音楽の歴史とROCKなお話し!!                (翔ちゃんのブログ) -36ページ目

クワトロ姉さん!

ペタしてね


本名 スーザン・ケイ・クアトロッチオ(Susan Kay Quatrocchio)としてミシガン州デトロイトで生まれる。父親アート・クアトロッチオはイタリア系であり、母親のヘレン・レベルはハンガリー系であった。

1965年、3人の姉とThe Pleasure Seakersを結成しアメリカ各地やベトナムをツアー。1969年に独立してLAでCradleを結成。1970年6月にデトロイトで歌っている際、ジェフ・ベックのモータウン・スタジオでのレコーディングのために同地に来ていた音楽プロデューサーのミッキー・モストによって高い評価を受ける。1971年末、ミッキーを頼って渡英。
72年7月、ミッキー自身のレーベルRAKレコードからUKにおけるファースト・シングル「Rolling Stone」を発表。フォークソング調の曲でさほど売れなかった。
73年に入ってからハードロック路線へのイメージチェンジのためソングライティングチームにニッキー・チンとマイク・チャップマンを迎え、芸名もSuzie QuatroからSuzi Quatroに変わった。セカンドシングルの「Can the Can」はUKを含むヨーロッパ及びオーストラリアでナンバーワン・ヒットを記録する。続いてリリースされた三枚、「48 Crash」(1973、UKチャート3位)、「Daytona Demon」(1973、UKチャート14位)も大ヒット。この年のUKのBest Selling Artist/Female/Singleの第1位となった。
74年よび「Devil Gate Drive」(UKチャート1位)、「Too Big」(UKチャート14位)、「Wild One」(UKチャート7位)も同様にヒットした。彼女のファースト及びセカンド・アルバムはヨーロッパとオーストラリアで大成功を収めた。日本でも70年代の終わりまで大変な人気があり、77年には大都市だけではなく中都市も回る大規模な日本ツアーを成功させ、日本でのライブアルバムも発表している。

1978年に長年バック・ギタリストを務めていたレン・タッキーと結婚した。二人の子供(ローラ(1982年生)およびリチャード・レナード(1984年生))がいたが、1992年に離婚した。
現在イギリスとドイツで暮らし、BBCラジオ2で毎週ロック・プログラムのDJを務める。さらにミュージシャンとしてのツアーも継続している。

2006年2月、アルバム『Back To The Drive』をスウィートのギタリスト、アンディー・スコットのプロデュースでリリースした。アルバムのタイトル・トラックはマイク・チャップマンによって書かれたものである。
(以上ウィキペディア参照)


Suzi Quatro - Can The Can




最近の映像もご紹介しましょう!
Suzi Quatro - Can the Can & 48 Crash 2007






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グレイテスト・ヒッツ/スージー・クアトロ

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Peter Framptonっ知ってますか?

バラードを特集してますが、Peter Framptonの曲をいくつかご紹介します。個人的にはこのBaby I love your wayが、一番好きかな~~でも、他の曲も良いですよ!

