世の中には、自分の頭の中(心や魂)に想い描くモノを
様々な夢や情熱の形に代えて
それを自分の外側へ解き放つ…という“自由”を表現する芸術家が数多く実在する。
音楽や舞台、映像の世界に限らず、
写真家としても画家としても、ダンサーとしても作家としても、
あるいは、何かのスポーツ選手にしても、
芸術という世界には、時代によっては犯罪者の場合もあれば英雄もいて、
何もないところから何かをつくり出す能力を持っている部分の表現 ≠ “芸術”というものは
一定の枠には収まりきらない人類に与えられた自由の恵みの一つ。
俺は いつもそう思って何かを書いてきた。
それでもそんな俺自身が、
数々の優れたアーティストやプレイヤーの仲間や同志だとは思ってない。
ただ、人類に何かを伝え、何かを残そう…という意味では
自分という人間を通しての“表現の自由”こそが、
“今後の人類を救う鍵”を秘めた人間の能力の一つとも思っている。
黒澤 明という映画監督は、その生涯を“映画づくり”に賭け、
現代のハリウッド映画界の数々の巨匠、監督陣にも
大きな影響を及ぼしていることは、
昭和日本の映像芸術の栄光…そのひとつの輝き…でもあると思う。
その黒澤監督の原案に『暴走機関車 』
ってのがあった。 ネットで検索すると、
http://yojimbonoyoieiga.at.webry.info/200603/article_24.html
なんと、俺が産まれた1966年に構想された原案らしい。
それが1985年に製作され、翌年、全米公開された映画『暴走機関車 』になったんだけど、
その主演、ジョン・ボイド というハリウッドの役者さんは、
1979年に『チャンプ 』というボクシングをテーマにした家族劇 の主演もやってた。
そんな“ハリウッドの栄光”を匂わせるかの如く、映画『暴走機関車 』の冒頭シーンでは
ジュリア・ロバーツのお兄さん、エリック・ロバーツ が
鍛え抜かれた筋骨隆々の姿で刑務所内のボクサーとして登場してた。
アランドロンとチャールズ・ブロンソンが共演 した『さらば友よ 』(1968) や
故ブロンソンが旧友ジェームス・コバーンと共演 した『ストリートファイター 』(1975)
などの“旧作映画”(いわゆる名画)が好きな俺としては
『暴走機関車 』の脱獄劇に出ていたエリック・ロバーツの役所、その芝居は、どこか、
アーネスト・ボーグナインとリー・マーヴィンが対決 した映画『北国の帝王 』(1973) http://kossykossy.fc2web.com/eiga/ki-ta.html
にも出演していたキース・キャラダイン という名優にオーヴァーラップするものを感じている。
今は亡き淀川長治 氏が、かつてラジオ番組を務めていた頃、
自分が観た映画に出てきた様々な“効果音”についてを話していたことがあった。
「“ジャン・ギャバン”という俳優の名前が、
“ハサミを床に落とした時の音”と勘違いした人もいた」というジョークも交えながら、
一連の映画音楽とは別な意味で、洋画に出てきた音についてを“淀川支点”から語る特集の週だった。
そのオンエアーの中には出てこなかった話だけど、
効果音やそれに付随する音楽の挿入効果というモノは、
19世紀から20世紀に渡り、サイレント映画が活動写真に変わって、
“ムービー”という映像芸術になった今では欠かすことのできないモノとなっている。
そこには、ある日本人で、特殊効果専門で今もハリウッド映画界で活躍している才人もいれば、
『トムとジェリー』とか『チキチキマシン猛レース』とか、
あらゆる“アニメーションの物音”を、それこそ海の波音や自然界の風雨の強弱まで、
“すべて一人の人間の肉声”だけでやっていたオジサンもいた。
んで、
![](https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fimages-jp.amazon.com%2Fimages%2FP%2FB000CFWN1W.09.MZZZZZZZ.jpg)
暴走機関車 (1985)
それぞれの選手の勝敗を予想した“賭博”に高じる囚人、服役者の男共が湧き立つ…という、
なんともいえない荒廃した刑務所内のボクシング会場。
そんなシーンからはじまる映画『暴走機関車 』だったと思うけど、
そのワンシーンの中に、『OH! Susanna』のハーモニカ演奏があった。
競馬場で“馬券を買えるタイムリミット”を音で知らせているようなもんと一緒で、それは、
囚人たちの荒んだ雰囲気を描くための効果的な“音”として使われていたとしても
その映画を観た者には実に印象的な“音楽”だったと思う。(…少なくとも俺にとってはな)
そうした“映画づくり”はもちろん、日頃からR&Bやポピュラー・ミュージックの基礎に興味ある俺としても、
元の原作と85年に製作された映画の違いがどうあれ、
あのように黒澤映画を意識した内容には、ある意味、衝撃的なものを感じた。
して、ある日、ホーナーのブルース・ハープを初めて買ったとき、
その中に入ってた説明書の『練習曲』に、偶然にも、
『オー! スザンナ』があるではないか!
