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ーとんとん機音日記ー

山間部の限界集落に移り住んで、
“養蚕・糸とり・機織り”

手織りの草木染め紬を織っている・・・。
染織作家の"機織り工房"の日記


 明治の木製器械繰絲機の資料整理が続いています。資料整理にまつわる記事には“資料が語るもの”というサブタイトルを付けていますように、このような資料のクリーニングや計測と云う作業の中で、気づいたことや印象などを書き綴ります。

 埋もれていた同資料を見つけた当初から、気になっていたのが、この陶器製の部品群です。
これらの生産地がわからないものかと思うのですが、なかなか突き止めることが出来ません。
概ね、信楽焼か伊賀焼のものという識者の示唆を賜りましたが、それ以上は未だ絞り込めていません。


 下に示したものは、陶器製の部品群のうちの繰絲鍋です。二種類のものが残されていました。
前の「木製器械繰絲機の資料整理-資料が語るもの- Ⅰ」では、信州松代の六工社にかかわった和田英が著した記録『富岡日記』に述べられている内容を分類したものを示しておきましたが、この繰絲鍋に関連した内容の記載は、グループA・・・【繰絲機製作技術にまつわる情報】に分類した次の二項目のものが挙げられます。

※史料A-002
「とり釜は半月形で、中にパイプが出て居ります。形も小さくありますから、箒も十分につかわれませぬ。」
※史料A-004
「海沼氏は小管即ち煮釜繰釜に蒸気の通います所のネジの付け方、また機械全部皆指図されたのであります。」




 撮影の加減で下のものの方が大きく見えるが、実測値は上が内径≒34cm、下が内径≒32.5cm で、実際は上のほうが少し大きい。
 上掲の和田英が著した『富岡日記』の繰絲鍋にまつわる記載を振り返ってみると、呼称では「とり釜、あるいは、繰釜」となっている。また、釜なのか鍋なのかと云う点では、三重県では明治10年ごろの記録に「製絲用鍋」の名称が現れるので、わたしどもでは「鍋」を用いているが、釜、鍋の呼称の違いは地域差であろうか。?すこし興味深い。

 そして形状に目を向ければ、上のものはすり鉢状の形状をしており、下のものは浅い平底ずん胴の、いわば洗面器状の形状をしている。
 初期の信州松代 六工社の繰絲鍋について和田英が著したものは、※史料A-002「とり釜は半月形で、中にパイプが出て居ります。形も小さくありますから、箒も十分につかわれませぬ。」というような形状は半月状で小ぶりなものであった。

 このような半月状の繰絲鍋を用いて共撚式繰絲法による生糸を生産していた製絲場に、三重県伊勢國三重郡室山村(後に四郷村)の伊藤小左衛門がつくった伊藤製絲場がある。また、この点について明治二十年代の製絲関係者の見聞記の記録を紐解けば、「綾取歯車ハ一層精密ニシテ三重縣室山ノ器械ニ彷彿タリ」と記されている。
 そして、三重県に於いては、伊藤小左衛門の伊藤製絲場と同じような器械が設置されていたのは、明治廿一年に創立された三重県度會郡山田町字二俣の度會郡製絲傳習所であったことが同見聞記録より伺い知ることができる。



 群馬県富岡製糸場でも、平成25年の発掘調査のときに敷地内北側社宅間と西側社宅庭の花壇で、半月状の繰絲鍋や、円形の煮繭鍋が、花壇縁石として再利用して使われている例が確認されているが、富岡市教育委員会の資料では、それらの陶製繰絲鍋や煮繭鍋について信楽産と思われるとの見解を書き添えている。

● 富岡製糸場で使われていたフランス式繰糸機等がなぜ岡谷蚕糸博物館に?

 富岡製糸場といえば、長野県岡谷蚕糸博物館[シルクファクトおかや]が所蔵する富岡製糸場のフランス式繰糸機を原型復元した真鍮の眩い金色の輝きをもった美しい器械の事が思い浮かぶが、経営者の変遷の中で、良質の生糸を繰絲するために金属製から陶器製の繰絲鍋や煮繭鍋に交換されたということであろうか。



 上掲の写真のように、三重縣一志郡上多気村の斉藤製絲場で用いられた木製器械繰絲機の陶製繰絲鍋は円形のものであった。

 このような事例から、明治期の三重県内で輸出優等生糸を生産した器械製絲場の器械は、先駆的でかつ牽引力を示した伊藤小左衛門の伊藤製絲場の器械をプロトタイプとして、それを模した物が広がったというような単純なストリーでは語ることができないという事がわかる。
 残された上多気村の斉藤製絲場で用いられた繰絲鍋などの陶製部品から考えれば、これらの配列は、例えば石川縣金澤製絲場のような富岡製糸場の輸入器械(フランス式金属製繰糸機)の配置と同様であったであろうと想像できる。