Peter Frampton-Baby I love your way



ロンドン出身。高校生の頃、同じ学校の先輩にデビッド・ボウイがおり、休み時間などによく彼とギターを弾いていた。1966年、アイドルバンドのザ・ハードに参加。そのルックスから人気者となり、1968年には「1968年の顔」ともてはやされるようになる。しかしアイドル扱いに嫌気がさしたフランプトンはハードを脱退、1969年に元スモール・フェイセスのスティーヴ・マリオットらとハンブル・パイを結成した。
二枚看板だったはずのハンブル・パイだったが、アルバム毎にソウルフルなマリオットの色が濃くなり、次第にフランプトンは居場所を失っていく。 1972年にハンブル・パイを円満に脱退し、ソロ活動を開始することとなる。
ギタリストとしてもジョージ・ハリスンやニルソンのアルバムに参加して腕を磨く。
1974年から精力的に草の根全米ツアーを始め、地道にファンを増やしていく。1976年、この努力が実を結び、先の全米ツアーを収録した2枚組のライブアルバム『フランプトン・カムズ・アライブ (Frampton Comes Alive!)』が全米1位、全世界で1000万枚を売り上げる驚異的な大ヒット作となる。Show me the way、Baby,I Love Your Way、Do You Feel Like We Doの三つのシングルの大ヒットもあり、年間通してこのアルバムは莫大なセールスを記録した。この結果、ハード・ロック界ではライブアルバムがブームとなり、ほかのミュージシャンたちもこぞってライブアルバムをリリースした。
また、この作品の成功を機に、アメリカではアルバムのビッグセールス時代が始まったといわれる。
1977年にも「アイム・イン・ユー」などのヒットを放ち、ビー・ジーズのギブ兄弟らと映画「サージェント・ペパーズ」にも出演した。
80年代、中森明菜のアルバム「Femme Fatale」に、ゲストギタリストとして参加。1987年にはデビッド・ボウイのツアーにギタリストとして参加したものの歌うことはなかった。また、スティービー・ニックスのツアーにもギタリストとして参加している。
90年代には小さなクラブ周りを続ける傍ら、スティーブ・マリオットと再会し、共同でアルバムを作る計画を立てるが、その最中にマリオットが事故死(火災による焼死)して頓挫。アルバムPeter Framptonを発表する。
1995年、『Frampton Comes Alive II』をリリースすると好評を博し、人気が復活する。この時期になると彼のギターは円熟味を増し、ギターレジェンドの一人に数えられるようになった。
そして2006年には豪華ゲストを迎えてのインストアルバムFingerprintsを発表する。 ラリー・カールトンらをおさえて2007年グラミー、ベスト・ポップ・インストルメンタル・アルバムに選出される。
(以上ウィキペディア参照)


Peter Frampton - Show Me The Way 1976 Live




月日は流れます。。。。。。1995
あの、レスポールカスタムは健在です!
Peter Frampton - Lines On My Face Live 1995




さらに月日は流れて2008年ニューヨーク

近年、彼の人気は本国で再燃します。

でも、変わっちゃったね~~(笑)


Peter Frampton - Show Me The Way




Frampton Comes Alive!/Peter Frampton

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この曲は、バラードの代表曲だと思う

All By MySelf

若い頃は ひとりでも淋しくなかった
愛し合うことは ただの快楽
でもそれはもう過去のこと

ひとりぽっち
友たちを思い出し電話をしても
誰ひとり家にいない

ひとりぽっち
もう孤独はたくさん
もうひとりで暮らすのは厭なんだ

信じられないことだけど
時々不安に駆られて
遠くかすんでみえる愛だけに 
癒されている

ひとりぽっち
もう孤独はたくさん
もう一人で暮らすのは厭なんだ


Eric Carmen - All By MySelf (HQ)



Eric Carmen
オハイオ州クリーブランド出身。 幼少の頃から音楽に親しみ、3歳になった時すでにクリーブランド研究所に登録された中で最も若い学生だった。6歳の時、叔母やクリーブランド・シンフォニー・オーケストラのバイオリニストからレッスンを受けた。11歳頃まで自身の歌を書きながら、ピアノを傍らにメロディ・メーカーとしての基礎を固める。ビートルズとローリングストーンズを知ってからロックンロールに目覚め、高校時代にバンドを結成。
ジョンキャロル大学入学。Cyrus Erie というバンドを結成。(Epic レコードからシングルをリリース)。ギタリストのWally Bryson、友人の Dave Smalley と Jim Bonfantiと共に新たにラズベリーズを結成する。
エリックはラズベリーズのボーカリストとしてメジャーデビュー。すぐにクリーブランド(オハイオ)でロックンロール・グループとして人気が出た。1972年、ラズベリーズというアルバムをリリース。Capitol Recordsと契約する。"Go All The Way" はビルボードシングル・チャートを5位にランクインした。その後、1974年にラズベリーズは解散する。
エリック・カルメンは1975年のArista recordsからソロとして一枚目のアルバム“ALL By Myself”をリリース。表題作を含む3作がヒットシングルとして上位にランクイン。 映画『フット・ルース』のために彼が書いた“Almost Paradise”(愛のテーマ)」は、1984年に作曲家として彼の存在を改めて示した。また、1987年に再び映画『ダーティダンシング』のために書かれた『ハングリー・アイズ』『メイク・ミー・ルーズ・コントロール』でチャートインした。
1999年夏にはリンゴ・スターとツアーで回った。
2004年11月に、オリジナル・メンバーでの31年ぶりにラズベリーズを再結成を発表。ニューヨーク・デーリー・ニュースで年間のベスト・コンサートにラズベリーズが選ばれた。
(以上ウィキペディア参照)