以後、俺は、その曲を何千回も吹きこなし、
今では佐渡で俺の右に出る者はいない。 (小せぇ!)
さて、俺の趣味の話はどうだっていいんだけど
今日はなんで こんなことを書いてるのかっちゅうと、色々と理由がある。
21日に assimilate さんのLIVEへ出かけた日。
子供と二人でカーフェリーを降りた俺は、
例によって 東京行きの新幹線切符をチケットショップで買い求め、
MAXとき号(二階建て新幹線)の4号車と5号車の間にある、
中間層階の車両の自由席を陣取った。
窓際に座り、流れ変わる景色に喜ぶ子供と一緒に
ジュースと缶ビールで乾杯した俺は
禁煙席に揺られる約2時間を凌ぐため
前の座席シートに備え付けの小冊子に目がとまった。
それを手にとって、なにげにページを捲っていると、
こんな写真を発見。
![kangol2006](https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fblog.ameba.jp%2Fuser_images%2Fa6%2Fc2%2F10008343335_s.jpg)
旧・国鉄が七つの民間業者に区分されてから
なんでなのか著作権に煩いJR(…らしい)なので、
掲載の承諾を得ないと色々と言われそうな気もするけど、まぁいい。
“自分の今”を通じて人類の意識改革を企てる俺には必要なことだ。許せ。
でもって、この、カンガルーという有袋類の写真がなんなのか?
見ても判るとおり、このカンガルーは普通の野生に生息するカンガルーではない。
人間が“見世物”としてカネを得るための動物園のカンガルーだ。
しかも、外国漫画のアニメーションに出てくるように、カンガルーという獣が、
その普段の生活の中でボクシングを得意とする習性(本能?)を持っているのか何なのか…
この写真では、サンドバッグへ もたれかかり、
まるでハードなスパーリングに疲れたボクサーのような格好をしてる。
俺はこれを見た瞬間、矢吹ジョーのあのポスターを連想したし、
力石とおる や イタリアの種馬:ロッキー ・バルボラ…。
カルロス・リヴェラの生涯や、ガチンコ・ファイトクラブ、
ジェイク・ラモッタを演じたロバート・デ・ニーロ とか、
映画『パルプ・フィクション 』の製作にほとんどノーギャラで出演承諾した
ブルース・ウィルスのボクサー役…はたまた、
1980年に伊丹哲也さんがデヴューするまで流行っていたアリス のチャンピオン ・・・・
など…を連想してしまった。 (・・・・暇なヤツだ。)
俺にとって、ボクシングという人間同士の殴り合いは、
単なる格闘技ではなく、一つの芸術分野として特別なもんでもある。
常に、ヤルか殺られるかの“命がけ”の勝負(己との闘い)だからな。(俺はやったことないけど)
して、そんな俺が自分の子供を連れて、阿佐ヶ谷のライヴハウスへ訪れ、
その地下室のドアを開けると、そこにはスグ目の前に
白いTシャツを着たassimilate さんがいた。
差し入れの地酒を渡し、
![oni0607](https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fblog.ameba.jp%2Fuser_images%2F58%2F0e%2F10008343304_s.jpg)
ターキーのストレート(バーボン・ウィスキー)とオレンジ・ジュースを注文した俺たちは、
会場の中央にあったテーブル席へ座り、
まず、柴野繁幸さんというアーティストの弾き語りを聴いた。
この方は8月26日にも新潟の三条市でライヴを行う予定もあるらしいけど
“東京”という都心の一部をテーマにした、いくつかのオリジナル・ソングで、
ありのままの自分を歌う姿は、それなりに新鮮さが感じられた。
今年4月2日の伊丹哲也さんのLIVE! (の一部)も観た俺の息子は、
世間のライヴハウスってもんが「だいたい こういうもんだ」って雰囲気だけは認識できたと思う。
そしてこの日、柴野繁幸さんの演奏が終わり、assimilate さんの出番!