・参考文献 ● 石川県立図書館所蔵 貴重資料ギャラリー:「加州金澤製絲場之圖」



The seeds of curiosity,sown in children's mind.
-道具を使わず紬糸をつくる。-
絹にふれるworkshop

「絹にふれるworkshop」は、繭から糸をつくる行為を通して、
ひとの暮らしの営みの普遍的な核のような部分を、
自分自身の感覚の中で確かめてほしいと考えて、
わたしどもが展開しているワークショップ・コンテンツです。

子供たちでも、実際に188年前に著された和本を見てもらって、188年前の人と同じ方法で繭から糸を紡ぎだしてもらいます。



知識は使えなければ意味がないし、
また、使えないような知識なら、更に意味がない。
知識を使う知恵が文化を育む。


そもそもworkshopは、体験学習とかいうことではなく、本来は専門性を持つ人々が行う“実践的な知見”のレクチャーの場です。
でも、織りや糸の事は専門性を持っていないと判らないのかと云うとそうではなくて、こちらが専門性の中に閉じこもって自閉的にならないで普遍的な感覚の場に踏み出せば、年齢や経験を超えて現象や原理の面白さを共感し共有できると思うのです。単なる体験や珍しい昔のものを見たという記憶にして終わらせるのではなくて、持続する知恵に結び付けたいですね。

だから、基本的には、大人に対しても、子供に対しても、同じことを同じように進めてゆきます。

絹にふれるworkshop


3月朔の日曜日は生憎の雨でしたが、“初瀬街道まつり”という地域のイベントに参加を依頼されたので、わたしどもは「絹にふれるworkshop」で、お邪魔してきました。
わたしのところのworkshopは、こういうイベントでの場合や子供を対象としたものは無料でやっていますから、わたしの時間に余裕があるときで、こちらで用意した素材が切れれば終わりと云うような条件で、お願いしています。

時間も、興味が深まれば何時間でもいいし、こどもの集中が続かなくなって飽きたらそれでいいと思います。

教育的な・・・とかの感じでなくて、子供の興味を見守っている御両親や、あるいは、同じように興味をもって子供と会話している御両親っていいと思います。
でもね。なかには、もっとやりたい子供を「早くして、つぎも見たいから行くよ」と引き離す方も・・・。

親の予定や事情もあるのでしょうけれど、こういうイベントの時くらい子供の興味を優先してもいいのではないかと思うのですよね。


絹にふれるworkshop

木製器械繰絲機について簡単に述べれば、・・・。


 民部省所管 岩鼻県上州冨岡製絲場、つまり所謂、官営富岡製絲場にフランス人プリュナ{ François Paul Brunat} によって導入された輸入の鐵製繰絲機を、我が国の在来技術を用いて木製の器械繰絲機に作り変えたもの。・・・というように理解して頂ければ、一般にはイメージが持ちやすいかもしれない。


 けれども、実資料の中に残された非言語情報を、細かくつぶさに観てゆけば、単純にコピーして作ったという訳ではないことが良くわかる。


フランス式-共撚式-木製器械繰絲木


 以前、発展途上国に対する国際協力で、「メインテナンスもできないし交換部品も経済的な事情などで簡単に入手できないというような状況を考えずに投入された日本の最新鋭機材が、結局は現地で使われなくなり赤錆たスクラップになって放置されてしまっている。」というような事がよく言われた。
 これは、受け入れる側の社会状況や、文化・・・など、さまざまな事がある一定の水準を満たした上で、かつ、受け入れる側のモチィベーションが意欲的でないと、その国の社会の機能を担う一部として定着はしないということを如実に示す実例だ。

 だから、技術移転ということは、一般に考えるほど簡単ではない。

三重県伊勢國一志郡上多気村斉藤製絲場


 このような木製器械繰絲機が社会的に広がりを持った生産機械として、どのような過程を辿ってできあがり、どのような条件が国内に定着させていったのだろうかという事を詳らかに考えれば、輸入した鐡製のオリジナルの寸法を測って真似して作れば木製器械繰絲機が出来上がり、それが広まったと安易に考える人は、技術に対する理解がある側の立場では、まず居ないであろう。

