今日の感動、あなたにも わけてあげたい。「ほら、もひとつ♪」とは云わず。 part3  | “Mind Resolve” ~ この国の人間の心が どこまでも晴れわたる空のように澄みきる日は もう訪れないのだろうか‥

   
   
人間がこの地球上を借りて住まわされている
ということは どういうことなのか? 
人間の肉体は心の容器であり、人間の容器は、すべてにおいてこの自然界。
地球という惑星の中の大地の上にだけ、その天空の下にだけ、
人類は生息を許されている。
宇宙空間で暮らしてもいいという許可もなければ
カネで買い揃えた墓地と墓石の下で魂の安らぎを図ろうとする者の願いが
神や仏の世界へ届く保証もない。
誰にもない。
常に人間は、自分自身という存在。その一人一人が
肉体を持って生きていられる間だけ、この地球上のどこかに
自分の生きる場所を決めて、
そこで自分にしかできないことのすべてを成し遂げるために
現実の世界に生かされている。
素晴らしい生命の持つ能力を与えられながらも、
今日ここに、今この瞬間にも、自分が生きている場所、その位置、その大地に
自分の足でしっかりと立って、
目も、耳も、口も、舌も、鼻も、あらゆる臓器の出先器官をフルにつかって
空気を吸い、水を飲み、喰う物を喰い、消化し、出し、
その肌では、光りや熱を感じることもできる。
何かに愛を感じて、誰かを想い、
男も、女も、恋こがれることもできる。
しかも、そのように素晴らしい肉体を持って生きながら
そのように素晴らしい体験や経験を繰り返し、それを誰かに伝え、共有し、
そういうことを経験し、実感し、またその存在の能力には
どうしたものなのか? そういうことを新たに、別の存在までもが経験できるように
自分達の身体から、その分身のような存在を産み出すことができる。
そこに、人間の造って拵えた道具や知識はなにひとつとして必要ないのに
そのように素晴らしい人間、人類には、男もいて、女もいて、
そこからまた、この地球上で生きて生かされるためには
素晴らしい能力を兼ね備えた人間が、新たに誕生させられる。
それはたとえば、
   
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こんなこともできる。
素晴らしいじゃないか! 人間てもんは。
人間として産まれてきてよかったじゃねぇかよ。
   
ところが、これまたどうしたものなのか? 
そんなふうに感じることができる人間が 
今この時代には、あまりにも少なくなっちまってる。
どうしたのか? 人間は? 
どこへ行っちまったのか? 男は? 女は? 
どうなっちまったのか? 人類は? 
戦争も侵略も、虐殺も虐待も、略奪も犯罪も、差別も貧困も、
科学や宗教、哲学や教育、あらゆる学問や思想による自然界の破壊… 
そんなことは、いつからはじめて
誰がいつの時代に終わりにしようと考えたとしても
なぜに繰り返すのか? 
どうして? 
好きな人はいないの? 
今も独りだけなの? 
嘆き苦しみや悩み哀しみを知っていた人が一時的にいなくなって
誰もがその惨劇や戦慄の惨事を忘れてしまえば
また同じように平気で繰り返して
自分たちの住む場所をそれまで以上に破壊してしまう。
それでいいのか? 
果たしてその場所は、いま自分たちが住んでいる場所は、
この地球上に生きて生かされている場所は、
そこに生息することを誰に許されて使わせてもらっているんだ。
あなたは誰なのか? 
この地球上で、どの命と関わる、何の所有なのか? 
   