何を思ったか、俺の子供は(ライブハウス・あさがやドラム)のカウンターへ座ると云いだし、
ステージまん前の席から少し離れた場所へ親子で移動することにした。
・・・・店の造りがステージの脇に楽屋がある状態ではなく、
出演者の入れ替わり準備やセッティングの機材や楽器の出し入れが
カウンター越しの通路を使うことになるので、ハッキリ云って邪魔だ。
自由な本能のまま生きる俺の子供は、そんなことは知ったこっちゃないかも知れないけど、
「アーティストの神聖な活動に何かあってはならない」
そういう神経質な俺(?)は、気をつかうほどでもないが、
落ち着きのない子供と一緒では演奏と子供の様子の両方に気を取られる。
そういう意味では、5歳12ヶ月弱の子供を同行させることは
アーティストに失礼だったかも知れないけど、
「本物の音を聴かせたい」という勝手な親のワガママから、
今回も子供を連れてのライヴ体験となった。
ドラムアーティスト、assimilate さんの共演に、
二條容子さんというヴォーカリストで、“SAKAMI & assimilate”のコラボレイト。
このステージは、透き通るようなヴォーカルと凄まじいドラムが絡み合うパフォーマンスで、
「一発獲りで そのままCDにしてもOK!」というほど見事なまでの演奏だった。、
聴いたことがない人には判断できないかも知れないけど、
やはり、ハンパではない。
俺としては、哲也さんのLIVE!のときにも思ったことなんだけど、
ライヴハウスもいいけど、クラブハウスばかりでなく、
もっと大きなホールで演奏されるに相応しいパフォーマンスではないか…
と感じた瞬間が演奏の最初の方にあった。
通常のアーティストの演奏というのは、一曲一曲ごとのイントロや歌い出しの他に
アーティストによる「ありがとうございました」などの挨拶が入ったりして
観客にも拍手をできる間が与えられるんだけど、
“assimilate さん+二條さん”の場合は、そうはいかない。
曲が切り替わる気配はあっても、すべての音が一貫した『組曲』のように流れ、
たとえ決められた枠の演奏時間であっても、
それはまるで、今生に産み落とされてから寿命を迎えるまでの人間の生涯のように
その鼓動にも、呼吸にも、終止符がない。
俺が子供を連れてきたということでサービスしてくれたらしき、 http://blog.livedoor.jp/assimilate/archives/50570323.html
童謡の『海』(♪海は広いな大きな~の、あの曲ね)が裸で歌われるヴォーカルに乗せて
時には潮騒の優しさのように、時には荒波の高ぶる海洋の恐ろしさのように、
assimilate さんの演奏は、普通のスネアやシンバルの音ではなかった。
ドラムやカホンという太鼓が、単にリズムを刻む物体ではなく、
まるで生き物のように脈動する音を奏でていた。
俺の子供(一龍 / 本日6歳)は、LIVEを観終わったあと、宿泊先までの道中、
夜の甲州街道を歩きながら、ずっとそれ(海のうた)を歌っていた。
…本人の中に何が起こったかは本人にしか判らない。
残念ながら、今回の21日と23日をもって、assimilate さんのソロ活動が
『無期限活動休止宣言ライブ 』ということなので、
今後は、いつどこで再開されるか解らない。
まだ聴いたことがない人は、アッシュさんの公式サイト http://www.assimilate.jp/
で公開されている幾つかの楽曲を聴くことはできるので、
次回のソロ活動再開まで、“心の準備”をしておくのもいいかも知れない。
これまでのご自身のソロ活動について、assimilate さんご本人は、
表現者としての自分たちの演奏を“概念の破壊活動”と呼んでいるけどhttp://blog.livedoor.jp/assimilate/archives/50571234.html
俺がこのウェヴログを通して数々のアーティストを俺なりに紹介していることも含め、
本来、“音楽”というモノは、人間が造作した一定の言葉に当て嵌るものではなく、
その人の演奏をナマで聴いて、
その空間に共存する素晴らしさを自分の五感で体感しない限りは、
何も解らない。
言葉では、伝わるべきモノは伝わらないし、伝えようとしても限界がある。
だから、世間のどんな情報も、それを鵜呑みにして納得したつもりでいるような
今の多くの日本人は、そういうことを知っておくべきだし、
自分の日常で、ただ“聞き流しているだけの音楽”を聞いているような人は、
本物と偽者の区別を見分ける注意力も、少しは養った方がいい。
たとえば、ヘルベルトフォン・カラヤンの指揮するウィーンフィルの演奏と同じピアノ協奏曲でも