 根本的に耐久性の担保や、ムーブメント全体の安定した動作バランスは、素材を鐡から木に置き換えても同等に保障されるというものではない。

 観光案内のガイドの説明なら、あまり踏み込むと複雑になるし絹に関係がない人が述べることだから、初頭に述べたようなこと以上のものである必要はないと思うけれど、絹に対して専門性をもつような立場に居る人が、そのような説明で放り投げるわけにはいかないのだから、・・・でも、こういうものを説明するのは少し苦労するなとつくづく思う。

フランス式手回し繰絲機
【図-02 フランス式繰絲法の手廻繰絲機】


 以下に示したものは、信州松代の六工社にかかわった和田英が著した記録『富岡日記』に述べられている内容を、わたしどもが分析するために分類したものである。


●情報グループA・・・【繰絲機製作技術にまつわる情報】
※史料A-001
「只今に思いますと不思議な位でありますのは、交通不便とは申しながら日本帝国民間蒸気機械製糸場の元祖六工社の創立に、元方の人が富岡御製糸場へ一人も拝観に参られません。私共の迎いに宇敷氏が初めておいでになりました。その時にはもはや機械その他出来上って居りました。私の父がブリューナ氏条約書明細書を写して参りました、その書物を元として、その他は海沼氏に一任して、同氏の考え通りに立てたのであります。」
※史料A-002
「とり釜は半月形で、中にパイプが出て居ります。形も小さくありますから、箒も十分につかわれませぬ。」
※史料A-003
「大里氏は以前汽船に居られましたところから、力を多く蒸気元釜から大管を通して小管に渡ります方を受持って居られましたように承ります。」
※史料A-004
「海沼氏は小管即ち煮釜繰釜に蒸気の通います所のネジの付け方、また機械全部皆指図されたのであります。」
※史料A-005
「この人(横田丈太郎と申す人と金児某)が見たことも図も十分にない蒸気の管をネジで止めたり返したりすることを誂えられ、拵えても拵えても、これではいけぬ彼れでは違うと海沼氏が申しますので、折々立腹致されたこともありましたとのことでありますが、何も国のためと申すところから、打返し打直し致されまして、まずまず蒸気の漏れぬように致されましたとのことであります。ちょっとしたことのようでありますが、図もなく形もなくただ手真似と口ばかりですることを仕上げますその苦心は、どの位でありましたろう。」
※史料A-006
「この人(湯本宇吉)は元松代藩の御鎗の柄をこきます御鎗師を勤めた人であります。実に指物は名人であります。この人が大車・小車・ゼンマイ等全部致しましたのであります。これも前同様図もなく一度も見たこともなき機械を仕上げますことでありますから、いかに苦心致しましたでありましょう。」


●情報グループB・・・【繰絲機製作の役割にかかる情報】
※史料B-001
「さて六工社創立に付き蒸気機械発明に付き苦心致されました人は、大里忠一郎氏を第一と申さねばなりませぬ。しかしこの蒸気機械の発明に多く力を尽しましたる人、只今は世人から忘られて居ります海沼房太郎と申す人が第二、以上五分五分位に記さねばなりませぬ。」
※史料B-002
「第三に苦心致されましたは横田丈太郎と申す人と金児某、これは元松代藩御鉄砲鍛冶を勤めた人で、横田氏はたしか字離山に住居致されたように存じます。この人が見たことも図も十分にない蒸気の管 (パイプ) をネジで止めたり返したりすることを誂えられ、拵えても拵えても、こではいけぬ彼れでは違うと海沼氏が申しますので、折々立腹致されたこともありましたとのことでありますが、何も国のためと申すところから、打返し打直し致されまして、まずまず蒸気の漏れぬように致されましたとのことであります。ちょっとしたことのようでありますが、図もなく形もなくただ手真似と口ばかりですることを仕上げますその苦心は、どの位でありましたろう。」
※史料B-003
「第四は湯本宇吉と申す人であります。この人は元松代藩の御鎗の柄をこきます御鎗師を勤めた人であります。実に指物は名人であります。この人が大車・小車・ゼンマイ等全部致しましたのであります。これも前同様図もなく一度も見たこともなき機械を仕上げますことでありますから、いかに苦心致しましたでありましょう。」
※史料B-004
「第五が与作と申す大工の棟梁で、これは別に苦心致したと申すほどでもありませぬが、何分これまで立てたこともない形の建築でありますから、当人の身に取りましてはいかに苦心致したことでありましょう。」


