GIRL NEXT DOORが素晴らしすぎるユニットであるということは、
いまさら言うまでも無いことなんでしょうが、やはり言っとくべきでありましょう。
ーエクセレ~~ントッ!


まず、ユニット名が素晴らしい。となりのおねえちゃんって・・・
「ぷ~~~っ」ゴロロ~ンガラガラガッシャ~ン!(窓辺のマーガレット、桂三枝風で)
なんのヒネリも工夫もない。隣のお姉ちゃんのことを、隣のお姉ちゃんと言ってるだけ。
なんてわかりやすい。今時の中学生はもっと英語力あるだろうに。
でも、そうじゃない偏差値低めのお子達にもわかるようにレベルを下げてあげてるなんて、
なんという文部科学省が喜びそうな心遣いでしょう。
賢い子は授業で退屈していても、おバカさんに付き合って、
み~んな同じように画一化された日本人の出来上がり。これで日本も安泰ですね!

そしてPVですが、たかが隣のお姉ちゃんごときにこんな豪勢な接待して、
なんか談合でもあったのかと勘ぐりたくなるようなバブリーさ加減に脱帽ですわ。
これは、ダラッとしたジャージを着た、中途半端な田舎に住む茶髪の女子中学生に、
大きな大きな、叶うはずのない虚しい夢と希望を与えたことでしょう。

さらに楽曲についてですが、ぐだぐだのジャージを着て、
ガッコーサボってカラオケでトグロ巻いてる女子中学生たちが、
タンバリンぶったたきながら、一時でもスタアになったような気分で歌うのには最適ですね。
タイトルがまたふるっています。
「偶然の確率」に「幸福の条件」だって。
スカートの丈をきっちり守ってる女子中学生が書いた卒業文集の題名のようですが、
漢字が多いと、ちょっとすごいこと書いたような気になりますでしょ?アレですね。

ジャージの女子中学生と、スカートの丈をきっちり守る女子中学生との間に共通するものは、
アンバランスさと幼稚さです。
GIRL NEXT DOORのディレクターはそこまでを計算して、
このユニットがヒットすると見込んだのでありましょう。まったくもって素晴らしい!

彼女達はGIRL NEXT DOORをケータイの着うたにはするだろうが、
果たしてCDを買うだろうか?
CDという音盤は記録だ。だから残る。
音盤を買って聴くということは、自分の思いも記録して、
何度でも再生するということだ。
それは空間も時間をも超える。だが着うたは単なる「点」だ。
あっという間に消えてなくなるものだ。そんなものばかりを量産していいはずがない。
根拠のない夢ばかりを見ることを、
大人は安易に子供達に勧めてはならない。

人生はほろ苦いに決まっているのだ。

さて、今から7~8年前、オレの知人が出産したので見舞いにいった時聞いた話である。


知人がナースステーションの隣にある公衆電話で相手に繋がるのを待っていたら、
若い父親が看護師の女の子に出産関係の書類の書き方を教わっていた。
そこでその父親は
「名前を”夜空”にしようと思うんですが、おかしいですかねえ?」とデレッとして言った。
看護師の女の子は「そんなことないと思いますよぉ~。」とにっこりして答えた。
でも、知人には彼女の心の声が聞こえたんだとさ。
「おかしいに決まってんだろっバーカ!」とね。
そんな名前つけたら、どう言う状況で仕込まれたか、いろいろ想像されちゃうだろ?
ハズいじゃん?

そんなわけで、スガシカオだ。
彼の曲を聴いて毎回思うのは「惜しいんだけどな~」なのである。
オレはファンク者であるので、イントロ部分のゴリゴリな調子を聴いて、期待大きくするのだが、
さっきまでの男騒ぎなファンクはどこかへ行ってしまって、
途中から女の子がうるうる来るような分かりやすい、
泣きの入った曲調に変わってしまうのである。惜しい。なんとも惜しい。

スガシカオの初期のヒット曲は、
あまりサビ部分が際立つ作りではなく、というよりも全編がサビだという、
ある意味大変潔い作りの曲が多かった。
しかし、「夜空ノムコウ」のヒット以降の作品の多くは、まったく違う2つの曲を、
むりやり1曲にしてあるように聞こえるのだ。
まぁ、ヒットを出し続けるために、そしてファンクを世間に浸透させるには、
そういうメジャーな部分も入れて、
リスナーの耳に入れていかなければ難しいということもわかる。わかるのであるが、
問題はそんなことではない。