人は、この社会においても、決して、
どこかの野原や川原の脇に穴を掘って、そこに住んで生活する生き物ではない。
たとえ山へ出かけて、そこで何日か寝泊りするにもテントを張るし、
普通に地上で暮らすにも、必要なら家も建てるし、
その余裕があるなしに関わらず、アパートやマンション、貸家を借りて
そこで雨風を凌ぎ、寝る場所をつくり、生活に必要な設備として
水道水を引き、下水設備も整えようと考え、便利になった世の中では
電気も引き込んで、ガスも利用すれば石油も使う。
そういう人々の暮らし、営みが、この地球上では、
街なら街、村なら村、人里なら人里というように、
自分たちが生きて生活する場所を、ある程度は自分たちで決めて生活している。
そこでは、夜になると床や畳に布団を敷く人もあれば
部屋にベッドを置いた場所で、そこにまた家族や夫婦があってもなくても
人によっては、子供の手を握って眠る母親もあれば
それと同じような気持ちで心を許せる誰かと一緒に
暗闇の天井を見つめながら床に就く者もいる。
人は様々なので、独りで寝ていてベッドから落ちる人も
何かの夢に魘されて起きあがった時には、そこに誰もいなくても
人は、自分が住んでいる場所、建物の中に生きて、生かされている。
それでもときどきは、住む場所もなく、夜になっても表を歩いていたり
誰が許可したというわけでもない場所に寝泊りを繰り返すうちに
そこに勝手にも、自分が住みよくするための小屋を建ててしまう人もいるかもしれない。
その人であっても、その小屋の出入り口に鍵をつけてみたり、
そこが自分が、いま生きていて生活できる場所であることを認識している。
では、この地球上は どうなのか? 
アパートやマンションであるなら、それは他人の持ち物であって
それを借りて、ありがたくも住まわされているので
壁や天井を汚しても、ある一定の期間の契約が過ぎた日には
その契約を更新しない限り、自分が使っわせてもらった場所はきれいにして
そこから立ち退かなければならない。
また、人が自分自身が住んでいる場所が自分の建てたという家や建物であるなら、
それを大切に遣って住もうとする気持ちは尚更である。
では、この地球上は どうなのか? 
人類は、長い間、この地球上に生きて生かされ、
その住み飼いする場所を遣う上でも、あらゆる場所を自分たちの都合のいいように開発したり、
海も、山も、河も、大地も、色々な場所の形や色を変えてきてはいるものの、
そこに、この地球上に、そのように生息することを
誰の許可を得てやっていることなのか? 
人間だけがこの地球上で、勝手に生きているのか? 生かされているのか? 
人間の心の容器が肉体であり、人間を容れておく場所が地球…
自然界という人類のイレモノは、人類の家であり、この家は、この自然界にひとつしかない。
望遠鏡で夜空を覗いて観て、そのレンズの穴からも首を出すように
遠い大宇宙を覘き、拡い暗闇を見渡してみても、地球と同じ場所はひとつもない。
「ある」というなら、「在るかも知れない」と想うなら、今スグにでも、そこへ行けばいい。
ここから、この生息が許され、決められた場所から追放され、
そこへ行ってまた同じような破壊を繰り返してみればいい。
やれるもんならやってみな。
できはしない。そんな場所へは誰も行けはしない。
ここしかないんだ。
それでも、人類は、地球という家を借りていながら、いま未だ家賃を払っているわけではないし
大家さんがいるとも誰も思ってはいない。
でも、借りて住まわされていることは確かであり、
そこでは一人一人の人間が、ある一定の期間だけは、
自分の肉体を持って、そこに、今、自分が生きている場所に生息することを許されている。
それをどうして、少しでも住みよい場所にしようと務めないのか? 
そこで自分自身にしかできない義務を果たすことを、どうして、まっとうできないのか? 
努力する必要もなく、誰かと競い合ったり何かを奪い合ったり、
自分と誰かを比較したりしながら生きる心配もなく、
人間というモノは本来、誰もが、自分が生きるためには素晴らしい能力を持って、
この地球上、この自然界に、創られ、産まれ、育ち、死に逝くように創られてきた。
そして今でも、この地球上は、この自然界は、人間の社会や人類の営み以外の場所で
何千年も何万年も前から寸分の狂いもなく、自転と公転を繰り返し、
ある一つの場所では日の出も日の入りも、寸分の狂いもなく、
60年経つとまた同じ時間に、同じ場所で日の出も日の入りを繰り返している。
人類だけは、そのような道理、基礎、取り決めから外れ、外れようとして、
今まさに、その道理までも破壊しようとしているのが、教育であり、宗教であり、科学である。
   
