、
プラスチックとは、この21世紀型のアイドルPerfumeそのもののようです。
思えば私たちの年代は常に、
思想の重力との戦いを続けてきました。
重たいのだが重く見えない。羽があるように見えることを心がけていたのに、
周りはいつのまにか、ただ軽いだけのスッカスカのものか、
重いように見えて実はただのハリボテしかなくなってしまいました。
そんな下界にPerfumeは
セラミックの羽をつけて、大天使のように私たちの前に降りてきました。
大変喜ばしいことです。ハレルヤ!

今の子供たちは幸せです。
自分の大好きなことを見つけて、一生懸命にひたすら続けることで
良い人たちと出会い、夢を実現しようとしている、
竜巻の渦中の3人の女の子たちを見ながら、
そのキュートな歌をうたい、踊ることによって
一緒にそのハッピーな竜巻に巻かれることを、追体験できるのですから。

「ねぇかあちゃん、コイってなあに~?」

困ったな、どう答えればいいのか。
おかあちゃんはあんまり経験豊富ではないのでね。
チョコレートディスコに行けばわかるかな?
みんなチョコレートディスコに行きたくない?
おかあちゃんはすごく行きたいよ。

みんなYUIが好きだねえ。直球すぎて笑いが止まらないんだけど。


どうせ純粋とか、純朴とか、純情とか、そーゆうのがいいんだろう?
風に吹かれてまっすぐな目で、ギター一本で青い春を歌う少女とかいうイメージに
グッと来てんでしょ。
男ってヤツはこういう、
僕の心のやらかいところを今でもしめつけてくれるような女の子が大好きだ。
なんか、自分の実年齢とはカンケーなく
「やらかいところ=少年の心=ピュアな心」を、後生大事にしていてそんな部分を
わし掴まれるとイチコロなところは、
クマを抱く若くないオンナとややこしさでは大差ないのであった。
だからさァ~、そんなにいいことか、ピュアって?

ある時期までの広末涼子の人気っぷりときたら呆れるほどであった。
クレアラシルのCMに出ていた時なんて、なんだこのシロートと思ったものだが、
そのピュアなイメージであっという間にスターになっていった。
そしてデキ婚に離婚を経て
「ブラが透けそうなくらい汗をかいた日にはーいっぱい出た...。」のCMが
善良な市民の皆様の神経を逆撫でしたため、放送されなくなったのはご存知の通りである。
つまりそれは、善良な市民=ピュアな心を忘れない大人で、
彼らは広末の大人の女としての生臭い部分を直視しなかったから、過剰反応したのだ。
これは広末の女優としての資質も関係するが、彼女の場合演技力で勝負するタイプではなく、
その時々の本人のコンディションを味わうタイプなので(最近の芸能人はほとんどそうだが)
彼女の生々しさを無視しようとするのは正しいことではない。

ピュアな心を忘れない大人の男のみなさん、
アンタらはYUIのいったいどこを見てるというのだね?
オレはちゃ~んと知ってんだぜえ。あの娘が歌のサビを歌う顔、
すっげえいいよね。
あんたら絶対頭の中であの娘のこと、何回もハダカにして
ああゆうことや、こういうことをやってんだろうが。違うか~?
認めなよ、少年の心を忘れないってそういうことじゃねえの?

実はまともな女ってヤツは
少年の心なんてバカにしてるんだってこと、
いい加減気づいた方がいいぜ。ケケッ。

家の者が言うのである。
「この頃は歌の上手い歌手が減った。昔はアイドルでも歌が上手かったものだ。」と。

じゃあ誰が上手かったのだと聞いてみると、「例えば、天地真理とか。」
オレは家の者に気づかれないように笑った。他に思いつかなかったのか?まあいいけど。

ところで巷では、R&Bな歌うたいが相変わらず流行っているが、
R&Bにとって歌の上手い黒人のように歌えることがそんなに大事なことなんだろうか。
アポロシアターで歌ったり、教会でゴスペルを歌って
歌唱力を褒められることがどうだというのだろう。
それ自体は大変なことだ。
才能と、それをのばすための訓練があってこそのことだろう。
採れたての新鮮野菜がうまいのは当たり前だ。
しかしそれが泥がついたまんまだったり、
こ汚い器にのせられて出てきたら食いたいと思うだろうか?オレは思わない。
新鮮野菜でいるだけではなんにも心は動かされない。
そんな野菜は世間に出ればゴマンといるからだ。
本物の京野菜が食いたければ京都へ行けば良い。
近所のスーパーで京野菜風の野菜を買っても、あくまでもそれは「風』だというだけのことだ。
野菜が盛りつけられる器も、素材にあったものでなければならないだろう。
皮も剥いてないようなジャガイモがマイセンの皿にのってきたらどうだろう。うれしいか?
素材の良さを最大限に引き出せるような演出が必要だ。
それと同時に、食卓にのぼる野菜に、素材が良いのは前提条件である。
いちいち褒めている方がおかしい。
逆に言えば日本のR&B業界は、そんなにヒドい遺伝子組み換え野菜ばかりなのかというハナシである。

