ーとんとん機音日記ー -5ページ目
機織とか染色とか、絲の事でも書こうかなと思っていたのだけれど、
結局、昨日は配布用のレジュメの制作に、
案外時間をとられてしまったのと、
それから調べ物が手間取ったので、まとめていたら、・・・
あぁ、もうこんな時間。
だから、そういう記事は、また、気が向いたら書くことにして、
この硝煙のにおいがする2015年のカウントダウンを予感しながら・・・、
シリアの事件でも、やっぱり日本って、
シリアスなリアリティーから乖離していると、
改めて、再確認したようなことだから、
さてさて、今後どうなることやら・・・。
こういう時代に、もし日本が紛争に巻き込まれそうな有事に直面したときに、
どのような手続きで、方向性を決定してゆくのか。?
そこを現在のような曖昧なままで放置しておかないで、
法制度を整備しておこうと云う安倍政権の現実路線に、
“戦争に向かう路線”という批判を浴びせるのは、全く的を得ていない。
中国の珊瑚略奪の国旗を揚げての海賊行為にさえ、手も足もでないような法の不備が、そのことを熟知した国とっては、そのようなエスカレートを生む動機となっている。
それが、「運悪く、衝突書に発展しそうな、有事のリスクを育んでいる。」と認識できない頭脳が備わっていない人々ではなかろうに、・・・。
なぜ、あえて、本末を逆転させた論理で、日本の平和を担保するための、実効的な選択を手続き踏んで行えるようにはさせないのだろうか。?
いままでは、架空の・・・たら、・・・れば、の議論になって収拾がつかなかったけれど、ウクライナで起きていることを見ればいい。
道理とか正義とかは、各国の利害関係で変質して行くのだから、・・・。
篭目、篭目、篭の中の鳥は、いついつでやる・・・。
バルカン半島の火薬庫の爆発が生んだ熾火は100年はど燻り続け、
滅びた国の怨念が育んだ火龍は、巽に奔る。
喜納昌吉さんの事について、詳しく述べるには、この場では収まりきらないし、また、わたしが、その任に適しているとも思わないけれど、・・・
最近、特に、喜納昌吉さんが述べてきたことが、世の中の核心を射抜いている想うのである。
「すべての武器を楽器に」というメッセージは、いままで一度くらいは、誰もが耳にしたことがあるだろうけれど、案外に、日本の中では、それが喜納昌吉さんが発信し続けてきたメッセージであるという事を知らない人が多いのかもしれない。
それに反して、海外では、喜納昌吉&チャンプルーズの音楽とともに、「すべての武器を楽器に」というメッセージは、人々の心に沁みわたっている。
そして、今日、「イラク、不屈のタクト 演奏続ける国立交響楽団
バグダッド=渡辺淳基2015年2月14日05時44分」・・・という朝日新聞デジタルの記事に目が惹き付けられた。
その記事は、悲痛な紛争の真っ只中にある場でイラク国立交響楽団が「テロの脅威を乗り越え音楽による連帯」をテーマとして演奏活動をつづけていることを報じたものであるが、指揮者のカリム・ワスフィさんは、「前向きなエネルギーは暴力に必ず勝てる。」と信じるからだと云う。
また、「過激派の青年たちと話せるなら、15分で彼らの銃を楽器に持ち替えさせてみせる。」と、イラクの国難を指揮棒1本で戦い抜く覚悟を決めていると報じている。
アーティストが、その真摯な制作活動を通じて得た、直感や考察は、人の普遍的なテーマに結びつく。
喜納昌吉さんと、イラク国立交響楽団の指揮者ワスフィさんが、直接会ったことがあるとか、直接話したことがあるとか、交流した事があるとかないは、この場合は問題ではなく、二人の類稀なアーティストが、音楽を通じて「すべての武器を楽器に」という結論に達し、その確信を得て音楽を演奏しているといことが、奇跡的で素晴らしいのだ。
つまり、アーティストが、個々の制作活動を通じて、どんなに距離が離れていても、会ったことがなくても、共感し合い通じ合っているという、魂の対話が有り得るのが、アートというものだと想う。
ミサイルも飛び交わないし、銃撃の音も聞こえないが、
時折、ニュースを通じて信じられないような非合理なことが伝えられる日本の山村という場から、・・・
わたしは、この紛争を乗り越えて、喜納昌吉さんとワスフィさんが、いつか、ひとつの音楽を奏でることを想像している。
このところ、作業の合間に、木製器械繰絲機の陶製部品の資料整理をやっています。
クリーニング・計測・分類・撮影・ラベリング・リスト作り・実測図の作成・・・仕事は尽きない。
火の気のない処で、水を使ったクリーニングは、この寒さのなかでやるのはつらい仕事・・・。
だいたい、冬場は“コタツから出れない症候群”という重い病を患う身には、先が思いやられるのだけれど、少しづつでも進めないと、後々の予定に支障が出るから、がんばってやってます。
本来は、こういう工業生産分野は、「隣は何をする人ぞ。」というくらい、近いけれど、あまり興味のないところ。
文字にすれば「近代生産技術の受容」の8文字か、「近代工業技術の受容」の9文字で、さらりとスルーしてしまうところなのですけれど、資料をじっくりと眺めていると、そんな僅か数文字の中には納まりきらない、なかなか面白い多くの示唆が含まれている。
資料は、いわゆる生絲の生産用具なのだけれど、絹を扱う位置にあるところだけでなく、こういう用具の製作者が、絹の生産技術を咀嚼して受容しなければ、道具ができてこない。
具体的には、木工指物や、鐵部品、真鍮、陶器、ガラスなど、直接的に絹に関係ない分野の製造の現場で、絹の生産技術の受容が行われないと絹ができないという関係は、それを頭の中で思い浮かべると、変わった昆虫の奇妙な動作を見つけた時のような、可笑しみが込み上げてくる。
だって、それは、ちょっと斜めから観察すると、正面から視たらどっしりと成り立っているように感じたものが、角度を変えて斜めから視たりすると、危うい接点で支えあっていたというような、とってもアンビリバボーなノンロジカリティーとでも呼ぶべき奇観だからであるのだけれど、・・・
今の世でも、あっという間に脆く崩れ去る様をまのあたりにしているのだから、なんだかね。
人とはなんだろうかと、ついつい思いに耽り、ふと気づくと作業の手が止まっている。