日本人のクラッシック演奏家達と日本人の指揮するピアノ協奏曲では、
その内容がまったく全然、最初から最期までのすべてがまるっきり違うように…
たとえ“既製品のCD音源”しか手に入らない環境であったとしても…な。
てなことで、ここからの話は、俺の創作活動の紹介ではないけど、
今回の『山田邦喜・無期限活動休止宣言ライブ』を体験して、
子供の誕生日を控えた前日の小旅行の中で色々な発見があったことから、
俺の魂の中で久々に覚醒する瞬間もあったりもした。
http://ameblo.jp/badlife/entry-10003358652.html
このページに紹介した物語(『あたたかいスープ』 ~ 『題名のない楽譜』) は、
過去に自分で出版した『詩集のようなもの』の文庫本に掲載してあるし、
このウェブログにも改めて公開してから一年になるので
トップページのご案内 から辿られても、既に読んだことがある人もいると思う。
(伊丹哲也さんとの再会の“きっかけ” をつくってくれた assimilate さんにもコメントを頂いている。)
ただ、このストーリー(寓話のようなモノ)にはつづきがある。
あるんだけど、つい昨日までの俺には、その『つづき』が書けなかった。
ところが、21日のLIVE!を観終わったあと、
何者かと約束した通り…のように浮かんできたではないか!
ひらめいたよ。
![ひらめき電球](https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fblog.ameba.jp%2Fucs%2Fimg%2Fchar%2Fchar2%2F089.gif)
しかも、最近の世情や自分の心境も反映した上で、
まさに、生命の持つ素晴らしさと、
そこに相反する人類の愚かさも盛り込むことができた。
あれはあれで、それなりに完成された作品のように思ってくれている人もいたかも知れないけど、
俺は俺で、どんな内容をどこへどう描こうとも、自分が書いたモノには終わりはない。
それは今後も、俺そのものの命が「生きている」「死んでしまった」には関わらず、
俺が書いたモノには終止符がない。基本的にはな 。
実は、(上に紹介した分の)このストーリーを最初に完成した当初、
プリントアウトしたモノを様々な友人知人の方々に読んでもらったことがある。
当時は高崎に住んでいて、まだ独り身だったけど、
ある日、俺のアパートのドアポストに、一通の手紙が放り込まれていた。
まるで、“フクロオオカミ の家へ届いた一通の手紙”の如く…。
それは、“南 大空という表現者”(?)のファンなのかどうかは知らねぇけど、
その手紙の内容には確か、
「あの結末ではフクロオオカミさんが、なんとも痛ましく、放ってはおけません。
大変 失礼ですが次のような設定を考えたので、つづきを書いてください・・・・」
などというような感想と要望だったと思う。
その手紙も大事にしまっておいたんだけど、どこへ シマッタのかを想い出せない。
確か、森をあとにしたフクロオオカミが、別の生息場所を見つけて
そこでジャズ喫茶を経営していて、音楽好きな仲間に色々なレコードを紹介して
楽しく暮らしているなどのウンヌン…というような内容だったと思うが、
ハッキリとは想い出せないものの、
それでは、人類の自然破壊により絶滅させられた有袋類としてのフクロオオカミ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%82%AA%E3%82%AA%E3%82%AB%E3%83%9F
を題材に、いつものように 、今の人類の愚かさを諷刺しようとした意図が潰れてしまう。
そんなこんなで、
あれを書き上げてから今日まで10年くらいが経過した。
10年経った今になって、“つづき ”がはじまってきた。
とぎれたものがつなぎあわされる瞬間だ。
…JR阿佐ヶ谷駅近辺にテレビドラマのロケで頻繁に使われる狭い飲み屋街がある。
その一角が窓から覗ける阿佐ヶ谷のホテルにて。
深夜1時頃、子供を寝かせつけたあとで書いたよ。
んで、その書いた内容は、今はまだメモ書きの段階なので、
これから打ち込んで手直しして、ここで公開 する予定。
ちょっと待っててね。 http://ameblo.jp/badlife/entry-10015067202.html
今日ここに書いた内容のすべてに通じて繋がるようになってるし、
この一年間、“mind resolve”を通して 、
俺が発見し、確認し、軌道修正してきたすべても、そこへ凝縮してある。
って、そんな大袈裟なもんでもないんだけど
変わり者の男親を持った子供への誕生日プレゼントでもある。