木製器械繰絲機について簡単に述べれば、・・・。
民部省所管 岩鼻県上州冨岡製絲場、つまり所謂、官営富岡製絲場にフランス人プリュナ{ François Paul Brunat} によって導入された輸入の鐵製繰絲機を、我が国の在来技術を用いて木製の器械繰絲機に作り変えたもの。・・・というように理解して頂ければ、一般にはイメージが持ちやすいかもしれない。
けれども、実資料の中に残された非言語情報を、細かくつぶさに観てゆけば、単純にコピーして作ったという訳ではないことが良くわかる。
以前、発展途上国に対する国際協力で、「メインテナンスもできないし交換部品も経済的な事情などで簡単に入手できないというような状況を考えずに投入された日本の最新鋭機材が、結局は現地で使われなくなり赤錆たスクラップになって放置されてしまっている。」というような事がよく言われた。
これは、受け入れる側の社会状況や、文化・・・など、さまざまな事がある一定の水準を満たした上で、かつ、受け入れる側のモチィベーションが意欲的でないと、その国の社会の機能を担う一部として定着はしないということを如実に示す実例だ。
だから、技術移転ということは、一般に考えるほど簡単ではない。
このような木製器械繰絲機が社会的に広がりを持った生産機械として、どのような過程を辿ってできあがり、どのような条件が国内に定着させていったのだろうかという事を詳らかに考えれば、輸入した鐡製のオリジナルの寸法を測って真似して作れば木製器械繰絲機が出来上がり、それが広まったと安易に考える人は、技術に対する理解がある側の立場では、まず居ないであろう。
根本的に耐久性の担保や、ムーブメント全体の安定した動作バランスは、素材を鐡から木に置き換えても同等に保障されるというものではない。
観光案内のガイドの説明なら、あまり踏み込むと複雑になるし絹に関係がない人が述べることだから、初頭に述べたようなこと以上のものである必要はないと思うけれど、絹に対して専門性をもつような立場に居る人が、そのような説明で放り投げるわけにはいかないのだから、・・・でも、こういうものを説明するのは少し苦労するなとつくづく思う。
以下に示したものは、信州松代の六工社にかかわった和田英が著した記録『富岡日記』に述べられている内容を、わたしどもが分析するために分類したものである。
●情報グループA・・・【繰絲機製作技術にまつわる情報】
※史料A-001
「只今に思いますと不思議な位でありますのは、交通不便とは申しながら日本帝国民間蒸気機械製糸場の元祖六工社の創立に、元方の人が富岡御製糸場へ一人も拝観に参られません。私共の迎いに宇敷氏が初めておいでになりました。その時にはもはや機械その他出来上って居りました。私の父がブリューナ氏条約書明細書を写して参りました、その書物を元として、その他は海沼氏に一任して、同氏の考え通りに立てたのであります。」
※史料A-002
「とり釜は半月形で、中にパイプが出て居ります。形も小さくありますから、箒も十分につかわれませぬ。」
※史料A-003
「大里氏は以前汽船に居られましたところから、力を多く蒸気元釜から大管を通して小管に渡ります方を受持って居られましたように承ります。」
※史料A-004
「海沼氏は小管即ち煮釜繰釜に蒸気の通います所のネジの付け方、また機械全部皆指図されたのであります。」
※史料A-005
「この人(横田丈太郎と申す人と金児某)が見たことも図も十分にない蒸気の管をネジで止めたり返したりすることを誂えられ、拵えても拵えても、これではいけぬ彼れでは違うと海沼氏が申しますので、折々立腹致されたこともありましたとのことでありますが、何も国のためと申すところから、打返し打直し致されまして、まずまず蒸気の漏れぬように致されましたとのことであります。ちょっとしたことのようでありますが、図もなく形もなくただ手真似と口ばかりですることを仕上げますその苦心は、どの位でありましたろう。」
※史料A-006
「この人(湯本宇吉)は元松代藩の御鎗の柄をこきます御鎗師を勤めた人であります。実に指物は名人であります。この人が大車・小車・ゼンマイ等全部致しましたのであります。これも前同様図もなく一度も見たこともなき機械を仕上げますことでありますから、いかに苦心致しましたでありましょう。」
●情報グループB・・・【繰絲機製作の役割にかかる情報】
※史料B-001
「さて六工社創立に付き蒸気機械発明に付き苦心致されました人は、大里忠一郎氏を第一と申さねばなりませぬ。しかしこの蒸気機械の発明に多く力を尽しましたる人、只今は世人から忘られて居ります海沼房太郎と申す人が第二、以上五分五分位に記さねばなりませぬ。」
※史料B-002
「第三に苦心致されましたは横田丈太郎と申す人と金児某、これは元松代藩御鉄砲鍛冶を勤めた人で、横田氏はたしか字離山に住居致されたように存じます。この人が見たことも図も十分にない蒸気の管 (パイプ) をネジで止めたり返したりすることを誂えられ、拵えても拵えても、こではいけぬ彼れでは違うと海沼氏が申しますので、折々立腹致されたこともありましたとのことでありますが、何も国のためと申すところから、打返し打直し致されまして、まずまず蒸気の漏れぬように致されましたとのことであります。ちょっとしたことのようでありますが、図もなく形もなくただ手真似と口ばかりですることを仕上げますその苦心は、どの位でありましたろう。」