いつもの様にもう一曲
ALL BY MYSELF - Celine Dion (with Lyrics)



しかし、好き嫌いは有るとしても、この人の歌唱力はたいした物です!

花魁と2ショットや〜(笑)




花魁と2ショットしました

BEATLES バイブル本

ザ・ビートルズ全曲バイブル 公式録音全213曲完全ガイド/著者不明

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ビートルズのバイブル。う~~んちょっと欲しい気もします。(笑)

John lennonの29回忌12/07

LOVE JOHN LENNON



Imagine - John Lennon (Live)




1980年12月8日の午前中、自宅ダコタ・ハウスでジョンはローリング・ストーン誌掲載用写真のフォトセッション(撮影:アニー・リーボヴィッツ)に臨んだ。11月に発売されたニューアルバム『ダブル・ファンタジー』のジャケット写真(篠山紀信撮影)では、整髪料をまったくつけないマッシュルームカットのヘアスタイルにトレードマークの眼鏡を外し、ビートルズ全盛期の頃のように若返った姿が話題を呼んだが、この日のジョンはさらに短く髪をカットし、グリースでリーゼント風に整え、眼鏡を外して撮影に臨んだ。その姿はデビュー前、ハンブルク時代を彷彿とさせるもので、彼なりに初心に返って新たな人生を始めようとしているようでもあった。 (10月ごろには、伯母のミミに電話で、「学生の頃のネクタイを出しておいてよ」と頼んでいる)