ああ。もう、この辺にしといてやるよ。
今日はもう、俺じゃない声が随分と聴こえてきちまってる。
今これを読んでる人には、人によっては強烈すぎるかもな。
大丈夫。つづきはあるけど、もうこのあたりで今日は区切りをつけて〆る。
   
ああ、マウスで画面のどこかをクリックすると、ハンカチが出てくるといいかもな。
感謝のハンカチ。涙ばかりか、鼻をかんでも許されるハンカチな。
俺も欲しいよ。またもう一枚。
   
   
   
   
小学生から中学生にかけて西部劇をタンノウ した南くんは…
いや、その頃の俺は
「やっぱり、インディアンというのは悪者なんだな…」
という頭で、なにげなくも観ていた、その嘘の情報を頭の中に植え付けられていた。
ところが、ある日、高校生になってから間もなく
自分自身の家庭内における家族の、様々な諸問題 に悩み苦しんだ日々が
いくらかでも落ち着いてきたある日の深夜、俺は
小さな巨人 』という映画を観た。 …タカラのミクロマンのことではない。)
   
 
  パラマウント・ホーム・エンタテインメント・ジャパン
   
ダスティン・ホフマン主演の映画で、
今で云うところのネイティヴ・アメリカン。 浅野さんのお爺さん 
昔の言い方で悪者扱いされてた赤い肌の人々…
そのインディアンがいかにして、西部の開拓時代に
白人によって侵略、迫害されていたのか? 
そういうことも含めた内容が南北戦争の合間にありながらも
人が人として生きる姿が見事に描かれた。
そこに、
「死ぬには いい日だ」 
という台詞があった。
ある非常におとなしい種族のインディアンの長老が
時には流れ弾の飛び交う とかせん の中でも生き延び、
時には自分たちを迫害しつづけた白人であっても
決して彼らを憎むこともなく、ある独りの白人青年とも親密なる親子関係を結び、
そのインディアンの長老の人生は
すべてにおいて自然界との一体化。
緑を育む雨と大地とも、
大いなる川の水の流れとも、
そこに降り注ぐ太陽の恵み、光りのエネルギー… 
すべてにおいて調和のとれた精神
大自然の中の小自然。
小自然の中の大宇宙。
大自然の子。自然界の産物である人間。
そういう本物の人間の姿の一部が、あの映画の中には在った。
「インディアンって、悪者ではないじゃん!」
そして俺はのちに、ちょうど芝居の勉強をしていた時期に
映画ダンス・ウィズ・ウルブズ を観て、そのことを確信した。
そして、あの映画の最期で、険しい森の中へ消えていったのは、
兵隊でもなく、親を失った孤児でもなく、
人間として生きることを選んだ、たった二人だけの、
男と女だった。
生きることの誓い合い。
結ばれることの情熱、喜び、感謝… 
ほかに必要なモノはなにもなく。
   
そして、あの大地へ寝そべり、その空を見あげた長老の笑顔…
   
死ぬには 善き日だ。」 
   
ここが、死ぬには いい場所だ。
 
   
自分がその歳まで生きてきたことに何の悔いもなく生きた人生。
その短くも長い生涯には
家族もあり、跡継ぎもあって、やりたいこともすべて成し終えて
あとは近づいた死ぬ日正常な寿命に気づいたので、そこで死ぬ。
肉体の病気でもなく、精神の異常でもなく、
完全なる寿命。新たなる生命との交替における終結。
   
俺は、ちゃんとしたネイティヴ・アメリカンの人が生きているうちに
世の中に本当にそういう存在があるなら、
その人に逢ってみたいとも想った。
   
でも、身近にもいたんだ。それ以上の存在が。
しかも、日本人で。戦争体験者で。
今はもう、その爺さんは、ある目的のために 
何者かの儚い人生に何かを気づかせるために犠牲になり、殺されちまって、
もうこの世にはいないけど、
人間が この世に生きるということとは、どういうことなのか? 
人間は、この自然界に、どのように生かされているのか? 
俺はその人から、その正しい事実の答えのすべてを訊かされ、
気づかされ、教えられたよ。
この身をもってして。
   