※史料B-003
「第四は湯本宇吉と申す人であります。この人は元松代藩の御鎗の柄をこきます御鎗師を勤めた人であります。実に指物は名人であります。この人が大車・小車・ゼンマイ等全部致しましたのであります。これも前同様図もなく一度も見たこともなき機械を仕上げますことでありますから、いかに苦心致しましたでありましょう。」
※史料B-004
「第五が与作と申す大工の棟梁で、これは別に苦心致したと申すほどでもありませぬが、何分これまで立てたこともない形の建築でありますから、当人の身に取りましてはいかに苦心致したことでありましょう。」
『私(和田英)の父がブリューナ氏条約書明細書を写して参りました、その書物を元として、その他は海沼氏に一任して、同氏の考え通りに立てたのであります。』というような信州松代六工社の製絲器械の製作作業について、史料から得られる情報を、上記のように分類し分析してゆくならば、1812(文化九)年 八幡浜生まれの提灯屋嘉蔵(後の前原巧山)が、宇和島藩侯伊達宗城の命を受け、苦心の末、1859(安政六)年二月に小型で機関も弱い船であったが蒸気船の試運転に成功した。・・・という事例を想起することができる。
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宇和島藩の蒸気船にかかわった提灯屋嘉蔵(前原巧山)の場合も宇田川榕庵の『舎密開宗』等の蘭学書やペリルの黒船にまつわる伝聞情報や村田蔵六からの示唆などの情報を咀嚼して、「製作者にとっては、見たこともない装置と機能をつくりあげている。」
このような事例を、どのように評価すべきかという問題が横たわる。
1、実物(設計図等の技術仕様書)を模倣しコピーした。
2、自助的に原理を咀嚼し、創造的に身近な在来の素材や技術を再構築し、求められている機能の本質を踏まえて、システム(装置)化を成し遂げた。
3、指導者の作った学習プログラムに沿って、段階的に原理を習得し、技術の構造を咀嚼した上で、指導者の指示監督の下に、システム(装置)をつくりあげた。
皆さんならば、どのように評価するであろうか。?
わたくしどもが考えるところを述べるならば、『2、自助的に原理を咀嚼し、創造的に身近な在来の素材や技術を再構築し、求められている機能の本質を踏まえて、システム(装置)化を成し遂げた。』・・・というところを軸にした理解を、いまのところは考えていますが、そのような日本人側のモティベーションに合致した幇助者の存在は忘れられないところです。
また、この提灯屋嘉蔵(前原巧山)や信州松代六工社の製絲器械の製作過程や、あるいは、わたしどもが所有する、木製器械繰絲機の資料群とも無縁ではない、三重県三重郡室山村にあった伊藤小左衛門が創業した伊藤製絲場(伊藤製絲部・或いは室山製絲場とも呼ぶ)の製絲器械などの存在を西洋技術の模倣という枠の中に閉じ込めてしまうのでは、こういう事跡の価値を矮小化してしまい過ぎているのではないかと思う。
そして、大枠のところでは、植民地政策と産業革命と近代国家化のなかで揺れる西欧諸国の関係がつくる国際情勢のなかで、近代国家の方向性を執った日本の位置づけは、どうだったのだろうか。?・・・そういうところに加えて、ヨーロッパの東洋の絹を必要としていた国々から見て、日本をどのように捉えていたのか。そこも気にかかります。
上に示した写真は、享和3年(1803)に但馬国養父郡蔵垣村住人、上垣伊兵衛守國が著した『養蚕秘録』がヨーロッパに持ち込まれて訳本が出版されましたが、そのオランダ人ホフマンによる『養蚕秘録』のフランス語訳が1848年に更にパリとトリノで出版されて、そして又、1866年にも同じ『養蚕秘録』が、1855年に一度、琉球那覇に上陸した宣教師で1858年に締結された日仏条約の通訳外交官であったカション(Mermet Cachon)によって翻訳されたフランス語訳本のタイトル部分を拡大したものである。
翻訳者のカションは他にも、アイヌの文化、宗教、歴史等に関するパンフレットを1863年に刊行し、日英仏辞典の刊行も手がけている、なんとも不思議なひとである。
日本からは1863年6月頃に帰国の途につき、同年8月の初めにマルセイユに戻っていたと云うことだから、この訳本はカションがフランスに帰国後直ぐの時期に出版されたものだろう。
このカション(Mermet Cachon)訳『養蚕秘録』にどうして興味を持ったのかと云うと、つまり、“de l'Éducation (教育)”「DES VERS A SOIE AU JAPON (日本の養蚕)」となっているからで、・・・たしかに、当時のヨーロッパは蠶病の惨状のなかにあったものの、当時の日本の養蚕と比してヨーロッパの養蚕が技術的に凄く劣悪だったとは思えない。
五十歩百歩の似たようなものであったろうと思うのだけれども、タイトルには見習うべきものとして日本の養蚕を扱っている処が見て取れる。
極めて稀な日本の事情通だったカション(Mermet Cachon)の目には、どのような日本の姿が映っていたのだろうか。?