フォトセッションを終えてしばらく自宅でくつろいだ後、午後5時にはヨーコの新曲「ウォーキング・オン・シン・アイス」のミックスダウン作業のため、レノンはニューヨーク市内にあるレコーディングスタジオ「The Hit Factory」へ出掛けた。この時、ダコタ・アパートの前には顔見知りの雑誌カメラマンと、ハワイ・ホノルル出身の精神疾患を患ったファン、マーク・チャップマンが待ち構えていた。
この時チャップマンはレノンに歩み寄り、持参した『ダブル・ファンタジー』のジャケットにサインをねだる。レノンは二つ返事でそれに応じたが、この時の様子を雑誌カメラマンが撮影。皮肉にも、レノンの生前最期の写真は、数時間後に自らの生命を奪う事になる殺人犯とのツーショットになってしまった。
彼は以前ボブ・ディランに対するストーキング行為に及んだこともあり、レノンにとって最後の生演奏となった1975年のライヴでは観客席にその姿を見せている。チャップマンは数日前にニューヨーク入りしており、宿泊したホテルの宿泊名簿の署名欄には、自らを「John Lennon」とサインしている。殺害当日の大半をダコタ・ハウスの近くで留まり、夕方にレノンにサインをもらったあと、両親を見送りにベビーシッターに抱かれて出ていたショーンとも握手をしている。
一方、レノン夫妻は「The Hit Factory」にてラジオ番組のインタビューを受ける。この最期のインタビューで、レノンは新作や近況についてや、学生時代に結成したビートルズの原型となるスキッフルバンド「クオリーメン」のこと、マッカートニーやハリスンとの出会いについても、語っている。そして、「死ぬならヨーコより先に死にたい」「死ぬまではこの仕事を続けたい」など、まるで数時間後に自らに降りかかる悲劇を予言するかのような発言を残している。
午後10時50分、スタジオ作業を終えたレノンとヨーコの乗ったリムジンがアパートの前に到着した。レノンとオノが車から降りたとき、その場に待ち構えていたチャップマンは暗闇から「ミスター・レノン?」と呼び止めると同時に、リボルバー拳銃のチャーターアームズ・アンダーカバーを両手で構え5発を発射、4発がレノンの胸、背中、腕に命中し、レノンは「撃たれた」と2度叫びアパートの入り口に数歩進んで倒れた。警備員は直ちに911番に電話し、セントラル・パークの警察署から警官が数分で到着した。ちなみに、チャップマンが使用した弾丸は.38スペシャルのホローポイントである。
警官の到着時にレノンはまだ意識があったが、既に大量出血し、一刻を争う危険な状態であった。そのため、二人の警官が彼をパトロールカーの後部に乗せ近くのルーズベルト病院に搬送した。一人の警官が瀕死のレノンの意識を保たせるため質問すると、声にならない声で、自分がジョン・レノンであること、背中が痛いことを訴えたというが、ジョンの声は次第に弱まっていった。病院到着後、医師は心臓マッサージと輸血を行ったが、レノンは全身の8割の血液を失い、失血性ショックによりルーズベルト病院で午後11時過ぎに死亡した。伝えられるところによれば、レノンの死亡時に病院のタンノイ・スピーカーから流れていた曲はビートルズの『オール・マイ・ラヴィング』だったという。
事件後チャップマンは現場から逃亡せず、手にしていた『ダブル・ファンタジー』を放り出し、警官が到着するまで『ライ麦畑でつかまえて』を読んだり、歩道をあちこちそわそわしながら歩いていた。彼は逮捕時にも抵抗せず、自らの単独犯行であることを警官に伝えた。被害者がジョンであることを知った警官が、「お前は、自分が何をしでかしたのか分かっているのか?」と聞いたときには、「悪かった。君たちの友達だっていうことは知らなかったんだ」と答えた。
病院でレノンの死を伝えられたオノ・ヨーコは「彼は眠っているということ?」と聞き返したという。後に病院で記者会見が行われ、スティーヴン・リン医師はジョン・レノンが死亡したことを確認した。博士は「蘇生のために懸命な努力をしたが、輸血および多くの処置にもかかわらず、彼を蘇生させることはできなかった」と語った。
ジョンの射殺に関しては、当初「FBI関与説」などの根拠に欠ける「陰謀説」も持ち上がったが、その後の捜査により現在は、「マーク・チャップマンの単独殺害」として結論づけられている。また、当時「チャップマンはレノンの熱烈なファン」という報道が飛び交ったが、同犯人はある種の精神疾患的な症状があり、「熱烈なファン」という説明自体が疑問視されている。

この事件は、元ビートルズの3人にも大きなショックを与えた。カナダに滞在中だったリンゴ・スターは後に妻となる女優のバーバラ・バックとともにニューヨークに飛び、ヨーコとショーンを見舞った。マッカートニーは「ヒア・トゥデイ」を、ハリスンは「過ぎ去りし日々」(ポール、妻のリンダ、デニー・レイン、ジョージ・マーティンがバックコーラスで、リンゴがドラムで参加)をレノンの追悼曲としてそれぞれ発表した。
また世界中のミュージシャンたちもこの事件にショックを受けた。ローリング・ストーンズのギタリスト、キース・リチャーズは「ジョンを殺した犯人に対しては、憎しみが薄れることはなく増すばかりだ」、「ジョンを殺した奴を、オレが必ず撃ち殺してやる」と発言している。
日本ではビートルズ・シネ・クラブにファンからの電話が殺到し、同クラブ主催による追悼集会が日比谷野外音楽堂で行われ、『心の壁、愛の橋』のフォトセッションでの巨大写真が掲げられ、ステージにはその後キャンドル片手に街を行進した。その後も節目ごとに追悼イベントが行なわれている。
(以上ウィキペディア参照)

女性のためのバラード

女性の為のバラードって何だろう?