スガシカオの曲の終わり方は、きっちり終わらないものが多い。
フェイドアウトではなく、
途中で投げ出したようなカンジ。やっぱ自分のケツは自分で拭かなきゃ
ヤリはじめちゃったら、イクまでやんなきゃねえ。
そんで孕ませちゃったら、ちゃんと責任はとっていかないとイカンと思うのであるよ。
たとえ相手のオンナが、
ヘエキで自分の子供に”夜空”なんて名前を付けるような痛いセンスであってもな。
それが男気というもんなんじゃねえの?

それから1年後、知人は、乳児の定期検診で
「夜空さ~ん、○○夜空さ~ん」と呼ばれているのを聞いたので、
あたりを見回したが、それらしい親子はおらず、
最後までどんな夜空なのかわからなかったと言っていた。
オレもぜひ見たかったな~。その夜空。
夏休みは忙しい。


だってさあ、ラジオ体操のために早起きしてさ、夏休みの日誌を朝のうちにやっちゃってさ、
絵日記書いてさ、アサガオ観察してさ。そんで時々海水浴して、近所の里山に登ってさ、
花火大会とお盆の里帰りがあんじゃん。そんでまたさんすうとこくごのプリントやってさ、
そんで最後に工作と理科研究が残るんだよ。
ダサいJ-POPとかきいてる場合じゃないっての。
覚えてるのはそれこそ”何度も何度も”かかっていた青山テルマの曲だけ。うるせえよ!

そしたらさあ、赤塚不二夫がついに死んじゃったんだよな。
それが何よりもショックだったぜ。
上野の森美術館で「赤塚不二夫展」やったとき、わざわざ上京してトークイベントに行ったもの。
ところでみなさん、みなさんの血中赤塚度の割合はどんなかな?
オレは7割で、2割が梶原一騎。残りの1割はいつも変わるんだけど、
最近はベルマークのひみつだな。いや~夏休みの研究テーマだったんだ。

それなさておき、
オレたちくらいの年代って、赤塚ギャグがいちいち、血となり、肉となっているよな。
太陽が昇るのはバカボンの歌の反対側からと覚えたり、
41歳の春に特別の感慨を持ったりとか、
昔の女の子達なら、
化粧用コンパクトはゴージャス系のものを一つは持っときたいとか、そういうの。
何よりすごいことは、「世の中に起きる出来事はすべてに意味がある。」という常識を、
「そんなもんねえんだよ!」と言い切って、しかも「
これでいいのだ」と全肯定したことだ。

しかし、その後「無意味」を肯定された後の世代は、
「無意味であるかもしれない自分」から逃れるため、逆にど~でもいいことにも意味を求めたがる。
世界でたった一人しかいない自分は、ものすごく特別な存在なのだと。
しかしそれは、オリジナルであるというだけのことで、それ以上の意味はないのだ。
それでも「無意味の向こう側」にあるものを見つけたいなら、
無意味の大河に流される時間もときには必要だ。
しかし無意味を意味のあることに変えられるのは、自分だけだ。
だってさあ、子供の理科研究の手伝いして、いったいなんの得がある?
あいつら自分でやりゃあいいんだよ。それこそ無意味の極みじゃん。
でもさあ、ベルマークがついたものを探しに買い物に行くなどという、
オトナになってまだそんな馬鹿げたゲームを真剣にやれるなんて、
すげえ楽しいとは思わんかね。

無意味と意味あることは表裏一体であり、
地続きであるのだということを大人は子供にしっかり教えてやるべきだ。
赤塚不二夫がオレたちに教えてくれたように。

倖田來未の前では、いかに天下のブラックアイドピースの紅一点
プリンセスファーギー様であろうとも、
そこらへんのスーパーのチラシにのってる安い外人モデルにしか見えなくなってしまうという
破壊力には、ただただ感心するばかりである。
DUBLEと安室奈美恵のコラボと比べてもその格安ぶりは一目瞭然である。
音楽業界はすでに国産で充分やっていける部分もあるということである。


