ーとんとん機音日記ー -6ページ目

ーとんとん機音日記ー

山間部の限界集落に移り住んで、
“養蚕・糸とり・機織り”

手織りの草木染め紬を織っている・・・。
染織作家の"機織り工房"の日記

零れた盆の水を、時間を巻き戻して元に戻すことなどできようもない。という喩えだけれど、・・・。


パリの事件に引き続いて起きた、シリアの事件に対して、世耕弘成官房副長官からの
「我々は自己責任論には立たない。国民の命 を守るのは政府の責任であり、その最高責任者は安倍総理だ。」という発言があったが、とっても山盛りの違和感が・・・。

世耕氏のいうように、原則論としては、そうであろうが、法に基づいて執行する行政の担当者が“要請”しかできず、旅券を取り消す事もできず、ましてや、身柄を拘束することもできないような法整備のない白地図領域の状態で、立法府と政府が放置していたのに、この状態で“政府の責任”を直接の担当者が、どのように執行したら良かったというのか。?

特にシリアの事件は、同じ日本人が人質になったという事もあって、感情移入する人も多いが、そういう状態の時に、『何かを決めてゆくことは、とても危険である。』
人質になった日本人以外にも、他国のジャーナリストが捕まって処刑されているが、その時は無関心であった多くの人が、今正義を持ち出していることの危うさを、考えてみたらどうであろうか。
こういう論理的な一貫性のない正義や正当の主張には、極めて独善的な自己愛の強い危険なエスカレーションが感じられます。

モノをつくるという作業は、その前に、モノについて考えて、その本質を探り当てようとしますが、そういう作業を日常的にやっている立場の人々が、パリの事件の後の、国家が関与した大衆扇動的な演出や、今般の事の展開をみていると、違和感を感じないのかというと、市街戦テロと云うのなら別動チームも潜伏しているかもしれない状況で、すぐさま要人を先頭に行進するというようなリスクを犯すだろうか。?とか、なにか釈然としない部分がある事は否めないと感じている人が多いと思う。

そう言えば、この犯人の背景も、確定できていない、想定の範疇のまま・・・。





シリア人の難民キャンプで、資金難から食料の供給が打ち切られ、雪の中で寒さに震えながら飢えている人々や子供がいる。・・・そういう報道があっても、日常の忙しさのなかに、埋没してしまうのに、今般の事件では、事実関係の裏づけが取れない映像や写真だけで、『心が痛む』と言ってしまう人の多いことの危うさ。

現実的なことを考えれば、こういう状況証拠だけで、“死亡届け”は受理されないだろうから、失踪として置くしかない。
事実という意味では、未だに二人のその後はわからないとしか言いようがないということを直視しないで・・・。ショックを受けた大衆感情に乗っかって、さまざまなことが動いてゆく危うい日本。

問題が浮上してきた渡航のことの不整備と、憲法九条の問題は同根で、最も大事な部分を議論を尽くして精査して決めずに放置していることが信じられない。
事がおきて泥縄式に、パニックになった大衆感情に迎合するかたちで、不備で歪なものをつくるより、平穏な時に踏み込んで、必要なところに十分時間をかけて精査した上で、決めてゆける合理性が、日本や日本人に備わっているのか・・・というところが問われています。


『覆水盆に返らず』

零れた盆の水を、時間を巻き戻して元に戻すことなどできようもない。・・・という喩え。


People crying and screaming . And , we fell in crisis .

