覆水盆に返らず | ーとんとん機音日記ー

ーとんとん機音日記ー

山間部の限界集落に移り住んで、
“養蚕・糸とり・機織り”

手織りの草木染め紬を織っている・・・。
染織作家の"機織り工房"の日記

零れた盆の水を、時間を巻き戻して元に戻すことなどできようもない。という喩えだけれど、・・・。


パリの事件に引き続いて起きた、シリアの事件に対して、世耕弘成官房副長官からの
「我々は自己責任論には立たない。国民の命 を守るのは政府の責任であり、その最高責任者は安倍総理だ。」という発言があったが、とっても山盛りの違和感が・・・。

世耕氏のいうように、原則論としては、そうであろうが、法に基づいて執行する行政の担当者が“要請”しかできず、旅券を取り消す事もできず、ましてや、身柄を拘束することもできないような法整備のない白地図領域の状態で、立法府と政府が放置していたのに、この状態で“政府の責任”を直接の担当者が、どのように執行したら良かったというのか。?

特にシリアの事件は、同じ日本人が人質になったという事もあって、感情移入する人も多いが、そういう状態の時に、『何かを決めてゆくことは、とても危険である。』
人質になった日本人以外にも、他国のジャーナリストが捕まって処刑されているが、その時は無関心であった多くの人が、今正義を持ち出していることの危うさを、考えてみたらどうであろうか。
こういう論理的な一貫性のない正義や正当の主張には、極めて独善的な自己愛の強い危険なエスカレーションが感じられます。

モノをつくるという作業は、その前に、モノについて考えて、その本質を探り当てようとしますが、そういう作業を日常的にやっている立場の人々が、パリの事件の後の、国家が関与した大衆扇動的な演出や、今般の事の展開をみていると、違和感を感じないのかというと、市街戦テロと云うのなら別動チームも潜伏しているかもしれない状況で、すぐさま要人を先頭に行進するというようなリスクを犯すだろうか。?とか、なにか釈然としない部分がある事は否めないと感じている人が多いと思う。

そう言えば、この犯人の背景も、確定できていない、想定の範疇のまま・・・。





シリア人の難民キャンプで、資金難から食料の供給が打ち切られ、雪の中で寒さに震えながら飢えている人々や子供がいる。・・・そういう報道があっても、日常の忙しさのなかに、埋没してしまうのに、今般の事件では、事実関係の裏づけが取れない映像や写真だけで、『心が痛む』と言ってしまう人の多いことの危うさ。

現実的なことを考えれば、こういう状況証拠だけで、“死亡届け”は受理されないだろうから、失踪として置くしかない。
事実という意味では、未だに二人のその後はわからないとしか言いようがないということを直視しないで・・・。ショックを受けた大衆感情に乗っかって、さまざまなことが動いてゆく危うい日本。

問題が浮上してきた渡航のことの不整備と、憲法九条の問題は同根で、最も大事な部分を議論を尽くして精査して決めずに放置していることが信じられない。
事がおきて泥縄式に、パニックになった大衆感情に迎合するかたちで、不備で歪なものをつくるより、平穏な時に踏み込んで、必要なところに十分時間をかけて精査した上で、決めてゆける合理性が、日本や日本人に備わっているのか・・・というところが問われています。


『覆水盆に返らず』

零れた盆の水を、時間を巻き戻して元に戻すことなどできようもない。・・・という喩え。