夜中まで音楽談義を闘わせていたある日、
演歌がなんかダメになったのはいつからだろうかという話題になった時、
ぴんからトリオの「女のみち」からではないだろうかという結論に達した。
しかしオレはぴんからをまったく否定してはいない。
タワーレコードのNO MUSIC NO LIFEのポスターに宮史郎と横山剣が一緒に映っていた時、
そんなアルバムが本当に出るのだと思って、
小一時間ほど店中を探しまわったのである。
だって聴きたくね?そんなゴリゴリで暑苦しいコラボ。

「女のみち」の大ヒットは72年で、
その前年の71年に”カラオケ”が発明された。
プロと同じオケでシロートでも手軽に歌を歌えるという新しい娯楽は、
往来で自己満足を垂れ流しても全然平気だという、
下品な風潮を作って現在に至るのである。まったく嘆かわしい。
伝統芸能が一般化する際によく起こることに、
基本の忘却あるいは無視がある。歪んだ作法の伝承は時に訳の分からないものを生む。
そこでオレは妄想するのである。
最近の演歌業界を大御所の皆さんはどのようにお考えなのであろうか。
鼠先輩はサブちゃんに挨拶に行っても、ちらし寿司を一緒に食べるどころか、
楽屋に入れてもらえるのだろうか?

もう演歌部門の新曲を生産するという仕事は終了するべきだ。
クラッシック音楽のように、過去の名曲を繰り返し歌えばいいんじゃないんだろうか。
だいたい鼠先輩の「六本木」だって
三原順子の「セクシーナイト」を木梨憲武が歌ってるのかと思ったし、
紅白出場というよりも忘年会の催し物で、うれしいのは自分だけ。

しかし演歌そのものはなくならないだろう。
それはすでに値引きされてはいるのだが、他のものに変身して生き延びているからである。
そこで最初に戻るが、
激安倖田來未や、購買層が全く見えない川嶋あいののイラッとくる妙な歌い回しは、
今までさんざん参考にしてきた洋楽の基本に従ってはいない。
あれは邦楽における演歌が退化して出来た、新しいコブシなのだ。

なんだかんだ言っても、ある種の日本人は演歌からどうしても離れられない運命らしい。
「ラストフレンズ」見てた?オレは全然。
でもさぁ巷で大流行りだってんだろ。題材もナニだったしな。だから見たさ最終回をさ。
感想?そんなの決まってんじゃん。つまんなかったよっっ!


みんな勘違いしない方がいいと思うんだけど、
同性愛者をなんか特別なもんだと思ってないか?
ついでに、ものすごく純粋な人たちだとか考えてないか?
もう一つ言わせてもらうと当事者である同性愛者自身も、
自分の事ピュアな人だとか決めつけてねえか?
ンなわけねえだろ!そんなの好きになる相手が異性ではないってだけのことじゃん。

そりゃあさ、少数派だから愛や恋に臆病になったり、
ものすごい孤独を感じるってことはあるだろうさ。でも
愛だの恋だのに関する諸問題は異性間でも同じだ。
いいかげん感動的な愛を演出するために同性愛を使うのは止めにしたらどうなんだ?
当事者に対して失礼だとオレは思う。
まっとうな同性愛者なら「まだバカやってんだ。一般ピープルときたらぁ~」とか言って
笑い飛ばしてくれるんだろうが、
まだあんまし事情をよく知らない人や、ひとりメルヘンな当事者だって見てんだから、
勘違いをさせないためにもちゃんとやれよなと言いたい。

ところで「ラストフレンズ」の企画は
アメリカのテレビドラマ「Lの世界」に目配りをしたもののように思うが、
あのようなリアリズムで身もフタもないストーリーにする事は、日本ではまだ早すぎるだろう。
しかし日本特有のDVやレズビアンの事情はあるし、
放送コードにのせられるようなストーリーはいくらでも作れるはずだ。
大体結論を先に持ってきてオチはわかってんだから、
相当練った脚本にしなけりゃ深刻なテーマを扱ったかいがないというものだ。

と、ここまで書いて気がついた。
みんなそんなにマジメにテレビなんか見てないよな。
蹴っ飛ばされる長澤まさみを見て
「まぁコワいわねぇやっぱDVはいけないわよね~」で終了だよな。
レイプされた長澤まさみを見て、
「ヌードはNGだからって、布団です巻きにしなくても・・・」とか考えるオレって、
人として歪んでる?
とりあえずは自殺を図った人に遭遇したら、救急車を呼んだ方がいいと思うが。