Israeli Group Says Military Attacks on Palestinian Homes Appeared to Violate Law
- JAN. 27, 2015 ●The New York Times

パレスチナ

 昨年の暮れの沖縄県知事選挙の頃から、世界情勢の雰囲気の中に、ちょっと異常な緊迫感のようなものが漂い出していた。
 一応の安定状態だったウクライナでも、不穏な空気が流れ出すし、World Food Programmeなどが中心となって、シリア人の難民キャンプが雪に見舞われ、財政難から食糧援助が打ち切られた人々が、寒さと飢えに襲われている窮状を発信し出していた。そして、その同時期の、2015年1月7日に、あのパリの事件が起きたのだった。
 更に、その裏側では、パレスチナ・ガザ地区に対するイスラエルの攻撃がエスカレートとしていて、それと連動して、親イスラエルの各政府側と反政府勢力の衝突もエスカレートする。・・・そういう状況の中で、日本人の人質事件が起きたのだけど・・・。


 この日本人の人質事件は、今後どのように展開するのか、予断を許さないしわからない。

・・・が、しかし、この事件の国内の報道や、それに触発されて、安易に「心が痛む」などと、トレンドのように発信する人々を見ていると、やっぱり、「世界の中心で愛と平和を叫んでいるつもりの日本の平和運動」と同じように、シリアスな現実から乖離しているように思えてならない。
 なぜなら、日本人の人質事件は、中東地域の対立と紛争から起きた不幸な出来事の一部である。そして、そういう対立と紛争が生み出す不幸に巻き込まれている多くの人々がいる。
 日常のささやかな暮らしの隣で、銃声が鳴り出し、ロケット砲の爆発の音が響き渡り、逃げ惑い、簡単に体を引き裂かれ、命を失う・・・という現実。
 もし、メッセージを、同胞の人質を開放して欲しい一心から発信しているのなら、尚更、いわゆるIsilと呼ばれる側にも、それに対する側にも、対立と紛争が生み出す不幸に巻き込まれている多くの人々がいることを十分理解し、その苦しみに同情と共感を示した上で、同胞の人質の開放を願うメッセージを送るべきだと思う。

 だって、対立と紛争が生み出す不幸に巻き込まれている苦しみを見つめようとせずに、「日本人の安全」の事だけを述べる、日本や日本人の態度は、自己中心的であると誤解されかねない。
 コメントを求められていた、中東事情に詳しい人々は、先ず最初に、人質解放に尽力してくださっているヨルダン国王に感謝の念を表してから、解放の事に言及しているが、・・・そのような礼節や道理や共感を欠いた所で、「特殊な日本的な価値観」を主張しても受け入れられるハズが無いと思うから、今日のようなWebで、簡単に、ある国の世論の動向がリサーチできる現状を考えればハラハラする。

 わたしたちは、強固な地盤の上に、わたしたちの大事な暮らしが成り立っていると思っているが、悲観的な予想以上に、現実的には脆いところで成り立っていると思うべきだと痛感する。



『夜明けの神戸の街 東遊園地に灯された「希望の灯」が1・17の形になって浮かび上がります』・・・神戸新聞社さんのtwitterより

20年前

もう、20年も経ったのかと、改めて思ったのは、followしてくれている神戸新聞さんのツイートからだった。
それは「20年前の1995年1月16日、どこで誰と過ごしていましたか。震災の前の日何をしていたのか、あなたにしか語れないエピソードをお寄せください。」というようなものだった。

20年前、1995年1月17日テレビで見た中継映像。
友達からかかってきた無事を伝える電話。
18日に、手当たり次第に洋服を詰め込んだボストンバッグを手に、緊急車両のサイレンがいつまでも鳴り響く道を長田まで歩いていった。

いつもは、その時の事を思い出すこともない。
けれども、その記憶を、わたしは一生忘れることはないと思う。

復興・・・災害の前に時間が戻って、
何も彼もが元通りになるわけじゃないから、
「何を目指したら良いのか。?」・・・その答えは難しい。

地元紙の力・・・阿鼻叫喚の中で神戸の今を発信し続けて、
その後の復興の見つめ続けた地元紙・神戸新聞さんのサイトが、
ある意味で阪神淡路大震災のオープンデータベースになっている。
今、地方創生ということが話題になっているけれど、
創生すべきものの中に、中央一辺倒ではない地方の文化というものもある。
そういう意味では、力のある地方紙の存在というものも大きいと思う。