福原美穂と宇多田ヒカルのどちらが、
これから病気に強くて安定した生産性が期待できるかと問われれば、
今ならみんな福原だと答えるかもしれない。
しかしどちらにデビュー当時から素材に独特の風味があるかと問われれば答えは違うはずだ。
いくら宇多田ヒカルが薄味のR&Bシンガーになってしまったとしても、
実はイタくてややこしいアクがある女であったことはすでにバレているのだ。
そしてその灰汁こそが野菜を野菜らしくする。
最初からそれがないのは論外である。

ーところで、みんな料理する時ちゃんと灰汁は取ってる?
もちろんオレは取ってるよ。料理は下手だけど、それだけはやるんだ。
だって洗練された大人の味覚を持ってるから~。
大袈裟?
でも、理解に苦しむときはたいていそのように自分に対して解説すると、
簡単に納得できるのであった。

例えば学生の頃は男子も女子も、無駄につるんで遊んでいるが、
その中でデヴィッド・ボウイと、ロディ・フレームにそっくりな美少年2人組が
アンニュイなカンジで、誰も近づけずにいつも一緒につるんでいるとしたら、
何か余計なことを考えない方が無粋というものだ。

ある時、チャゲアスを聞いていた時、
こいつらのラブソングには、何でこんなに女っけがないのだろうと思った。
「君」という存在があまりにも希薄な気がしたのだ。
君と僕は本当に男と女なのか?
そこでオレは気づいてしまったのだ。
カラオケで時々、照れくさそうに見つめ合いながら同僚と二人で熱唱する「SAY YES」
ーやおい的な解釈の洗礼を受けたことのある人なら瞬間的にわかるはずだ。
これは男同士の愛情についての歌だと。
そう思って聞くと、激怒することなく趣き深く聞ける曲もあるというものだ。
小田和正の「君が、嘘を、ついた。」とかね。
いちいち句点で区切る所なんかがもう、いきなりおかまセンスである。

最近オレの中で、売れている理由がわからないのがEXILEであるが、
最初は野猿の代わりなのかくらいの考えであった。
しかしPVを見てやはり思ったのだ。彼らの世界には女の存在が感じられない。
例え普通の女性が出演していようともだ。前に倖田來未と共演したことがあったが、
あれはホストがキャバクラ嬢を接待しただけだし。
歌う本人のセクシャリティーには関係なくやおいな空気を味わいたいファンもいるに違いない。
様々なニーズがあるわけで、制作者側はそれに答えなければならない。
売り出し方も、楽しみ方も千差万別である。

それにしても、ある種の女にとって、
やおいで世界を解釈することの楽しさったらないだろう。
何故かというとそれは、自分とまったく関係を持つことがない相手についての、
無責任な妄想だから。
まともに相手と対決できるわけでもなく、
する気もない相手をネタに妄想夢芝居をするようなもので、傷つくこともない。

デヴィッド・ボウイとロディ・フレーム似の美少年二人組は
今頃どうしているだろう?
いいオヤジになって生え際も遠くなり、ウエイトも増した。
十数年ぶりにばったり出会った六本木のカラオケバーで
終電が来るまでの間、見つめ合いながら
お互いに平井堅と槇原敬之の歌をプレゼントしあったりしているだろうか・・・。

そんなに深刻な状態のか日本の音楽業界って?と、
THE HELLOW WORKS を聴きながらオレは考えたのであった。


つきあう相手に求めるものの数ある中でどうしても譲れないものがある。
それは、カーステで流す音楽の趣味の一致するか否かである。
岩崎宏美以外のアルバムを聴かないというのは、他人の恋人なら笑い事だが、
自分の相手ということになれば別である。それは本当に困る。

人は popmusicに何を求めるかのだろうか。
耳障りの良さ?
座持ちが良いこと?
おしゃれなイメージを持っているということ?
カラオケでうまく聞こえるような曲であること?

いつもカーステやipodをつけるときに考える。
オレはどうしてこんなにもいちいち、どうしようもない曲に対して怒っているんだろう?
音楽なんて衣食住に関係ない。なくても困らないものだ。
しかもこんな人を怒らせるだけの、何の得にもならないブログまで書いて。
バカじゃないかと思う。
だったら何故、人は歌ったり、踊ったり、描いたり、創ったり、演じたりするのか。

そもそも創作活動は生活に密着したものであり、その延長線上にあったのだと思う。
もっと言えば過酷な生活を耐えるための、祈りのようなものだったのではないだろうか?
popmusicなど、たかがそんなものに大袈裟なと思うだろう。
しかし「ダンスフロアーで踊る君を見ていた」というフレーズだけで
人生がひっくり返ることもある。
大嫌いなTRFだがこの部分だけは素晴らしい。
曲はダメだけど歌詞だけでいろんなことを思うじゃないか。
逆ももちろんだが音楽を聴いていて、そういうことにオレは出会いたいんだ。

「今夜はブギー・バック」の08年度版セルフカバーは、
オリジナルよりも一曲にかけた時間が長い。
十数年の時を経て、問題はより深刻化しているのかと思ったのはそこである。
音数は少なめで、アレンジはラフなカンジ。
しかしいつもの刃物のようなキレはなく壮快ではない。
けなしているのではない。
オレはそこに彼らの誠実さを感じるのだ。
創作活動が生活の延長線上にあったものならば、自分の今を表現することは正しい。
人にどう思われようと、
自分の職場をマトモにするために、アジテーションすることはダサくない。
カッコイイのだ。