 『私(和田英)の父がブリューナ氏条約書明細書を写して参りました、その書物を元として、その他は海沼氏に一任して、同氏の考え通りに立てたのであります。』というような信州松代六工社の製絲器械の製作作業について、史料から得られる情報を、上記のように分類し分析してゆくならば、1812(文化九)年 八幡浜生まれの提灯屋嘉蔵(後の前原巧山)が、宇和島藩侯伊達宗城の命を受け、苦心の末、1859(安政六)年二月に小型で機関も弱い船であったが蒸気船の試運転に成功した。・・・という事例を想起することができる。

 宇和島藩の蒸気船にかかわった提灯屋嘉蔵(前原巧山)の場合も宇田川榕庵の『舎密開宗』等の蘭学書やペリルの黒船にまつわる伝聞情報や村田蔵六からの示唆などの情報を咀嚼して、「製作者にとっては、見たこともない装置と機能をつくりあげている。」

 このような事例を、どのように評価すべきかという問題が横たわる。

1、実物(設計図等の技術仕様書)を模倣しコピーした。
2、自助的に原理を咀嚼し、創造的に身近な在来の素材や技術を再構築し、求められている機能の本質を踏まえて、システム(装置)化を成し遂げた。
3、指導者の作った学習プログラムに沿って、段階的に原理を習得し、技術の構造を咀嚼した上で、指導者の指示監督の下に、システム(装置)をつくりあげた。

木製器械繰絲機-繰絲鍋部分

 皆さんならば、どのように評価するであろうか。?

 わたくしどもが考えるところを述べるならば、『2、自助的に原理を咀嚼し、創造的に身近な在来の素材や技術を再構築し、求められている機能の本質を踏まえて、システム(装置)化を成し遂げた。』・・・というところを軸にした理解を、いまのところは考えていますが、そのような日本人側のモティベーションに合致した幇助者の存在は忘れられないところです。

 また、この提灯屋嘉蔵(前原巧山)や信州松代六工社の製絲器械の製作過程や、あるいは、わたしどもが所有する、木製器械繰絲機の資料群とも無縁ではない、三重県三重郡室山村にあった伊藤小左衛門が創業した伊藤製絲場(伊藤製絲部・或いは室山製絲場とも呼ぶ)の製絲器械などの存在を西洋技術の模倣という枠の中に閉じ込めてしまうのでは、こういう事跡の価値を矮小化してしまい過ぎているのではないかと思う。

 そして、大枠のところでは、植民地政策と産業革命と近代国家化のなかで揺れる西欧諸国の関係がつくる国際情勢のなかで、近代国家の方向性を執った日本の位置づけは、どうだったのだろうか。?・・・そういうところに加えて、ヨーロッパの東洋の絹を必要としていた国々から見て、日本をどのように捉えていたのか。そこも気にかかります。

養蚕


 上に示した写真は、享和3年(1803)に但馬国養父郡蔵垣村住人、上垣伊兵衛守國が著した『養蚕秘録』がヨーロッパに持ち込まれて訳本が出版されましたが、そのオランダ人ホフマンによる『養蚕秘録』のフランス語訳が1848年に更にパリとトリノで出版されて、そして又、1866年にも同じ『養蚕秘録』が、1855年に一度、琉球那覇に上陸した宣教師で1858年に締結された日仏条約の通訳外交官であったカション(Mermet Cachon)によって翻訳されたフランス語訳本のタイトル部分を拡大したものである。
 翻訳者のカションは他にも、アイヌの文化、宗教、歴史等に関するパンフレットを1863年に刊行し、日英仏辞典の刊行も手がけている、なんとも不思議なひとである。
日本からは1863年6月頃に帰国の途につき、同年8月の初めにマルセイユに戻っていたと云うことだから、この訳本はカションがフランスに帰国後直ぐの時期に出版されたものだろう。

 このカション(Mermet Cachon)訳『養蚕秘録』にどうして興味を持ったのかと云うと、つまり、“de l'Éducation (教育)”「DES VERS A SOIE AU JAPON (日本の養蚕)」となっているからで、・・・たしかに、当時のヨーロッパは蠶病の惨状のなかにあったものの、当時の日本の養蚕と比してヨーロッパの養蚕が技術的に凄く劣悪だったとは思えない。
五十歩百歩の似たようなものであったろうと思うのだけれども、タイトルには見習うべきものとして日本の養蚕を扱っている処が見て取れる。

 極めて稀な日本の事情通だったカション(Mermet Cachon)の目には、どのような日本の姿が映っていたのだろうか。?