男性の為のバラードってどんなのかな?



って、ちょっと柄にも無く考え込んでしまいました。


で、結果はこの曲



ジョンレノンLove訳詩付-John Lennon






ちなみに、ご存知だとは思いますが。

明日がジョンの29回目の命日です。


このメドレーはアップしたかったので。

John Lennon Medley - PAUL McCARTNE



この歌は、見つけてからずっとアップしたかった!
今回のバラードの特集ですが、前回の流れの一部という事で、ご勘弁ください!m(..)m

バラードの代表曲

この曲に関しては説明の必要は無いと思いますが、失恋の曲なので、結婚式には歌わないように気をつけて下さい。


MY LOVE - Paul McCartney & Wings - 1973



ジェイムズ・ポール・マッカートニー MBE(Sir James Paul McCartney, MBE, 1942年6月18日 - )は、イギリスのマージーサイド州リヴァプール出身のロックミュージシャンである。左利き。身長177cm。
1960年代に世界を席巻したザ・ビートルズの中心メンバーで、ジョン・レノンとの作曲家コンビで代表作の多くを手がけた。ビートルズ解散後は、ソロ・アーティストとして、あるいはウイングスのメンバーとして活躍し、現在もなお音楽活動を精力的に行っている。ギネス・ワールド・レコーズには"ポピュラー音楽史上最も成功した作曲家"として認定されている。
1997年ナイトに叙勲され「Sir/サー」の称号を贈られる。
ファースト・ネームはジェイムズなのでジェイムズ・マッカートニーとしても良いのだが、父親も同じジェイムズという名前のため、ミドル・ネーム(ポール)を通常の名前として用いている

(以上ウィキペディア参照)

今回は2008年のヴァージョンも

Paul McCartney - My Love (Live in Kiev 2008)




もう一曲

Paul McCartney & WINGS - Live And Let Die





さらにもう一曲

Wings - Band On The Run (Original Video)




こののビデオは当時にしては珍しくオリジナルのクリップのようです!



珍しくこのバンドもやってます!!

Foo Fighters.. Band On The Run (cover)



ではまた明日!

バラードで、どんな曲が好きですか?

人気ブログランキング1970年~1980年に掛けて素敵なバラードが何曲か有りますが、皆さんはどの曲が一番好きですか?
12月ってことでもありますし。しばらくはバラードをお届けしたいと思います。
今回の曲はI'm Not In Love 10CCの曲です

