四柱推命の面白さと厳しさ | 大石眞行の玄学ライフ

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かつて四柱推命に興味を持ち始めたころは、人間のインデックスが出来るということが大きな魅力だった。
○○の命、という言葉に名状しがたい興奮を感じたものだった。

そのうち、理会(理解じゃないよ)が進むと、次第に命より運の分析が面白くなってくる。
命という潜在可能性は、いつ、どのような形で現実化するのか?
これこそが占いという未来予測の醍醐味であろう。

命の分析も十分難しいが、運の解明はさらに複雑である。
間違えやすいから、もう一度確認しておくが、難しいのではなく複雑なのである。

もつれた糸を一本一本解きほぐすように運を解明していく。
この作業に習熟すると、現在の運に、あと何の糸を一本加えたら、どう変わるということがわかるようになる。
四柱推命による開運法の端緒である。

ちなみにさらに理会が進むと再度、命が面白くなってくる。
命を知るだの、命を生かすだの、軽々しく言ってくれる輩は多い。
命術を知らぬ人間の命論は、ほとんど気の利いたつもりの戯言に過ぎない。

可愛い子犬や子猫だけが命なのではない。
ミミズもナメクジも深海魚も命である。

かつて、今和尚が府中の刑務所に慰問に行ったときに、窃盗の前科七犯の老人がいたそうだ。
この老人、俳句をやる人で、看守や他の囚人たちから師匠と呼ばれている。
実際に良い句を作る人だったらしい。
そこで和尚が
「お前、これだけいい句作れるんだったら、俳界で食っていけるよ。俺が雑誌や新聞に紹介してやるぜ。」
というと、その師匠
「先生、それは無理です。私の天職は盗みですから、これを取り上げられてしまったら生きていけませんよ。」と言ったそうな。

これが命だ。

いいとか悪いとかではなく、盗むことでしか生きた証を残せない者もあるのだということを容認できるか?

むろん、それを是として推奨するのではない。
命をみることを看命という。
見命でもなく、視命でもなく、観命でもなく、看命である。
大辞林にいわく
看とは「悪い事態にならないように気を配って世話をすること。」だそうだ。

盗みでしか身の証を立てられない人間を、どう世間と折り合いつけさせるのか?
どのように気を配って、どのように世話を焼くというのか?

軽々しく命を語るパートタイム片手間占い師に訊いてみたいものだ。