我々が生かされるこの自然界では、
一人一人の人間が、その生きる目的も、役割も、
既に母親の胎内にいたときから決められている。
それは、何をするために生まれるのかも、
その人生をまっとうして生きるための能力も 
産まれる日も、死ぬ期日も
すべてが、受胎の瞬間に完全に決められている。
   
現世にカタチ創られ実在する物すべて、
その者が今生において生きるために必要な知識も、
その職責職能も、既に人間としてカタチ創られる前に、
男女両性の結合の瞬間。精子と卵子がぶつかった瞬間。その、
受胎の瞬間に完全に決められている。
   
人は本来、誰もが、この自然界において、その完全に決められたことを
何の努力も苦労もなしに、自分の人生を堂々と生きて、
その生きたことに満足して死ぬことができるように創られている。
そして、この地球上に、大いなる自然界に、
人間が創られ、産まれ、育ち、死ぬ逝くという道理、事実。
この事実からは、誰ひとりとして逃れることはできない。
だから、生きることは限りなく義務の遂行でしかない。
親も子も、永遠に代々、その繰り返しに基づいて、
この地球上を人間が人間として正しく使うように
今日この瞬間も、ある一定の期間において
そこに肉体を持って生息することが許されている。
そして死んでからも、人間として生きることが正しかった者は
人間として地球の使い方が正しかった者は
やがていつの日か必ず、自分自身が残した子孫の中に
その肉体を動かす生命の一部として構成され、蘇ることができる。
それは、春に芽を出し、緑の力を息吹かせる草や木の如く
夏の海洋海域に鮮やかに繁栄する多くの命の如く
紅葉の静けさに息を潜める様々な虫や獣の連鎖の如く
そこで人間だけは、あらゆる恵みを受けて
大地に生きることも、大地に死ぬことも許されている。
おそらくは…今もな。
   
   
でもそれを実践するには、なかなか困難な時代だ。
誰においても心身ともにリスクは大きい。
http://ameblo.jp/badlife/entry-10029169209.html
このリスキーで過酷な時代に、今、我々人類は、どう生きるべきなのか? 
いかにして、素直な、創られたままの自分自身を獲り戻すべきなのか? 
インターネットのフタをあけるまでは、その先が視えなかった。
それは今でも、すべてが遠い未来まで見通せているわけではない。
見渡す限りは、どこにおいても、欲望の喰い違いや人間の醜さが渦巻き、
愛や真実さえも劇薬と化すほど、
今の時代は地獄の50番街の通過料金所でしかない。
ならば、天空を見あげて、
その厚く薄汚れた雲の向こうにあるらしき空へ
舞いあがるように生きてやろうじゃねぇかよ。
南 大空。俺の決意は日々、高められる。
地に伏せた場所から、這いあがるなら今だぜ。
生きてるじゃねぇかよ。
未だ。かろうじて。
   
   
   
   
    今、この瞬間、その心に贈る一曲、
   
        ヤスハズクーリラ    ☚ real player OPEN! 
   
              by Tetsuya Itami  
   
                    と在る日の歌 2004 より
   
       (尚、楽曲の著作権は伊丹哲也さんにあります。無断使用はご遠慮下さい。) 
   
   
   
   
   
   
国際社会とか、今日の様々な文化交流を超えて
今日、ここまでの内容を書いたことで、
この広い世界に実在する数々の命のうち、
確実に救われた存在。その、ある民族としては…
かつて白人に迫害された、すべてのネイティヴ・アメリカンの人達。
あれから生き残った彼らのうち、まだ誰も、
このページを開いてはいないかも知れない。
しかし、いつの日か必ず、ここまでの内容はすべて
彼らの読める言語として訳され、
彼らの子孫の中でも、かつて取り外され、つなぎあわされなかった部分が
彼ら自身によって、つなぎあわされる。
自由の国にて。

   
あの日、東京の地で、浅野忠信さんに逢って、親子3人、
挨拶を交わした瞬間 から、今ここに至る。

   
地球上の人類において、様々な国や人種がある中で
「日本人にしかできない」というのは、こういうことだ。
俺は成し遂げたよ。今日。ここに。

   
   
   
   
     目醒めよ。そして、己に気づけ。
   
   
   
   
   
    2006sep2nd_fin