10CC(テンシーシー)は主に1970年代に活動したイギリス・マンチェスター出身の4人組バンドです

デビューは1972年8月。しかしオリジナルメンバー4人はその約10年前から音楽業界で下積み活動を行っていた。
共にイギリス・マンチェスター出身の4人は当時流行し始めたビートバンド・ブームの中、それぞれが演奏活動を始める。エリック・スチュワートはいくつかのバンドを経て、1963年6月にウェイン・フォンタナ&ザ・マインドベンダーズのギタリストとしてレコードデビュー。1964年6月、グレアム・グールドマンは自身のバンドThe Whirlwindsのレコード・デビューに際して、B面曲としてライバル・バンドThe Sabresにいた友人のロル・クレームの曲を採用するが、ヒットせずにバンドは解散。グレアムはThe Sabresからドラマーのケヴィン・ゴドレイを引き抜いて新バンドThe Mockingbirdsを結成、1965年2月に改めてレコードデビュー。デビュー曲としてグレアムは「フォー・ユア・ラブ」を作曲するがレコード会社に拒否され、代わりに“That's How (It's Gonna Stay)”をレコーディングする。「フォー・ユア・ラブ」はその後ヤードバーズがレコード化、全英3位の大ヒットとなる。一方The Mockingbirdsのレコードは不発に終わり、その後レコード会社を移籍しつつ4枚のシングルを発表したもののヒットを生み出せずに解散。
その後グレアム自身はソングライターとして次々にヒット曲を生み出し、またピーター・カワップやジョン・ポール・ジョーンズたちとのバンド活動を経て、1968年7月には自作曲のセルフカバーアルバム『ザ・グレアム・グールドマン・シング』を発表している。The Mockingbirds解散後ケヴィンは再びロルとコンビを結成、組み立て絵本などのデザイナーで生計を立てる一方、グレアムのマネージメントで1967年Yellow Bellow Room Boom名義でシングル“Seeing Things Green”を発表している。ウェイン・フォンタナ&ザ・マインドベンダーズは1965年1月の4thシングル「ゲーム・オブ・ラブ」が全英2位/全米1位の大ヒットを記録するが、その後低迷しリーダーでヴォーカルのウェインがソロ・アーティストとして独立する。残ったバンドメンバーはエリックをヴォーカルに据えザ・マインドベンダーズとして再出発を図る。1965年12月に発売された1stシングル「恋はごきげん」は全英2位全米2位の大ヒット、その後“Ashes To Ashes”もヒットするなど順調な活動が続く。1967年にはシドニー・ポワチエ主演の映画『いつも心に太陽を』に曲を提供、バンド自身もゲスト出演している。1967年11月のシングル“Schoolgirl”はグレアムの作曲・プロデュース。このレコーディングでエリックと意気投合したグレアムは、後に脱退したベースの代わりにバンドに正式参加しシングル“Uncle Joe The Ice Cream Man”ではリードヴォーカルをとっている。バンドはこのシングルを最後に解散、エリックはグレアムを誘い、レコーディング・スタジオ"ストロベリースタジオ"の共同出資者となる。グレアムはロルとケヴィンをスタジオミュージシャンとして誘い、やがてエリック、グレアム、ロル、ケヴィンの4人でバンド活動を開始する。
(以上ウィキペディア(Wikipedia)参照)


10CCと言えばこの曲I'm Not In Love



今回珍しいバージョンが有りましたので、一緒に紹介します。

Pretenders - I'm Not In Love



こちらもなかなか良いでしょ!(‐^▽^‐)

アイム・ノット・イン・ラヴ
1970年代の彼らを代表する曲。日本のCMでもたびたび使用される。1991年にウィル・トゥ・パワーがカヴァーし、こちらもヒットしている。もともとは「架空の映画のサウンドトラック」というコンセプトでリリースされた『オリジナル・サウンドトラック』中の1曲。アメリカのFMのDJ達がこの曲を流したことに気を良くしたレコード会社がすぐにシングルカットをメンバーに要求したが、「ライヴであの楽曲のクオリティーを表現出来ない」として最後までメンバーはシングルカットに難色を示していた。この曲はビルボード・週間シングルチャートで3週連続第2位(1975年7月26日付~8月9日付)。1位を阻んだのはヴァン・マッコイ&ソウル・シティ・シンフォニーの「ザ・ハッスル」、次いでイーグルスの「呪われた夜」、最後に、当時4年ぶりの全米No.1獲得となったビー・ジーズの「ジャイヴ・トーキン」であった。なお全英ではNo.1になっている。バックに流れる幻想的なコーラスはグレアム、ケヴィン、ロルの3人の声をテープ編集により624人分(3人×13音階×16トラック)に増幅して作成された(エリックはミキシングを担当)。またこの曲にはギズモは使用されていない。(以上ウィキペディア(Wikipedia)参照)


で、赤文字のギズモってなんだ?って思った人!お答えします!

ギズモトロンは、バイオリン奏法を追求していた頃に手に入れた、通称ギズモ。電源からのモーターで弦を直接こすって音を出す強力ギア 10CCのギタリストの考案によるアナログエフェクターです。
気になったら、ネットで調べてみて下さい。

ではまた明日!